お休みのお知らせ

      10月19日(水)

      お休みさせていただきます。

アルプスの少女ハイジ その5 ~アルムのおんじ~

前回の続きになるが、アルムのおんじことハイジのおじいさんは、ハイジの友達であるクララが山に来るということになった時点で、クララが歩けるようになるためにはなにが必要なのかということをすでにある程度わかっていたのだと思う。
おじいさんは、ハイジからフランクフルトでの生活や、クララと彼女を取り巻く人々のことも聞いていたであろう。

クララには、歩きたいというという欲求、そしてそもそも自発的に行動するための意欲が決定的に欠如していたのだ。
その意欲を取り戻すためには、子供達だけで遊ばせ、生活させることが役に立つと、おじいさんは考えていた。

これも前回書いたが、おじいさんとクララのおばあさまの阿吽の呼吸で、ロッテンマイヤーさんの排除は実現されることになる。(ロッテンマイヤーさんには、ちょっとかわいそうだが・・・。)

しかし子供達だけで山の牧場に行かせるなど無責任で危険なことだと主張するロッテンマイヤーさんの弁を聞いて、おばあさまはなぜ子供達だけで山に行かせるのかおじいさんに聞いてみることにする。

おじいさんは、子供達だけで山に行かせることにこそ意味があるという。

おじいさん
「あの子(クララ)を抱いてみたり、体の使い方、腰の動かし方を見てみますと、クララは立って歩けるはずだとしか考えられません。ですから、今しばらくワシに、この山にあずけていただきたいのです。
もちろん立てるまでには時間がかかるかもしれません。立てることを信じられなくて、クララが途中でくじけてしまうこともあるでしょう。
だが、もしクララが大人を頼らず子供同士で遊ぶことの楽しさを知ったら、自分から立ちたい、どうしても歩きたいと心から願うようになったら・・・。そして、それを助け、励ましてくれる友達がいたら・・・」

 

おじいさんが言ったように、クララはアルムの山という素晴らしい自然環境とハイジやペーターという年の頃が近い子供たち、ヤギたちやセントバーナード犬のヨーゼフなどに囲まれた生活を送る中で、いろいろな刺激を受け、少しずつ心も体も変わってきて、ついには立って歩くことができるようになった。

そしてそこにはなによりも、おじいさんの深い洞察力、厳しさとやさしさを併せ持った辛抱強い対応があったことは特筆すべきことであろう。
おじいさんは、クララの中に眠っていた、歩きたい、自由に遊びたい、という欲求の種子が、日光を浴びて、水を得て、自然に芽が出るよう、花が咲くようにと陰日向に助け導いていったのだ。

 

しかし、こういう仕事をするようになったせいなのか、そもそも大人になるとみなそうなのか、子供の頃と同じ話を視ても、だいぶ見え方は違ってくるものだ。
そんな私の今の目線で見たら、この物語は 「アルプスの少女ハイジ」 というよりは、「アルプスで立った少女クララ」・・・。そして、サブタイトルは、 ~クララはいかにして立ったのか~・・・。

本当のところをいえば、「アルムのおんじ」 にしたいところだが・・・。

 

アルプスの少女ハイジ その4 ~自立の力を奪わない~

ハイジのおじいさんは、フランクフルトからクララについて来たロッテンマイヤーさんをクララや子供達から引き離そうとする。
ロッテンマイヤーさんがクララのそばにいては、せっかくクララが自分からやりたいと思って自発的に行動しようとすることを端から邪魔してしまうからだ。

ロッテンマイヤーさんは、クララの家、ゼーゼマン家の執事をしている女性で、けっして悪い人ではないのだが、堅物で四角四面、そしてしつけに厳しく、クララやハイジ達にとってはたいそう煙たい存在だ。
ロッテンマイヤー女史は、クララの山での生活にもフランクフルトでの習慣を完全にそのまま持ち込もうとしていて、まあ大切なことではあるのだが、勉強やら礼儀作法やらに関して滅法口うるさいのだ。

 

