じき、始まる。。。。(柳澤)
心も身体も、人も森も野原も風も、
みな、季節の移ろいに変化してゆく。
「季」の高まりが退きだした時には、
もう次の「季」の織り込みを
始めている。
この「季」に、乗ってみようと思う。
変転、変容するだろう「あや」の様な
言葉を綴りながら、、、、
心も身体も、人も森も野原も風も、
みな、季節の移ろいに変化してゆく。
「季」の高まりが退きだした時には、
もう次の「季」の織り込みを
始めている。
この「季」に、乗ってみようと思う。
変転、変容するだろう「あや」の様な
言葉を綴りながら、、、、
「季よみ通信」 ~白山⇔気法会往復ブログ~
これは、白山治療院 指田(私)と身体気法会の柳澤先生とで、整体 ・ 気 ・ 身体などについて、ブログ上で気の向くままにあれこれと語り合ってみようという試みである。
同名のブログを行き来しながら、お互いの記事の内容から感じ取ったことに絡めて、自由に続きを書き継いでいく。テーマは常に流動的、お堅い決まり事は無しで、ともかく気ままに書いていこうというブログ上でのコラボ企画である。
こんな企画は面白いのではないか、というアイディアは柳澤先生。
では、それを私達でやってみませんか、という発案は私、指田。
企画の通奏低音としては季節を読み取る、機を感じ取ると云うコトで・・・ と、
「季よみ通信」、とのタイトル命名は柳澤先生である。
柳澤先生は、私にとっては整体の大先輩である。年齢も多少離れているが、整体のスタイルもそれなりに違う。
ただ、愉気の質が似ている、とは柳澤先生の弁である。
愉気・・・。
愉気は、整体の真ん真ん中にあるものである。
愉気とは何か?
愉気とは、お互いの気が同調(シンクロ)し、感応(レスポンス)することを通して、互いの体が生命活動の調和をとろうと働きだすことである。
というのも、一つの説明の仕方であろう。
これが整体操法における愉気では、互いの気が感応することには変わりがないが、術者が主導して受け手の体が調和を取るように誘導していくという面が強くなる。
そして、それを実現し易くするのが、整体操法における 「型」 というものの存在である。
では 「気」 とは何か?
「気」 とは、生命そのものの原初の働きである。
新しい生命の誕生が受精の瞬間だとすると、人間はまだ心も体もできあがっていないときから生きている。その心も体もできあがっていないときから働いている生命そのものの力を、整体を始めとする東洋の医学 ・ 哲学では 「気」 と呼んでいるのである。「気」 は、「心」 と 「体」 を作り上げ、その両者を先導し、支え、かつ繋いでいる生命の根元的な力である。
と、いつも私は説明している。
整体で、まず始めに 「気」 ということを言うのは、「心」 も 「体」 もひっくるめた、人間全体に通底する生命そのものの働き = 「気」 に働きかけることを最も重視するからである。
そして、「気」 に働きかけるには、やはり 「気」 を以て為すということになる。それが、すなわち愉気である。愉気というのは、人間同士の最も根源的な部分でのコミュニケーションなのだ。
さて、一粒の受精卵が分化し、生を全うするためにいろいろな器官が出来て身体が形成されていく中で、気の働きもそれに合わせて多彩になっていく。
見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れて(触れられて)感じる・・・。五感の働きも、みな 「気」 の働きの具体化、現象化したものと言える。
整体操法の中で、こちらが腹部を触ろうとすると、まだ触れる前にお腹がぐるぐると鳴り出す人が結構いる。これも、触れようとするこちらの手と、今まさに触れられようとしている体との間に、物理的な接触以前に 「気」 の感応が起こるからである。
誰もが経験があるであろう 「視線を感じる」 というのも、ものを見ようという欲求と共に発現する 「気」 の動き、対象物に集注される 「気」 を感じているのだ。
神経の働きであろうが、筋肉の働きであろうが、そこには必ず生存の(また種族保存の)欲求に端を発する 「気」 の動きがある。まずは、「気」 ありきなのである。人間のあらゆる生命活動、心や体の働きは、全て 「気」 の動きの具体的な表現である。
日本語の中には、「気」 を使った言葉が非常に多い。
「元気」、「病気」、「陽気」、「陰気」、「根気」、「暢気」、「本気」、「やる気」、「気持ち」、「気力」、「気丈」、「気まま」、「気軽に」、「気が合う」、「気が強い」、「気が小さい」、「気がつく」、「気が向く」、「気がある」、「気がはやる」、「気が滅入る」、「気合い」、「気遣い」、「気働き」、「気色」、「気分」 などなど・・・。
挙げていけば、切りがないほどだが、一つ一つ見ていくとその示すところはなかなかに面白い。
とにもかくにも、日本語に 「気」 に関する言葉が多いのは、昔日の日本人が、目に見える動きに先んじて動く 「気」 の動きを、それこそ五感以前の 「気」 で感じ取っていたからだと思われる。
つまり、昔から日本人は、人間の生きて活動しているその中に、また人と人との関係性の根本に、「気」 というものの動きを感じていたということだ。
整体は、そういう日本人独特の感性と認識力の鋭さの上に成立した、非常に日本的な身体文化と言える。
21世紀、ITの急激な進歩で巷に情報はあふれ、現代人は非常に頭でっかちになっている。何事も頭で理解することを重視する傾向が強まり、往時に比べて 「気」 を感じることに疎くなっている面もあるかも知れない。
しかし、この時代に生きる現代人だからこそ発達している、新時代の 「気」 の感性というものも、やはりあるのではないだろうか。
柳澤先生は、「身体」 ・ 「気法」 の会において、まさに 「身体」 を 「気」 で読み解いていく活動をされている。そこには、自然の一部である 「身体」 と 「季」 の移り変わりとの関わりがあり、その関わりの中に 「機」 を読むことが求められる。
「季よみ」 は、「季読み」 でありながら、「機読み」 であり、「気読み」 でもある。
季よみ通信という、新たな試みの中で、時代に即した 「こころ」 と 「からだ」 の新たなる地平が立ち現れてくることを期待しつつ、これを以て第一回の往信としたい。
機運と云うものがある。
ある種の高まり感だ。
白山治療院の指田先生との公開往復ブログを始めるきっかけになったと云う
私自身の発言を、私はよく覚えていない。
確かあの時、あの場で、、、、と、
外郭と背景だけ、思い出せる。
その時、その場の相手の表情や場面の空気感だけ、感触だけが浮かぶのである。
しかし、こんなアヤフヤで頼りないイメージであっても、
受け手の指田先生の中に、キッチリ届けられ、そのイメージは
増殖され進化して、空想の中からこの「季読み通信」は、
このように形なしたのである。
今度は、呼びかけを受ける事になった私の中には、
この面白い取り組みの空想の広がりを感じる、イメージが羽ばたき
いくらでも自由にふくらんでゆく、高まりを覚えるのである。
空想はどこまででも、膨らんでゆく。
機運と云うものまで、感じる。
勝手な思い込みではある、、、、。
けれど、人は形のないもの、まだアエカで朦朧とした蠢きの中に
機を感じ取り、勢いを予感するのだ。
予感であり、空想である、、、
熟さぬまま中途で頓挫してしてしまう可能性は大きい。
形なすには形なすだけの蓄えと備えが必要なのである。
知らず知らず積み重ね、鍛えられ、蓄えられた何モノかに依るのである。
もの事の始めには、何事にも、まず「気」の蠢きがある。
原初にはまず、「気」ありき!なのだ。
これは、どのような“コト”においてもである。
生命活動にも、さまざまな出来事にも、人生にも、季節においても、歴史の中にも、
「気」のウゴメキがある、、、
そして、ウゴメキの中から動きが生まれてくる。
方向性を掴んだ動きが生じ、展開し始めるのである。
「気」とは、勢いといっても言い。
けれど、それは高まりだけではない、
減退し、引いて行く勢いもある。
明確で充実したものもあれば、ワサワサとただ無目的な混乱の
力感だけに満ちみちたエナジーだけと云うコトもある。
「気」が動きに転じた時から
連動が生まれ、次々連なりあいながら、ヒビキが伝播してゆく。
整体操法は、この「動き」に働きかけ、調整する技法である。
あらゆる変動、愁訴、異常と云うものの
まず、始めには「動きの失調」と云うものがある。
動きが停滞し、鈍り、、、弾力の、振幅の幅を失う、、、
これが、始まりである。
要求のウゴメキが身体の内奥に生まれると、
それは、方向性を選りだして動き始める。
この動き、信号の連絡とも言えるけれど、
確かに動的な方向性を持った進行が何度も何度も繰り出されるのである。
整体、といえば
一般的には、腰痛であり、肩こりや、筋肉の疲労感や
脊椎矯正と考えられがちである。
ギックリ腰など、お手の物と云うコトに
なる訳だけれど、この整体の初歩の初歩と考えられる
ギックリ腰にも、緻密にこの「動きの失調」に集注してみると
成った過程と、次に向かいたい方向と、
過去と未来の情報が、混ぜこぜにその、滞って動かない
1点の中にあることが感じ取れる。
そもそも、ギックリ腰とは、どのようなものと
考えられているのだろう、、、
「何らか」のきっかけで起こった、腰椎部ないし仙骨部近辺の
急性の損傷による、症状である、、、、と。
しかし、この「何らかの」と云うものの前に、、
きっかけで、、、と云う前段に、「動きの失調」が存在するのだ、
「要求の中断」が、そこには在るのである。
たとえば、ある人が数十キロの荷物を
引き上げようとした、
斜め後方に、引き付けるように上げたのである。
普段、何度も繰り返し、やり付けた仕事である。
日常動作とさえいえる、、、、
このような慣れた繰り返し動作が、落とし穴である、
この人は、鼻歌でも歌っていたのであろうか、
あるいは、はあああと、一瞬ため息をつきながら
引き上げたのであろうか、、、
ギックリ腰に、何か「きっかけ」があるとしたら
呼吸のミスマッチ、がある。
それ以外にないとも言える。
息を吐きながら、身体が弛んだ状態で
動作をすると云うコトは、身体にとっては
かなりの冒険なのだ。
危険をはらんだ、避けるべき行為なのである。
この「きっかけ」によって、
何度となく酷使され続けてきたこの人の腰椎1番と5番の
椎側の連携運動に、ロックがかけられる。
いやあ、無理無理!、もう無理!!
と云うような具合で、疲労が蓄積されていた
系統が一瞬にダウンし、極端な痛みの警告を起こすことで
身体の一旦停止を知らせ始める。
この人の腰椎1番の上下動作はくたくたに疲労状態であった、
すでに動きのまったく失われた1点を囲っているような状態だったのだ、
それを助けていたのが腰椎3番であったのかもしれない、
けれど、この数日の間にこの腰椎3番が動きを停滞させていた、、、、。
何だろう、何らかの要求の中断を余儀なくさせられていたのであろうか、
いずれにしても、3番の助けを失い、息が乱れた状態で
弱りかけていた腰椎1番にダイレクトに負荷がかかった、、、
ギックリに成らない方が、おかしい、、というか
ギックリにしなければ、身体全体の安全を保てなかったのである。
この人の、腰部を丹念に観れば、
本人が痛覚を感じている腰椎5番から、
上下にぐんぐん伸びてゆく動きが掴める、
上下運動、腰椎1番までつながる「伸び」の希求が、感じられるのである。
腰の下のほう、つまりは腰椎5番から左側の骨盤にかけて
痛みを訴えているわりに、
左足をヘソに向かって引き上げてもらうと、
あっ!別に痛くない、、上がるねー、、、、と言う。
逆に右を上げてもらうと、痛っ!痛、たたた、、と言う。
これは、腰椎3番が捻れ、ロックされてしまって
痛覚ラインの逆転を起こしているのである。
腰椎5番から連動して一瞬に硬直化した
ポイントを順々に、押圧してみると、どこも
同じように上下運動に方向性が向かって、弛んでゆく、、、
希求方向が同じなのである、
それは、負荷がかかった方向性でもある。
体形と云うもの、歪みと云うものは
要求の方向性の表現、である。
要求がそちらにあるのだから、これを一律に矯めてみても
始まらない。
原初にウゴメキ、方向を掴んで動き始めた「気」は、
その希求の実現に向けて、
何度も何度も、トライするのである。
最大の障害は、「停滞」である、、、、、
滞り、止まってしまう「動き」の中断、
「気」が、もっとも頭を悩ませるトコロなのである、、、、。
私の、第1返信はここまで、、、
連句のようにつながり続ける、この通信に
次は、どのように「付け合い」されるのか、
楽しみである。
人間は、動物である。動物である人間は、動くことで要求を果たしていく。
人間が生きているということは、動いている、ということだ。
運動器系を用いて要求を果たしていく人間にとって、動きの停滞は、すなわち生命活動の停滞を意味する。
運動というと、手足や体幹部の動き、― 立つ・座る・歩く・走る・投げる・跳ぶなど ―、つまりは骨格筋の運動が連想されやすい。しかし、人間の生命活動は、もっと広い意味での運動である。
例えば、呼吸も一つの運動である。一般に呼吸器というと、気管・気管支・肺などの器官を指す。これらの器官は、酸素を体内に取り込み二酸化炭素を体外に排出しているが、自力で空気を取り込んだり吐き出したりしているわけではない。息を吸ったり吐いたりするには、胸郭が拡がったり、横隔膜が上下したりする広い範囲の骨格筋の運動が必要である。もっと言えば、呼吸(外呼吸)は、体中が寄せては返す波のように、緊張(吸)と弛緩(呼)を繰り返す全身運動なのである。
また、くしゃみも、咳も、欠伸も、瞬きも身体運動であるし、排尿や排便も広い意味では身体の運動である。心臓の鼓動も、胃や腸の蠕動運動も、血管の拡張・収縮も、生命の営みはまさに運動そのものである。
整体操法は、運動器系の調整である。
これは、人間の生命活動である 「動き」 を改善するという意味であると共に、文字通り 「運動器系」 、すなわち骨格・関節・靭帯・腱、そして骨格筋による身体の運動系に働きかけて、全体の働きの調和をとるということである。
体の様々な働きの異常は、運動系の違和として現われる。整体では、それを特に脊椎及び、その周囲の筋肉の状況で触知する。
頚が回らない、腕が上がらない、膝に痛みがあるなどの、いわゆる身体運動の問題が、脊椎の歪みや硬直と関係しているということは最近では広く知られてきているが、臓器の変動もまた、関連する脊椎の動きに反映する。
例えば、肝臓の働きの変動は、第9胸椎の異常として現われる。脳の血行の状況は、第2頚椎に変化を起こす。
それぞれ対応している椎骨及び、椎側と呼ばれる脊椎外側の筋肉に、いろいろと変化が現われる。硬直したり、弛緩したり、転位したり・・・。感覚も、過敏になったり、鈍麻したり、圧痛が生じたり・・・。
もちろん、異常が現われる運動器は脊椎だけではない。消化器の疲労が下肢の筋肉を硬直させたり、子宮の問題が手首の関節を狂わせたりすることもある。心臓の具合が悪くて、左の腕に痺れが出ることは、一般にもよく知られていることだ。
そして、その異常が現われている運動器系を調整することで、逆に関連する内臓・神経系・内分泌系などの働きを調整することができるのだ。例えば、逆上せや脳貧血など、脳の血行異常は、第2頚椎を調整することで正常に復することができる。胃の収縮による痛みなどは、第11胸椎への押圧刺激で緩和される。また、手首の関節調整で子宮の位置異常(後屈など)を治したり、痔になり易い体の傾向を足の小指を調整することで無くしたりする。
整体では、いつでも 「動き」 に働きかけ、体を調整していく。そして、「動き」 の閊えを改善させることは、すなわち、「気」 の停滞を解除することであり、「要求」 の中断を回復させることである。
それを実現するには、動きの悪い処を一つ一つ見つけて、片っ端から治していくというのでは上手くいかない。ただ悪いところ、硬直しているところを追いかけ追いかけ治しているだけでは、いつも後手後手に回っていることになり、到底相手の体をリードしていくことはできない。
整体操法においては、常に体の変化の半歩先、一歩先を読んで、動きをリードしていかなくてはならない。それは、「気」 を読むということでもあり、体が志向しているところ、すなわち体の 「要求」 を読むということでもある。そこが何より整体の難しい所でもあり、同時に整体の醍醐味でもある。
常に相手の体を先導していくところに、整体の整体たる真面目がある。そして、それが整体操法が、「整体指導」 とも呼ばれる所以なのである。
言語を超えた身体技法という領域において、心と体に働きかける整体の 「指導」。そこで求められるスキルを習得するために重要となるファクターを、整体の世界では、「機」、「度」、「間」、と表現する。技術の中に、その 「機」、「度」、「間」、というものを掴まなければ、形だけは整体でも、ただの体の修理屋になってしまうのだ。
この1週間で、一気に湿度が上がった。
多くの人は暑くなったとは思っていても、
湿度の目盛がガバッと上がった事に、
気をかけていないのだろうか、、、、
「湿度が急激に上がりましたからね、身体も追いつけないのですよ、、」
と、言っても
多くの人が、きょとんとして
一体、私の症状とそれが何の関係があるの!?とばかりに
反応がすこぶる悪い。
しかし、湿度が上がれば泌尿器系のトラブルは一挙に増え、
身体はむくみ、偏頭痛も起これば目もかすみ、歯も痛む。
胸は躍るし、腹も痛むのである。
思えば、先の冬の訪れも
何の前触れも挨拶もなしに、ドカッといきなり寒さが
降りた、、、。
たいていの身体は、慌てふためいて
発熱やら嘔吐下痢やらで病院に駆け込んでいたのである。
この春の、梅雨の先取りのような
暑さの降り方も、突然であり過剰である。
その「機」も「度」も「間」もなく、ちょうど良さを
過ぎ越して、「過量」である。
しかし、自然は
時として、過量なるものとして振舞うものなのだ。
これだけ湿度が上がれば、準備の良い蛙もいて
期待と高揚感の高まりに、この夕方、早々と
げえくげえく、、、と鳴きだしていた。
夏の始まりには、春のある日、
にわかにジャージャーと喧しいくらいの鳴き声で
夏の虫がもやい合う夕方がある。
彼らは、そのようにして
調子を整えるのだ。
思い切り、持てるだけの筋力とエネルギーを使い
調子っぱずれなくらいの鳴き声を
暮れかけて遠のく、空に向かって
響かせ合う。
ただやかましいだけで、耳が痛くなる、、、
情緒も味わいもないのだけど、
けれど、このような全力の
自らの力量と限界を計るかのような
「やり過ぎ」が、
彼らの「機」と「度」と「間」を
導き出す。
しばらく、また何事も無かったように静かな夕方が続き、
そしてある日、涼やかに
暑さにやられた頭や騒がしげな心の中を
落ち着かせ凪いでくれる
あの優しげな音色を響かせ始めるのである。
人もコトも、自然もモノも
このような「やり過ぎ」の時期を持つ。
いや、「やり過ぎ」と「及ばぬ事」ばかりである。
人は、同じコトを繰り返す。
何度となく、、、
失敗や過ちと判っていながら、また同じ道を歩き始める。
繰り返し繰り返し、
「やり過ぎ」と「及ばぬ事」の間を行ったり来たり
してる。
「過量」な季節の動きも
このちょうど良さを見失った
身体には、ほど良い刺激となるのかもしれない。
身体は歪む。
ほど良さを探るには、あまりに過剰な情報に囲まれて、
いつも度外れな
歪みを持ち続けている。
このような、
度外れな身体を扱うのが
整体操法である。
ここに、『機』『度』『間』が
どのように存在するのだろう、、、、
この身体は、しかも
「やり過ぎ」なければ満足しない、
「及ばぬところ」に、いくら尻を叩いても
重い腰を持ち上げようとしない、
のである。
えっ!
