真・行・草

真・行・草とは、書道でいえば、「楷書」・「行書」・「草書」 のことである。

整体の型も、長年修練してくるとだんだんと行書、草書になってくる。

しかしそれは、楷書をしっかり学んで体にきっちりと覚えこませてのち、それを運用しているうちに自然と動きの角が取れ、無用の間が詰まり、無駄が省かれてくるということである。
初心者が、先生が気軽にちょいちょいと操法をしているのを見て、あれが本当の操法だと真似をしてみても、似て非なるものが出来上がるだけである。いや、おそらくそれは似ても似つかない代物になるだけだろう。

長年操法をしている者でも、ときに楷書に戻って自らの 「型」 を確認することは必要である。いつの間にか易きに流れて 「型」 が崩れていることがあるからだ。
ましてや初学の者は、きちっと真の 「型」 を身に着ける努力をしなければならない。これは整体に限ったことではなく、どの世界でも同じなのではないだろうか。

整体操法の 「型」 には、跨ぎの型のように、足腰がつらいものもある。また、日常の体の使い方とは違う動き方を求められるものも多い。
しかし、そこで足が楽なように自分なりの格好にアレンジしてみたりみたり、型通りに動こうとせずに日常の動作の延長のように手先だけでやったりすれば、それはもはや整体操法ではなくなってしまう。

真・行・草、始めに真が来るのは、そこに真実があるからである。真実はそう簡単につかめるものではないが、真の 「型」 には、最もわかりやすく真実が示されていることは確かである。

作法

整体操法には、「型」 がある。どこを押さえるのでも、ただ押せばいいということはなく、必ず「処(急所)」 を押さえるには型を以ておこなう。

正座の型、蹲踞の型、跨ぎの型のように基本的な構えがあり、その上にそれぞれの操法における様式としての型がある。

様式といっても、もちろん見た目を良くするために、ただそれっぽい恰好をするということではない。型は合理的に体を使い、かつ最良の効果をあげるために、長い年月をかけて研究され構築された機能的に優れた身体技法である。

整体操法は、一種の 「作法」 といってもよいと思う。作法というと、なにやら堅苦しいイメージもあるかもしれないが、そもそも作法とは、心身を合理的にコントロールするための便利なガイドである。

箸を箸置きから手に取るとき、作法に従って動けば、まず右手で取り上げて、左手で支えるようにしてから、右手を箸を使う位置に滑らせる。ここまで三動作かかる。
右手で持って、そのままちゃっちゃっと指を動かして、片手で持ち替えてしまえば早いような気がするが、実際にやってみると作法に則っている方が動きに無理がなくてやりやすい。また端から見ていても、動作が滑らかで美しい。

作法に沿った動きにはうつくしさがある。つまり、行儀がいいということは、見苦しくないということだ。

テーブルの上にペットボトルとグラスがあったとしよう。ペットボトルを取って直接飲んでみる。つまりはラッパ飲みだ。
次に一度グラスについてから飲んでみよう。どうだろうか、一度グラスについてから飲んだ方が、手順は増えても動きとしては無理がなく気持ちよく飲めるのではなかろうか。
なによりも、ラッパ飲みしたときと、グラスに注いでから飲んだときでは、その後の体の感じが全く違う。グラスに注いでから飲むと、ラッパ飲みにくらべて体もスッと纏まりがあるし、気持ちもすっきりと静かな状態にあるのではないだろうか。
これは、上述の箸の扱いにしても同様である。

作法に則った動きは、体も楽で快適に働かせることができる上に、身体の感覚とリンクしている心の状態をも整えてくれる力がある。
整体操法も作法だと思ってみると、型の持つ意味も理解しやすいし、間の取り方や呼吸のあり方なども教わらなくても自然と決まってくる。

整体を学ぶ人は、行住坐臥、普段からお行儀よくすることが、実は上達の早道だったりする。

「趾」 あしゆび

最近、「浮き指」 が注目されている。浮き指とは、足の指が反ってしまい地面につかないものをいうそうだ。足の横方向のアーチがつぶれることと関係があるともいう。

普通に立って足指が反って浮いてしまっているのはもちろん足指が使えない状態だが、見た目は足指が地面に着いていても、実際には力が入っておらず役に立っていない場合もある。
これは浮き指とはいわないのかもしれないが、浮き指予備軍でもあり、実質的には軽度の浮き指ということになるのではないだろうか。