さて、当院に整体を受けに来られる子供の親御さんの中にも、子供に過干渉な方はたくさんいる。操法を受けるときに顔の下にタオルを敷いてもらうのだが、幼稚園ぐらいにもなれば自分で敷こうとする子も多い。しかし、結構な割合でお母さんがそれをサッと取り上げて敷いてしまうのだ。
操法を受けるに際してきちっとタオルを敷くべきと考えるのか、私を待たせないように早く敷かないといけないと気を遣われるのか、子供がキレイに敷けないのが恥ずかしいのか、どちらにしても子供がやろうとしているのを平気で横取りしてやってしまうのだ。

「自分でできるよね」 と子供にいってみると、子供もうなずくのだが、お母さんも、あら私ったら、という顔になる。
そういう顔をするようなら黙っていることが多いが、通じないようだとお母さんにも一言いうこともある。

「自分でやろうとしているものを、横から取り上げてはいけませんよ」、・・・と。

私も結構年齢が上がってきたので、こういう時にはものが言いやすくなった。開院当時は30歳そこそこだったので、それが仕事とはいえ自分と同年代か年上の親御さんに意見をするのは少々気が重かったものだ。

さてさて、このタオルを敷くというのは一つの試金石で、過保護、過干渉の親御さんは、かなりの割合で子供に代わってタオルを敷く。
驚くべきことに高校生や場合によっては20歳過ぎの子供についてきて、代わりにタオルを敷いてしまうお母さんもそう珍しくない。そもそも、はじめからお母さんがタオルを持っているのだ。
そういうお母さんは、たいてい問診表も本人に書かせずに代わりに書いてしまうし、問診のときもついてきて、本人に聞いているのに代わりに答えてしまう。

そうやって育てられた子は、喘息やアトピーなどになるパーセンテージが高い。自発的な心、自由を求める心を抑え込まれると喘息になりやすい。喘息は、抑圧された子供の精一杯の反抗であることが多いのだ。

喘息の子供などは、嫌々やらされている習い事などを止めさせてもらうだけで、症状がなくなってしまうことは珍しいことではない。
成人した子供(?)でも、こちらが一人前に扱うように親御さんに意見して、小さなことでも自分でやるようになると、ぼんやりした目に少しずつ力が出てくる。

 

クララも周囲の大人が何でもやってあげてしまい、自分から何かをやろうとする気持ちを横から取り上げられてしまう上に、あれをしろこれをしろと、お勉強やら習い事やら行儀作法やらを厳しく押しつけられて、自発的で自由な心を抑圧されてしまっているのだ。

結局ロッテンマイヤーさんは、おばあさまによってクララのお付きの役を解任されてフランクフルトへ戻っていく。貴女がいなくてはフランクフルトの家が回らないから、とちょっぴり持ち上げられて・・・。
ロッテンマイヤーさんも、自分がクララのそばにいると不都合なので離されるのだということは解っているのだが、職務に忠実な彼女は涙を見せながらもフランクフルトへ帰っていく。

 

おじいさんは、はじめからロッテンマイヤーさんに象徴される大人達の過保護と過干渉が、クララが立てるようにならないことの大きな要因になっていると考えていた節がある。
ロッテンマイヤーさんがクララと共にはじめて山の麓まで来たときに、おじいさんに身の回りの世話をしてくれる人を雇うことはできないかと尋ねるシーンがある。

おじいさんは、この村の人達は皆朝から晩まで働かなくては生きていけない、たぶん見つからないだろうと伝える。
「もちろんお金は余分に払います」 というロッテンマイヤーさんに、おじいさんは、「それならご自分で探してみるのですな」 と冷たく突き放す。

それにたじろぐロッテンマイヤーさんの 「それでは食事や身の回りの世話は誰がやるのですか」 という問いに、おじいさんはこう言い放つのだ。

「もちろん私がやります。 だがな、ロッテンマイヤーさん。ご自分のことはご自分でなさるつもりでいらっしゃったのだと、私は思っておりましたが」

都会とは何から何まで違う山に来てまで、自分たちの身の回りのことすら自分でしようともしないロッテンマイヤーさんに挨拶代わりに一言苦言を呈したのだ。

自分のことを自分でやる、そんなことは当たり前のことですよ、・・・と。

初対面のロッテンマイヤーさんへのおじいさんからのキツイ一言ではあったが、これはロッテンマイヤーさんだけに言いたいことなのではなく、本当はおじいさんがクララを取り巻く大人達皆にまず始めに、そして声を大にして言いたかったことなのだろう。