だからこそ、バランスを取り
曲がったものは、真っ直ぐにして
縮んだものは、伸ばせば良いんじゃないの、、、、
と、お考えだろうけど
そうでもないのである。
やり過ぎなものは、それよりも、さらにやり過ぎさせ、
及ばぬものは、ますます及ばないようにしなければ
身体は、納得できないのである。
歪み、バランスを崩したものは
揺れ出す。
安定を欠くのだから、バランスを取り戻そうと
自律調整の揺れが起こる。
けれど、ここに手を加えると、
揺れているのだからと、そっと手を加えようとすれば
この揺れは、止められぬくらいの
激しい揺れに、変化する。
逆に大きく早く揺すぶる事で、
揺れが止まることもある。
弛んだところに
いきなりドンッと背中を突いた方が
7種はハッとするのである。
虚を突かれ、身体は萎縮するのである。
事細かにあれとあれ、と
キッチリ指導するより
何気ない他人の言葉に
不安を覚えるのが2種なのである。
不安は身体に結ばれて、
あっという間に調子を崩し始める。
ガチガチの決め事に安心するのも
ほんの一時に過ぎない、
2種は何気なくフッと感じた不安が
身体に直結する、
その結ばれようは、頑固である。
やすやすとは解かれない。
いったん、結ばれた不安は次々の
不安を呼び起こす加速感も持っている。
身体がフッと変わってしまう
エアポケットのような落とし穴は
何処にでもあり、
他動的な調整は追いつけないのである。
勢いは、何処にあるのだろうか、、、
勢いの質を
変化、変転させないかぎり
やり過ぎも、不足も変化させる事は出来ない。
勢いは隠れている、、、。
やり過ぎの中に勢いがあるのではない。
及ばぬものに、勢いが足りないのではない。
勢いは、
停滞の中に隠れているのだ。
人は、抑制と過剰の社会に暮らしている。
身体に生まれた要求は、
すべてほとんどが、
窮屈の網の中に絡めとられてしまう。
人は動けば、停滞する。
これが、現代の身体である。
やり過ぎも、不足も
この停滞が生み出した
二次的な鬱散運動なのである。
停滞の中の勢いを見つけ出すことが
「機」「度」「間」を探り出す道なのだ。
ちょっと動くだけで汗ばむ。
布団は、かければ暑いし、はげば寒い。
冬の厚手の服は重く感じ、薄地の明るめのものを着たくなる。
季節を感じる身体の感覚の中に
私たちは、何を見出せるのだろう、、、、。
“ 自然は、時として過量なものとして振る舞うものなのだ・・・ ”
自然は、確かに時として過量なものである、と感じる。
人間にとっての程良い調和、快適で平安な状態が、自然にとっての常ではない。いつでも穏やかな晴天、ということはなく、嵐もあれば竜巻も起こる。日照りもあれば、落雷もある。
人間も、自然の一部である。やはり、いつでも快晴というわけにはいかない。風邪による発熱、インフルエンザ、じんましん、急な激しい下痢・・・、これらは体にとって、まさに青天の霹靂である。
しかし、稲光によって稲穂が実るが如く、自然の大いなる荒振りが、新しい生命の息吹を吹き込むという重要な役目を果たしていることも知らなければならない。
雨が降り、風が吹き、季節が移り変わるからこそ、自然の生育というものがある。そして、時に台風が襲来し、川が氾濫し、山火事が起こることで、自然環境が停滞することを防ぎ、生態系が多様化することを助けていたりもする。
人間の体も、季節の移り変わりを始めとする外部環境の変化や内部環境の諸事情によって、いろいろに変動するものである。風邪を引いたり、熱を出したり、皮膚に湿疹を出したりすることで、停滞する体に変化をもたらし、生命活動のバランスを取っているのだ。
いつでも、痛いところも痒いところも不快なところも一つもない。全く風邪も引かなければ、お腹をこわすこともない。
そういう 「健康体」 を求めるとしたら、それは理想ではなく、幻想である。
現実に存在するのではなく、誰かの頭の中に幻想としてあるだけだ。一年中穏やかな陽気で毎日が快晴、そんな気候、天候が無いのと一緒なのだ。
しかし、毎日が平穏無事・・・、そんな幻想に似た、疑似健康体があるにはある。
それは、非常に鈍ってしまった体である。例えば、ガンになるような人の体である。
ガンになった人に訊いてみると、病気が見つかるまで、長期間全く風邪を引かなかったという人が非常に多い。風邪も引かないし、熱も出ない、取り立てて異常も起こらないので、丈夫になったものだと思っていたら、突然ガンが見つかったという。
ガンというものは、体の鈍りの果てに起こる病気である。一見、無病で健康、息災と見えたものは、実は丈夫になったのではなく、体がどんどん鈍くなって、変化を起こせなくなっていたのだ。異常がなかったのではなく、体が鈍って異常を感じ取れなくなっていたのだ。
生きているものは、全て揺らいでいる。その揺らぎこそが、生きていることの証なのである。
人間の体も、いつでも 「やじろべえ」 のように揺らいでいる。
大事なのは、傾かないことではなく、常に中心へ戻ろうとする力を失わないことである。
それでも、もし傾いたまま固まっても、鈍っても、ともかく全く異常感も症状も無いまま寿命が来るまで無事でいられる薬が発明されたらどうだろうか。
それはそれで、そういう薬にも需要があるだろうし、それを選択するのもまた一つの生き方である。
しかし、整体は、そういう道は選択しない。生命力を精一杯発揮して、己の生を全うするのが整体である。
力一杯生き切るという整体の生き方、体の自然に添っていく整体の生き方、そこには、「生」 の快感がある。この 「快」 を身を以て知ることが、整体で生きていくことの一つの大きなモチベーションになると言える。
整体というと、体を整える身体調整の技術、という意味が一般的だが、その整体によって整った体のことも、「整体」 という。
「整体」 であれば、生きていくことそのものに 「快」 がある。快適であり、快感があり、愉快なのである。
何か特別なイベントがあるから楽しいというのではない。生きていること自体がそこはかとなく愉しく、ゆったりと息をしているだけでも、その中に快感がある。
「整体」 になると、体を動かすことが愉しくなる。エスカレーターがあっても、階段で上りたくなる。
動くことに快感があり、動いても疲れず、疲れても心地よい。
夜はぐっすりと眠れ、朝の目覚めは爽やかである。
食べては味が鮮明で、おいしさの種類が増える。
力を出し惜しみする気は失せ、どんどん出し切りたい。
嫌なことがあっても、引きずらない。
伸びや欠伸にも気持ち良さがあり、排便や排尿にさえ、快感がある。
たとえ無病が保障されても、ただただ病気でないという鈍い体で生きるなど、「整体の感じ」 を知ってしまったら、とても選択できるものではない。
ただし、繰り返しになるが、毎日が晴天ということはない。整体=無病、ではないのだ。熱も出れば、お腹もこわす。変動は、体の常である。時には、変動が長期にわたることもある。人生が楽ばかりでないのと同じだ。
しかし、台風一過、嵐の後には、また抜けるような青空が待っている。
最近の薬と云うものは、それほど強力な効果を
あげるものなのだろうか、、、、。
30数年来、薬と云うものにお世話になったことがないので
とんと、見当がつかない。
しかし、処方された薬を1回、飲んだけれど
また、熱が上がったと言って、
5時間後に夜間救急にやって来る
若い母親が居ると云うし、
薬を飲めば、いっぺんに病状が改善してしまうと
思うほど、すばらしい効果を
今の薬はあげているのだろうか、、、、、。
人が、薬を必要とする理由は、何だろうか、、?
言うまでもなく、
それは、一刻も早い病状の改善である。
早く苦痛から、逃れたい。
苦しげな姿を見たくないと云う周りの家族の心情もあるだろう、
また、病気などになっていられない!という
忙しい人もいるに違いない、、、、
そこで、いかに手早に手軽に病気から
抜け出せるかが最も重要である、と云うのが
「病気」と云うものに関する一般の考え方なのだと、思う。
一方で、最近は
慢性的で精神的な病気に関して、
急がず、騒がず、ゆっくり、いたわりながら、
徐々に回復に努めましょう!、、、
動けそうでも、無理をせず、
「病気」なんだから、そんなに直ぐには
直りませんよと、、、
免罪符をいくつも胸にぶら下げた
ウツやらストレス性ナニナニの「病気も」
急増している。
ストレスと云うものは、
抜け出したり、逃げ出したり、
まったく負荷のかからないストレスレスな状況など
ほぼ、望む事ができないものである。
ストレスは、除いたり、減じたり、避けたりするものではなく
選び取るものだと、云うコトなのだ。
我が家の白のメス猫は、身体も小さく
臆病で、警戒心が強い。
彼女は、生まれてしばらく野良の生活を
余儀なくされていたため、
安定した食べ物が供給されて、
なおかつ安全で、不愉快で危険なものなど
皆無な屋内の「家中暮らし」に
満足している。
たまに外の空気を吸いたくなるのか、
窓べりに近づいて
風の匂いをかぐような仕草を見せるが、
彼女は、窓を開けてやっても
屋外に出て行こうと、しない、、、、。
「家中生活」を始めて、彼女はしばらく
花粉症になったり、変動がごたごた続いた。
しばらく、落ち着いたかと思っていたら
最近は、夏の身体に適うように
毛の抜け変わる時期であるけれど、
ごっそり、前足の付け根から、前胸のあたりも
ゴルフボールくらいの大きさに毛が抜けてしまった、、、、。
肌が露出されてしまっている処は
案外きれいなのだけれど、
痒いのか、爪をたてて掻くので
切れて血が滲んでしまっている、、、
この皮膚疾患は、たぶんに
ストレスからきている、、
ストレス性の脱毛症である。
けれども、彼女は
このストレスを、自ら選び取っている。
不安定な野良での狩猟採集より、
ずっと食いっぱぐれる事の無い
この安定して、のんびりした、外敵の来襲の不安もない
家中の快適生活を選りどったのだ。
過去の遠い記憶の切れぎれに
野生の屋外生活の、
快活で伸びやかな「動的生活」の思い出が
身体の何処かにあるので、
本人は十分満足していても、
身体の要求は、この安寧な状況に
ストレスを感じている、、、、。
しかし、この身体の無意識に背負っている
ストレスによる脱毛症状があろうが、無かろうが
本人は、何処吹く風で
さほど気にせず、家中生活を満喫している。
最近になって、やっと少し折り合いを付けたのか
ときたま、半日くらいの
冒険に屋外に出るようになった。
人が、この現代社会に生きる限り
ストレスと云うものから、逃れる事は出来ない。
特に、この不正直で、直裁で、揶揄と短絡の、かさついた時代に
ノンストレスで生きる事は
不可能である。
良心と云うものを基本的に持たない
独善の人は、ストレスなんて感じないで
ゆうゆうと、やりたい放題に生きているのでしょう、
と、思うけれども
彼らでさえ、不安と焦りに常にさいなまれている。
整体生活と云うものも、また
能動的に、変動を選び取ってゆく道である。
病気と云うもの、身体にある日、ふと襲いかかる
変動と云うもの、それは、
不安と危険がいっぱいの外部から、もたらされる
外敵による来襲なのでは無い。
病気と云うものは、
身体の都合による、身体自身の要求に基づいた
再生運動なのである。
病状、症状そのものが問題なのでなく
鈍って滞った系統の再生のための
改修工事なのである。
本来の目的は、この系統的な
復活なので、
症状は、十分に最後まで全うされなければならないのであり、
数時間で簡単に
突貫工事で、否!、工事を放りっぱなしで
途中で補修をして、ポイっと良し!!、、、では、
長い準備を重ねて
やっと変動にまで、こぎ着けた身体にしてみれば、
あれっと、肩透かしを食って
新たなストレスを負わされたようなモノなのである。
健康生活と云うものは、何であろう。
少なくとも、現代の「健康」観は、
整体生活の、山あり谷ありの
とにかく、全力で物事や局面に立ち向かわせようとする
身体の自然と云うものとは、
正反対の方向を眺めているように思える。
山や谷を出来るだけ避けてとおり過ごせるような
どんな心配も不安も起こらないように、
先に先に、先手を打って、
保護し、庇いながら、の「健康」なのである。
充電池の残り時間が、目盛二つになって
無くなるのは嫌だからと、
常に充電して、アップアップしている状態である、
使い切ってしまえば、また十分に
容量いっぱいに満たせられるものを、
常に、豊満状態にしているため、
やがて、容量そのものの許容範囲を
狭めているのである。
これでは、「健康生活のゲンリ」ではなく、
「健康生活のゲンナリ」、、、である。
柳澤先生のお宅の猫も、夏を迎える準備で毛が抜けかわっているとのことである。
犬なども、改良を重ねた室内犬などはシングルコートで通年あまり毛が抜けないものもあるが、野生を残している日本犬などは、上毛(表毛)と下毛(綿毛)があり、春と秋の毛換期には、枕が一つ作れそうなくらいごっそりと毛が抜ける。
人間の体も、毛こそ抜けかわらないが、やはり季節の移り変わりに適応するべく、たえず変化をしている。
暑い夏には、体は弛み、開き、放熱モードになる。そして、同時に冷却装置としての発汗機能も高まる。
冬には、寒さに耐えるために体は閉じてきて、骨格も筋肉も皮膚も引き締まってくる。
冬に閉じて引き締まった体は、春先、といってもまだ寒い1月の中旬~下旬頃から、少しずつ春の準備を始める。この頃、まずは後頭骨が開き始める。
後頭骨が開くという表現は一般的ではないが、整体ではよく用いられる。頭は頭蓋骨という骨の塊だが、その実いくつもの骨が組み合わさって出来上がっている。その繋ぎ目を縫合部というが、その縫合部には多少の遊びというか余裕があり、体の状況に応じて微妙に動いている。
例えば、物事に深く集中しているときは頭は引き締まり小さくなっている。一日働いて頭が疲れてくると、夕方には頭が拡がって大きくなり帽子がきつくなったりする。一日の中でも変動するが、四季の変化に対応して、もう少し大きなリズムでも変化している。
春を待つ1月の後半に、後頭骨は弛み、開き始める。この頃、まるで先触れのように花粉症的症状を呈する人がいる。上下的体癖傾向を持つ神経系が敏感な人に多いが、これは後頭骨が開いてきたことに付随する体の過敏現象である。実際にはまだ杉の花粉は飛んでいないのだが、目鼻にムズムズ、グズグズと症状が出るのだ。
「花粉症」 というぐらいだから、花粉が症状を引き起こす原因になっているのは間違いないだろうが、実は花粉そのものよりも体の方に根本的な問題があって症状が起こるということが、このことからも分かる。
後頭骨から始まる春の変化は、次第に肩甲骨、骨盤と波及していく。後頭骨に連動して肩甲骨が弛み開き、続いて骨盤も開いていくのだ。そして、この一連の春の変化が上手くいかない人が、花粉症になる。
花粉症は、整体的に言うならば、春の体に変わっていく途上に閊えがある人が、体の一部を過敏にして、何とかその変化を促進させようと奮闘している姿である。過敏にしているのは体自身の振る舞いであり、花粉の方は利用されていると言ってもいいかもしれない。そうして見れば、悪者にされている花粉の方こそ好い面の皮である。
過敏というのは、体のどこかに鈍りがあるための代償作用である場合が多い。花粉症も、季節の変化に上手に対応しきれない鈍りを抱えた体が、部分的に過敏を作ることでバランスを取っているのである。
だから、体が整ってくると、いつの間にか花粉症の症状は無くなってしまう。もしくは、かなり軽減される。
私も整体を始める前は花粉症の代表選手のようであったが、今では3月頃に2週間ほど、多少鼻がむずむずする程度で済んでいる。
しかし、花粉症をやれる人は、まだ本格的には鈍くない人であるとも言える。本当は体の働きが鈍っていて全く季節に対応できていなくても、風邪を引くことも花粉症になることもできずにいる人もいる。そういう人こそ、体の働きが鈍麻した、健康から最も遠い人である。
さて、後頭骨、肩甲骨、骨盤と続いて行く春の開きの変化だが、これが秋になると、今度は寒さに向かって頭から順に骨盤までが閉じていくのだ。体はしっかりと閉じることで、冬の寒さに耐えうるのである。
このように、体は季節を先取りし、また時に何とか追いつこうとしながら絶えず変化し続けている。この季節に対応する体の変化を上手く助けていくことも、整体操法、整体指導の中ではとても重要な位置を占めている。
上手に季節に体を適応させていくためには、整体操法で体の変化を促進していくのも一つの方法だが、生活の中でちょっとした工夫をするだけでも全然違ってくる。
それが、足湯だったり、肘湯だったり、蒸しタオル温法だったり、また水を飲むことだったり、お風呂の温度を工夫することだったりする。また、寝るときの布団のチョイスも、季節と体の適応に一役買ったりする。
最近のことを言えば、寝汗を冷やして喉を腫らせている人が多い。3月、4月くらいまでは、冷えると胃腸に来る人が多かった。胃が痛んだり、働かなくなったり、腸にガスが溜まったり、下痢をしたり・・・。
このところは汗を引っ込めて泌尿器系に変動が起こる人が多く、朝に顔が浮腫んでいたり、喉が腫れたり痛んだり、ガラガラ声になったり、中には高熱を発する人もいる。咳は呼吸器の問題だが、喉が腫れるのは泌尿器の変動である。一部呼吸器にまで症状が進んでいる人達もいるが、どちらにしても、原因はほとんどが寝冷えである。
そういう人に訊いてみると、未だに真冬と同じ布団で寝ていたりする。そして、夜中に暑くなって布団を剥いでしまったり、寝汗をかいてそれが冷えたりして、泌尿器の風邪を引いてるのである。
また、寝冷え以外では、このところあちらこちらで入り出した冷房で冷えて、同様な症状を起こしている人もいる。
布団は、春から初夏に向かう時は、早め早めに薄く、または少なくしていった方が良い。その方が、季節の変化に体がついて行きやすい。いつまでも厚い布団、厚い寝間着で寝ていると、体が季節に置いて行かれてしまう。
反対に、秋から冬にかけてだんだん寒くなる時期は、早め早めに布団を厚く、もしくは多くしていく。今度は、その方が季節に体が適っていくのである。
汗の内攻、泌尿器の変動は、体の捻れと一連のものである。今、喉を腫らして風邪様の症状を呈している人は、ほとんど第2・第3腰椎が捻れて硬直している。
そんな症状が何週間も続いて一向に治らないという人も、この体の捻れを調整してしまえば、見る見るうちに回復に向かう。
この10年、梅雨は空梅雨続きだった。
梅雨であるのに、カラッとした日が続いていた。
やっとこの2~3年、湿度をともなう梅雨が戻りつつある、
動けば、ジトッと汗ばむ梅雨である。
日常動作や、歩くだけでも汗かく梅雨、
今は、梅雨前期と云える季節である。
この空梅雨であった何年かは、
身体にとっては、非常につらい時期であったといえる、
一般的には、カラッとしているので
過ごしやすい!!と、歓迎されていたが、
身体にとっては、苦行のような日々であった、、、、、。
4月から5月にかけて、日差しは急速に
強さを増し、じりじり容赦なく照り付けてくる。
この日差しと気温上昇に本来、湿度は
不可欠なのである。
よく知られているように
日差しの中の紫外線は、
皮膚に吸収されて、身体の中にビタミンDをつくる。
ビタミンDは、体内においてカルシウムの吸収を促し、
身体の中のカルシウムを定着させる働きをする、
免疫機能を活性化させ、
筋肉や神経系統にも影響するビタミンDは
紫外線のエネルギーを利用して
長い年月をかけて、人の身体が
獲得した体内育成物なのである。
かつては、紫外線ともども
日差しは敵ではなく、日光浴!と称して
皆、こぞって太陽の光を積極的に浴びようとしていたのである、
じりじり、肌を焼き、だらだらと、汗をかいて、、、。
しかし、近年
オゾン層の破壊にともなって、
紫外線内の有害物質も体表に届き、影響を
及ぼすにいたって、紫外線は一気に「悪役」に
成り代わってしまった。
2007年頃の、気法会のホームページを観ると
骨のマッサージ行気と云うものを
紹介している。
2007年は、すでに空梅雨となって
数年を経た頃である。
この年、今まで
空想にさえ起こらなかった
骨への直接の愉気、あるいは行気、
気を集める、と云う事を知らぬ間に
行なっていた。
とくに胸郭、、、
硬張った肋間筋、胸骨、、
何をしようにも弛まず、
さて、どうしたものかと、思っている先から
思わず骨そのものに
気を通していた。
当時は、明確な理由が
思い浮かばなかったが、
骨そのものをマッサージするように
行気してみると云うような
方法を提案した。
気を通すと、
胸の中に籠もった熱が
ふううと、発散されていった。
空梅雨で
じりじり焼かれるような
日差しは、皮膚を突きぬけ
骨に直接、影響を及ぼし始めていたのだろう、、、
ここら以降から
熱中症と云う、陽射しと暑さに
ダウンした身体が増え始め、
注意喚起の声が大きくなるごとに
倒れる人もまた、
急激に増加した。
人々の空想に
認知されたためである。
日本の梅雨は、
汗ばむように動かねばならない。
いや、汗ばむどころか
どかどか汗をかくのである。
梅雨前期は
動けば、汗ばむ。
このように
胸椎10番が動き、
胸椎5番が盛んに働いて
汗をかくことが
夏の前の養生なのである。
しかし、
胸椎5番は硬張り、
胸椎3番に痞えが生まれ、
肺の動きが阻害されてくる、、、
免疫系等の胸椎7番も
怪しげな途絶えを呈して、、
強力な陽射しに、身体は
大きなダメージを受けていた。
インドネシアに出向していたSさんが
3ヵ月ぶりに戻ってきた。
当初、1ヶ月は気候と食べ物の違いに
体調をやや、崩していたが
その後、2ヶ月いったきりの
久しぶりの彼の身体は、
現地人のごとく、黒々と日焼けし、
すっかり適応していた。
彼はサーファーでもあるので、
仕事の合間に、現地の海で
波に乗っていたらしい、、、。
陽射しが、こっちとは
異質なものらしくて、
半端ない照り付けに、
焼け焦げたようだと言う、、、。
確かに、日焼けした
肌の黒さが、日本人のものではない、、
黒々と芯から焼けているような
骨格のある黒さ!!とも云うべき
日焼けである。
しかし、面白い事に
彼の身体は、
とても水っぽい感じがした。
皮膚の下が
水を含んだ房のような感じなのである、
この事を話すと、
何でしょうね、、、、と、不可思議そうな
顔をしていた、、。
多少、戻りつつあるとはいえ
梅雨前期の今、
湿度感は、まだまだ、、である。
かつての、梅雨は
簡単には戻りそうに無い。
熱い風呂に浸かったり、
皮膚への刺激が
効果的なのは、
この変異してしまった
自然に身体を適わせる
自己保存としての防衛法だからである。
有害であると云う紫外線も
波長の長さにおいては有益だと言う、
細胞を活性化するのである。
メラニンを作り出し、日焼けする事で
身体も適応を図る、、
いずれも度合いの問題なのだ、
長く浴びれば
毒となる、
シミの原因となると喧伝されて
人は、太陽を
忌み嫌い始めたが、
何十年に一度とか、
リングの神秘とか言われれば、
こぞって日の光を
仰ぎ見ようとするのである。
身体は、
つねに自然の運航に
付き従っている、、、、。
人が作り出した
奇妙な自然の模造品の社会に
人は、足枷として捉えられながら
なお、
季節の変転に応えながら、
変異する自然に
今ある能力でもって最大の最適化を
ねらって、粉骨努力するのである。
一番の問題は
身体の持ち主の意識が、
この事にまったく、無関心か
鈍感である、という点なのである、、、、。
季よみ通信 其の8自然の変異と身体、柳澤先生の本領がいよいよ発揮されつつある内容である。
季よみ通信の名の通り、季節と体の関わり、季節折々の問題を取り上げていくのは、このブログの大きなテーマの一つである。
整体の季節に関する一般的な事柄は私が担当し、柳澤先生には先生独自の視点から、季節と身体の関係を語ってもらえればと思う。
柳澤先生の整体=身体気法では、季節の変化に対する身体の最適化ということがかなり中心的な役割を担っているようである。
季節の移り変わりに対応している身体の変化を最適化することを通して、それまで身体が抱えていた様々な異常や矛盾が正されていくというのが先生の考えのようである。
いや、観察と技術を高めて、そういうことが実現するように季節の操法を構築してきたというのが本当であろう。
もちろん、季節の問題を処理していく中で体を整えて行くことは、野口整体においては当たり前のことなのであるが、柳澤先生の操法は、かなりその部分に特化しているように見受けられる。
以前、ある野口整体関係者が先生の操法を受けた時に、「素晴らしい操法だが、この操法は先生にしかできない・・・」 と言ったそうだ。
季節の操法に特化しているのも先生の操法の特徴だが、そもそも操法自体の組み立てや手法、気に対する感覚、操法の質そのものが非常に特徴的である。いずれこのブログでも語られていくだろうが、柳澤先生の操法はオーソドックスな整体操法と比べると、かなり独特な風格を持つ。つまり、オリジナリティーが高いのだ。
と言っても、もちろんそれは我流という意味ではない。そもそも柳澤先生は、野口晴哉先生の高弟の一番弟子、という整体のまさに本流に居た方である。これ以上ないと言うくらいキッチリと整体の基本、型、観察をやり込んでいった上で、深化する技術のその先に必然としての変革が訪れたのであろう。
超整体通と呼ばれる人物をして、「先生にしかできない・・・」 と言わしめた柳澤先生の操法であるが、先生自身は、「これは誰でも捉えることができる感覚で、この操法も誰にでもできるはずだ」 とおっしゃっている。
そして、それを実証するべく、現在先生は 「身体気法講座」 を展開されている。従来の愉気、行気、活元運動、体癖論などに加えて、更にそれらに独自の感覚世界を盛り込んで新しい気的身体論の世界を体験できるように指導されている。
さて、今週末くらいには関東も梅雨入りするようである。
春は、骨盤が開く生殖器系の働きに特徴のある季節であった。続く初夏は消化器、梅雨は呼吸器のシーズンとされている。
梅雨は、当然ながら湿度が一番体に影響する。そして、発汗が健康の鍵を握ってくる。
湿度が高くなると影響を受けるのは、呼吸器と泌尿器である。発汗は、皮膚を通しておこなわれる。
皮膚・呼吸器・泌尿器というのは、呼吸・排泄の働きを通して深く結びついている。三者は、お互いに助け合いながら、三つどもえで仕事をしている。
皮膚呼吸というものがあるくらいで、皮膚は呼吸器の一端を担っている。皮膚に出るアトピーを強い薬で抑えると、喘息になったりする。逆に、喘息を薬で押さえ込むと、皮膚に過敏な状況が起こってくることもある。
泌尿器と皮膚は、尿と汗で排泄を補完し合っている。汗をかく季節は、水分や老廃物を皮膚から汗で出せるので泌尿器はちょっと一息つくことができる。秋になって汗をかかなくなると、とたんに泌尿器の負担は増える。塩分も酸も水分も、ほとんど尿から出さなくてはならないからだ。
ちなみに、あまり注目されないが呼吸器も排泄を行なっている。普通アンモニアは尿から体外に排出されるが、腎機能障害などで尿から排泄できなくなると呼吸で排泄する。尿毒症を発症すると、アンモニア臭が口臭として出てくるのはこのためである。糖尿病の人の息が、腐ったリンゴのような臭いがするというのも同様だ。
湿度が高くなり、呼吸器・泌尿器の働きが停滞すると、体が重くなり、だるくなる。特に、下肢の重さ、だるさは特徴的である。
この時期体の焦点となる椎骨は、第3・4胸椎(呼吸器)、第5胸椎(発汗)、第10胸椎(泌尿器)などである。これらの椎骨の状態が健全であれば、体は季節に適応していると言える。
“ しかし ” 、柳澤先生によると、 “ 胸椎5番は硬張り、胸椎3番に痞えが生まれ、肺の動きが阻害されてくる、、、”
この状況は、整体で言うところの 「汗の内攻」 を思わせる。出るべき汗が、急に冷えたことで引っ込んでしまう。皮膚が縮み、筋膜・筋肉が縮む。汗腺が開かなくなり、汗が出ずにその硬直が弛まない。泌尿器、呼吸器に変動が起こる。
おまけに言えば、汗から排泄された毒素・老廃物の再吸収。経皮毒の自作自演である。
ところが、ここでは先生は、これを湿気のない空梅雨のため、自然の変異のために、身体が季節について行けていない状況であると指摘している。
初夏から梅雨、そして夏、特に8月のお盆前までは、どんどん汗をかかなければいけない。夏の健康法は、とにもかくにも汗を出すことである。汗さえ出ていれば、夏は概ね健康に過ごせる。
しかし、この汗をかくべき梅雨前期に、“胸椎5番は硬張り、胸椎3番に痞えが、、、” である。
その対策として柳澤先生は、一つ “ 熱い風呂に浸かったり、” することを勧めている。
熱い湯に浸かることは、皮膚への刺激になり、発汗も促す。
入浴で汗を出すときには、湯に浸かっている間に出そうとすると長湯になりすぎる。風呂の中ではなく、風呂を上がってからドッと汗が出る、そういう入り方を工夫する必要がある。
熱めのお湯に浸かったら、温まりきるその直前に出るのが丁度良い。その上がるべき 「機」 を掴むことこそが、入浴術の極意である。
また、この時期は、側腹、脇の下の水掻き部分、手足の指の股の水掻き、を刺激するのが良い。これらの一見 「余った部分」 を刺激するのが、梅雨時の重だるい体をシャキッとさせてくれる。どれもつまんで愉気するのだが、直後から体が軽くなるのを感じられる。
そして呼吸器が停滞してくると大腿部後面の筋が縮んでくるので、ここを伸ばすように大きく動かすのも良い。ストレッチも悪くはないが、大股で歩くなど、積極的に 「動かす」 方が効果がある。
どちらにしても、この時期は、積極的に体を動かしていた方が調子が良い。だるいからと言って、動かずにダラダラしていると、ますますだるくなってしまう。
日本には、四季がある。
気温も湿度も、ぐんぐんやら、うねうねやら、しながら
季節の流れにつき添いながら、
寄せたり引いたりして、暑さや寒さの色をかもす。
風や光の量も、
音や水の近さも、季節の動きそのものとして
動き続ける。
変化してやまない世界にいて
何事も起こらない安定を望むのは
失礼千万な事なのかもしれない、、、。
しかし、人は安寧と平安を望む。
「養生」と云うものは、
20世紀後半にいたっては、
「衛生」と云うものに、
とって変わられてしまったけど、
変転してやまない自然の動きと、
身体の変化と、、、
変幻し換わり続ける
身体と世界の一つながりの「体気象」
とも云うべきものに、
いかに対応し、これに一本の芯となるものを
打ち込んでおくべきかを、
自在に巧妙に、半歩先に
手を打っておく方法論なのであった。
「養生」と云う、季節とともに
生活する方法論を、失ってしまった現在、
季節を読んで、対応しましょうと云う提案は
一般的には、感覚として
判りにくいコトになってしまっているのかもしれない、、、。
野口整体には、風に対する養生法と云うものがある。
四季に応じて、
身体に吹き付けられる風の方向を
論じている養生法である。
四季の身体においては、
湿度、汗と乾きと云うものが
大変重要なファクターとなっている。
汗がどのように、風に吹き付けられ
乾くのか、、
乾燥した時期に、凍えた風が
いかにカラダを脅かすのか、、、
その、吹き付ける、吹き抜ける、
方向の、何に注意すればよいのかを
養生として説いている。
夏は、身体全体が放熱しようと
世界に向けて、開いている。
汗をかき、気化させることで
熱を奪われて、放熱している、、
たっぷり汗をかいた後に
木陰で、そよそよした風に
吹かれるのが心地良いのは
理にかなっているのだ。
この心地よさは、
身体の前面に受けるのが
なおさら心地良い、、。
胸から額から
暑気が吹きとられ、
熱が発散してゆくのが
ことさら、なのである。
夏は、身体の前面に
風を受けるのが養生である。
逆に、知らぬあい間に
背面から風をうけて、
首筋やら、腰やらにかいた汗を
冷やされてしまうコトが
身体を危うくする端緒となる。
知らぬ間と云うのは、
眠っていたり、であるとか
外気温からすれば、異常事態である
エアコンの冷気を
ワゴンセール品に気を取られている隙に
首筋にかいた汗に吹きつけられて
冷やされたりする場合である。
夏は、呼吸器が旺盛にはたらき
胸が開き、身体前面から
どかどか放熱してゆくのが
健康的な生活と云うものなのだ、、
冬は、反対に
北から吹いてくる風を
背中で受ける、、
ごうごうと吹き付ける突風に
背中を押されながら、
吹き飛ばされるのが、
とんでもなく心地良いのは
この理のためである。
湿度も気温も上がる夏季の
過ごし方と云うのは、
汗の処理を、いかにするかと云うのが
養生である。
汗をいかにかくか、
汗を冷やさないかと云うのが、
最重要課題なのである。
「冷え」と云うものには、
入り口がある。
東洋の古典でもある
傷寒論は、この「冷え」と云うものが
どのような経路で身体に入り込んだのか、
それによりどのような「傷寒」を
身体に及ぼしているのかを
緻密に詳細に論じたものであるが、
確かに、「冷え」は、
何処からでも、冷えるモノではないのである。
汗をかき、
風にさらされ、
冷やされる事で
「冷え」てしまう、、、
これは、夏季の基本的な
「冷え」の形態である。
けれど、
半裸に近い状態で、
その辺にごろ寝しても、
何でもない人たちは、何故?