前後に25センチある足の人も、足指が使えていなければ、実質的には長さ20センチになってしまう。当然、体を支える面積もだいぶ減少してしまう。
大きな体を小さな足裏で支えて、重心のコントロールをしなければならないのであるから、縦方向の5センチ減は、結構な痛手である。

しかも、足指が使えない状態であるということは、目に見える足指の続きである足の甲の中にある 「中足骨」 もうまく働いていないということは明らかである。

中足骨と踵骨(かかとの骨)の間には、三つの楔状骨、立方骨、舟状骨、距骨があり、それらの骨格パーツが少しずついろんなことを分担して体を支えたり歩いたりしている。細かい作業を担当している手と比べると動きは小さく見えるが、本来足裏・足指の性能は、手とはまた違った意味で非常に高度なものなのである。

しかし、足指が使えなくなっているということは、すでに足全体の機能がかなり縮小した状態であるといえる。支える面積が減った上に、機能も低下しているのだから、足の持つ体を支える能力は相当なレベルダウンである。
そうなると、足以外の部分、例えば下腿、膝、大腿、股関節、臀部、腰などが、本来足裏で調整していた分の立位保持の仕事を負担しようとする。当然本来なら要らない力が体の各部に入るようになり、それが続くとだんだんと筋肉は硬直して体は固まってくる。
体が固まると、なおさらバランスをとる機能は低下する。長細く縦に立っている体を倒れないようにバランスをとるには、本来体を柔らかく使えるほど有利なのだが、固まる程にバランスを取るのは難しくなるため、ますます力に頼って更に体を固めていくという、まことに非合理的な悪循環の連鎖に陥ってしまう。

この体の硬直は、下半身にとどまらず、頚や頭まで波及していくことになるので、肩こりやひどいと頭痛などの遠因にもなる。
また、本当なら力を入れなくてよいところに力が入り続けるので、足が必要以上に太くなったり、腰回り太くなったりするので、美容の面でもよろしくない。

 

さて、ではどうしたらいいのかといえば、はじめに戻って足指が地面に着いて、しかもしっかり地面を押さえられるように訓練するのがいいのである。

浮き指は、足指が反ってしまっているのだから、当然足裏方向に曲げることが苦手になっている。それを曲げる練習をすると、だんだんと曲がるようにもなるし、足指が地面を押さえる力も出てくる。まずは曲がらないことには、働きようもないのだ。
具体的にはどうすればよいかといえば、足指ジャンケンのグーをする。反らすの反対、足指を丸めるように曲げるのだ。

当院に通われてこられる方々に足の指を曲げてもらってみると、一番付け根の関節(中足趾節関節)が曲がらない人が多い。中には、付け根の関節がほとんど曲がらない人もいる。
これを毎日曲げるように練習してもらうと、少しずつだがだんだんと関節が曲がるようになってくる。ほんのちょっとでも曲がるようになると、その分足の性能が上がるので、体全体からすると不必要な緊張が減って楽になるのである。

ちなみに私は結構曲がる方である。ほとんどの人に、「そんなに曲がるものですか!?」 と驚かれる。パッと見は、軽く握ったこぶしぐらい丸くなる。
調子に乗って、「こうやって立つこともできますよ」 と足先の足指を曲げた部分で立って見せていたら、だんだん痛くなってきたので、最近はやめている。
まあ、そもそも最初からそこで立つ必要はまったくないので・・・。

指を曲げる練習は、まずは自力で曲げることが第一である。慣れてきたら、指先に少し力を入れて簀巻きでものを巻きこむような感じできっちり巻き込む練習するとよい。
一定期間続けたら、今度は足指の上に手の指四本を重ねて補助するように曲げてみる。はじめはあまり力を入れず、少しずつ慣らすようにする。いきなり力を入れてやると痛めてしまうこともあるので要注意。
それにも慣れて、足が痛くなることがなければ、今度は手のひらを重ねてまさに簀巻きで巻くように足指を巻いていく。手のひらを当てると、手指のときよりも力が強くかかるので、これもまた用心深く少しずつ少しずつ慣らしながらおこなおう。