アルプスの少女ハイジ その3 ~欲求、そして機を読むということ~

クララが牛に驚いて立ったことを聞いたハイジは、もちろん大喜びだ。天真爛漫が持ち味のハイジは、クララが立つことはそう難しいことではないのだと思い、なんとも簡単に 「立ってみようよ」 という。
しかし、そう簡単に立てるものなら今まで苦労はしていなかったわけで、いくらクララがひたいに汗を浮かべて力んでみても、全く足は動いてくれない。

おじいさんも、明日から立つ練習をしようと提案するが、クララは自分が立てるという気が全くしないのだから、どうしても積極的な気持ちにはなれないでいた。

 

そうしているうちに、クララのおばあさまがフランクフルトに帰るときが来る。おばあさまは、お世話になったペーターへのお礼もかねて、麓の村でお別れパーティーを開くことを提案する。

パーティーでは、村の人々も参加して、たくさんの御馳走もでて、クララもハイジもペーターも、おばあさまとの最後の夕べを楽しんだのだった。

宴もたけなわ、村の子供達は鬼ごっこを始め、ハイジとペーターもそれに加わる。大はしゃぎで走り回るハイジやペーター、そして村の子供達。おじいさんに抱き上げられて近くでそれを見るクララだったが、子供達はどんどん場所を変えてクララは取り残されてしまう。

おじいさん
「どうだね、みんな楽しそうだろう。クララもああしてみんなと走り回りたいだろう?」

クララ
「ええ。でも・・・」

おじいさん
「心配は要らないよ。おまえが心から立ちたい、歩きたいと思って一生懸命努力すれば、必ず足は治るんだ」

クララ
「ほんと・・・?」

おじいさん
「本当だとも。もちろん慣れないことをするんだ。思うようにはいかないだろう。痛いかもしれん。すぐには立てないかもしれない。だが、それでもくじけちゃいけないよ。今クララに一番必要なものは、がんばりだな」

クララ
「がんばり?」

おじいさん
「明日から立つ練習を始めてみようじゃないか」

クララ
「ええ・・・。」

 

クララは、走り回るハイジやペーターそして村の子供達を見て、自分も自由に走り、一緒に遊びに加わりたいと思った。
今までは見ているだけが当たり前だったクララの心の中に、自分も一緒にみんなと混ざって同じように遊びたいという 「欲求」 が芽生えた瞬間だった。

クララはアルムの山に来てみて、自分が歩けないために、おじいさんやペーター、ハイジに迷惑をかけてしまうことを心苦しく思い始めていた。同時に、今まで自分がどれだけ周りの人々に世話をかけていたかということにも思い至っていた。
しかし、みんなに迷惑をかけないために歩けるようになろうというのでは、今ひとつ 「がんばり」 に繋がるほどの動機にはなり得なかった。
やはり、心の中から湧き上がってくる 「欲求」 、立ちたい、歩きたい、みんなと一緒に自由に走って遊びたいという、焦れるような 「欲求」 があってこそ、はじめて 「心」 も  「体」 も思った方向に動き出していくことになるのである。

クララもフランクフルトに暮らしているときには、外に出ることもなく、同じ年頃の友達を作ることもできなかった。身の回りのことも、大人達が全てやってくれて、自分が歩いて何かしなければならないという必要性を感じることさえできなかっただろう。
もちろん歩けないことは悲しいことだっただろうが、立ちたい歩きたいという 「欲求」 が生まれることさえない環境だったのだ。

今までクララは気持ち良く走る人間の姿を見たこともなかったであろう。また、世話をしてくれる人が常にそばにいるフランクフルトのお屋敷の中だけの生活では、歩こうが車椅子で移動しようが、そこにそれほどの大きな差を見いだせなかったのかもしれない。
アルムの山に来て、牧場や湖やお花畑にいって、同じ年頃のハイジやペーターが楽しそうに走り回る姿を見て、自分もあんな風に自由に走りたいと始めて心から思ったのだろう。
走り回るハイジ達を見て、はじめて体を動かすことは気持ちがいいことだということを知り、自分の行きたいところへ自由に歩いて行けるということに喜びがあるということを知ったのだ。