「冷え」ないの、、、。
と、疑問に思う人たちがいる。
確かに、
湿度がちょっと、上がっただけで
いちはやくTシャツ一枚にハーフパンツに
裸足に草履、と
平気で空調のぎんぎん、効いた
鉄筋鉄骨コンクリート造の商業施設に
入ってきたりする人たちがいる。
どうなっているのだ、、、、と。
梅雨の初期であるこの時期、
「冷え」の入り口は
下肢にあり、
膝下のスネにある。
膝頭の下部のすぐ下の
足三里と呼ばれるあたりの向こう脛の外側のクボミと
その反対側の内側のクボミに横断する
水平のラインの口と、
もう一箇処は足首の、外踝クルブシの上のクボミと
その反対側の内踝クルブシの上のクボミに横断する
水平のラインの入り口である。
「冷え」の入り口は、ココには違いないのであるが、
どんな場合にも、入り口になっているのかと云うと
そうでもない、、。
ありゃりゃりゃ、、、どうなっているのだ、、、、と、、。
ためしに
アキレス腱を伸ばすように
つま先を立ててみる、
足首がくの字に曲がるように
足の裏側を伸ばすのである。
すると、前面のスネのあたりに
急激に吸い込んでいる感覚が
生まれる、、、
逆にアキレス腱を縮ませ、
足先をスネと水平に、
向こう脛スネを伸ばすようにすると、
この前面のスネからは、
何かもやもや、発散する感覚がある、、。
この「吸い込み」と「発散」という感覚は、
「体気象」と云うものを
感じ取る上で、実に大事な
体感覚なのである。
これは、自分の身体の実感としても
他者の身体の観相としても
感覚できる気のモニター法である。
意識的に
アキレス腱を伸ばしている訳ではないのに
常に、アキレス腱が張り詰めて緊張状態で
ある人たちは、
この「冷え」の入り口が、
開いている。
吸い込みの気の流れの体勢を
常に取っているのであるから、
冷えは、入り込みやすい。
逆に、アキレス腱は弛み
適度に関節が開いている人たちは
ハーフパンツだろうが短パンだろうが
涼しげなオープンな衣服をまとっても
冷える事は無い、、、
外気に直にさらされた肌からは
ぐんぐん放熱されるのである。
アキレス腱周辺の緊張が抜けない身体は
腰椎1番の椎側も、常に抜けない硬張りを
作っている。
「冷え」が入り込むと、
この硬直したラインが
胸椎11、12番と云う、腰椎のすぐ上の
椎骨のワキの椎側に
上がってゆく、、、。
腰椎1番がこの時、
下がって真下の2番に
くっ付いてしまうと、
胸椎11、12に上がったラインは
椎側の三側と云う処に
入り込み、腹痛を起こし始める。
急激に下したりするのである、、、
逆に、ラインが
一側に入り込むこともある、
腰椎1番が上がったまま飛び出し、
胸椎12番にくっ付いてしまっている場合である。
この場合は、
さらに胸椎の上の方、上胸部に絡んでくるので
また別の冷えの様相を呈する。
「冷え」は、このラインを
昇りながら、肝臓に入り込むこともあるし、
一気に上がって、胸椎1、2番を硬張らせて
肩や腕、首の筋や腱を硬直化して
動きを阻害したりする。
さて、「冷え」の入り口が
開いていないのに、
「冷え」の問題を抱えている身体もある。
これは、
足首などの関節が開きすぎている身体である。
この人たちは、
非常に肌の感覚が鈍い状態に陥っていて
汗をかけない、、!
ゴムのように粘りついた厚い肌をしていて
汗をかけないために
大変に暑がりである、
半裸に近い格好をしていても
涼しげな感じがしないし、
空調をキンキンに、効かせたがる人たちである。
この人たちの「冷え」は、
皮膚や泌尿器系にあらわれる、、、
厳密に言えば、「冷え」そのものではなく、
「汗の内攻」なのであるけれど、
かけない汗のための変動を起こすのである。
この人たちにも、
「冷え」が、入り込むことがある、
別の入り口が開けられたのである、
この場合、冷やされて「冷え」たというより
内攻した汗が冷えを、呼び込んだと云う
感じに近い、、、。
このような冷えは、
血行の問題となる、、
循環器やら血管の変動を起こしやすいのである。
腰椎3番が捻れながら、腰椎4番の力が抜け
引っ込んでいる、、
1番は上がったまま硬張り、椎側に弛んだ一点が
生まれている、、。
汗は、冷えて内攻もするが
かけないことで、内攻もするのだ、
かけない内攻は、つらい、、
泌尿器がフル稼働しても追いつけない、、
身体は、
季節に動いている、、
各々の身体の特徴と癖に応じて
急処となるべき点とラインをつくりながら、
鈍りもするし、活発に活動的であったりもする、、
この時、どのような身体にも
適う、ピッタリとした解決の糸口である
季節の急処と、云うべきものが
発現する。
どういう原理で、このポイントが生まれるのだろう、、、。
整体には、活点と云う
調整点が、身体のあちこちに存在するが、
この活点も、
いつでも、開いているわけではない、、、
見つからない時さえ、あるわけで
これも、入り口が開くように
持ってゆかなければならないのである、
開く必要を、身体に呼びかけないと
いけないのである。
季節の急処は、
この呼びかけ口を
身体そのものが、気象を先取って
用意したものなのだろうか、、、、、。
急処が何故、生まれるのか、、
どうして動くのか、を
究明するのは、また次の機会に、
と云うことになる、、、、、、。
、、、、あゝ
南からまた西南から
和風は河谷いっぱいに吹いて
汗にまみれたシャツも乾けば
熱した額やまぶたも冷える、、、、、、。
さて、
白山治療院の指田さんの、的確で詳細な解説のおかげで
私のつたない言葉足らずの文が、毎回見事に完成されている。
うーん、私が脱帽なのである、、、。
前回は気法会サイド・其の8を評して、いよいよ柳澤先生が本領を発揮しつつある内容だと書いたが、季よみ通信 其の10 和風はカラダいっぱいに吹く、、 では、まさに柳澤先生の本領が本格的に発揮されている。
“ 冷えの入り口・・・・ ”
“ 「吸い込み」と「発散」・・・・ ”
“ 「体気象」と云うもの・・・・ ”
ついに、身体気法の森へと足を踏み入れて(誘い込まれて?)しまった、という感がある。
さてさて、この深遠な身体気法の世界に、何を手がかりに、何を羅針盤として進んでいったらよいものか・・・。
日本には、いろいろな風が吹く。
春嵐、薫風、凱風、青嵐、真風、山背、野分、風巻、雁渡し、空っ風、玉風、木枯らし、颪、鬼北・・・・。
和風とは、「やさしい風」、「穏やかな風」 の意である、ともいう。
賢治の感じた和風は、まさに “ カラダいっぱいに ” 吹いたことで、同時に河谷いっぱいに吹き、稲田をわたり、栗の葉をかゞやかしたことを、それがまるで我が身に吹いたのと同じように感じさせたのだろう。
ただ単に全身に風を受けただけでは、 “ カラダいっぱいに ” 風を受けたことにはならない。夏の風をカラダいっぱいに感じるには、脇が開き、胸郭がゆるみ開放している必要がある。脇が閉じ、胸が固まっていては、夏の風はカラダを十分に吹き抜けてくれない。
今、カラダいっぱいに風を感じられる体の感性を持った人が、果たしてどれだけいるだろうか・・・。
さて、“ 風に対する養生法 ” である。
野口整体では、汗かく季節、夏の風は前から受けよ、と言う。これは、汗をかく季節は頚や背中など、背面から風を受けると汗が内攻しやすいからである。
“ 東洋の古典でもある傷寒論・・・” が出てきたが、これは中国の長江(揚子江)以南の高温多湿の地域で成立したもので、専ら急性病に対処するための方法が説かれた漢方に於いて亀鑑とされる書である。
傷寒とは、ただ単に 「寒邪」 によって体が傷つけられるという意味でなく、「風邪(ふうじゃ)」 が寒邪を伴った、「風寒の邪」 によって体表から冒された病状について説かれている。
漢方的には、寒邪は重いもので体の下部を冒すのだが、軽い風邪が伴うことで体の上部を冒すのである。
また、中国医学に於ける漢方(湯液)に対するもう一方の雄、鍼灸の世界では、「風門」 という上背部の経穴(ツボ)から 「風邪(ふうじゃ)」 が侵入するとしている。このツボは、第2胸椎棘突起下の両外側1寸半にある。整体的に言えば、第3胸椎二側に当たるだろうか。(二側は、目的の棘突起より少し上方になる)
そして、「風門」 の主治は、咳嗽・発熱・頭痛・悪寒・頚部の強ばり・腰背部痛などである。まさに、汗の内攻によく見られる症状ということになる。
日本でも、中国でも、世界中どこでも、夏の風は背中で受けてはいけないのである。
更に言えば、体の片側からだけ風を受けるのも良くない。その側だけが、偏って硬直してしまうからだ。
そしてまた整体では、冬は前からの風は避けよ、と言う。冬の冷たい風を前から受けると心臓に悪影響があるからである。
野口整体では、汗の内攻ということをうるさく言う。それだけ、汗を冷やして引っ込めたことによって体を損なうことが多いからだ。
この季節、急性病的症状を呈するものには、多かれ少なかれ汗の内攻が絡んでいる。そして、その症状は多岐にわたる。
体が重い、だるいから始まって、発熱したり、下痢をしたり、めまいが起こったり、頭痛が続いたり・・・。
それ以外にも、眼の奥が痛い、視力が急に低下する、耳が痛い、歯痛、咳が出る、のどが痛い、頚や肩がこる、筋肉や関節が痛む、足の筋肉がつる、体が強張る、浮腫む、お腹が張る(ガスがたまる)、妙に眠くなる、血圧が急に高くなる・低くなる等々・・・。
また、ときにはリウマチ様の関節の痛みや、激しい神経痛が起こったり、急に尿が出なくなったり、場合によっては心悸亢進、不整脈など心臓の変動を引き起こすこともある。
汗の内攻から急激に腸にガスが溜まり、それが胸腔を押し上げて狭心症的な症状を起こし、救急車で病院に搬送される人が毎年かなりの数いるという。
時代劇などで、「持病のしゃくが・・・」 というシーンがよくある。胸部や腹部が急に激しく痛むことで、いわゆる差し込みであるが、現代医学的には、胆石だとか胃けいれんだとか、また十二指腸潰瘍だなどとも言われているようだ。
私は、TVで 「持病のしゃく・・・」 が出る度、ああ、それはきっと汗の内攻ですよ、と取り敢えず足湯を勧めたくなる。まずは足湯をしてご覧なさい、と・・・。
汗の内攻によっていろいろな症状が起こっても、まさか汗が冷えたくらいで、そうなっているとは思わないから、慌てて病院に駆け込むことになる。そして、いろいろな病名を付けられて、いろいろな薬を処方されることになる。果ては、緊急手術なんていうことも、あるかも知れない。
消化器科の症状だろうが、循環器科の症状だろうが、泌尿器科、整形外科、耳鼻科、歯医者の領域の症状だろうが、汗が冷えて起こっているものは、汗の内攻を解消する処置をすればよいのであるが・・・。
最近は、熱は無闇に下げてはいけないとか、下痢は止めない方が良い場合もあるなど、整体の常識が医学の世界でも言われるようになってきているらしい。
「汗の内攻」 も、現代医学の常識となる日が来ることを切に願う。
もちろん、暑さに汗ばむ季節に風を受けて涼を取ることが悪いわけではない。また、冬の寒風が、実はそれほど体を壊すわけではない。
まさに、“ その、吹き付ける、吹き抜ける、方向の、何に注意すればよいのか・・・” を知ってさえいればよいのである。
夏の風を前から受けること、冬の風を背中に受けることに、つまりは体に風を受けることに 「快」 を見出し、肯定的に捉えているところは、いかにも柳澤先生らしい。
先生のカラダにも、いっぱいに風が吹いているのだろう。
さて、汗が内攻すると第5胸椎が硬直してくる。第5胸椎は、発汗の中枢である。その第5胸椎が硬直して動きを失うと、今度は引っ込んだ汗が出なくなってしまう。
整体では、このとき悪寒の中枢となっている第8胸椎と発汗中枢の第5胸椎に愉気をするというのがセオリーになっている。第5の硬直が弛んで汗が出てくれば、内攻が解消されるということだ。
手の平の中心に第8胸椎、指先あたりに第5胸椎が来るように手を当てて愉気するのが標準的なやり方である。
内攻が更に進むと、呼吸器・泌尿器関連の椎骨にも異常が及ぶ。それが本格的になると、第5胸椎に愉気をしただけでは、なかなか内攻は解消しない。多くは発熱を伴う変動を経て、本格的に汗が出切る必要がある。
汗の内攻は、言わば 「夏の冷え」 である。本格的に寒い秋・冬とは、また違った種類の 「冷え」 なのである。
蒸し暑い夜に寝汗をかいて、明け方急に気温が下がりヒンヤリと体が冷たくなってしまったり、夕方急に風が冷たくなって、うっすらかいていた汗が急に冷えたりする。
どういうシチュエーションだったとしても、やはりそこには 「汗」 の問題が絡んでくるのが夏の冷えなのだ。
夏の冷えでも、「冷え」 であるからには、当然 「冷えの急処」 は有効である。体が冷えの影響を受けると、足の甲の第3・第4中足骨間が狭くなり、ときに硬結が生じる。ここを押し広げるように押さえて愉気すると、冷えによる悪影響が抜けていく。
夏の冷え = 汗の内攻にも、足湯・脚湯は効果を上げるが、その前に足の甲の冷えの急処を押さえておけば、なお効果は高い。
また、頚上と呼ばれる頚と後頭部の境目、いわゆる盆の窪と呼ばれる部分を蒸しタオルで8~10分程度温めるというのも夏の冷えには有効である。足湯・脚湯と同様に、引っ込んで内攻した汗を、再び出させる効果がある。
ともかく、引っ込んだ汗は、もう一度出させるのが一番よい。
・・・ 当然ではあるが、その汗をまた冷やして引っ込めてはいけない。
整体生活と云うものがある。
野口整体の世界に一歩、足を踏み入れれば
おおかた誰しもが、その身体観を生活化してみようと
引き込まれるように歩を進め始める、、、。
整体的な身体観を習慣として実践することで、
整体的な自律した生活を送る、と云うものである。
いわば、「自主管理な身体」と云うものを
めざしている。
生きている当人である、本人が
自分の身体の主となって
生き抜いてゆくと云うのは、
ごく、当たり前のことであるし、
逆に逃れようのないものでもある。
自分の身体が嫌であっても
自分の性格がおぞましかろうが、
逃れられないから、
人は、のたうちまわるのであるから、、。
けれど、
自分自身の身体に何が起こっているのか、
今、自分の身体の中の何が動き出し、
何が停滞して何が困難をなしているのか、
明確に自覚化している人は少ない、
いやほぼ、世の中には存在しない、、、。
整体生活の究極の目的と云うものは、
自分は生きるものか、死ぬものか、、、
どちらなのかと云うコトが、
その時、その場で感覚出来ると云うコトに尽きるとも、言える。
人は、
自分がやがて死に向かいつつあると云うコトは
何となく判っていても、
一体、いつ死ぬのであろうか、、、と云うコトは
判らないのである。
いや、これは、
理由のあることで、、
実際、33年後に自分の寿命は尽きるのだと
そんな先のプログラムを本人が判っていることの、意味は
あまりない、と言える。
身体にとっては、
いつ頃まで、無目的な消耗活動を続け、
いつから養いとなる精神活動を引き起こすアクションを
仕掛けるかとか、
どの時点で、人生を折りたたむ準備を始めるかと
云うような事を、計画するには
必須の情報であるので、
逆に、身体においてはこれはすでに自明のことなのである。
その時、その場で、
必要な時期に、あぶり出しのように
意識の水面に、ふっと
浮かび上がればよいのである。
ああ、自分の人生は
もう終わりなんだな、、、、と。
本来、それが難題であったわけではない。
死の自覚化と云うのは、生き物にとって
当たり前のことであり、
まさに粛々と執り行なわれる
最後の工程なのであるから、
何をいまさらと、、きっと
他種の生き物たちは思っていることだろう。
しかし、人は
死を不安がり、怖れる。
身体は、その時に至れば、実に潔いものだが、、
意識の総体である「自分」と云うものは
いまある自分が、何処に向かっているのか
皆目、判らないために
何十年も先のことを、不安がり
焦り、もだえている。
自主管理な身体、と云うものは
これを、ふっと気付けるよう
意識の一部を身体化しておくことである。
いや、そのすべてを
感じ取り、次にどう動くのが良いのか、
すべてが判ってしまうなどと、云うコトは
さすがに尋常ではない。
ありえないことである。
ただ、
半歩先、一歩先の
進む路がふっと判断できるのだ。
まだ大丈夫だ、
自分は生きようとしている、、、、。
とりあえず、客観的に
判断する方法はあるのだろうか、、
「自主管理な身体」の初歩の段階で
修めておくべき身体の診断法がある。
脈を観る、
お腹の弾力を観る、、
この二点がある。
両方とも
普段の自分の平常時の様相を
把握していなければならないから、
観察を余念なく行なっていないと
異常時に、それに気づけない。
脈は一息四脈が平常である、
呼吸1回に脈を4つ打つ。
体熱が上がったり、
身体が急激な変動への対応と復元を図っているとき、
脈は早まる。
一息四脈を破ることになるのだが、
四脈より多く数を打つのであるなら
あまり用心は要らない。
逆に四脈を割る、少なくて非常に遅く力弱い脈は
警戒する。
頭を非常に強く打ったり、
身体の内部に強く衝撃を受けたような場合の、
このような脈は、
本当の意味で安静が必要となるし、
救急対応の現代医療にお世話にならなければならない
時もある。
さらに
何テンポか飛んだり、打つ強さが一定でなく、
きれ切れで不安定な不整の脈は
最大の注意が必要である。
脈の乱れ、異常は
身体の羅針盤となりうる貴重な情報源なのだ。
首筋の二点と手首の一点の脈の合致で
身体のすぐ行く末を占ってみる、と云うのも
よく知られた整体的な脈による身体知である。
お腹の弾力とは、
言葉通り、「弾力」と云うもののことで
呼吸に合わせて、盛り上がり、へこみ、
また盛り上がり、する
お腹の張力のことである。
お腹の潮力、と言い表してもよい、、、。
潮が満ち、退くように
身体の波によって、その力感は移り変わる。
満ちるほうに力強い時もあれば、
退(ヒ)くほうに力を感じる時もある。
満ちるも退くも、いずれの時にも
変わらず感じられる、しなやかな水の束が
奥にうねっている。
お腹の呼吸の山なりに手を乗せ
その呼吸の拡縮についてゆくようにしていると
このうねりを、感じられる。
ためしに、吐き切った底で
やや押圧をかけてみると、
しぼみきらない、この水の束の弾力を
感じ取ることが出来る。
このしなやかな弾力があるうちは、
どんなに変動が激しかろうと
心配はない、、
にぎやかに症状が打ちあがっていようと
まったく不安はないのである、、、。
この弾力がぼやけ、
ふにゃっと力を失った時、少々
用心が必要となる。
あるいは、いつのまにか、
ぎゅっと硬く小山のように結ばれた縦長の
帯のような、押さえても、圧しても
凹まず、沈まぬ硬直の束が
生まれていたら、、
心理的なものや、緊張状態に強いられた
休まらない頭による
内臓への負荷を疑うべきであり、
いよいよ、
力弱く、弛緩して盛り上がることもなく
ヘニャっと凹みきってしまったいたなら、
回復に相当の時間と注意が必要である事を
覚悟しなければならない。
お腹と云うものは、実に面白く、、、
さまざまなコトを教えてくれる
情報ステーションなのである。
弾力のみでなく、
気的な温かさや、呼吸の部分的な入り具合からも
その偏在によって、
どこに、どのように偏って気の集注が
在るかによって、実にさまざまな体状況を
読み取れるのだ。
けれど、ある程度
観察が出来るようになると、
今度はその色合いがころころ変わるごとに
一喜一憂が、始まる。
これはあの、、これこれの症状の、、、、兆候を
示しているのではないか、、、、!?