足の能力開発にはほかにもいろいろな方向性があるが、足指が地面を捉えられるようになるには、まずは曲がるようにすることが第一なので、とりあえず足指曲げがお勧めなのである。

 

前回の記事でも関連記事として紹介したのだが、整体操法随想 というもう一つのブログの方に足指・足裏のことを書いた記事があるので今回も紹介したい。
ただし、こちらの記事で紹介している内容は、整体操法や武術など特殊な体の使い方に関してのもので、自然に歩くときなどはあまり意識せずに足を使った方がよいことが多い。

そちらのブログの方は、どちらかというと私的なブログというか、好き勝手なことを自由に書いている。このブログと白山治療院のHPにリンクがあるだけで、検索エンジンの検索にも掛からないように設定してあるので、縁のある人がたどり着いたら読んでください、といったスタンスで書いている。

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「足は親指」 の続き・・・。

五本指靴下

みなさんご存じだろうが、五本指靴下というものがある。足袋は親指とその他の四本指の二つに分かれているが、その五本指版である。

はじめて五本指靴下を履いたのは確か大学生のときだったと記憶しているが、その時からどうも窮屈で好きになれなかった。その頃は、指と指の間に布が二枚挟まるわけだから、それがきついのだろうかなどと思っていた。

最近、親戚の集まりで 「五本指ソックス」 の話題が出たことがあり、そういえばなぜ自分は好きになれなかったのかと考えてみた。今になればよくわかるが、五本指靴下は五本の指をそれぞれ自由にする目的で作られているのに、かえって指の動き制限してしまっているからだ。(水虫予防にはいいのかもしれないが・・・)

足の指を観察していただけばわかる通り、指の股の部分は骨格的には指のつけ根よりも先の方にある。その指の股に合わせて指を布で包んでしまうのだから、足指の動きは当然窮屈になってしまう。

手の指を見てもわかるけれど、拳を握ってグーにすると、指の骨は指の股よりずっと手の甲の方まで続いている。手の平側で見てみれば、指の付け根の関節は指の股どころか、手相でいう感情線あたりから曲るのがわかる。足の指のつくりもだいたい同じなのだ。

手袋の場合は、素材の伸縮性やデザインで動かしやすいように作られているのであまり窮屈ではないが、五本指靴下の場合、そこまで考えれていないものの方が多いのだろう。
おかげで、小さい手袋を無理にはめたような窮屈さが生まれてしまうのだ。

更にいうと、足の甲の中に中足骨という指の続きの骨があり、足の指は五本それぞれが、五本の中足骨につながっている。手の指も同様に中手骨につながっている。
手の親指と小指の先をつけようとすると手の平がすぼまるが、これは掌の中の中手骨が動いているのである。
手ほど器用に動きはしないが、足の指も中足骨と連動して働いている。五本指靴下は、足指と中足骨の連動も多少ではあるが邪魔してしまうのだ。

といったわけで、私は断然普通の靴下派なのだが、足指を使う場合は第2趾から第5趾を手のようにばらばらに細かく使うことはほとんどないし、多くは親指と他の四指セットの拮抗運動なので、足袋はそれほど窮屈な感じがしない。四本指もそれなりに中で動かせるようになっているし・・・。

 

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11月のお休み

   通常のお休みの他、

   11月25日(金)

   お休みとさせていただきます。

運動と労働

歩くことは体にいい。「歩く」 のは、人間の最も基本的な運動形態であるから、膝や股関節など下肢に故障がない限り、誰にでもおすすめの運動である。 

妊娠中の運動も、歩くことが基本である。整体では、妊婦さんに30分から1時間程度の散歩を勧めている。
マタニティ・ヨガなどもよいのだろうが、普段運動する習慣のない人だと、それで体を壊してしまう人もいる。水泳やプールで泳ぐのも運動の質としてはよいが、体が冷えるのが妊婦にはよろしくない。

 