要求すること、そして 「空想」 することが、「心」 と 「体」 を変えていくのである。「必要」 は、「欲求」 を呼び起こすし、「欲求」 は、「空想」 を呼ぶ。そして、「空想」 は、「現実」(現象) を呼び寄せるのである。

 

はじめに欲求ありきである。望まないことは、他の誰も望むようにと強制できることではない。無理矢理やらせてみても、本来の力は決して出ないのである。
それは、本人がやらなくてはと思ってみても同様で、本当にやりたくてやったこととは同じようにはできないのだ。

歩きたい、という 「欲求」 が生まれたときを見計らって、クララは頑張れば歩けるようになるということを教え、歩く練習を頑張ってみないかと提案するおじいさんは、まことにすぐれた心理指導者である。

同じことでも、いつ言うのかというタイミングで、相手の受け取り方は全く変わってしまう。内容がいくら正しくても、相手に受け入れられる条件がなければ馬の耳に念仏であり、また場合によっては反発心だけを呼び起こしてしまうことにもなりかねない。

整体の現場での対話にしても、当然 「機」 ということは重要視される。
例えば、施術を受けて体が変わってきたり、本当の健康とはどういうことかということに思い至ってきたり、また私のこともどうやら怪しい人間ではなさそうだと思い始めて、ようやく通るようになる話もある。

操法の組み立てにしても同様で、「機」 が熟すのを待つ必要もあれば、ここという 「機」 を逃さずに対応しなければならないこともまた当然である。

整体操法をおこなうものは、みな常に 「機」、「度」、「間」、ということを計りながら操法をおこなっているのであるが、アルプスの少女ハイジの 「おじいさん」 は、なかなかに 「機」、「度」、「間」、を知る人であり、すぐれた指導者なのである。
アルムのおんじ、まさに畏るべし、である。

アルプスの少女ハイジ その2 ~認めさせるということ~

さて、クララがハイジの目の前で立ち上がる感動のクライマックス・シーンの前に、実はクララはすでに一度立ち上がっていた。

感動の回から2話さかのぼる48話、ハイジはペーターへの伝言をもって山の牧場へ行きく。午後のひと時、クララとフランクフルトからクララを訪ねて来ていたおばあさまの二人だけで、山小屋の近くの木の下で過ごしていた。

おばあさまがうとうととうたたねをしているときに、大きな牛が近づいてきた。驚いたクララは、恐怖のあまり背後の木にもたれながら思わず立ち上がる。
クララの悲鳴で目を覚ましたおばあさまが見ると、クララは木に背中をあずけてはいるものの二本の足でしっかりと立っていたのだ。おばあさまが驚き喜んでクララを抱きしめるが、クララは自分が立ったということにも気づかずに気を失ってしまう。

 

クララが牛に驚いて立ち上がれたのは、いわゆる 「火事場の馬鹿力」 が発揮されたということだろう。人間は、いざというときには普段では信じられない力を出すことがある。
いや、もともとそういう力を持っているのだが、普段はどうやっても出すことができない非常の力なのだ。常にはかかっている潜在意識のブレーキが、なんらかの理由ではずれることで発揮されるといわれる。

野口晴哉先生の本の中にも、神経痛やリウマチで動けない人をびっくりさせて治した経験が書かれている。操法布団の下からヘビなどを出して、「アッ、こんなのがいた」 と驚かすと、立てなかった人が立ってしまうのだそうだ。(古き良き時代ですね・・・)
またタバコを吸いながら話していて、女性の着物に灰を落としてしまったら、足が悪くて立つのが大変だった人がぱっと立ち上がって灰を払ってすましたて座った、などという話も載っている。
そういったときに野口先生は、「歩けますなァ」 とか 「おや、立ちましたね。ひとりで」 と言うのだと書かれている。
そこで 「立ちましたね」、「歩けましたね」 と一声かけて、相手に立てたことを認めさせてしまうことが、実は心理指導の要諦なのだ。