観察法に習熟しても
気の休まる時がなくなったりする、、、。
つまるところ、
観察は、やがては判断法ではなく
確認の術とならなくてはならないのである。
観察に長けてくると、
勢いが、観えてくる、、。
勢いが、隆盛なのか衰微なのか、、
波が満ちてくるのか、退いてゆくのか、、、、
気における「勢い」が見え初めて
やっと、入り口に立てた
ともいえる。
慣れてくると、自分の身体のみでなく
他者の身体も観えてくる。
今、起こっている変動、症状は
さらに暴慢するものなのか、
いやこれで、おとなしく収束されてゆく、、
と云うことが観えはじめる、、。
部分的なステージごとの変動の
盛衰、つまりは
「生」の方向に向かっているのか
「死」の方向に退いてゆくのかが
判ってくるのである。
整体生活と云うものは、
このような身体や季節や自然や
人生や世界や、
木やら草やら、生きものの表情から、、
勢いを、感じ取れるような
生活なのである。
何となく、いつのまにか
その勢いだけがコンパスに
生きてゆく事に
なるのである、、、。
梅雨は、古い故障や溜めこんだ疲労が
浮き上がってくる季節である。
鈍りと停滞の季節のような
体感であるけれど、
この時期こそ、一皮、古い皮を脱いで
脱皮できる好機にもなる、、。
何をどう、感じ取るかにかかっており、
感じ取った分だけ、やがて変わってゆく、、、。
感覚ではなく、
それが何処に向かってゆくのか、
どう云う空想に結びつくかに、
関わっているのである、、、、。
「季よみ通信」 のサブタイトル ~白山⇔気法会往復ブログ~、この白山は、私が開設している白山治療院のことである。
都営三田線白山駅からは徒歩7分。最寄り駅は東京メトロ南北線の 「本駒込」、所在地は文京区 「向丘」、それでも名称は「白山」 治療院なのである。
この白山治療院、治療院なのに、通って来られる人の半分以上は、特に体に異常を抱えていない。つまりは健康な人々である。
皆さん始めは何か病気があったり痛い所があったりして、それを治したくて来院されたわけだが、多くの方々は治ってしまった後でも継続して操法を受けられている。そういう人達は、体を整えるということの意味を、まさに 「体」 を通して知った人である。
最近は一般書籍でも野口整体関連の本がたくさん出ている。またネットでもかなり野口整体の情報は入手できるので、知識として整体を知っている人も増えているだろう。
そしてその整体の考え方に共感、賛同して、整体を受けにいらっしゃる人も少なくない。やはり整体は体験である。本で読んだだけでは解らない部分は、実際に操法を受けてみて、体を通して感じ取るところが大きい。
しかし操法は、相性もある。私のところに来てピンとこなかった人も、もう一度他所で操法を受けて見られることをお勧めしたい。
なお、「野口整体」 でありながら、「治療院」 であることに関しては、また機会を改めてどこかで書こうと思う。
さて、一人の人の体を継続的に長く観ていると、体に勢いが出てきたところから、いきなり変動が始まるということがよくある。
体に勢いの無いうちは、じーっと大人しくしていて、勢いが高まってくると変動を起こすのである。
整体に通って調子良く過ごしていたと思ったら、突然体に変調が訪れる。これはどうしたことかとびっくりするが、決して私が下手を打ったのではないので悪しからず。むしろ予定調和とでも言うべきものである。
人間誰しも体にいろいろな矛盾を抱えながら生きている。治りきらなかった古い捻挫や打撲による硬直・萎縮、どうにも弛まない職業的な偏り疲労、成長してくる中で育ち切らなかったところ等々・・・。
しかし、それらのネガティブ要素がある限り健康にはなれないのか、整体にはなれないのかと言えば、決してそんなことはない。
生きてる人間である限り、何らかの不具合は常に抱えているものだ。それでも、それらを抱えていながら、その中でのバランス、調和というものを常にとり続けるのが人間の素晴らしいところである。
「整体」 であるか否か。それを最も端的に表すのは、腹部の弾力である。
鳩尾部分、胸骨剣状突起の指三本下の腹部第1調律点が「虚」、
腹部第1と臍との中点にある腹部第2調律点が 「冲」、
臍の指三本下、いわゆる丹田に当たる腹部第3調律点が 「実」、
であることが、整体であることを示す。
この腹部第1・第2・第3が、「虚」・ 「冲」・「実」 である状態を腹部が「順」であると言う。
そうでない状態は 「逆」 である。
体にある種の異常を抱えていても、腹部が 「順」 であれば、現時点で最も良いバランスを取っている状態である。体は、その時点での最高のパフォーマンスを発揮している状態であると言える。
つまり腹部が 「順」 なら、一応体は整っている。
体が整っているということは、その段階としては理想的な体の運転状況であり、概ね快適さと安定性を感じることができる。
しかし、いつまでも古い故障や慢性的な異常を抱え込んだまま行くのでは、整体を受けている甲斐がない。そこで、それらの潜在している異常を浮き上がらせて解消していくように仕向けるのが整体操法の役目である。
そのために、過敏に愉気をし、圧痛に働きかけ、鈍った古い異常を体自身が認識するように持って行き、体の回復欲求を引き出すのである。体の中の寝ぼけた部分が目覚めてくるように、手順を踏んでアプローチするのだ。
体力状況が良くなってきて、鈍りが取れて体が目覚めてくると、体は手の付けようがなく後回しにしていた古い異常や、今まで放置していた問題を何とかしようと働き出す。
そこで起こるのが、体の 「変動」 である。
弛緩反応。 過敏反応。 排泄反応。
だるくもなれば、眠くもなる。痛みも出れば、熱も出る。下痢もすれば、湿疹も出る。急性病のような状態になることもあり、そこで病院に行けば何某かの病名もつくかも知れない。
しかし実は、体は長年の懸案を片付ける目途がつき、もう一段高いステージでのバランスを取り直すための準備が調い、ようやくそのための作業を開始したというわけなのである。
整体操法とは、体の変革を促すために、ある意味では体に自然の変動が起きるよう起きるようにと、お膳立てしている作業だと言えなくもない。
もちろん体の病変は、全てが体が整うための 「建設のための破壊」 とは限らない。症状と共に体が悪くなり、死に向かうような場合もある。
大事なことは、体が “ 「生」の方向に向かっているのか、「死」の方向に退いてゆくのか” 、ということを見極めることである。そのためには、それこそ体の勢いというものを見る能力が求められる。悪くなっている人に向かって、「大丈夫ですよ」 などと安請け合いするわけにはいかない。
ぎっくり腰を繰り返し、どんどん腰を毀していく人もいれば、同様に繰り返しながら、どんどん腰がしっかりして立ち直っていく人もいる。
流産ですら、繰り返すごとに骨盤が整い、妊娠・出産に耐えうる体、適した体に変化していくことだってあるのだ。
どのような変動が起こっていても、その時の体の向きがどちらを向いているか、ということが重要なのである。どのような変動でも、体の向きが上向きなら、その変動を通して体はより良い方へと変わっていく。
生きている限り、いつでも体はより良くなろうと動いている。
傷だって、いくら 「傷よ、塞がるな!」 と命令しても、勝手に治っていってしまう。
そんな本来思いっきり前向きな体が、なぜか治っていかなくていつまでも病気でいる原因、その素直に治っていかなくなっている閊えを解除していくのが整体操法である。その作業さえ上手くいけば、後は体が自然と良い方向へと動いていく。
健康にも、上には上がある。体力的にも、体感的にも、更に元気な、更に快適な体というものが、可能性としていつでも用意されている。整体的には、死ぬ直前が最も健康、ということが理想だと思う。
取りあえず体が整って安定したらそれっきりかと言えば、体はそんなに無欲ではない。しばし平和に安住しているように見せかけながら、虎視眈々と次なるステップアップを狙っている。
いつでも体は、ワンランク上の健康を志向しているのである。
夏の身体は、開いている。
骨盤が開き、皮膚が弛み、
外気温の高さに合わせ、
身体の内と外の水と空気のやり取りを
しやすくしている。
この通信の
あちこち、そこここで話題としていることでもある。
人の身体と感受性の捉えかたに
体癖と云う観方がある。
野口整体の眼目のひとつだ。
体癖の世界へのツアーも
また、大変な長旅で
容易でない難所の連続なので
一片ばかりの通信では
掃き残した毛ほども
伝えられないものなので、
やがて、覚悟を決めて
旅支度にかからねばならないけれど、
今回は、案内パンフを
ちらっと開くぐらいにとどめよう。
骨盤が開く。
体癖の中に、常に骨盤が開く方向に
動きが向かう体癖がある。
文字通りの開型と言う。
開型10種体癖とは、
動きの中心が骨盤にあり、
その動きが開く方向にあるのである。
開くとは、受容すると云うことだろうか、、、
開型の中には、
見た目にもふくよかで、開いた身体を
持った人が少なからず、居る。
鷹揚な感じを受けるし、
何だか面倒見もいいので
誰でも、迎え入れてくれるように
思える。
門戸はいつも開かれているので
誰でも行き来が自由だ。、、と、感じる。
無縁のものを受け入れてくれ
中に入れば、世の一切のしがらみや関係に
かかわりなく、自由に
素のままで振る舞える、
そんな世界に思える。
開のイメージは、そんな具合で、かつて
「母性」であったり、
「和」であったり、「円」であったりした。
けれど、開の夏は
無性にささくれた心を、もたらす。
こまごましたことや、
日常の繰り返しのちまちましたことが
面倒で放り出したくなるのである。
暑くて、ムシャクシャするんじゃないですか?
と云うひとがいる。
けれど、暑かろうが
ムシャクシャする理由にはならない。
かー、暑いねぇ!!
と言って、波に乗ったり
冷たい麦酒を飲み干すことを
楽しみとする空想を
抱ける人もいるのである。
彼らは、決して
じとじとして、まとわりつく砂や
生臭く蒸せ返る潮の風だまりのような
浜を思い浮かべないし、
冷たい飲み物の一気飲みで
肩甲骨の中ほどの背骨に
きぃーんと、痛覚が走る嫌悪感など
心の片隅にも空想しない。
夏の集注は、不可能の極みだ。
どんなに快適な室内においても、
細やかな持続性を持った集注は難しい。
心身を奮い立たせて、注意の密度を亢めて
臨めば、出来なくはないが
頭に尋常でない緊張を残す事となる。
夏の密度の狭い物事に対する集注は
脳への過剰な緊張を強いるのである。
開き弛んだ骨盤では、容易に引き締められないために
肩代わりして、とりあえず
フル稼働するためで、後々の大変な疲労を残す。
一年中、ムラの無い生産性を保つため
快適な環境と設備、一定で差のない空間と云うものを
現代の工業化社会は、膨大な電力を
消費しながら、実現してきた。
そこで表面上は、負荷のかからない労働環境で
年中変わりなく、どんなに細密な神経の負担の大きい
労働でも、気苦労と機転を常に必要とされる
サービス業においても、この国では
ロングバケーションを取ることもなく、
休みなく稼働し続けてきた。
しかし、夏には合わぬ仕事があるのである。
冬には適わぬ生活と云うものがあるのだ。
骨盤の開きすぎは、
集注密度を欠き、日常の決まりごとを
きちきちと務めることが、
無性に面倒になる。
普段、片づけに精を出して
スカッとさわやかな笑顔を浮かべる人も
まったく根気が出てこない、
DMやメモも必ず、細かく割いて捨てていたのが
そのままゴミ箱に放り込みたくなる、
帰宅して、所定の位置にしまわれる鞄も
ドサンと部屋の真ん中に
無造作に投げられる、、、
これ以上ないくらい
だらしなく過ごしたくなるのである。
しかし、このような身体の要求に対し
現れる行動は、2パターンある。
豹変したかのように
要求にそってグシャグシャな生活を
するものと、
抗って、脳活動を刺激し、猛回転させて
このような、けしからん無放縦さを
徹底的に排除し、秩序を取り戻そうと
する行動である。
開型10種は、
誰かれなく迎え入れ、包み込むとき
受け入れられようとするものに、
無放縦に解放させる
不可思議な重力を強いてくる。
開型に中心点を持った
ランダムで自由自在な運動を
許容しつつ、、、、。
90年代後半を過ぎて、
2000年代に入り、
世の中に開型ではないのに
骨盤が、開き気味の
疑似開型っぽい人々が
増えてきた。
その人にしては、
妙に開いている、と云う身体である。
このような身体を
「こぶり10種」と名付けてみたが、
「こぶり10種」には、真正と
擬正の二種あり、
本来の開型でない
時代的な疑似開傾向は、
擬正こぶり10種である。
擬正こぶり10種は、
包容的でないのに
無造作で無関心であり、
妙にとがった情報力を持った
脳活動をみせ、
しかし、大勢に従順なのである。
女性が、生理前
骨盤が開きはじめる頃に
にわかに、パートナーである
異性をわずらわしく感じ、
その一挙一動に腹立たしくなるのは、
この世界に対となるべき
一種類しかいない
対象的な人間の、
合目的な行動パターンや
無駄をしない合理的な思考方向に
我慢がならなくなるからであり、
開型の身体の要求を
抑えきれなくなるためである。
どんなに好意をもっていようが、
一番身近にいて欲しいと
常に思っていても、
最高に嫌気がさしてしまうのである。
夏の午後、
人は昼寝をする。
あるいは、夕方
ほてった身体と頭を
休めるように
底なしの休息を
一時、取るのである。
夜半の眠りより、
よほど深く、よほど安らかに
眠りに落ちる、、、、。
夏には、このような
休息が適っており、
必要だ。
けだるさを残した夕刻に
ほんの一時だけ訪れる
内省の時間、、、
やっと自分の領域に戻ったような
心を取り戻したような
穏やかな時間だ。
夏には、
バーバーやマーラーの歌曲が合う。
ノックスヴィル、
バーバーの「ノックスヴィル 1915年の夏」、、、
ベタベタと額や頬に張りついた前髪が、
まだ暮れ残る日差しの中を
くぐり抜け、吹き抜けて来る風に
さわさわと乾かされる
休息の一時、、、。
この一ぷくの涼風のような音楽に吹かれながら
ぼんやりと仄暗い中に沈み込むように眠るとしよう、、。
洞のようにポカンと口を開けながら、、、、、。
季よみ通信 其の13 では、体が整っていることを端的に表すものとして、腹部の三つの 「処」 について書いた。
ちなみに野口整体では、体の状況を表す身体上のポイントのことを 「処」 という。処は体の働きの状況を示すと共に、その働きを調整できるポイントでもある。いわゆる急処であり、「調律点」 とも呼ばれる。
さて、腹部第1・第2・第3調律点であるが、それぞれ 「虚」・「冲」・「実」 であることが 「順」 である。
この 「虚」・「冲」・「実」 というのは、それぞれの処の 「気の虚実」 である。処を整圧しながら、気の虚実を読むのである。
「気の虚実」 といっても始めは掴み所がないので、まずは処を触っての弾力で観ることから始める。
「虚」 は、すぼめた掌の中心の柔らかさ、「冲」 は、掌の手首に近い手根部の弾力、「実」 は、手の甲の硬さ、あるいは力を入れた上腕の力こぶの弾力などに例えられる。
また、 「虚」 は、息を吸っている時でも吐いている時でも力が抜けて柔らかい。「冲」 は、息を吸っている時は力が集まって硬いが、吐いている時は弛んで柔らかい。「実」 は、吸っている時も吐いている時も、力が充実して弾力ある硬さがある。
腹部第1が 「逆」 のときは、胸部を操法する。
腹部第2が 「逆」 のときは、腰部と側腹の操法をする。
腹部第3が 「逆」 のときは、頭部の操法をする。
といった、それぞれの処の 「逆」 に対処する方法などもあるが、基本的には全体のバランスの中で腹部第1・第2・第3調律点がそれぞれ順となるように操法を組み立てていく。
腹部にはその他に、左季肋部に腹部第4調律点、右季肋部に腹部第5調律点がある。それぞれ、感情の閊え、排泄の閊えを示す処である。
第4は心の閊え、第5は体の閊えと言ってもいいかもしれない。
腹部の調律点は五つだが、それ以外に重要な腹部の処として、側腹と鼠径部がある。
側腹は、主に泌尿器及び体の捻れ、第3腰椎の状況を反映する。ここは非常に守備範囲の広い急処である。
泌尿器に関係して、浮腫みや梅雨時のだるさなどにも使うし、呼吸が浅い、高血圧、腰痛や悪阻などにも急処として用いられる。
鼠径部は、一応腹部の急処ではあるが、腸骨の前側・内側の操法と考えても良い。
ここ2週間ほど、鼠径部の操法を行なう際、整圧をいつもよりも深く取ることが多くなった。この鼠径部内側の急処は、整体操法制定に携わった野中豪作氏の野中操法の第1健康線に相当するが、まさに野中操法的に深く四指を差し入れて外へ向かって柔らかく整圧している。
“ 夏の身体は、開いている。骨盤が開き、皮膚が弛み・・・”、である。
夏の体は、思いっきり開いているのが本当なのだ。
夏の開いて弛んだ体になっていくために、鼠径部の操法も深く取って開き弛めることを誘導する刺激が、人によっては必要であり、今の体に適っているということだろう。
こういうことは頭で考えてそうしているのではなく、ある時期になると自然と体がそういう風に動き出すのである。
操法の途中で、ここを押さえてみたらどうか、と頭で考えても手の方が動かない、ということがある。そういうときは、頭よりも手を信頼した方が良い。体と頭が対立したら、大抵体の方が正しい。
というより整体に於いては、そうなるように、「体 (=潜在意識)」、を訓練していくのだ。
その訓練の基礎の基礎は、活元運動と合掌行気法である。
夏の操法は、若干短くなる。その方が、夏の体には合っているのだ。
風邪のときや花粉症の症状が出ているときも、操法は短めにした方が良い。間延びしてダラダラとやると、かえって症状が悪化したり経過が長引いたりする。
そもそも、夏の体は弛んでいるし、弛みやすいので、操法をする側からすると楽なのである。冬にはじっくりと感応をはかって愉気をしたり、あれこれ手順を踏んで弛めたりするものが、チョイチョイと刺激するだけで事足りたりることも多い。
それもまた、操法の時間が短くなる一つの理由ではある。
短いと言っても半分になるわけではないが、その若干短いというところに、弛みの中に一つ冗長とならない纏まりのようなものを求めるのである。
パン作りでも、過発酵させると生地がだれてしまう。夏は当然暑いので、発酵温度が高すぎたり、発酵時間が長すぎると、発酵過剰で生地がだれてしまうのだ。
夏の体に対する操法も、だれさせないように、程良い時間で纏めるのが大事なのである。
処(トコロ)、
整体における調律点。
急処は、急なる処であり、
その時期。時節に
急務なる調整点と云うことになる。
季節の肝点であり、
旬なるインターナルポイントである。
処と云うものは、
身体に無数に存在するとも言えるし
配列的であるといえなくもない、、、。
処は、位置をいうのでなく、
その表面の穴の感じや、
穴にあいてゆく感覚、
その底の、突き当たりの感覚を云うのである。
日本語に、トコロで、、、、。と云う
いままでの分節を区切り、話題をかえる言葉があるように、
ものの転換を図るポイントなのである。
整体に治療点は存在しない、、ともいえる。
ある程度、目的とするポイントを
効果的に刺激しうる「活点」と云うものは
あるが、これも広い意味で
転換を図り、変化を促す効率的なポイントなのである。
転換て、、どういうこと、、、?