さて、治療院に通って来られる方々に歩くことを勧めることはよくある。けっこう、「毎日、通勤で歩いています」 とか、「スーパーまでの行き返りで往復40分歩きます」 などという返事が返ってくることがあるのだが、それとは別に歩いてくださいということが多い。

同じ歩くのでも、運動と労働は体に与える影響が違う。健康のためを思って歩くのであれば、歩くためだけに歩いた方が効果が高い。

もちろん、買い物や通勤でなるべく歩くのはよいことだ。エスカレーターを避けて階段で行くというのも身体が鍛えられてよい。
ただ、健康法と考えると、やはり 「ウオーキング」 の時間を別にとれる方が望ましい。

なぜかというと、労働や移動で歩くのは、あまり体に意識が向いていない。それに対して、運動として歩く場合は、歩く速度や歩幅、姿勢など、体に絶えず目が向くので、体と対話しながら歩くことができる。そのため無理をし過ぎないですむし、運動の質も高くなる。
また、歩くためだけに歩く場合、手ぶらかそれに近い状態で歩けるが、仕事や買い物ではなかなかそうもいかない。場合によっては、重い荷物を不自然な状態で持って歩かなければならないこともある。

同じ歩くという行為でも、運動と労働では、体に与える影響は大きく変わってくるのである。
営業で毎日1万歩、2万歩と歩いている人が、それで健康になるどころか、かえって体がこわばっていて故障が多いというのもこのためである。

また、運動のために歩くという場合は、おおよそ自発的に行うことが多いだろう。それに比べて仕事や用事で歩くのは、必ずしもそうではなく、時には仕方なくイヤイヤ歩くこともあるだろう。
人間は自発的に行動するときには、心身のエネルギーがその目的に向けて動員されるので、疲れも少ないし、体を壊すことも少ない。もちろん、行動のパフォーマンスも高くなる。
受け身で、仕方なくやることは、体も十分に機能を発揮せず、疲れるし能率も上がらない。その上、やり終わっても、爽快感も充実感もない。

仕方なしにやることも、自分なりに工夫してモチベーションを高めたり、視点を切り替えたりして興味をもって自発的に行うようにするとだいぶ変わってくる。

・・・のだが、それには、それなりの心のスキルも必要なので、とりあえず歩くためだけに歩くことがおすすめなのである。

お休みのお知らせ

      10月19日(水)

      お休みさせていただきます。

アルプスの少女ハイジ その5 ~アルムのおんじ~

前回の続きになるが、アルムのおんじことハイジのおじいさんは、ハイジの友達であるクララが山に来るということになった時点で、クララが歩けるようになるためにはなにが必要なのかということをすでにある程度わかっていたのだと思う。
おじいさんは、ハイジからフランクフルトでの生活や、クララと彼女を取り巻く人々のことも聞いていたであろう。

クララには、歩きたいというという欲求、そしてそもそも自発的に行動するための意欲が決定的に欠如していたのだ。
その意欲を取り戻すためには、子供達だけで遊ばせ、生活させることが役に立つと、おじいさんは考えていた。

これも前回書いたが、おじいさんとクララのおばあさまの阿吽の呼吸で、ロッテンマイヤーさんの排除は実現されることになる。(ロッテンマイヤーさんには、ちょっとかわいそうだが・・・。)

しかし子供達だけで山の牧場に行かせるなど無責任で危険なことだと主張するロッテンマイヤーさんの弁を聞いて、おばあさまはなぜ子供達だけで山に行かせるのかおじいさんに聞いてみることにする。

おじいさんは、子供達だけで山に行かせることにこそ意味があるという。

おじいさん
「あの子(クララ)を抱いてみたり、体の使い方、腰の動かし方を見てみますと、クララは立って歩けるはずだとしか考えられません。ですから、今しばらくワシに、この山にあずけていただきたいのです。
もちろん立てるまでには時間がかかるかもしれません。立てることを信じられなくて、クララが途中でくじけてしまうこともあるでしょう。
だが、もしクララが大人を頼らず子供同士で遊ぶことの楽しさを知ったら、自分から立ちたい、どうしても歩きたいと心から願うようになったら・・・。そして、それを助け、励ましてくれる友達がいたら・・・」

 