驚いたことをきっかけにせっかく立てたとしても、立てたということを本人に認めさせないとまた立てなくなってしまう。自分の力で立てた瞬間に、「おや、立てましたね」 と一言いわれることで、” あ、自分は立てるのだ ” ということが潜在意識に刷り込まれるのである。

ただし、ここで 「びっくりして、思わず立ってしまったんですね」 などとは言ってはいけない。それでは、“ たまたまびっくりしたから立てたのであって、そういうきっかけでもなければやはり立てない ” と連想してしまうからだ。

クララが残念だったのは、せっかく立てた後にすぐ気を失ってしまって、自分が立てたということを認識できなかったことだ。
自分が立ったということさえ信じられないのだから、その後いくら 「お前は立てたのだから、もう一度立ってごらん」 とおばあさまがいったところで、やはり立つのは無理なのである。

しかし、たとえ本人が憶えていなくても、自分だけの力で一度立てたことは大きかった。周囲の人がクララは立つことができると確信を持つことができたし、本人も周りの人の確信を借りて、少しずつでも自分は立てるのかもしれないと思うこともできただろう。
そして、たとえ意識では憶えていなかったとしても、体の方はちゃんと憶えている。体の記憶とでもいうものがある。きっと体の方は、自分の足で立ち上がったときの感覚をしっかりと憶えていて、それがきっとクライマックスで立ち上がることにつながっていったのであろう。

アルプスの少女ハイジ その1 ~クララはいかにして立ったのか~

以前、こんな記事を書いたことがある。 → 「立つんだ、クララ!
震災直後の記事だが、文章の微妙な不安定さなどから自分もショックを受けていたんだなあと今更ながらに感じるものがある。

さて、クララとは、スイスの作家ヨハンナ・シュピリの小説 「アルプスの少女ハイジ」 の登場人物である。日本では、1974年(昭和49年)の1月~12月、カルピスまんが劇場(後の世界名作劇場)で同名のアニメが放映されて広く人気を博した。
最近では、「家庭教師のトライ」 のパロディCMで、懐かしいハイジ達の笑顔を見ることができる。本編とは、だいぶキャラクター設定が変わっているが・・・。

ストーリーを極々かいつまんで簡単に紹介すると、スイスのある町に住んでいた5才の女の子ハイジは、1才のときに両親を亡くし、ほとんど親戚などに預けられてさみしい日々を過ごしていた。
あるとき一緒に住んでいた母方の叔母がフランクフルトに働きに出るのをきっかけに、ハイジは父方の祖父であるアルムおんじに預けられることになった。
それからハイジはアルムの山で、おじいさんや山羊飼いのペーター、大きなセントバーナード犬のヨーゼフ、子ヤギのゆきちゃん達と愉しく暮らすことになったのだ。

ところがあるとき、件の叔母が、フランクフルトの大富豪の娘が遊び相手を探しているということを知り、ハイジを騙してフランクフルトに連れ去ってしまう。
お屋敷の娘クララは、生まれつき足が悪く車椅子で生活している。本当はクララの足はもう治っているのだが、クララは立てないと思い込んでいるのだ。

一気に話を吹っ飛ばして先に進めると、アルムの山に帰りたくて心を病んだハイジは、山に返されることになる。そして、明るい気持ちと健やかな体を取り戻したハイジの元に、今度は友達になったクララがやってくることになる。
クララの主治医がアルムの山を視察に来て、クララが歩く意欲を取り戻すためには良い環境だと判断したからだ。

さて、このアニメの最大のクライマックスは、なんといっても歩けずに車椅子に乗っていたクララが自分の足で立つというところだ。

リハビリを兼ねて山に来て生活するクララだが、なかなか立つことはできない。いくら医師や周囲の人間が、本当は立てると言っても、クララ自身に立てるというイメージが無いのであろう。いくら仲良しのハイジが励ましても、やはり立てないと言うばかりである。