と云うことになるのだろうが、
整体の身体観は、
常に変転し、動き、流れてゆくもの、
季節の移り変わるのと同じで
事象が変化し、移り変わってゆく
そういう実態として、捉えている。
身体は、ある方向性をもって
変化してゆく、、、。
その変化の流れが中途で
痞(ツカ)えてしまう、
その痞えを問題とするのである。
痞えは、ある系統的な
ラインで結ばれる反応点として
途絶えるので、
この最も急務なる焦点を見つけ出すのだ。
方向性とは、
要求の方向のことである。
身体の要求が
どちらに向いているのか、
今何に移り変らんとしているのかを、
感じ取らなければならない訳で、
その一つの目安となるのが
「体勢」なのである。
「体勢」は、
気の虚、実の転換によって
常に移り変ってゆく「傾向」の変遷である。
虚、実、とは何であるのか、、、、。
虚はウツロでもあり、退いてゆく感じでもあり、
弛んだ実態である。
実はコモった感じでもあり、押し出してくる実態でもあり、
張る、何ものかである。
虚の呼吸は、退いてゆく方向に力強さがあり、
実の呼吸は、張りや押し出し感に力がある。
これらが、虚実ともに同時に併存するのが
身体であり、心であり、
自然であり、動き、うごめく、
生きてある実態なのである。
体勢は、
虚と実の変転であり、
どちらが主としてけん引しているのか、
によって
体癖的な傾向を帯びている。
今季の焦点である急処に
ソケイ部を縦に横断するポイントが
存在する。
ソケイ部のやや下から
腸骨の突出し部分の下方までの
縦の10センチ強のラインをいう。
~詳細は、気法会HPに。
この急処は、季節の焦点であるので
やがて消える、、、。
一回限りの「処」なのである。
野口先生は、
子供たちとつかの間の休暇を過ごすさい
川辺に出かけたという、、。
川の流れに、
石を置いたり、移動させたりして
流れの方向を
さっと、変えてしまったという。
子供たちにとっては
とても新鮮で面白い遊びであったそうだ。
ひとつの置石によって
流れを一瞬にして、
転換させる、、。
このようなものとして
急処は存在し、
処は活かしうる。
身体は、四季12節を巡って
外気温や湿度、風の向きやら
空気の間合いなどに
適合するよう、
もっとも使いやすい系統の
働きを主軸にして
その変化をしのいでいる。
夏は、代謝系をフルに稼働させて
この湿度も日光も
過剰な世界を切り抜けようとする。
しかし代謝系である呼吸器も
泌尿器も主従入れ替わりながら
活動しながら、
うまく連携がとれなかったりすると
妙なところに渦が巻いたり、
流れが途絶えたヨドみが
生まれたりする。
今、足の裏を
そっと触れながら観察すると
ポっと熱を発散させているような
灯りが点いたような処が数か所ある。
ここに、しばらく手を当て
気を通していると、
下肢や腰部に反応する点が現れる。
呼応するように
温かさやビリビリした過敏痛や
ヒビく感じが
起こるのである。
この反応点が、よくよく
注意して観ると
ラインに結ばれているのである。
その時節、その体状況に
応じた途絶えと改革の可能性
双方を含んだラインを
形成するのである。
例えば、
左足裏の第1指、親指の根元から
第1ショ骨付近にかけ温点があるとする、
それから同じ左かかと内側にも
温点が生まれている、、、、
ここに、ジッと気を通すと
左ひざの下部あたりに
にわかに温かさが生まれる。
ほどなくして、
大腿部裏の側縁、
次に左腸骨の上部外縁あたりに
だるさを伴った鈍痛が起こる。
これは、泌尿器系に添われた
呼吸器系の疲労であり、
ツカエのラインである。
どれどれと、
もう一つの入り口も確かめる。
側腹である、、。
これも左、
ジッと気を通すと
腸骨上縁を尻側から前面に
温点が周ってゆく、、、、
こちらは、呼吸器系に
添われた泌尿器ライン。
ラインは、身体の状況によって変わる。
100の身体があれば、
100種のラインがある、ともいえる。
温点と呼んだポイントも
同じである。
しかし、ラインの中途、
いずれからか、枝葉のように
放射状に流れ込んでゆく
ラインより速度の異なった
流路が通っている。
これが、上からや
下からでも、いくつかの
ツカエのライン、反応点のラインから
流れ込んで、ある一ヶ処に
集約されているのである。
これが、季節の焦点と云える、
急処なのである。
ラインにあるようで、どのラインからも
遠く、そしてもっとも実態として
近い点、なのだ。
これらの行方を
虚実の分布から、眺めることも
出来る、、、。
否、そちらの方が判りやすいのもしれない。
虚実の分布は、
まさに体勢そのものの観察となる。
それは何か、と問われれば、、、
それは、またいずれの機会に
譲るとするのである、、、。
其の16 急処が急処である理由 で柳澤先生が語られているのは、まさに 「動的身体論」 である。
「処」(ところ)が特定の身体上の座標をいうのではなく、その部の変化とその感覚をいうのであるというところから説き起こし、体の波(虚実の転換)によって変化する 「体勢」 に触れつつ、身体気法的 「動的整体」 操法の世界をケーススタディ的に紹介されている。
整体で 「処」 = 「調律点」 としてまとめられているものは、体の中にあるいわゆる急処の中で、汎用性があるものをピックアップして整理されたものである。
そもそも、「急処」 というだけあって、急場に変化が起こり、またその 「急場に間に合う処」 という意味である。
急場に対処するとは、急性の異常に対処するという意味でもあるが、体というものは常に動き変化し続けているので、その千変万化に対応するための 「処」 という意味でもあるだろう。
体は常に流動的で変化し続けているものであるから、その動的身体に於ける急処というものも常に変化している。
その状況によって、処が急処となったり、急処でなくなったりすることもある。急処は、時を得て急処となり得るのである。
また、その時その人の急処となり得る場所は、必ずしもいわゆる調律点とは限らず、思わぬところに現われることもある。
整体の体の見方には、まず気ということが始めにある。形ではなく、形以前の動きに注目する。その動きをもっと突き詰めたところに、動きを作り出す気の働き、“ 気の虚、実の転換 ” というものがあるわけだ。
野口晴哉先生によってまとめられた整体は、その出発時点から動的身体論の上に成り立っているのである。
そして、その動的身体論の世界では、処は “ ものの転換を図るポイントなのである ” ということであり、“ 整体に治療点は存在しない、、ともいえる ” ということになる。
しかし、である。
実際には、こういう変動が起こったときにはここが急処、という特効穴的な急処もある。いわゆる 「救急操法」 としてまとめられている一連の急処などがそれである。
もちろん、それとても体の転換を図る一点ということではあるが、臨床ではもっと単純に症状との対応で、○○の急処というものが活用されることも決して少なくない。
呼吸はあるが意識がないときに使う上頚活点(脳活帰神法)。後頭部にあるガス中毒の急処。月経痛や睾丸痛など生殖器系の激しい痛みを止める膝裏の禁点。食中毒などのときに毒消しの急処となる胸部活点。古い打撲の影響を抜く急処・・・などなど。
これらの急処には、民間に伝承されてきた療術や鍼灸按摩などの漢方医学、また武道・武術の活法などから整体に受け継がれたものも多く、今では本家が消滅して整体だけに残るものもあるようだ。
こうした急処は、まさに先人の残した大いなる遺産ともいうべきものである。失伝を避けるべく、しっかりと次世代に引き継がなければならない。
急処の中には活点・禁点と呼ばれる処がある。そもそも活点というのは、活を入れる急処である。まさに急場に間に合う処であり、いざという時に一気に体を変化させる力を持つ。
鎖骨窩にある胸部活点は、体の状況によっては喀血を引き起こすこともあるので、現在は禁点となっている。禁点に対する操法は文字通り禁じ手であるが、実は上手く使えば大きな効果を上げることができる処でもある。
鍼灸の世界では、特効穴というものがある。特定の症状に顕著な効果が認められる経穴(ツボ)で、作用機序は解明されていないが、ともかくそこさえ使えば症状が改善するという便利な経穴である。
数ある特効穴の中でも、痔や脱肛に効く頭のてっぺんの百会(ひゃくえ)や、食中毒に卓効がある裏内庭(うらないてい)は、整体操法にも急処として取り入れられている。
食中毒に効く裏内庭の位置は、足の第2指の裏に墨を付け、その指を曲げて墨の写ったところだ。鍼灸では、主にお灸を使う。
食中毒のときには、この部位が硬くなり感覚も鈍くなる。お灸を直接据えても、鈍くて熱さを感じない。そこで、熱さを感じるようになるまで繰り返しお灸を据え続けるのだ。
岩波新書の「鍼灸の挑戦」(松田博公著)という本に、この裏内庭が本当に効くのかどうか、自分の体を使って実験をした鍼灸学生の話が載っている。
その強者は、鍼灸学校に通っていた頃、腐敗した焼きそばを自らの意志で食べて食中毒を起こし、裏内庭にお灸をして本当に治るかどうか実験をした。
ひどい下痢と腹痛に苦しみながらも級友に裏内庭に立て続けにお灸を据えてもらい、その数100壮に及んだとき、その部に熱さを感じ、同時に腹部の激痛がスーッと消えた。そして、お腹がポカポカと温まり、いい気分になり空腹を覚えたという。
裏内庭は、食中毒のときに触ってみるとたいてい硬く鈍くなっている。お灸でなくとも、押さえて愉気するだけでも、スーッと気分が良くなってくる。
なお、吐ければ楽になるのに吐くことができないときは、頭を腰より低くして腰部活点(第2腰椎三側)を押さえれば簡単に吐くことができる。
もちろんこれは、体に吐きたい要求があるのに何らかの事情で吐けない場合に有効であるということ。必要もないのに吐こうとしても、この方法は効力を発揮しない。
まさに急処は時を得て急処となり得るのだが、また急処を急処として活かすための技術というものも必要である。
急処とは、体を変える一点であり、ときには生死を分ける一点となることもある。
いざという時は無いに越したことはないが、使わないでよいことを願いつつ、技術だけは日々修練に励まなければならない。
8月に入り、焼かれるような暑さが続く、、、
頭もすでに、燃え上がっている、、、。
そこで、今月としばらくは
大幅に更新間隔を空け、
また、内容も雑感、予断の
気ままなものにすることにします。
7月の末、
久しぶりに指田さんの治療院を訪れ、
お顔を拝見して、参りました。
数時間を、夢中のうちに語り明かし、
今後の季よみの方向性など、
お互いのものとしたのですが、、、
暗黙の裡に
まず決定されたのは、
このホリデイ、、
これで、よいのだ!!
なのであります。
という訳で、
次は、まず数日後に当方サイドでアップ予定の
「其の18 隔てるものとしては近い!」
を、期待ぜずお待ちを、、、。
何日か前に、ある報道が
TVニュースで流された。
私は、ネットの動画ニュースで見たのだが、、
マッサージや整体による骨折被害、、注意を呼びかけ、、。
と云うものである。
国民生活センターが、
発表したところによると、
ここ5年間で、マッサージや整体、カイロプラクティックの施術による
被害相談が825件も寄せられており、
そのうち4割は整体、カイロなどの国家資格のいらない施術法に
よるもので、
骨折や神経損傷などの重度の被害ケースも
あるという、、、。
ネット記事では、その下欄に
コメントが数件寄せられており、
その多くは医療関係者によるものである。
リハビリ関係の療法士から、栄養士、医師。。?などの
面々が、それこそ鬼の首でも取ったように
批判的なコメントを寄せている。
彼らの主張は、
国家資格のないものは
本来、人の体に触ってはならない!のだ
と云うもので、、、
それみたことか!!と、
鼻息が荒い、、。
この10年で、
○○整体の看板を掲げる
治療院は急増した。
多くは、バブル崩壊から始まり、
世界同時不況の金融崩壊に至った
資本社会の危機が放った
国内景気への打撃に
打ち飛ばされてしまった人々が
なけなしの虎の子を
民間資格取得で、開業!!の
看板に吸い寄せられ、
脂汗のひねりのごとくに、
数か月か1年くらいで
多額の出資金を、吐き出さされ、開業した
人たちである。
「整体」は、一時
資格研修ビジネスに、
荒らされ放題であったのだ。
不思議なもので
ちょうど、同じ頃、、
こつこつと修養し、
手技徒手法の道を目指す人たちも
独立している。
誰が掛け声をあげたでもないのに
同時期に、
謎めいて集中したのである。
そのお蔭か
「整体」と云う業種は
目を見張るほどの
市民権を得た。
腰痛や肩こり、身体のリフレッシュに、と
人々の選択肢にのぼり、
日常的な何でもない会話にも
「整体」の二文字が
するっと顔を出してくるようになっていた。
けれど、その中身は
危ういものである。
身体(カラダ)と云うものは、
半年や1年で簡単に触れられるものでは
ないのである。
掴み方、挙げ方、着手の角度、
圧の度合いから、
お互いの体の向き合いの方向まで
すべてが深い意味を持って
お互いの身体に影響を及ぼす
気の抜けないコミュニケーションなのである。
身体のコミュニケーションは、
しかしどんなに、簡便な技法にしろ
人々を真摯にさせ、
身体そのものの奥深くに
心を振り向かせようとする。
そのため、
開店して閑古鳥であっても
何の得にも儲けにもならなくても
技術を磨こうとし、
具合の悪い人に奉仕しようとする
人たちが生まれる。
身体とは、
不思議なくらい求道に
誘い込む森なのである。
森には、分け入ろうとも
触れようともしない
一群の身体「スペシャリスト」の
人たちもいる。
入り方はそれぞれ、一ヵ所しか知らないし
だいいち、木々や鬱蒼とした草むらが
邪魔なので、、
切り倒し、引っぺがさないと
何も知りうるものでないと
考える一群の人々である、、。
そこで、とりあえず、
小型ジャイロ式探査機を
森の無線操作の届く範囲で
データ収集させ、
届いたデータを
PCのモニターで眺めやる
人たちである。
彼らも、経験と知識を積み重ねれば
身体コミュニケーションの
感覚と云うものを知らず知らずに
身につけ、
患者の顔色や様子からだけでも
ある程度、状態を掴めるようになる。
しかし、
回復期と云うものを
どう捉え、活かすべきかを
知恵として、知っている
医療技術者も有資格施術者も
少ない、、、。
否、、!!
身体全体を、見通せ
その深い森の深部も知る
技術がなければ、
まったくの当て推量となってしまう、、
そして、
それを体系化出来た手法も
限られるのである。
身体とは、
その深い森に小石を
ひとつ投げ入れれば、
必ずスポイっと
何らかの返事を
投げ返してくるものである。
深くても、浅くても、、、
実に興味深い答えを
それぞれに、
投げ返してくる
無尽蔵な、茫とした
虚なる森なのだ。
身体は
世界を隔てる森でありながら
すぐ真後ろで
お互いに、まったく
別の方法で検地しているほど、
ごく近い存在である伽藍でもある。
他者と自分を隔て、
自分と世界を隔てながら、
常に開いたコミュニケーションを
取り合う、
ごくごく近しい境界なのには
違いないのだ、、、、。
「整体10年」、という。
整体操法を学んで、その技術がそれなりのものになるのに10年かかる、ということである。
もちろん、漫然と10年やっていれば、いつの間にかできるようになるというわけはない。日々精進し、ときには寝食も忘れ、憑かれたように、身を削るようにして打ち込んで、はじめてその領域にたどり着くのである。
しかし10年精進して、それで一人前かというと、これまたそうではない。
10年前後で、ようやく
“ 掴み方、挙げ方、着手の角度、圧の度合いから、お互いの体の向き合いの方向まで
すべてが深い意味を持ってお互いの身体に影響を及ぼす ”
ことが体を通して理解され、意識しなくても自然と体が “ 気の抜けないコミュニケーション ” の流れを断ち切らずに動くようになってくる、というところだ。
もちろん整体は一生をかけて追求していくものであるが、十分に経験を積んで自分の操法を創り上げていくには、そこからまた更に10年はかかるであろう。
しかし、10年、20年と懸命に努力すれば誰でもできるようになるかといえば、そうともいえない。
ピアノは習えば誰でも弾けるようになる。しかし、演奏者として立つとすれば、それはまた違ったレベルの難しさがある。ピアノ講師であっても、誰もがなれるわけではない。
それは、どの世界でも同じである。もちろん、整体も例外ではない。自分がモノになるかどうかは、誰も保証してくれないし、誰にも保証できない。ただ、そうなることを念じてやるのみなのである。確証は、いつでも自分の中だけにしかないのだ。
整体操法の中でも、頚椎の操法は、技術的に難しい部類に入る。上頚・中頚・下頚の操法などは比較的初期から学ぶが、本格的な頚椎の操法は、始めて2年や3年では教えることは難しい。
頚椎というのは、胸椎や腰椎と比べて、段違いにデリケートである。無理な力を加えると、毀しかねない。そして頸椎部の損傷は、重大な障害を引き起こす可能性が高い。
頚は、生命に直結している。体を触るときは本来どこでもそうであるべきだが、特に頚を触るときは、「命に直接手を触れている」 つもりでいなければならない。
そーっと、こわごわ触ればいいかといえば、それでは相手が安心できない。細心の注意を払いつつも、あたかも自分の体を触っているような自由で自然な触れ方でなければならない。
しかし、いかにそのように触ろうと思っても、訓練されていない手では、そのように働いてはくれない。愉気を以て触る、愉気で押さえる、ということが分からないうちは、怖くて頚の操法などは教えられないのだ。
整体操法における頚部の操法は、非常に多彩である。上頚・中頚・下頚は三側の操法だが、もちろん頚椎にも一側、二側の操法もある。
自律神経系の調整に用いる胸鎖乳突筋の操法や、それ以外の側頚部、前頚部の操法もあるし、仰臥位で腹部と後頚部を同時に操作して腹部で頚を正す操法は、晩年の野口晴哉先生が多用されていたと伝え聞いている。
また私はほとんど用いないが、一昔前のカイロプラクティック風に頚をねじって瞬間的に加圧する系統の操法も何種類かある。
仰臥位での前頚部の操法などは、まさに愉気で押さえるということができないと、受け手に不快な思いをさせるだけでなく、苦痛を与えることにもなる。
しかし、熟達すれば、頚の異常に対処できる範囲が格段に拡がる。
頚の観察には、仰臥位と坐位がある。仰臥では頚の力が抜けている状態で頚椎の状況を観て、坐位では頭を支え姿勢を保持している状態、つまり頚に自然な緊張がある状態を観察する。
場合によっては、頚椎またはその椎側に手を触れて、相手に頚を動かしてもらって調べることもある。
頚椎の異常を正すときには、ほとんど坐位でおこなう。頚は仰臥で弛緩している状態よりも、ある程度の緊張がある状態の方が、かえって治しやすい。
二側操法などで頚椎を正すときは、胸椎部、腰椎部の場合のように相手の体が動かない状態で操法するのでは上手くいかない。
受け手に坐位になってもらい、二側なら二側を押さえつつ相手の腰を浮かせ、重心を崩した状態で整圧するのである。どっかと居座られて微動だにしない状態では調整は難しい。
ただ押さえて愉気するだけなら相手を崩さなくてもいいが、相手の重心を浮かせて、こちらが相手の重心を制御するような状況を作り出さないと本格的な頚の操法は効果が上がらない。相手を 「虚」 にし、自分は 「実」 で操法するのである。
基本としては前方へ小さく、またときに大きく受け手の腰が浮くように崩すのだが、上頚操法や上部・中部頚椎の調整などでは、正座した受け手のお尻が本当に持ち上がることもある。しかし、これも力で浮かせようとしても浮くものではない。相手の腰が思わずフッと浮いてしまうような押さえ方をするのである。
力は要らない。重要なのは、呼吸である。ある呼吸というか、「間」 というものがあって、その 「間」 をつかんでしまえば、容易に相手を崩すことができるようになる。
まずは自分の占める位置が重要である。相手に対して近すぎても遠すぎてもいけない。ここ、という絶妙な位置関係、間合いがある。
そして、もちろん着手・手の当て方も大事であるし、圧の方向・整圧の角度などもあるが、なにより相手の重心を感得できなければ難しい。相手の重心を感知するには、まずは自分の重心を下腹にしっかり据えることである。
頚椎は胸椎以下の椎骨のようにしっかりとしていないので、その操作はデリケートにならざるを得ない。そうかといって、そーっと恐る恐る触ったのでは効果は上がらない。
そこで、指で押して正すのではなく、型でもって正すということが求められるのである。
操法する側からすると、相手の重心を奪って制御している状態だが、相手にとっては、体勢が崩れながらも微妙な一点で支えてもらっていることで、ある特殊な 「快」 をともなう安心感がある。
そして体勢は崩れているといっても、支えられている一点を手掛かりに、受け手も微妙な重心のバランスを自らの感覚で取っているのである。そして崩れかけたバランスを無意識に取り直そうとする受け手の動きが、頚椎を正すために実は大きな役割を担っているのだ。
受け手のその絶妙なバランス感覚には、ある種の快感がある。ちょっと大げさにいえば、サーフィンで波に乗れたときのような気持ちよさに近い。
曰く言い難し、というところだが、操法する側が一方的に指で押して治すということではなく、受け手と一体になってお互い協調してある一つの型を取る、といった方が近いかもしれない。
二側の場合、基本は両側を母指で押さえるが、場合によっては片方の手で頬や額などに支えを取って、片側のみで整圧することもある。このときも、もちろん相手の重心を崩して型を取る。
頚は片側だけ押さえるとおかしくしやすいが、逆手との対応を上手く取って型で押さえれば、スパッと効果が上がることも多い。
当然、片側のみの整圧の方が、技術としての難易度は高くなる。
こうした頚椎部の操法など、難易度の高い操法を一つ一つ体に覚えさせていって自由に使いこなせるようになるには、やはり10年前後の年月は必要なのである。
そして、多くの技術を使いこなせるようになったら、今度はそれらをなるべく使わないで治せるように操法を工夫していく。観察が深まり、技術が高まるほど、操法はシンプルになっていくのである。
しかし、一見単純に見えるその操法は、初心者のそれにとは全く別物である。例え使わなくとも、自分のものとして磨き上げた多くの技術が、操法の見えない力となって発揮されるのである。
今回の頚部操法の補足を 「白山治療院通信」 にアップしているので、そちらの方もどうぞ。
→ 白山治療院通信
長い休暇を利用して
芭蕉のように古道の山道を
歩いてきた。
芭蕉は、10時間で30キロあまりの道のりを
踏破する健脚であったという、、。
決して平たんでない、山坂を
黙々と、、、
否、ポツリぽつり
時として軽口や箴言を
呟きながら、進んだのだろう、、。
私も、
今にして思えば、
何でもないと鷹揚に構えていた節があった、、
日頃の自分の身体の動きから
妙な自信を持っていたのだ、、、。
20分も歩くうち、
おかしいなと思い始めた、、、。
平たんな道ではない、、
石が敷かれてあったり、
数日前の大雨に、土が流れていたりする
デコボコな道が、
上ったり下ったりであるので、
やおら足元に慎重になり、
カツカツと頭の上で燃えさかる
日の照りつけに、体力を
かなり費やしながらの行程なので
下肢の筋肉や腰の運動の
かなり限定された動きになっていたのかもしれない、、、、。
1時間も行かぬうちに
右膝に違和感を覚え始めた、、。
経年の蓄積疲労が気づかぬ間に
身体の裏側にため込まれていたのだろうと
フと、思った。
これは、なかなか厳しい道行に
なりそうだなと、珍しく
不安がよぎる、、。
数十分も行かぬうち、
急速な悪化で、ほぼ体重が
掛けれないほど、
激しい痛みが走る。
ずいぶん酷使してきたんだなと思う。
仕事がら、ひざを折り曲げて使う
正座姿勢が多い、
毎日、この姿勢を取り続け、
正座を起点に、所作の動線が
描かれる生活だ。
膝の弾力は、保っているし
大丈夫だと、妙な自負が
いっぺんに覆される、、。。
道は大きく下り道となり、
この勾配のある坂道を進むのは
かなりの困難を呈しはじめる、、
もはや、
趣きのある森の中の古道を
フィトンチッドに抱かれながら
ゆったり、葉のさざめきや
鳥の声や蝉しぐれに身心をゆだねて、、、、
などと云う、当初の
目論見は一挙に崩壊し、
悲鳴と苦行の
道行となってしまったのだ、、、。
時々、道は平たんな舗装道路を
横切ったり、少し進行したりする、、
この時が、痛苦によじれる下肢の
わずかな休息の時である、、。
道が平たんであれば、
痛みはずいぶんと遠のく、
このような小休止や
途中何度か立ち止まり、立ち止まりして
何とか、
「騙しだまし」の行脚が続く、、、、。
途中の舗装道は、
車道でもあり、バスが運行している。
残りの行程を、何度
バスに乗って、近回りしようかと云う、
誘惑に駆られたかしれない、、、
我慢を重ねて、3時間を経ようと云う辺りで
やっと、中継点である宿場近くの
里道らしい道なりになってきた、、。
行く先の目途、、
目標へのわずかな手がかり、、
手が届く範囲、と云う確信めいたもの、、
このような道しるべが
萎えて萎みきった身心に
活力と希望を与えるものである、、。
けれど、、、
これほどの痛みを
身体は、どのようなメカニズムと
方法論で、仕舞いこんでいたのだろう、、、?