おじいさんが言ったように、クララはアルムの山という素晴らしい自然環境とハイジやペーターという年の頃が近い子供たち、ヤギたちやセントバーナード犬のヨーゼフなどに囲まれた生活を送る中で、いろいろな刺激を受け、少しずつ心も体も変わってきて、ついには立って歩くことができるようになった。

そしてそこにはなによりも、おじいさんの深い洞察力、厳しさとやさしさを併せ持った辛抱強い対応があったことは特筆すべきことであろう。
おじいさんは、クララの中に眠っていた、歩きたい、自由に遊びたい、という欲求の種子が、日光を浴びて、水を得て、自然に芽が出るよう、花が咲くようにと陰日向に助け導いていったのだ。

 

しかし、こういう仕事をするようになったせいなのか、そもそも大人になるとみなそうなのか、子供の頃と同じ話を視ても、だいぶ見え方は違ってくるものだ。
そんな私の今の目線で見たら、この物語は 「アルプスの少女ハイジ」 というよりは、「アルプスで立った少女クララ」・・・。そして、サブタイトルは、 ~クララはいかにして立ったのか~・・・。

本当のところをいえば、「アルムのおんじ」 にしたいところだが・・・。

 

アルプスの少女ハイジ その4 ~自立の力を奪わない~

ハイジのおじいさんは、フランクフルトからクララについて来たロッテンマイヤーさんをクララや子供達から引き離そうとする。
ロッテンマイヤーさんがクララのそばにいては、せっかくクララが自分からやりたいと思って自発的に行動しようとすることを端から邪魔してしまうからだ。

ロッテンマイヤーさんは、クララの家、ゼーゼマン家の執事をしている女性で、けっして悪い人ではないのだが、堅物で四角四面、そしてしつけに厳しく、クララやハイジ達にとってはたいそう煙たい存在だ。
ロッテンマイヤー女史は、クララの山での生活にもフランクフルトでの習慣を完全にそのまま持ち込もうとしていて、まあ大切なことではあるのだが、勉強やら礼儀作法やらに関して滅法口うるさいのだ。

 

さて、当院に整体を受けに来られる子供の親御さんの中にも、子供に過干渉な方はたくさんいる。操法を受けるときに顔の下にタオルを敷いてもらうのだが、幼稚園ぐらいにもなれば自分で敷こうとする子も多い。しかし、結構な割合でお母さんがそれをサッと取り上げて敷いてしまうのだ。
操法を受けるに際してきちっとタオルを敷くべきと考えるのか、私を待たせないように早く敷かないといけないと気を遣われるのか、子供がキレイに敷けないのが恥ずかしいのか、どちらにしても子供がやろうとしているのを平気で横取りしてやってしまうのだ。

「自分でできるよね」 と子供にいってみると、子供もうなずくのだが、お母さんも、あら私ったら、という顔になる。
そういう顔をするようなら黙っていることが多いが、通じないようだとお母さんにも一言いうこともある。

「自分でやろうとしているものを、横から取り上げてはいけませんよ」、・・・と。

私も結構年齢が上がってきたので、こういう時にはものが言いやすくなった。開院当時は30歳そこそこだったので、それが仕事とはいえ自分と同年代か年上の親御さんに意見をするのは少々気が重かったものだ。

さてさて、このタオルを敷くというのは一つの試金石で、過保護、過干渉の親御さんは、かなりの割合で子供に代わってタオルを敷く。
驚くべきことに高校生や場合によっては20歳過ぎの子供についてきて、代わりにタオルを敷いてしまうお母さんもそう珍しくない。そもそも、はじめからお母さんがタオルを持っているのだ。
そういうお母さんは、たいてい問診表も本人に書かせずに代わりに書いてしまうし、問診のときもついてきて、本人に聞いているのに代わりに答えてしまう。

そうやって育てられた子は、喘息やアトピーなどになるパーセンテージが高い。自発的な心、自由を求める心を抑え込まれると喘息になりやすい。喘息は、抑圧された子供の精一杯の反抗であることが多いのだ。

喘息の子供などは、嫌々やらされている習い事などを止めさせてもらうだけで、症状がなくなってしまうことは珍しいことではない。
成人した子供(?)でも、こちらが一人前に扱うように親御さんに意見して、小さなことでも自分でやるようになると、ぼんやりした目に少しずつ力が出てくる。