ところがある日、とうとうクララが立ち上がるときがやってくる。

以下、 HIRAO'S HOME PAGE さんの アルプスの少女ハイジ ストーリー詳細 より転載させていただいた。

アルムの夏も次第に深まり緑の色も一段と濃さを増す頃、クララは何とかつかまり立ちができるようになっていました。しかしもう少しのところで恐がってしまいクララはなかなか一人で立てるようにはなりませんでした。
転ぶ事を恐がり、ちょっとした事で理由をつけて練習をやめようとする弱気なクララを見たハイジは泣きながら 「クララのバカっ! 何よ意気地なしっ! 一人で立てないのを足のせいにして、足はちゃんとなおってるわ、クララの甘えん坊! 恐がり! 意気地なし! どうしてできないのよ、そんな事じゃ一生立てないわ! それでもいいの? クララの意気地なし! あたしもう知らない! クララなんかもう知らない!」 そう叫ぶとハイジはクララをおいて駆け出してしまったのです。
クララはハイジを追いかけようと思わず立ち上がってしまいました。そうです、クララは一人で立てたのです。
振り返ったハイジはクララが一人で立っているのを見てびっくりしてしまいました。 「ハイジ… 私、私立てたわ」 クララがそう言うとハイジはクララのもとに駆けつけ 「よかったねクララ」「ええ、嬉しいわ。ありがとうハイジ」 そう言うと二人は泣きながら抱き合って喜びあうのでした。

という大円団を迎えるのである。

仲良しのハイジが自分の元を去ってしまうと思ったクララは、ハイジを追うために自分が立てないという思い込みすら忘れて、思わず立ち上がってしまったのだ。二人の友情の力が、ついにクララを立ち上がらせた感動の瞬間である。

ところが、子供のころに見たのですっかり忘れていたのだが、実はこのシーンより遡ることしばし、クララはあることをきっかけにすでに立ち上がっていたのだった。

つづく ・・・・。

※ アニメ版アルプスの少女ハイジのストーリー、シナリオに関しては、HIRAO'S HOME PAGE さんの 世界名作劇場>アルプスの少女ハイジ>アルプスの少女ハイジ ストーリー詳細 (と youtube のアニメ動画)を参考にさせていただきました。

8月のお休みについて

 

     通常のお休みのほかに、

     8月の10日・17日(水曜日)を

     お休みとさせていただきます。

 

 

身体気法会 H28年度 整体法講座 中級のお知らせ

9月からスタートする 「身体気法会」 の中級講座 第二期 の受講受付が始まりました。

初級講座のメインテーマが 「気の感応」、「愉気法」、であるとしたら、中級講座は「整体操法の基礎」ということになるようです。

参加資格は、一応初級講座を終了した人ということですが、野口整体、愉気法経験者や、他の手技療法等を学ばれたことのある方も中級講座からの参加が可能なようです。

詳しくは、身体気法会HP をご覧下さい。

身体気法会 東京操法室のご案内

懇意にさせていただいている柳澤先生が主催される身体気法会の東京操法室がスタートしました。

柳澤先生、もしくは身体気法会の認定指導者による整体操法を受けることができます。

詳しくは、身体気法会のHPをご覧下さい。  → 身体気法会HP  ブログでのお知らせ

 

身体気法会の東京操法室は、現在 【 仮指導室 】での整体操法施術および健康指導をおこなっています。

「東京」 操法室ではありますが、現在の仮指導室の所在地は、

   所在:神奈川県相模原市古淵3-2-1 KMビル第二205号室

 TEL:  042-750-7623

 アクセス: http://1006yukari.com/info.html

となります。

暫定的な仮指導室なので、今後準備が調い次第、新操法室にての対応となります。
(しばらくの間は、相模原での指導となりそうです)

 

現在仮指導室は、主に神奈川で活動されている北野先生の 「縁整体 指導室内」 に置かれています。

もともとは、北野先生と柳澤先生に私を加えて、「三人会」 という名前で整体の研究会をやっていました。
ここ3年ぐらいは、私がなかなか参加できず、かわりに他のメンバーが増員されて、すでに 「三人会」 ではなくなっていますが、整体の研究会は存続しています。

北野先生が柳澤先生の身体気法会の活動に賛同する形で、気法会の認定指導者となり、東京での活動拠点が定まるまでの間、「縁整体 指導室」 を提供されています。

 