表面化すれば、明らかに
使い物にならない膝なのである、、
そのデッドストック化されたジャンク部位が
ごく限定化された運動帯域で、
いまや表面化してしまった、、、
ほのかな先行きの希望が
灯ったすぐ後に、また土面の流れた
下り坂が始まった、、、
ここで、そろそろと足を運びながら
何とか前に進もうとしていると、
フと、ある感覚がにわかに、、
突然に閃くように身体に落ちてきた!
思わず、腰を開き
がに股の大股歩きで、
街道をワラワラーと、闊歩するかのように
坂道を下りだす。
大腿部の大きな外転と
腰椎中央の捻れを合わせた
大きな身体の運用である、、。
不思議と身体に快適な感覚が
生まれている、
快活で躍動感が出て、
さかさかと、足を運んで行ける、、、
なんといっても、
驚くべきことだが、
膝の痛みがまったく消失してしまっている、、!!
人が二足歩行によって得た
運動領域の拡大は、
他の生き物からすれば、
驚異の発展だったに違いない、、、。
型フォームによる体捌き(サバキ)から
生み出される自在な動き、
動きの要求から開拓される道具、
身体の延長としての道具は
やがて思念の生活形態化へと
発展してゆく、、、。
すべて、動きの自由さが
生み出した進化なのであった。
動きの開拓、
能力の最大限の開花!!
空想の中では
あらゆる関節は270度の
全方位の動作が可能なのである、、、
私たちの頭の暴走は
これを360度にまで開放して
現在の社会形態を作り出そうと
してきた、、。
けれど、
私たちも身体も、
そしてこの社会も
全方位の動きなど
出来はしないのである。
空想も、
全方位の自由さは
持ち得ていないのである、、。
あらゆる動きは
限定的にしか使われない。
思念の偏りは
限定的にイメージを
生み出すのである、、。
最も理想的な
空想上の筋肉の配分と関節の
自由さで、
動作できる人は
世界に存在しないのである。
限定的にしか使われない可動域は
個人の先天的な能力の偏りや
感受性の偏向によるもの
だけれど、、、
可動域が使われずに狭まるごとに
持っている能力さえも
使わずに済まそうという
狭窄化が進む、、。
使わなければ、能力も
可能性も萎んでゆく、、、
廃動萎縮、、
廃用性萎縮と云う
身体の効率化が
進められてしまうのである。
人の人生も、身体も
可動域の狭窄化によって
かなり、規定されてしまっているのだ。
私たちは、かなりの部分で
持てる能力の数十分の一くらいしか
使っていない、、、。
狭窄化によって、
限定的な一部の部分や方向の
使用頻度が増すばかりで、
やがて、過度な負荷が
機能疲労を起こし、
毀(コワ)れてゆく、、、。
この時にいたって、
やっと身体は使っていない機能や部位で
これを補おうとする、、
きわめて粛々と、、
当人の気づかぬうちに、、、。
可動域の狭窄とは、
環境における
人格や性質の規定についても
同じ構造を持っているといえる。
親や自分自身の
先入主や決めつけ、
認められ方によって
心も体もその方向性を
規定されてしまうのだ、、、
私は、こんな人間だ、とか
この子はこんなんなんでね、、、とか
言われながら、
限定された動きしかできない、
欲求しなくなれば、
使えるのに使わず、
そのまま萎縮して、
可動出来る幅は、どんどん狭まってゆく。
私たちの人生は
可動域の狭窄によって
知らぬ間に
自らの人生を規定して
狭い道を、狭い視野で
進むしかなくなっているのである。
私たちの持っている可能性、
十分稼働するはずの能力は
眠っているのだろうか、、?
否!!
身体は、可動性を狭めたその
部位ではなく、全く別の、、
その根っこのところと云うか
対応する離れた場処に
いつでも復元可能な
補完的な動作を受け持つ
修復体系を作って、
常に待機してあるのである。
私たちは、痛苦と云うものから
逃れるため、
いったん何処かに痛みを感じると
なるたけその部分を使わないよう、
動作を狭め、小さく使う傾向がある、
逆側の手足を用いたりして
庇(カバ)うのである。
これらは、
道理を得た方法ではあるが、
実は、その部分から遠い処に
それを補い、
動作を復元する
大きな動きによる修復的可動域が
必ずセットとして
準備されているのである。
かなり頭を柔らかくして
俯瞰(フカン)しなければ
見つからない、
オッと、びっくりするような
処に隠れているのである、、
けれど、
それは慣れれば
「見える」ものでもあるのだ、、、。
身体は、毀れたもの、
受容しきれない痛みを
ストック化し、
可動域を狭めながら、
生命の運用を続ける、、
可動域を限定化するのは
効率的で省力化でもあるし、
何事かの非常時には、
余力を有しておける、と云う
利点もある。
けれど、逆に
廃動萎縮を招き、
狭窄化して、自らの首を絞めるという
二律背反の
選択でもあるのだ。
全生とは、かくも
難しい道行きを目標としているのである、、、、。
嘘のように圧痛が消し飛んで
しまった膝を、難なく使って
すでに宿場らしい雰囲気の道なりを
何事もなかったかのように、
歩き続け、、
その日の行程を無事
終える、、。
理屈でわかっている
つもりでも、これだけの激変を
体験するのは、
生きてあることの不思議さを
まじまじと実感できた、と云う
言い難い「余韻」を
心に残した、、。
その翌日からは、
今度は前日の筋肉痛に悩まされつつ、
永遠と続く感のある古道を
歩き続けたのであるが、、
そういえば、
巨岩の重なる風光明媚な
名所に足を延ばしたとき、
ほぼ全身の動作を使わない限り
進めない岩場で、
これまた筋肉痛がまったく
消し飛んで、
全身の筋肉が躍動したことも
実に爽快な体験であった、、、。
其の20 では、柳澤先生が旅先で突然表面化した膝の激痛を抱えながらも、身体運動の予備系システムを発動させて無事古道を踏破する様子が書かれている。
全体を通して非常に興味深い内容であると共に、その描写からオラオラ歩きのまま猛スピードで山道を下っていく先生の姿が目に浮かんで何とも愉しい気分にさせられた。
柳澤先生が痛む膝を運動系統の転換で見事にリカバリーできたのは、当たり前のことでも偶然起こったことでもない。
先生が 「体の捌き」 というものに長けていて、自らの身体運動を意識化できているからこそ実現したのであろう。
体の動きが洗練されていない人が、自由に動いてよいといわれても、新しくその場に適した効率的な動きを即座に生み出せるものではない。常日頃から身になじんだ習慣的な動き以外の、新しい運動システムが突然スイッチオンになるということは、実は滅多に起こらないことなのである。
整体には、「活元運動」 というものがある。これは、いわゆる体操とは違って、体の中の無意識の運動系を訓練していくものである。
体の無意識の運動系は、その運動神経の系統から錐体外路系運動ともいわれる。
錐体外路系の運動は、一般にイメージされる身体運動だけではなく、欠伸やクシャミ、まばたきなども含まれる。体の健康を保っているのは、主に錐体外路系の無意識運動なのである。
たとえば、頚や肩がこってくると誰もが頚を動かしたり肩をトントンとたたいたりする。また、疲れて体が固まってくると自然と伸びをする。こういうことは意識的にではなく、体が必要を感じて回復のために自動的に行なうものである。
活元運動は、この自動調整機能をフル活動させて体の不調を改善すると共に、その自動調整機能自体を錆び付かせず必要なときにしっかりと働くように訓練していくものなのだ。
ある種の準備運動、誘導法をおこない、あとは体の力を抜いてポカーンとしていると、体が自然に動き出す。それは、体の疲労を抜くための動きだったり、硬直して動かない部位を活性化させようとする動きだったりする。
野口先生の著書に、スキーで脚を折った人が、その場でスキー板を外して活元運動をしているうちに、骨が自然と正しい位置に整復されてしまったという話が出てくる。
活元運動をしていると、こういうちょっと普通では考えられないような体の凄まじいまでの回復力を体験することが多い。
柳澤先生の古道の話ではないが、私も山登りの帰路に疲労でどうにも体が動かなくなったことがあった。そのときに、そうか活元をやればいいのかと思いつき、活元運動をするつもりで歩き出してみると、不思議なことにあれほど疲労困憊していた体が再び息を吹き返して楽々下山することができた。
頭はゆらゆら、体はぐでんぐでん、手も足もぶらんぶらん。しかも結構なスピードで下っていく。端から見たら全く危なっかしくて仕方がなかっただろう。しかし、本人は正に予備電源が入って別系統のシステムが立ち上がったかのように、疲れも吹き飛んで意気揚々と歩みを進めていたのである。
しかも、木の根っこにも不安定な足場にも、まるで事前に知っていたかのように見事に体が対応する。なかなか面白い体験であった。
柳澤先生は、体の動きを高度に 「術」 化されている。整体操法をおこなっているときだけでなく、立ち居振る舞い、日常の身体の使い方までが、「術」 の領域にまで高められている。
これは、やはり整体操法の型における体の捌きが、長い年月の間に恒常化したものであろう。操法をおこなう上で求められる身の捌きが、行住坐臥、生活のあらゆる場面で適用されているのだ。
この身体運動の術化は、操法の修練の過程で進んだ 「身体運動の意識化」 と、活元運動で磨き上げられた 「無意識的運動の高度運用」 によるものであろう。
言葉だけを並べると、一見二律背反的とも思えるが、どの分野でも一流といわれる人々は、この意識と無意識の運動系を矛盾なく高度に融合させて身体を使いこなしているのである。
私も整体操法を習い始めた頃には、なんでこんな窮屈な格好で押さえるのか、と思ったことがある。もっと自由に動いてよいのなら、もっと上手くできるのにと思った。
しかし今となっては、型による整圧とはなんと効率のいい押さえ方なのか、と驚嘆するばかりである。無駄な力も要らず、効率よく成果を上げ、行なう側の指も体も壊さない。それどころか、操法する側の体を整える効果もある。
整体を仕事にするものといえど、生身の人間である限り体調の波というものはある。また、ときには発熱やら腹痛やらギックリ腰やら、人の体を観ている場合ではないような状況に陥ることもある。
そんなときでも、しれっと知らん顔して(やせ我慢して?)操法ができるのは、型によって体を操作することが身についているからである。
そして、操法をしているうちに不調が回復することがとても多い。正しい体の使い方で動いているうちに、心身の歪みが正されるのであろう。
また、同じ処を何度でも同じように押さえることができるのも型のおかげである。
たとえば第2腰椎の二側を押さえてみて、そこに硬結があったとする。これは下肢と関係があると推測して、まず下肢の操法をおこない、再び第2腰椎を押さえてみる。
このとき、始めに押さえたときと全く同じ場所を、同じ角度、同じ速度、同じ圧で押さえられなければ、下肢の操法の前と後で硬結がどう変化したかを正確に比べることができない。押さえられた相手が、さっきと全く同じところを同じように押さえられたと感じなければダメなのである。
何のガイドもなく、感覚だけを頼りにこれを行なうのは実は相当難しい。しかし、型を以て押さえれば、さほどの苦労もなく実現することができる。
どこかを整圧する場合、手指で行なうことがほとんどであるが、指の力で押さえるのではない。指は処の状況、変化を読むことが役割である。指に力を入れてしまっては、処の変化を読むことができない。整体の型では、指の力を用いずに指を使うことを要求している。
野口晴哉著、「整体操法読本巻一」 には、次のように記されている。
「 『型』 は指を鋭敏に使って処を読み乍ら操法する為に、体の力学的合理な用い方によって指に力を入れないで、指の力で指を使わない為組織した」 (原文は旧仮名遣い)
指は指の力で使わず、腕も腕の力で使わない。
そのために、脇を締めて脇を張る。
それには腰腹に力が集まっていないとならない。
丹田で動く、丹田から動く、と柳澤先生はよく言われる。
上虚下実で、体の中心から動くということだ。
東洋の身体技術は、枝葉の細かいところばかりにフォーカスすると本質を見失いやすい。
体を一つに使う。
そのために丹田というツールができたともいえる。
操法においての身捌きを日常の動作のように自然で楽々とできるようになるには、やはり日常の身捌きをも整体操法の術理にそったものにしていかなければならないだろう。
目指すところは、操法の身体を常の身体に、常の身体を操法の身体に・・・。
つまりは、身体運動の術化である。
さて、見事に身体運動の術化を体現されている柳澤先生に、型で動くこと、体の意識化、日常動作の術化などについて語って頂きたいが、いかがだろうか・・・。
通信の其の21で、
指田さんから、バトンを渡された格好であるが、
私に何か特別な回答があるわけでもない、。
けれど、身体運動の術化においては
意識と無意識の配分というか、
無意識の連絡が、肝心要の“カギ”とは、なるのだ、、、。
一般には、意識と無意識の
関係は、主と従と考えられている。
意識が主体であり、、
無意識は、意識につき従いながら
これを補完し、意識の目的を貫徹する、
あるいは、
意識の澱オリでもある、心的なストレス群の
貯蔵庫として、まるで吹き溜まりのような
悪露の沈む漆黒の瓶カメのようなものとして
あると、捉えられている、、。
無意識の本当の役割が、何であるのか
判らなくても、無意識の巧妙な
手配は、微に入り細に渡っている。
私たちが、ひとつの型や決まり事を
覚えてゆく過程と云うものは
どのような順路をたどるのだろう、
たまたま、伺った
新聞配達員の方と、ギター教室の先生の
人がものを覚える道筋のお話しが全く同じ
言葉であったのに驚いたことがある、、。
配達経路の道順も、
複雑なコード進行理論も
最初こそ、
夜道を、消えかかりそうな提灯一個で
暗黒の中を及び腰で進むようなもので、、、
複雑怪奇な世界に紛れ込んだような、
不安と途方の暮れようで、
先のことなど、考えもおぼつかず
目前のことしか視野に入らない訳なのであるが、、
、
けれどある時、、、
何度も何度も同じ道、同じ練習を繰り返しながら
なお暗中のなかであったのが、
まさにある日、、
全く突然に、視界が開け、
すぽああ、と俄かに頭の中に順路と道筋が
最初から最後まで、いっぺんに
イメージでつながり、描けるように
なるのだと、いうのである。
確かに、仕事と云うものを
覚えると云うのは、
ある時から、次に進む手順が
ぱああ、とイメージで描けるようになることである、
これは、脳内の神経細胞間でシナプスが
盛んに道筋を探しながら、
ある時、一瞬の連続発火でニューロン間を
電気信号が疾走したのであろうが、
意識からの断続的な、刺激に
無意識が実に丹念に連絡路を準備した
結果といえるのである。
何らかの形で
誰もが、一度は経験していることなのである。
このような、閃きであるとか
判った!!と云う瞬間であるとか、、
何か降りてきたー!とか、
これら一切が、意識~「自分」にとっては
圧倒的な覚醒感覚を持つので、
何か特別な回路が開けてしまい、
すばらしい未来が待っているかのような
感覚に惑うのであるが、、、
私たちの日常動作と云うものは、
7~8割は無意運動である。
一挙手一投足を細かく、意識しながら
動いているわけではない。
ある動作に伴う意識的な形式は、
何度も繰り返すことによって
習慣的な無意動作におりてゆく、。
何も、いちいち意識化しなくても
目的だけ明確であれば、
知らぬ間に、身体が動いていて
ちゃんと、正確に作業しているのである。
意識的な形式が、
無意識化されたと云うことであるが、
このような身体にくっ付いた無意識の動作と云うものは
状況が変わって、新しい形式になっても
つい、知らぬうちにやってしまっていて、
習慣的な無意動作の正確さと危険を
ハタと知るわけである。
指田さんが指摘されているように、
活元運動などによる無意運動系の訓練を積むことで、
この無意識化の流れと
意識的変換が実にスムーズに
必要に応じて、サッと表現されるように
なる訳である。
これらのことは、
逆に言えば、無意動作化されない
型や形式と云うものは、
まさに、使い物にならない、、
と云うことなのであり、
過剰すぎる意識の反復は
無意識化をさまたげるモノにもなる。
意識と云うものは、
明滅する瞬間の「目覚め」に過ぎない、ともいえる。
一瞬いっしゅん消えて無くなるものの
残像をつないで、「自分」がつながってあるように
思っているだけなのである。
ちょうど、TVの映像がそうであるように
一コマ一コマの画像が、明滅してコマ送りされると
目の中の残像が、あたかも繋がって動いているかのように
錯覚させるのである。
「私」と云うものは、さように不確かなものなのだ。
それを、つなぎとめ、一連の連続した「私」に
錯覚させるものが、無意識であり
身体に密接に連携、反応する無意運動系と
云うものなのである。
このため、意識と無意識の双方の関係は
そこに微妙な按配が、必要であり、
それが重要なミソとなるのである。
過剰な意識の反復は、
無意識化に降り立つのを妨げて
脳内の関連部位への連絡を
途絶えさせてしまう。
形式や「型」と云うものを覚えるには
ちょこちょこ、チコチョコと無意識の連絡通路に
引き渡しながら、次々忘れてゆくつもりでないと
「型」にならないのである。
あらゆる記憶は、動作と五官の感覚を同時に伴うことで
確実に仕舞いこまれてゆくものなのだ。
この意識と無意識が往き交いする
微妙な按配を可能にするには、
繰り返しになるけれど、
無意運動系の鍛錬を経なければ、
なかなかスイっとはいかない、、。
最も近道で、感覚的である
活元運動をよく訓練されることがまず、第1歩である。
と、いえるのである。
さて、あらゆる動作を丹田で動く、とは
どのようなことかと、云うことであるけれど、、、
丹田で動くとは、足裏で動くということになる。
全ての動作において、
足裏を捌くことで、動きを図ってゆくのである。
たとえば、指先である部位を押圧するにしても、
足裏を決めて、押すと云うことをする、、
足裏に意識を持ってゆくということでもあるが、
足裏で捌くとは、、?と問われても
上手く表現しがたい、
かつて、明治以前の日本人が
普通に動作していたすり足のような
足捌きでもあるともいえ、
足裏の運用法でもあるといえるし、
まずは、実践されることをお勧めしたい、、。
しかし、あらゆる実習は
無意識の連絡通路にそのたびごとに
引き渡しておくべき、なのである、、、。
“ 通信の其の21で、
指田さんから、バトンを渡された格好であるが、
私に何か特別な回答があるわけでもない ”
といいながら、十分すぎるほどしっかりと回答されているところが柳澤先生らしい・・・。
「型で動くこと」 、 「身体運動の術化」 に至るためのプロセスもしっかりと解説されているし、その際の注意点も明示されている。
具体的な体の捌きについては言及しないのかと思いきや、読み進めていくと、「丹田で動く」 ことについても具体的なヒントが与えられている。
しかし、あくまでヒントであって、どこをどう使うというような身体操作の手順や、その時にこういう感覚を持つのが正しい、といった意識的な運動・感覚の部分については示されてはいない。それらを示さないということが、すなわち柳澤先生の 「身体運動の術化」 に対する答えともなっている。
最近、川島金山先生の野中操法研究会で講義されている柳澤先生の映像を見る機会があった。
今までに柳澤先生の動きを身近に拝見する機会は多くあった。操法の研究会をしたこともあり、また先生の操法を間近で見たこともある。しかし、改めて映像で見てみると、直接見ていてわからないところが、かえってよく見えることに驚いた。
もちろん、直接見ることでしかわからないことはあるわけだが、映像で客観的に見るということは、また違った情報が得られるものらしい。
結論から言えば、柳澤先生の体の捌きは、やはり素晴らしい。そして、高度に 「術化」 されていることが見て取れる。
正座・蹲踞・跨ぎ、そしてそれらの型の繋ぎの動作が寸分の隙もない。何か、武術の動きを見ているような気分にさせられる。
以前、柳澤先生に、どうしたらそのように動けるようになるのか、と訊いたことがあった。
その時は、「長年やっているうちに、いつのまにかこうなった」 というような意味のことをおっしゃっていたが、「長年やっている・・・」 のは、整体操法の型を修練していたということで、先生はその操法の修練の中から現在の身体の捌きを体得されたということになる。
つまり、整体操法の身体技法のエッセンスが、いつのまにか日々の体の操作の矩となっていったのだろう。
そして、この 「いつのまにか」 、というところが重要である。
“ ある動作に伴う意識的な形式は、何度も繰り返すことによって習慣的な無意動作におりてゆく ”
のだが、しかし意識(いわゆる顕在意識)が勝ちすぎては、
“ 過剰な意識の反復は、無意識化に降り立つのを妨げて脳内の関連部位への連絡を
途絶えさせてしまう ”
ということになる。
そのため、動作の術化を実現するためには、
“ ちょこちょこ、チコチョコと無意識の連絡通路に引き渡しながら、次々忘れてゆくつもりでないと・・・ ”
上手くいかないのである。
整体では、練習は一番上手くできたときに止めるのが良いとされている。
普通は上手くいったら、ここぞとばかり繰り返して体に覚え込ませようとするが、それよりも上手くいったときの体の感じをそのまま残してそこで終わりにする。そうすることで、後は体(潜在意識)が時間をかけて、それを自らのものにしていくのである。
“ 丹田で動くとは、足裏で動くということになる ”
“ 全ての動作において、足裏を捌くことで、動きを図ってゆくのである ”
足と丹田の関係は、非常に密なものである。
臍から三横指下の腹部第3調律点、ここはいわゆる丹田の力を観る処である。
そして腹部第3調律点は、下肢の状況が反映する処でもある。
整体的な観方で体を観る場合、下肢は丹田から生えている、と言ってもよいほどである。
腰・腹を中心に身体を高度に運用しようとするとき、足裏の感覚は非常に重要な要素である。
たとえば椅子に座って作業をする場合でも、足裏全体がしっかりと床についているか否かということが、そのパフォーマンスの質を大きく左右する。
足裏全体がしっかりと床を捉えていると、姿勢を保つことも楽であり、体も思うように操作しやすい。そして、呼吸もゆったりと保ちやすくなる。
会議に臨むときなども、足裏が地に着いていないと本来の実力を発揮できない。その足をどこに置くかでその場をリードする方法などもあるのだが、ともかく椅子に座っているとはいえ、足裏が床に着いて下肢全体が使えていないと、腹が据わらず対人能力も低下する。