 

クララも周囲の大人が何でもやってあげてしまい、自分から何かをやろうとする気持ちを横から取り上げられてしまう上に、あれをしろこれをしろと、お勉強やら習い事やら行儀作法やらを厳しく押しつけられて、自発的で自由な心を抑圧されてしまっているのだ。

結局ロッテンマイヤーさんは、おばあさまによってクララのお付きの役を解任されてフランクフルトへ戻っていく。貴女がいなくてはフランクフルトの家が回らないから、とちょっぴり持ち上げられて・・・。
ロッテンマイヤーさんも、自分がクララのそばにいると不都合なので離されるのだということは解っているのだが、職務に忠実な彼女は涙を見せながらもフランクフルトへ帰っていく。

 

おじいさんは、はじめからロッテンマイヤーさんに象徴される大人達の過保護と過干渉が、クララが立てるようにならないことの大きな要因になっていると考えていた節がある。
ロッテンマイヤーさんがクララと共にはじめて山の麓まで来たときに、おじいさんに身の回りの世話をしてくれる人を雇うことはできないかと尋ねるシーンがある。

おじいさんは、この村の人達は皆朝から晩まで働かなくては生きていけない、たぶん見つからないだろうと伝える。
「もちろんお金は余分に払います」 というロッテンマイヤーさんに、おじいさんは、「それならご自分で探してみるのですな」 と冷たく突き放す。

それにたじろぐロッテンマイヤーさんの 「それでは食事や身の回りの世話は誰がやるのですか」 という問いに、おじいさんはこう言い放つのだ。

「もちろん私がやります。 だがな、ロッテンマイヤーさん。ご自分のことはご自分でなさるつもりでいらっしゃったのだと、私は思っておりましたが」

都会とは何から何まで違う山に来てまで、自分たちの身の回りのことすら自分でしようともしないロッテンマイヤーさんに挨拶代わりに一言苦言を呈したのだ。

自分のことを自分でやる、そんなことは当たり前のことですよ、・・・と。

初対面のロッテンマイヤーさんへのおじいさんからのキツイ一言ではあったが、これはロッテンマイヤーさんだけに言いたいことなのではなく、本当はおじいさんがクララを取り巻く大人達皆にまず始めに、そして声を大にして言いたかったことなのだろう。

アルプスの少女ハイジ その3 ~欲求、そして機を読むということ~

クララが牛に驚いて立ったことを聞いたハイジは、もちろん大喜びだ。天真爛漫が持ち味のハイジは、クララが立つことはそう難しいことではないのだと思い、なんとも簡単に 「立ってみようよ」 という。
しかし、そう簡単に立てるものなら今まで苦労はしていなかったわけで、いくらクララがひたいに汗を浮かべて力んでみても、全く足は動いてくれない。

おじいさんも、明日から立つ練習をしようと提案するが、クララは自分が立てるという気が全くしないのだから、どうしても積極的な気持ちにはなれないでいた。

 

そうしているうちに、クララのおばあさまがフランクフルトに帰るときが来る。おばあさまは、お世話になったペーターへのお礼もかねて、麓の村でお別れパーティーを開くことを提案する。

パーティーでは、村の人々も参加して、たくさんの御馳走もでて、クララもハイジもペーターも、おばあさまとの最後の夕べを楽しんだのだった。

宴もたけなわ、村の子供達は鬼ごっこを始め、ハイジとペーターもそれに加わる。大はしゃぎで走り回るハイジやペーター、そして村の子供達。おじいさんに抱き上げられて近くでそれを見るクララだったが、子供達はどんどん場所を変えてクララは取り残されてしまう。

おじいさん
「どうだね、みんな楽しそうだろう。クララもああしてみんなと走り回りたいだろう?」

クララ
「ええ。でも・・・」

おじいさん
「心配は要らないよ。おまえが心から立ちたい、歩きたいと思って一生懸命努力すれば、必ず足は治るんだ」

クララ
「ほんと・・・?」

おじいさん
「本当だとも。もちろん慣れないことをするんだ。思うようにはいかないだろう。痛いかもしれん。すぐには立てないかもしれない。だが、それでもくじけちゃいけないよ。今クララに一番必要なものは、がんばりだな」