現在のところ、東京操法室では主催者の柳澤先生の他2人の指導者の操法を受けることができます。
柳澤先生は静岡での活動がメインとなるため、もしかすると2名の認定指導者による操法の方が定期的に予約は取りやすいかもしれません。

操法の予約を希望される場合は、縁整体 に直接お電話していただくのが早いようです。(メールは、気法会の本部での受け付けとなっているようです)

繰り返しになりますが、詳しくは、身体気法会のHPをご覧下さい。  → 身体気法会HP

謎の禁煙席

都営地下鉄三田線で白山駅から一つ北上した千石駅の近くに、とある喫茶店があった。残念ながら昨年閉店してしまったのだが、全国展開のフランチャイズの珈琲店ながら、そこの店長さんが入れる珈琲は他店と同じ豆を使っているのだろうになぜか特別美味しく、たまに利用させてもらっていた。

その喫茶店は喫煙OKだったため、タバコを吸わない私にとっては、ちょっとした苦行となる場合もあり、いつも空いている時を見計らって入店していた。
といっても全面喫煙可ではなく、一応 分煙(?) はなされていた。ただし問題だったのは、禁煙席は入り口のそばの一テーブルだけだったことだ。

禁煙席なので、もちろんタバコを吸わない人が座るのだが、それ以外の席は全て喫煙可なので、禁煙席に座った吸わない人の周り中で皆がタバコを吸っているという不思議な光景が出現していた。

おそらく誰もが思ったことだろう。

果たして、この禁煙席に何の意味があるのだろうか、と・・・。

 

しかし、しばらく通ううちに面白い現象が起こり始めた。タバコを吸わない人が、禁煙席に座らずに、その隣のテーブルに座るのだ。そうすれば、少なくとも自分の隣には吸わない人が座ることになる。

この現象はすぐに定着し、そして広がっていった。すなわち、ただ一つの禁煙席の周りをタバコを吸わない人達が固め始めたのだ。
こうして、空けたままの禁煙席を中心に、NO喫煙エリアが形成されるようになった。

それ以外の席が埋まってしまうと、タバコを吸いたくて入ってきた客が、禁煙席しか空いておらず、すごすごと帰っていくこともあった。
そんなときには、非喫煙エリアを形成している人々は、決して顔を上げず、目を合わさず、そのことで静かに自らの固い意思を表明していた。そして店長は、満席を理由に当たり前のように入店を断っていた。

もちろん、非喫煙者が少なくてエリアを形成できない時もあるし、素人(?)の非喫煙者が禁煙席に座ってしまうときもあったりと(そんなときには、周囲の非喫煙者の心の中の舌打ちが聞こえるようだった・・・)、抵抗ともいえないほどの小さな抵抗であったが、吸わない人たちの間には、暗黙の了解、そして小さなレジスタンスの共有によるある種の連帯感が生まれていたのは確かだった。

 

ただ一つの禁煙席をあえて使わないことで、禁煙席を生かすという、まるで老子の 「無用の用」 を地で行くようなアイディアであったが、整体の世界でも、「あえて使わない」 ということがある。

本来の急処や患部に直接アプローチせずに、そこに関連する周囲・遠方のポイントに働きかけることによって体を整えたり治癒を促したりすることはよくある。
急処が過敏すぎて触らない方がよいとか、患部の痛みが強くて触れないということもあるが、周囲または遠いところから調整した方が実は効率が良いとか、効果が長持ちするとかいうこともよくあるのだ。

また、操法における指の使い方でも、母指を使って押さえるときには、なるべく母指の力を抜いて、それ以外の四指をうまく使って母指を生かすというのが基本になっている。
これもまた、周りを使って中心を生かす整体ならではの身体操作法である。

 

などと、ちょっとこじつけのように整体の話につないでいるのは、このブログでは整体もしくは治療院に関係ないことは書かないというルールを設定しているからであった。
実は、ただ謎の禁煙席についてどうしても書きたかっただけだったりする。

それにしても、あの禁煙席は、一体何のために設けられていたのだろうか・・・?

フランチャイズの規定に、必ず禁煙席を設けるような決まりでもあったのだろうか・・・。
それとも、凡人には理解できないような、なにか深淵な理由があったのだろうか。
今となっては、永遠の謎である。

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