洋式のトイレが普及し始めたとき、しゃがまないと排便がしづらいという人が多かった。しゃがむのに比べて、腰掛けた姿勢では上手く腹圧がかからなかったのである。
最近は洋式の方が多いので皆慣れていると思われるが、それでも足裏を床につけていないと、やはり排便がしづらくなる。
足裏で、力を入れて床を押したりする必要は無い。ただ、足裏全体がしっかり地に着いていることで、腰・腹にかけてしっかりと力が入るのである。
足裏は一種のセンサーである。足裏が地面を捉えている 「感覚」 が、下肢を通して腰・腹に伝わり、その働きを十分なものにしてくれる。
その感覚を掴むことに慣れてくれば、実際に足裏床に着いていなくても、同様の感覚が持てるようになる。
たとえば片足で立つと、当然ながら二本足で立つときよりも不安定になる。なかなか、重心がピタリと決まらない。そこで上げた方の足裏を意識して、あたかもそちらの足も床に着いているような 「つもり」 で立つと、かなり重心が安定する。
このとき足首をしっかり曲げて、足の指を開いたり、少し反らしたりして、足首の締めを強調すると良い。つまり、床に着いている方の足と同じような感覚をつくるのである。
ちなみに、足の指を開くことが健康に良いとか身体運動のパフォーマンスを上げるとかいうことがいわれるようになり、5本指靴下がブームになったことがある。今でも愛好者は、少なくないようである。
しかし、足の指は開くだけではなく、「閉じる」 ・ 「揃える」 ・ 「すぼめる」 などの操作もあり、それらも 「開く」 に劣らず重要なのである。足指を閉じる操作のときには、足指同士の皮膚感覚(密着感)が重要になるので、5本指靴下は、これらの動作をやりにくくし、不完全にする。
また、整体操法では、正座による操法もある。正座では直接足裏は使われていないが、それでも足・脚・腿、下肢の全てが重要な役割を果たす。折りたたんで、全く動いていないように見える下肢が、正座の操法の質を左右するほどに、実は働いているのである。
正座の足が働いているというのはわかりにくいが、腹・腰、体幹部、そして上肢を上手く使うために、下肢が全体の釣り合いを取っている、ともいえる。
実際に正座の下肢の締めや開きを使って上体~上肢~指の操作をすることなどもあるが、別に足がごそごそ、もぞもぞ動いているわけではなくても、感覚的には下肢が正座での体の捌きの舵取りに於いて、かなり大きな役割を果たすのは確かである。
・・・ ・・・・・・・・・・・・ ・・・ ・・・・・・・・・・・・ ・・・ ・・・・・・・・・・・・
もう二昔ほど前のことになるだろうか。
整体操法を習い始めてしばらくした頃、あらゆる物を 「愉気で触る」 ことを心がけていた時期がある。
「整体に於いては、人の体を触るときに、物を触るような感覚ではいけない」
と、一番始めに教わった。
ならば、逆に物を触るのも、生命あるものを扱う気持ちで触れば整体の修行になるだろうと思ったのだ。
いっそのこと、手に触れる全ての物に、愉気するつもりで触ろう、と・・・。
箸も茶碗も愉気で持つ。パソコンのマウスも、テレビのリモコンも、エレベーターの階数ボタンも、全て愉気で触る。本を持つのもページをめくるのも、全て生命のあるものを扱うように気を集めて触るよう心掛けていた。
四六時中そんなことをしていたら疲れないか、と言われそうだが、意外とすぐに慣れてしまうもので、今度はそれがだんだんと習い性になる。
愉気で触るといったところで、実際はどんなことに注意して手を使ったのか・・・。
一言で言えば、常に 「気を抜かず」、ともかく全ての物を 「丁寧」 に扱ったということだった。
まず、当然ながら物に触れる際には、必ず手に気を(意識を)集める。
そして、その物の質感・重量・硬度・温度などを感じ取るようにしながら触る。
また、触れるときの速度も、急に触って相手(?)がビックリしないように、かといってイライラするほど遅くもなく、丁度よい速度を心がけた。
そして意外と重要だと思ったのは、必要最低限の力をもって触れる、ということだった。
歯ブラシを持つのと鞄を持つのでは、その重量の違いから当然握る力は変わってくる。しかし、改めて意識して持ってみると、鞄のようにある程度重いものは適正な力で握っているが、歯ブラシのような軽い物は、意外と無駄に力を入れて持っていることに気づいた。
おそらく小さな力を出すということは、緻密で繊細な情報処理が求められるので脳(?)が面倒くさいのだろう。だから、このぐらいの力があれば足りるだろうと、多めの出力で動作しているのではないだろうか。
だとしたら、そんな大雑把な体の使い方では、とても繊細に人の体を触ることはできないのではないか・・・。
そう気づいてからは、今度は物を持つとき、つかむとき、使うとき、必要最低限かつ適正な出力を心がけた。
適正なというのは、生き物を触る場合、力は弱ければよいというものでもなく、丁度よい、というところが存在するからである。人間の体を触るのでも、猫の背中をなでるのでも、強すぎもせず弱すぎもしない、これ以上でも以下でもない、「ぴったり、これぐらい」 という丁度よい圧力というものがあるのだ。
歯ブラシを持つときも、歯ブラシの気持ちになって、歯ブラシが最も心地よいと感じるであろう力と速度で、そして歯ブラシがその能力を十全に発揮できるように心を配って歯を磨いたのである。(当時は、これを大まじめにやっていた)
野口晴哉先生は、『手を調整することを通して、全身を整えることができるんだよ』 とおっしゃっていたそうである。
手を調整することで体全体を整えることができるのならば、手の感覚を研ぎ澄ませ、手の使い方を工夫していくことを通して、全身の使い方の質を高めていくことも可能なのではなかろうか。
さて、ここまで書き進めてきて、ふと気づいたが、そもそも整体の基本中の基本、「合掌行気法」 は手の感覚を研ぎ澄ますことから始め、徐々に手と丹田をつなぎ、整体操法をおこなうための体の使い方を修練していく方法ではないか・・・。
柳澤先生が足裏の捌きに言及されていたので、私の方は手の感覚から・・・、と考えて書き出したのだが、そもそもそれは元来整体で当たり前におこなわれてきた正に王道的な方法論であった・・・。
「合掌行気法」 は、整体操法の習得を志す者にとって、重要な訓練法である。合掌行気をとことんやり込んで行くことは、整体操法上達への早道の一つである。
1年目には1年目の、10年目には10年目の合掌行気がある。やり込むほどに、得るものは深く大きなものになっていく。
そして、興味のある方は、ときたま歯ブラシの気持ちになってみるのもよい・・・、と思う。
「病気」は治るが、「病人」は治しがたい
と、名言がある。
「病気」は、治すというより
治ってしまうというものであるし、
生きる方向にベクトルが向いている限り
修復され、復元される。
医療のやっているコトは
治るものだ、という前提で
その施術法の構造が出来上がっている。
医者は、往々にして
感違いをするが、
他力の施法は、ごくごく限定的にしか
手助け出来てはいないのである。
「病気」は、治ってゆく、、、
どのような見当違いの施法を
受けたとしても、それを何らかの手がかりに
「良い方向」へと転換してゆく、、
「生きる方向」にベクトルを、、
羅針盤を調整するのである。
治療とは、本来身体力による治癒を
少々手助けしながら、
その変動に込められた身体の意志、とも
いうべき要求を読み取り、
本人の随意能力ともいえる、意識的な体力にも
その道筋を示すことなのである。
実は、このとき
この意識的な体力が
反発するケースがある、、、。
「病人」は何故。生まれるのか、、?
病んだ人々は何故、
頑固で融通の利かない硬張った心に変化してしまうのか、、
「病気」でなくとも、現代では
病んだ社会が、傲慢で狡猾な硬張った心を
持った人々を
多量に発生させているが、、。
なぜ、障害だらけで
真っ直ぐに自分の能力を発現させるに
妨げとなる状態を、状況を
改善することに、背こうとする
この反発が、心の中にはあるのだろう、、。
人の心は、
「と、思うように、、、」に、
向かっている。
理由は、はっきりしなくとも
「と、何となく思われる、、」
と云う方向に進んでしまうのである。
「と、思う、、」と云う漠たる空想は
なぜ、生まれたか本人にも分からないまま、
ふくらみ、根付き、、
知らぬ間に確信めいて
心の真ん中に建立されている、、。
脳科学者のアントニオ・ダマシオは
人の意識行動は、
「as if」によって、振る舞われていると
指摘している。
「as if」…あたかも、、であるかのように、、
振る舞いながら、
やがて、まさに、そうであるかのように、、
行動し、
と、思われる、、ことに沿って、
物事を振り分け、体系化してゆくのである。
このダマシオの「as if」を
森鴎外の作品「かのように」に結び付けて
私の叔父さんが、自前のHPでエッセイを
連載している、、。
鴎外を持ち出すところが、叔父さんのセンスの良さを
感じさせるが、
「かのように」で鴎外は、人の模倣による“成りすまし”の
利点を意見しているように思える。
鴎外の時代の明治においては“成りすまし”とは、
異世界の文化を理解し、吸収するための
方便であった。
ある種、日本人の新らし物好きの血が
猛進させたところもあったであろうが、
模倣による学習は、初期の体得法であると
今では、広く知られ認知されてもいる、、。
模倣は恥、と感じる向きもあって
当時から相当の軋轢があったのだろう、、
それもひとつの見識ではあるが、
洪水のごとく流入する欧米の文化や様式に
抗って、“純”日本とも云うべきものを模索する
一群の勢力も台頭してきた中で、
模倣そのものをあるがまま、認めて
その価値を見出そうとした鴎外の「かのように」は、
非常に興味深いのである。
※叔父さんのブログ
「脳の地図とかのように NO101~106…」
ダマシオの「as if」ループは、
その根拠たる出処が明確でない気がするが、
「かのごとく」によって、
空想と行動が結びつけられているコトは、
人の感受性の動きを、つぶさに観察してゆけば
自ずから得られる回答なのである。
人が、不安定きわまりない自己を
「自分」として、存在させるには
自分を、このようなものとして、
規定しなければならないし、
そのようなものとして、成りきることで
自己が自我から“浮き彫り”されてくる、、。
「自己」が、「のようなもの」として
規定されると、にわかに
「ではないもの」の反力が生まれる。
「のようなもの」の中には、無意識のコンプレックスが
繋ぎ糸のように織り込まれているからである。
「ではないもの」への反力とは、
憧憬であり、願望でもあるので、
永遠にたどり着けない夢ともなり得るし、
実現しうるかぎりの夢とも成る。
けれど、そこにはある種、忍耐力が
必要なのだ。
許容力と忍耐力を養おうとしないかぎり、
「ではないもの」を、お手軽に
「自己」の外側からかき集めてくる
人々がいる、、
それは、装飾であり、化粧であり、
はがれやすい「自己」への張りぼて、なのである。
「余分」なそれは、
過剰さを呼び込み、習慣性を帯びて、
あまりに厚塗りのため
やがて「自己」がどこにあったのか
自分の姿が何だったのかさえ
見失うことになる、、。
病人の抜けだせない、、
脱ぐことのできない「依存」という飾りが
コレである。
「のごとく、思う」や「のようなもの」は
身体が、感覚した信号を
どのように脳にマーキングされたかによるのだが、、
野口整体では、おおむね
このあたりの構造を、椎側の連関(ループ)に
現れると指摘されている。
たとえば、内臓の異常は
三側(椎側の三つ分くらい外)や二側に変異を
呈するけれど、これらは、
内臓そのもの筋や神経の動きを
つかさどる自律神経系の停滞や失調を
如実に表わすものであるが、
それこそ、「か、のような」の無意識の空想に
関わる問題が絡み始めると、
とたん、一側(指一つ分外)の硬張りに
変異する。
一側は、頭の中にある汚滓である余分な彩飾の
裏にある「不安」「嫌悪」そのものを
ダイレクトに表現しているのである。
「かのごとく」も「かくあるように」も
「そのようなもの」も、すべて
不安でありながら、憧憬であり
嫌悪でありながら、希求である
実態のない靄のような実感、を
私たち、自己が
いかに使いこなすかを、試して
やまないのである、
実にその生を閉じるまで、、、、。
無意識と身体、
意識と無意識、、
身体と意識、
これらの関係は、絡み合いと表裏、
主導と突出、と
なかなかに多彩な綾なので、
また、何度か機会に応じて
論じてみたいと思う。
今宵はここまで、、、、
整体の世界では、冬は上下型体癖的な季節であるとされている。上下型体癖とは、エネルギーが大脳の働きに昇華し易い体のタイプのことをいう。
体癖というものは、生まれ持った心身の感受性の傾向のことで、上下型・左右型・前後型・捻れ型・開閉型の5つに分類される。ここでは詳しくは述べないが、一人の人間の持つ体癖的傾向は、その現れ方の濃淡に変化はあっても、基本的には終生変わることは無い。
では、冬という季節が、上下型体癖的な季節だということはどういうことか。
冬は、一年を通して、最も頭の働きが高まる季節なのだ。
体のエネルギーが精神的な働きに転換しやすいとでも言おうか、精神活動が活発になり、精神による創造力が最も高まる時期なのである。そして、それはまさに、上下型1種体癖の特徴なのだ。
上下型的な傾向の薄い人でも、冬という季節は、その人なりに創造的な頭の働きが冴えてくる。
こういう季節の移り変わりに対応して、心身の体癖的な傾向が変化することを、「体勢」 が変わるという。
体癖は、個人の中にある特性のようなもので、基本的には生まれてから死ぬまで変わることはない。
それに対して 「体勢」 は、個人の固有の体癖的傾向とは別に万人の心身において、季節に対応して変化したり、バイオリズムで日々移り変わったりしている。
この体癖というものの元になっているとも考え得る 「体勢」 の変化という現象の解明は、野口先生の高弟であった柳田先生という方の一生を通じた研究の成果であると聞いてる。
さて、上下型的体勢となる冬は、思考が冴え、精神の働きが高まる季節であるが、逆に言えば、その系統が働き過ぎになりやすい季節でもある。そして、「引き締まり」 の季節である冬は、やはり行きすぎれば、過剰に緊張した状態にも陥りやすい。
晩秋以降、空気が冷たくなると、その冷たい風にさらされて眼が緊張しやすい。そして、だんだんと空気が乾燥してくるので、乾いて水分が不足しがちな体の中で、最も潤っていなければいけない眼が、どうしても乾いてくる。
眼の過剰緊張、乾燥による疲労しやすい状態は、脳の緊張を引き起こす。眼は、脳の出先機関であり、眼が疲れると脳も疲れ、眼が過敏になると脳も緊張が解けにくくなる。すなわち、リラックスしてポカンと弛むことが難しくなるのだ。
眼の緊張 ・疲労を取るには、蒸しタオルで温めるのがよい。眼の蒸しタオルは、眼の緊張 ・疲れを取ると同時に、頭の緊張をも弛ませてくれる。
蒸しタオルは、普通は家庭にタオルウォーマーなどはないので、お湯に浸けて絞ったものでよい。それも面倒だという人は、レンジで温めたものでもかまわないが、お湯で絞った方がなぜか気持ちがよいし効果も上がるようである。
熱い湯に浸けて絞る場合は、細長くたたんだタオルの両端を持って、中央部分をお湯に浸して絞るとよい。炊事用のゴム手袋などをすれば安全である。
また、レンジで温める場合は、表面よりも中心部の方が高温になっている場合があるので、注意が必要。
ホカホカと温かいタオルを眼に当てる。4~5分もすると冷めるので、温め直してまた当てる。これを2~3回程度くり返す。
よく、冷めない温パックのようなものはどうですか、と訊かれるが、それはあまりお奨めしない。だんだん冷めるという温度の変化と、温め直す間のインターバルがあるということが、実は眼を温める上での重要なポイントなのである。
同じ理由で、蒸しタオルをビニール袋に入れて冷めにくくすることや、いくつも蒸しタオルをつくっておいて、冷めたらすぐ用意しておいたものと取り替えるのもよい方法ではない。いちいち手間をかけて温め直すのが、眼の温法としては優れているのである。
これは、試しに比べてみるとよくわかる。一度くらい、やり比べてみるのもよい。人に訊いたのと、実体験では、納得度合いが違う。
お湯に浸けて絞ったタオルとレンジでチンしたタオル。また、両眼一遍に温めるのと、片方ずつ温めるのも、比べてみると面白い。
それから、眼は強く圧迫してはいけないところなので、蒸しタオルを当てるときも、強く押しつけたりせずに、ふんわりとやさしく当てる。
ちょっと仰向いておこなうと、頭の緊張が抜けやすくてよい。仰向けに寝てやってもよいのだが、つい気持ち良すぎて寝てしまうと、冷えた濡れタオルを眼に当て続けることになるので要注意。
冬は、頭が緊張し、眼が疲れやすい季節ではあるが、眼も頭もどんどん使う方がよい。どんどん使って、よく休める。使って上手に休めることで、頭も眼もどんどんよくなっていく。
これは、体のどこでも同じである。ただし、それに適した季節というものはある。冬は、頭を鍛える季節なのだ。
眼も冷たい空気にさらされ緊張し、乾燥によってドライアイにもなりやすいが、同じことは全身にも起こっている。
冬の体にとって影響が大きいのは、なんと言っても 「冷え」 と 「乾き」 である。
整体で、「体が冷えています」、と言う場合、それは冷えたことによって体に何らかの変化が生じていることを見て取っている。
足の甲の第3・第4中足骨の間が狭まっている。第1腰椎が突出し、第4腰椎が引っ込んでいる。骨盤が縮んで、固まっている。第3腰椎が捻れている、などなど・・・。
骨格や筋肉、皮膚などに 「冷え」 たことの影響が及び、その状態が固定化してしてしまっていることを問題にしているのである。今、手足を触って、冷たいか温かいかということを言っているわけではない。
言ってみれば、「風呂上がりで全身ポカポカしていても、『冷えている』 体」、というものがあるわけである。
その 「冷えた体」 を回復させる、すなわち冷えを抜く方法として優れているのは、足湯である。足の甲の第3・第4中足骨間= 「冷えの急処」 を押さえて弛めた後、足湯をする。
また、朝風呂に入るのも効果的である。
冬は寒いので 「冷え」 には気をつける人は多いけれど、「乾き」 に関しては無頓着な人が多い。
人間は、感覚的にも冷えるということはわかりやすいが、体が乾いてくるということに対しては鈍いのだ。暑いときの発汗による水分不足はまだ感じるのだが、冬の空気の乾燥による体の乾きにはとんと鈍い。
しかし、感覚は鈍いのだが、その影響の方はしっかり体に現れる。
皮膚がかゆい、筋肉がこわばる、節々が痛い、目が乾く、空咳が出る、胃が荒れる、便通が悪くなる、体がむくむ、小便が近くなる、などなど。
冬の体を取り巻く環境は、ひどく乾燥してる。体の水分は、皮膚からも飛んでいくが、呼吸からも排出されている。気をつけて水分を補給しないと、カラカラの干物のようになってしまう。
乾いているのだから、当然水分を取るのがいい。しかし、水分なら何でもいいかといえば、それがそうでもない。
水分と言っても、お茶や紅茶などは、たくさん飲んでも体が潤わない。利尿作用が強いからであると思われるが、ともかく体を素通りしてしまう。コーヒーなどは、かえって体の渇きを助長する。
お酒はもっと乾く。お酒を飲む人は、よほど気をつけて乾き対策をしないとドンドン体が干からびて、老けていってしまう。お酒を飲むときは、一緒に水を飲むといい。
体が整体になってくると、乾きにも敏感になってくるが、まずは知識として「秋から冬は体が乾く」ということを知って、水分補給に気をつけるのがいいだろう。
潤っている状態が分からなければ、乾いている状態も分かりにくいのだから、ともかく水を飲んでみることから始めてみて欲しい。潤ってくると、体が乾いている状態の不快な感じが分かってくる。
秋口から初冬ぐらいまでは、スープや味噌汁、蕎麦、うどん、雑炊など、塩気のある温かい水分も吸収がよい。
しかし、冬も本格的に寒くなると、なんと言っても 「水」 がいい。白湯や湯冷ましではなく、生きた水を飲む。それが、冬の健康法となる。
寒いときに水を飲むと体が冷えないか、と訊かれることがあるが、この時期体が整っている人は、冷たいものがおいしく感じる。そういう感じの無い人は、体の引き締まりが足りていない。もちろん過剰な緊張はよくはないが、冬の体は引き締まりがなくてはいけない。
引き締まりの足りないということは、十分に冬の体になっていないということである。そういうときは、下半身をよく温めると、冬の体になってくる。
足湯も良いし、風呂の入り方で工夫するのも良い。そして、秋から冬になるときは、遠慮せずにどんどん暖かくして眠ることである。それが、冬の体への移行をスムーズにする。
さて、冬の体について書いてきたが、実はもうすぐ立春というこの時期、すでに体は春に向けて変化し始めている。
東京では、例年1月の10日頃には、はじめの春の芽吹きがある。ある朝起きると、体の中に春の気配を感じる。
そして、寒さもますます厳しい1月の下旬になると、体にはっきりと春の 「開き」 が感じられる日が来る。
陰極まれば陽となる、というが、寒さの極みに至ると同時に、その中に春の陽が生まれているのである。
私たちが抱える困難は、
身体の問題であれ心の問題であれ
境遇であれ、そのいずれも
容易に抜け出されずに、逃れられない強迫性をもち、
どうにもならない無力感に塞がれたまま、
身体だけの問題に納まらず、
心のみの自己解決では容易でなく、
どうジタバタしても、まとわりつくように
絡み合った、おのおのの境界を越えた
連鎖の中にうずまってしまっている、、、。
たとえば、
新型うつと云うのは、
非常に捉えがたい病症である、、。
自分の興味や熱意が向くものなら
どんどん動けるけれども、
少しでも負荷がかかりそうなものについては
とたんに身体が動かず、気力も喪失する、、
これは病気なのか、、?
誰だって、気が向かない嫌なことに向かうのは
身体が重く、気持ちも先に動いてゆかない、、
それを、ただ、いやいや、と
スイッチを切ってしまうのは
ただの気まま、わがままの
怠け者なのではないか、、、
と、「普通」に生きている人々は思う。
心に負荷がかかりすぎれば
身体は変調を現わしはじめる、、
その変調を解くのは容易でなく、
一般的には対症的に、今、過敏で休められない身体や精神を
薬物療法でなだめるしか手を打てない、、。
得体のしれない新型うつも
同様の方法論しかもたないのである、、
体運動の構造の視点から、
このような身体を観れば
腰椎5番は弾力を失ない奥に引っ込み、
骨盤はガバッと開いて後屈している。
骨盤の後屈による負荷は腰椎4番を
硬直させ、限りなく5番側に下がってしまい
くっ付いて棒状を為している、、、
あれっ、、!?5番は?