クララ
「がんばり?」

おじいさん
「明日から立つ練習を始めてみようじゃないか」

クララ
「ええ・・・。」

 

クララは、走り回るハイジやペーターそして村の子供達を見て、自分も自由に走り、一緒に遊びに加わりたいと思った。
今までは見ているだけが当たり前だったクララの心の中に、自分も一緒にみんなと混ざって同じように遊びたいという 「欲求」 が芽生えた瞬間だった。

クララはアルムの山に来てみて、自分が歩けないために、おじいさんやペーター、ハイジに迷惑をかけてしまうことを心苦しく思い始めていた。同時に、今まで自分がどれだけ周りの人々に世話をかけていたかということにも思い至っていた。
しかし、みんなに迷惑をかけないために歩けるようになろうというのでは、今ひとつ 「がんばり」 に繋がるほどの動機にはなり得なかった。
やはり、心の中から湧き上がってくる 「欲求」 、立ちたい、歩きたい、みんなと一緒に自由に走って遊びたいという、焦れるような 「欲求」 があってこそ、はじめて 「心」 も  「体」 も思った方向に動き出していくことになるのである。

クララもフランクフルトに暮らしているときには、外に出ることもなく、同じ年頃の友達を作ることもできなかった。身の回りのことも、大人達が全てやってくれて、自分が歩いて何かしなければならないという必要性を感じることさえできなかっただろう。
もちろん歩けないことは悲しいことだっただろうが、立ちたい歩きたいという 「欲求」 が生まれることさえない環境だったのだ。

今までクララは気持ち良く走る人間の姿を見たこともなかったであろう。また、世話をしてくれる人が常にそばにいるフランクフルトのお屋敷の中だけの生活では、歩こうが車椅子で移動しようが、そこにそれほどの大きな差を見いだせなかったのかもしれない。
アルムの山に来て、牧場や湖やお花畑にいって、同じ年頃のハイジやペーターが楽しそうに走り回る姿を見て、自分もあんな風に自由に走りたいと始めて心から思ったのだろう。
走り回るハイジ達を見て、はじめて体を動かすことは気持ちがいいことだということを知り、自分の行きたいところへ自由に歩いて行けるということに喜びがあるということを知ったのだ。

要求すること、そして 「空想」 することが、「心」 と 「体」 を変えていくのである。「必要」 は、「欲求」 を呼び起こすし、「欲求」 は、「空想」 を呼ぶ。そして、「空想」 は、「現実」(現象) を呼び寄せるのである。

 

はじめに欲求ありきである。望まないことは、他の誰も望むようにと強制できることではない。無理矢理やらせてみても、本来の力は決して出ないのである。
それは、本人がやらなくてはと思ってみても同様で、本当にやりたくてやったこととは同じようにはできないのだ。

歩きたい、という 「欲求」 が生まれたときを見計らって、クララは頑張れば歩けるようになるということを教え、歩く練習を頑張ってみないかと提案するおじいさんは、まことにすぐれた心理指導者である。

同じことでも、いつ言うのかというタイミングで、相手の受け取り方は全く変わってしまう。内容がいくら正しくても、相手に受け入れられる条件がなければ馬の耳に念仏であり、また場合によっては反発心だけを呼び起こしてしまうことにもなりかねない。

整体の現場での対話にしても、当然 「機」 ということは重要視される。
例えば、施術を受けて体が変わってきたり、本当の健康とはどういうことかということに思い至ってきたり、また私のこともどうやら怪しい人間ではなさそうだと思い始めて、ようやく通るようになる話もある。

操法の組み立てにしても同様で、「機」 が熟すのを待つ必要もあれば、ここという 「機」 を逃さずに対応しなければならないこともまた当然である。

整体操法をおこなうものは、みな常に 「機」、「度」、「間」、ということを計りながら操法をおこなっているのであるが、アルプスの少女ハイジの 「おじいさん」 は、なかなかに 「機」、「度」、「間」、を知る人であり、すぐれた指導者なのである。
アルムのおんじ、まさに畏るべし、である。

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