となかなか当たらないが、ふにゃっと
まわりの筋や脂肪に隠れて、頼りなく
奥の方でちょろっとぶら下がっている、、、
場合によっては、
後屈の負荷を腰椎3番が耐えて、こらえて
捻れたまま可動性を失ないつつある身体もある、
問題はこのガバっと開いて後屈した骨盤が
ゆるゆるの大きめのおむつカバーを着けているような
この身体は、
まったく逡巡したまま、どこに向かうのか
どこに行きたいのか、決意できない体である点なのである。
もともと、腰椎5番の「引っ込み」は
4番の問題の肩代わりとも、元来が弱腰のくせに
4番の荷物を背負わんとしたがためでもあり、
4番が1番の叱咤か、3番の激励にも
耐えられなくなった時、
がくんと、ともに崩れ落ちてしまった結果である、、、
このような身体では、
まず動けない、、
いや動けないのでは、あるけれど
動こうと思えば動くことはできる、、
しかし、動かなきゃと思う観念が
身体に結びつかないのである、
自分の体なのに、、、。
このもどかしさは
腰椎5番の力が抜けてしまっていれば
当然感じられる頭と体の距離感である、、
5番が抜けた6種的傾向(体癖的分類)とは、
このようなもどかしさであり、
当人にとっては、
頭の中にできた庭を、思い通りに
しつらえることだけが、唯一
自分が生き、動いている感覚と
いえるのである、、。
当人は頭の中に作り上げた庭のガーデニングにしか
集注できないのであるから、
このもどかしさは、
周りの人間こそが感じる
もどかしさでもある、、
しかもここに、腰椎4番が連動して
骨盤が開いたまま固まってしまっていたなら、
きわめて自己中心的にしか
行動できないし、集中力が持続しない、、
この6種的な頭の庭の築造は
大変な熱中と収集力で
運営されてゆくのである、、、、
頭の中の世界って、、、
じゃあ、上下型(体癖的分類)の大脳昇華型と
どう違うの、、?と云うとことであるけれど、、、
上下型は、頭の中に庭は作らないのであり、
1種の頭の使い方は、
系譜的であり、道順を持った地図を
進んでゆくことであり、
2種の、それは
頭の中に蜘蛛の巣を張り巡らすかのような
使い方をして、
結局、自分がその網目に引っ掛かり捉われてしまうのである、、、
もちろん、
体の不調、違和感と云うものは
どんなに、頭の中で増幅して感じようが
明らかな痞えツカエとして、身体に刻印されている、、
筋肉や腱や筋膜やらの硬直や弛緩が生まれているし、
ごく小さな部分的な弾力の無さであっても
身体にとっては、不愉快で不都合な
全体のバランスを崩す可能性のある
修正すべき部位、ポイントとなるのであり、
これをかなり明確にはっきりと頭、意識に伝えるのである、、。
これらの「症状」は検査や投影画像などでは
捉えきれない、、
このような粗い観察では、その大まかなザル目からは
零れ落ちてしまうため、
いやあ、異常ありませんね、、様子を見ましょうか、、、
で、終わってしまうのである。
そして、このような
不愉快な感覚は、「ここっ!」と云う
特定部位が伝えられないもどかしさを持っている、、
だいたいこの辺が、何か詰まったような
苦しさ、、だるさ、、疼痛感、、がある、
と云うように、その部位を特定できないのである。
首周辺、頭の過敏傾向、肩あたりの上胸部などの
全体的な過緊張状態が続いている身体は
特に、部位的な鋭敏な感覚を
ウツロにさせる、、
身体気圧的に言えば、
いわゆる「気が上がったまま、固着している状態」だと
身体のあちこちの異常感は、
大まかな何か拡大された違和感としか
伝えられないもどかしいさがあるのである、、。
頭と身体が繋がらない、、
身体の動きが、頭からロックを掛けられている、、
この思うように動けない、もどかしさ、、
変わらない、じれったさ、、、
頭が体にロックをかけているというより、
頭の中のロックが、身体の連携にストップを
かけていると言えるだろうか、
頭の動きが
まるで、身体に波状的に
浸食しているかのような干渉が
身体のきわめてシステマティックな
調整機能を混乱させるのである、、。
頭の動きと、身体の統制的で機能的な単純化された
動きは、異質な特徴をそれぞれ備えている。
身体は、いくつもの危機管理的な複層的な
備えを段階的に用意してはいるが、基本は単純化された
5系統の動きに集約して運行している、、
頭は、何と云うか
縦横無尽と云うか、自由気ままと云うか
同時に複層が、並走して動くなどの
捉えがたい、予想のつかない動きを
常にしているため、これらは
首と胸によって、語法変換されて、
信号を行き交いさせる必要がある、、。
そのため、常に柔軟な
首と胸を保っている必要があるのである、、
この調和が崩れる、、、
ヒトと云うものは、
特殊な進化をしてきたけれど、
この点においても
他種にはまず見受けられない
このような混乱を、よく呈する生き物なのだ、、
この夏、
この頭と身体の不調和の
きわめて近似的な状態が
続いている、、
夏と云うのは
身体気圧的に云うと
気が上に上にと上昇し、
頭部にこもった気熱が
頭部から頭頂にもくもくと、
抜けてゆくのが、
理想的な運行なのだが、
これが、頭頂部からずれて
やや前部とか、左寄りだとか
右寄りだとか、後部にずれたりなどすると、
そのまま気熱がこもって、
頭や上胸部の過敏緊張傾向を生み出す、、
一過性のごく初期的な段階であれば、
不快さや違和感は、
この上胸部から頭にまつわる不快となって
感覚されるが、、
緊張状態が硬化して長引き、潜在化すると
胸の圧迫感や動悸や細動や
息苦しさ、めまい、頭重などの
範囲が広くポイント的でない帯域的な
不快感、異常感となってゆく、、、
このような状態に進行する前に
肋間筋や肋骨そのものの硬化が始まり、
片側が下がってきているのだが、、
当人はこの段階では、気付けない、、、、、
梅雨の始まりには、例年
皮膚の再活性化がすすめられる、、。
今季の梅雨明けは、ここ最近に珍しく
素直な幕開けだったように思う。
じとじとした空気感といきなりむくみ、ダルついた肌と
ちょっと動けば汗がダラつくといった
久しぶりの湿度感のある梅雨明けであった、、。
その後、今一つな展開で
じとじと感がいまいちだなと思っている間に
かっと、7月の初旬に俄かの熱風とともに
夏に突入してしまったが、、、、
皮膚はたるみ、むくみ、
感覚が鈍化する感じがあるけれど、
盛んに新陳代謝を繰り返し、
廃用と再生を準備する、、
真夏の排熱と発汗、
冬の寒さと乾きに耐えられる
皮膚をしつらえるのである、、。
手技を生業とする私たちなどは
この梅雨の時期に、手のひらの皮が
剥けはじめ、何倍もの鋭敏な
新しい皮膚をもらいうける、、、
皮膚が活性化し、再生を図るとは
頭部の過敏な傾向がしばらく続き、
また泌尿器系等の活発な活動を
指し示す、、。
梅雨が明ける頃、、
泌尿器系等の草臥れがピークとなって、
呼吸器の盛んな活動でこれを補い、
代謝運動の最も大きな振幅の時期を
乗り切ろうとする、、、
この夏の身体の
基本の構えとして
骨盤は、2月くらいから
徐々に段階的に開きはじめ
大きな関節である頭骨や肩甲骨も併せて
開方向に運行を進め、
皮膚は弛み、開いて、汗や分泌物や内外のガス交換も
盛んに行なわれてゆく、、、、
夏の皮膚の動きは、まさに
最前線であると同時に総司令部でもあり、、
八面六臂の活動を繰り広げる、、が、
泌尿器と呼吸器の感覚器としての
先鋒でもあった皮膚が、
今季のように、急激な高温と熱風にさらされ
ガバッと骨盤が開いてしまうと
にわかに鈍り、汗が痞え、塩を溜めていってしまう。
温度上昇で、気熱がますます
頭部に集まってくると、
総合的なバランス感覚で優れた
皮膚の思考頼みの頭は
鈍って感覚を欠いた皮膚への
過剰な信号を送り続け、
切ったり、ぶつけたり、湿疹を吹いたり
膿瘍の過度なエネルギー転換を図る、、。
この皮膚の感覚を失調するということは
実は、文字通り外的な刺激に対して、
鎧化して交渉を絶ってしまうということに
繋がってゆく。
自分の周りの環境との間に鉄門を下して、
コミュニケーションを取りたくなくなるのである、、。
身体は一挙に、堂々めぐりの状態となり
頭のロックがかかってくるのである、、、、
ヒト特有のこの頭の動きの浸食については
また、次回別の視点から
お話しを続けることにしたい、、、。
今年の夏も、なかなかに暑かった。気象庁の観測によれば、「記録的猛暑」 だったという。今夏を通して(6~8月)の日本の平均気温は、平年を1・06度上回り、1898年の観測開始以来4番目に高かったという。
8月中旬の平均気温では東日本が平年比で2・4度、西日本でも平年比で2・3度高も高かったそうだ。
高知の四万十では、気温41℃という観測史上最も高い気温を記録。さらに四万十は、全国の観測地点で初めて3日連続の40度超へとなったという。
この暑い夏に、官庁などの関連機関は、水分補給など熱中症に対する注意喚起に躍起になっていた。特にお年寄りなどには、暑いと感じなくても冷房を入れましょう、と指導していた。
それでも、今年初夏以降の熱中症のため医療機関への搬送された人の数は、8月27日時点で5万3739人に昇るという。これは、昨年同期の3万9389人に比べ大幅に増加。記録的な猛暑だった2010年同期の4万6728人を上回るペースだそうだ。
気温40℃以上は、ほとんどの日本人にとって未体験ゾーンである。そこまでではなくとも、気温(室温)が体温に迫るような状態であれば、冷房を使うのが得策だろう。特にコンクリート、アスファルトだらけで緑も土も少ない都市部では、冷房ゼロというのは現実的ではない。
やや大げさにいえば、今や冷房は命を守る必須アイテムとなっている。しかし一方で、冷房を使うからこそ熱中症になりやすくなっている、という現実もある。
人間の体は、四季の移り変わりに対応してメタモルフォーゼ(変態・変身)している。夏であれば、暑さに適応するために体を弛め、なるべく放熱するように体の構造を変化させている。同時に、汗も出やすいようになっており、同じ室温の部屋で運動しても、夏は冬よりも汗がたくさん出る。
本来、夏は汗さえかける体ならば、あまり問題は起こらない。
反対に、冬は引き締まりの季節で、寒さに耐えるため体を引き締めて熱を逃がさないようにしている。引き締まるということは、心身の緊張が高まるということでもある。特に神経系の緊張が高まるのだが、その行き過ぎた引き締まりを適度に弛めることが冬の操法では一つのポイントとなる。
一方夏は、弛みすぎて “ たるんでしまう ” のをどう引き締めるかが操法の肝となる。柳澤先生が推奨する、夏に皮膚をつまんではじく “ パッツン法 ” なども、この弛みすぎを引き締める方法である。
しかしこの夏は、たるむどころか冷房でガチガチに固まった体で来院される人が非常に多かった。訴えをきくと、肩が凝る、肘や膝が痛い、体が固まっているような気がする、朝起きて床に足をつくとアキレス腱が痛い・・・。みな冷房で冷え切った体である。特に夜冷房をかけたまま寝ている人は、体が固まる傾向が強い。
初夏から梅雨、そして梅雨が明けて、体は本来開き弛んでいく。同時に、発汗もしやすくなる。それが夏の体の自然な変化であり、それが暑さに体が慣れるということでもある。
しかし近年、商業施設などでは4月にもなれば、ちょっと暑い日があると冷房が入っている。5月の連休以降は、冷房が入っているのはそう珍しくない。梅雨に入れば、どこでも冷房を使うようになる。そして梅雨が明ければ、多くの人が冷房をつけて就寝するようになる。
これでは、体が夏仕様に変化するいとまがない。そしてメタモルフォーゼは完了しないまま、体は酷暑に突入するのである。文明の利器、“ 冷房 ” というものの存在が、夏を涼しく快適に過ごさせてくれるその一方で、人間の体を暑さに対応できないようにしてしまっている。
私が学生のとき、高校までは学校に冷房設備はなかった。中学生頃から家にはエアコンはあったが、電気代が嵩むので稼働日数はひどく少なかったように記憶している。
私が高校3年生というと昭和60年(1985年)である。この年の7月の東京の気温を見てみると、7月1日にはすでに最高気温32.2℃。その後いったん気温は下がるものの、30℃を超える日は19日もある。8月になると、最高気温が30℃を下回る日は4日しかない。月間の最高気温が33.3℃であるから、ここ数年とは暑さの質は違うだろうが、それでも結構暑い。
例しに8月10日の東京の過去の気温を見てみると、天候にもよるが昔からそれなりに暑かったことが分かる。ちなみに私が生まれた昭和42年(1967年)8月10日の最高気温は34.5℃、最低気温は24.3℃。やはり、結構な暑さである。
それでも昔は窓を開け、扇風機や団扇で暑さをしのいでいた。それでなんとかなっていたのは、住環境の問題などもあるだろうが、一番はやはり体の違いであろう。
現代は、エアコンの普及で汗をかく機会も減ったのだが、汗をかくということそのものに嫌悪感を抱く人も増えた。人前で汗をかくのが恥ずかしいとか、汗びっしょりのオヤジ、もとい中年男性を汚らしいと見るような、発汗に対する意識の変化がとても大きい。
冷房をつけるきっかけも、暑いというだけではなく、汗をかかないようにというのが一つの要因となっているようだ。
現代人は様々な機械や人工物に囲まれて生活している内に、いつの間にか自分たちの体が生き物だということを忘れ、何か機械仕掛けのロボットかアンドロイドであるかのように錯覚し始めているよう思われる。だから、なにやらベタベタしたり、時に匂ったりする汗などというものは、出さずに済めば出さないでおこうとする。
しかし、どれだけ科学が進歩しても、いつまで経っても、どこまで行っても、人間の体は自然そのものである。それを忘れては、健康生活の実現はあり得ない。
冷房の効いて涼しく低湿度の部屋から、いきなり高温多湿の屋外へ・・・。うだるような不快指数100の炎天下から、冷蔵庫のようにキンキンに冷えた電車やバス、コンビニへ・・・。
そんなことをくり返しているうちに、体はどうしていいのかわからずに迷走するか、変化することをあきらめ硬直してしまう。現代風にいえば、自律神経が正常に働かなくなる。
「熱中症に注意して下さい!」 の方ばかりクローズアップされているが、「冷房による冷やしすぎに注意しましょう!」 の方も、もっと広く社会に浸透してくれるとよいのだが、なかなかそうはならない。節電やクールビズなどで少しは変わるかと期待したが、相変わらず必要以上に温度を下げているところが大部分である。おかげで、日本の夏はとてつもなく暑く、かつ寒い。
いくら自分だけ冷やしすぎないように気をつけていても、買い物に出たり、通勤通学で交通機関を利用する度に体が冷えていたのでは、体が固まるのは防ぎきれない。
都市環境、住環境、労働環境などが、自然共生型の、「体にやさしい」 ものになっていってくれることが理想だが、それにはまだまだ長い時間がかかるだろう。取りあえず、自分たちは自分たちのできることをやっていくしかない。
冷房の強く効いているところへいくときには、何か羽織るものや、スカーフなどを用意する。夏は特に、頚・肩・背中の上部を冷やさないように気をつける。それから、肘・手首・足首も冷やしてはいけないポイントである。
冷房を使っている場合は、夏でも湯船にお湯を張って浸かる。時間は短くてもよいので、夏なりにそこそこ熱めの湯に入る。お風呂の中で汗を出そうとせず、風呂上がりにたっぷり出す。少なくとも、風呂上がりに扇風機で風に当たったり、冷房で急激に冷やしたりしてはいけない。
早朝や日が落ちてからなど、ウォーキングなどで汗をかくようにする。その際は、汗をかいたまま冷房の効いたコンビニなどには入らない。急激に汗が冷えると内攻して、せっかくの運動があだになってしまう。運動後は、汗はよく拭いて、シャワーを浴びるなり着替えるなりして、汗が自然に引くまで待つのがよい。
来年の夏は、5月の連休あたりから、運動や入浴などで意識的に汗をかくようにして、梅雨明けまでには、十分汗のかける体を作っておこう。
・・・
・・・
さて、体が冷房で冷えて固まっているということの他にもう一つ、この夏にある特徴的な体の変化があった。それは、第7胸椎の硬直である。
この第7胸椎の硬直について、柳澤先生が、「季よみあと帖」 で触れている。
胸椎7番の消えない違和感の問題は
この数年、否具体的にはこの2年
ずっと、まるでくさびを打たれたかのような
重要なポイントとしてある、、。
環境の影響を受け、また察知する
このポイントにくさびを打ったのは
果たして何であろう、、、
7番の異常は、漠たる不安を将来に感じ
未来をビクつく傾向をもたらす、、、
第7胸椎の異常は震災後から常にあり、潜在化、顕在化を繰り返しながら今日まで続いている。その第7胸椎の異常が、この夏急に顕在化する人が増えてきた。少なくとも私が操法において体を観る中で、第7胸椎は急処として強くクローズアップされてきていた。
(季よみあと帖 《※ 現・季読み帖》 は、柳澤先生の季よみ通信のいわゆる後記である。実は私は、季よみ本編よりこちらの方が楽しみだったりする・・・)
2011年の夏、つまり震災後初めての夏に、皮膚の異常が多発した。皮膚は神経系とのつながりが深く、過剰な精神的緊張から皮膚に炎症などが出る人が多かったのだ。
また皮膚は巨大な排泄装置であるので、神経の過緊張から出る体内の毒素を排出しているということもある。そして、原発事故によって拡散した放射性物質を取り込んでしまった体が、それらを汗から、また皮膚から直接排泄したということもあっただろう。
その皮膚の異常を通して体は必要な排泄をおこない、同時に神経系のバランスを取り直しているのだが、第7胸椎は心理的なことと深く絡むと同時に免疫系の中枢でもある。その夏の一種のアレルギー的な皮膚の過敏現象には、やはり第7胸椎は確実に絡んでいたのだ。
そして、この夏も第7胸椎の変動をともなう皮膚の過敏現象が多発していた。皮膚からの排泄には、汗をかける季節が有利である。夏に変動が起こるのも、体の回復欲求からして不思議ではない。
しかし、それにしても、というくらい、この夏急に第7胸椎が操法の焦点として浮かび上がった。なぜ、まるで揺り返しのように、多くの人に第7胸椎に異常が現れたのか?
その、なぜ、の答えは一つではないだろう。しかし、その答えの一つに、先日唐突に突き当たった。そして、それはたいそう意外なものだった。
ある方の第7胸椎を触っていたとき、何かコツンと頭の中に当たるものがあった。コツンと当たった何かは、頭の中に当たったのだが、それは外からやってきたような感じだった。
ああ、もしかして・・・!?
早速、その方に訊ねてみた。
「最近、必ず見ているテレビ番組などはありますか?」
その答えは、やはり予想したとおりのものだった。
「 あります。 『あまちゃん』 です」
やっぱり・・・。
『 あまちゃん 』 とは、岩手県久慈市がモデルの架空の町、北三陸市と東京を舞台にした現在放送中のNHKの連続テレビ小説である。主人公は、東京生まれ東京育ちの女子高校生の天野アキ。ひょんなことから母の故郷北三陸で海女になることに・・・。
このNHK朝の連ドラ 『あまちゃん』 は、高視聴率もさることながら、各種メディアにも取り上げられ、もはや社会現象とまでいわれているほどの人気ドラマだ。
さて、その人気ドラマだが、くわしい あらずじ は省くが、物語のスタートは2008年の夏。舞台は北三陸。当然だが、物語が進むにつれ、いつかは震災の日がやってくる。
東京に出ている主人公アキの祖母や友人、海女の仲間達はどうなってしまうのか?ドラマだとはわかっていても、ある意味完全なフィクションではない。なにしろドラマの中で、現実に起こった震災が刻一刻と迫っているのである。登場人物に感情移入するほど、迫り来る震災の日に対する不安や恐怖を追体験していることになる。
その後、第7胸椎に顕著な反応がある方に、「最近見ているTV番組は・・・」 と訊ねてみると、やはりその多くが 『あまちゃん』 を見ていた。
それで、第7胸椎に反応が出ている人に、大学生や主婦層が多かったのもうなずける。それらの方々は、朝の連ドラ(昼・夜にも再放送はある)を見る時間的余裕のある人達だったのだ。
『あまちゃん』 に限らず、今年の夏はゲリラ豪雨や竜巻などの自然災害が多かった。そのニュース映像などを見て、2年前の震災を思い出したり、被災地に思いを馳せた人も多かっただろう。
また、連日汚染水問題が報道されており、未だなんの解決の糸口も見いだせずにいる福島第一原発に対する不安もあるだろう。
どちらにしても、震災の傷跡は、未だ私達の心と体に深く刻まれている。そして心身は、ちょっとしたきっかけがあれば、すぐに揺り返しが来るような不安定な状態にある。その具体的な体の表現の一つが、第7胸椎の硬直なのである。
・・・
今回の後半部分は、次回(其の29) への前振りであるのだが、(もしかすると)柳澤先生が関連する内容の記事を書いてくれる(かもしれない)ことに、ちょっぴり期待したい。
本来ならば、この稿は
白山の指田さんの其の27からの
胸椎7番のバトンを受けての稿となるはずであったけれど、、
当方の事情により、
この「季よみ」ブログはしばらく休止と
させていただくことになりました。
胸椎7番は、ヤジロベエの中心軸のような
役割を担い、この数年の過敏な硬直状態も
確かに環境に染み渡っている放射能汚染が
深く絡んではいるのであるけれど、
中心軸としてゆらゆら左右の重心を
あちらこちらに移しながら、微妙なバランスを
取っているもののようなのである。、、、、
と、云うような文面となる予定であった
其の28は、たぶん日の目を見ることはない、、。
このたびの休止は
ひとえに私個人の事情によるもので
身体気法会の活動の休止と
因を同じくするもので、
さほど大げさなものではありません。
長い間、ご愛読いただきました
皆様には、深く感謝いたします。
ありがとうございました。
さて、突然ながら当ブログ 「季よみ通信」 は、しばらく休止とさせて頂きます。
この往復ブログというコラボ企画は、柳澤先生と私で 「整体」 ・ 「気」 ・ 「身体」 などについて、ブログ上で気の向くままにあれこれ語り合ってみようという試みでした。
振り返って見ると、お互いがかみ合っているようないないような(笑)、多少のちぐはぐな感じもありましたが、その微妙なちぐはぐ感をお互いの個性の発露とみると興味深くもありました。
「季よみ通信」 は、私の側からすれば、柳澤先生を整体の先達として、また非常に興味深い一人の人間として、より深く研究できる学びの場でもありました。
「季よみ通信」 は、いったん休止ということですが、事実上はこれにて終了ということになると思います。 なぜならば、この先再び機会が巡って来たときは、柳澤先生とは新たな企画で新たな活動をしたいと思うからです。
長いようで短い間でしたが、ご愛読下さった方々には感謝申し上げます。
ありがとうございました。
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