其の4 過ぎたる事と、及ばないことの世界 (柳澤)
この1週間で、一気に湿度が上がった。
多くの人は暑くなったとは思っていても、
湿度の目盛がガバッと上がった事に、
気をかけていないのだろうか、、、、
「湿度が急激に上がりましたからね、身体も追いつけないのですよ、、」
と、言っても
多くの人が、きょとんとして
一体、私の症状とそれが何の関係があるの!?とばかりに
反応がすこぶる悪い。
しかし、湿度が上がれば泌尿器系のトラブルは一挙に増え、
身体はむくみ、偏頭痛も起これば目もかすみ、歯も痛む。
胸は躍るし、腹も痛むのである。
思えば、先の冬の訪れも
何の前触れも挨拶もなしに、ドカッといきなり寒さが
降りた、、、。
たいていの身体は、慌てふためいて
発熱やら嘔吐下痢やらで病院に駆け込んでいたのである。
この春の、梅雨の先取りのような
暑さの降り方も、突然であり過剰である。
その「機」も「度」も「間」もなく、ちょうど良さを
過ぎ越して、「過量」である。
しかし、自然は
時として、過量なるものとして振舞うものなのだ。
これだけ湿度が上がれば、準備の良い蛙もいて
期待と高揚感の高まりに、この夕方、早々と
げえくげえく、、、と鳴きだしていた。
夏の始まりには、春のある日、
にわかにジャージャーと喧しいくらいの鳴き声で
夏の虫がもやい合う夕方がある。
彼らは、そのようにして
調子を整えるのだ。
思い切り、持てるだけの筋力とエネルギーを使い
調子っぱずれなくらいの鳴き声を
暮れかけて遠のく、空に向かって
響かせ合う。
ただやかましいだけで、耳が痛くなる、、、
情緒も味わいもないのだけど、
けれど、このような全力の
自らの力量と限界を計るかのような
「やり過ぎ」が、
彼らの「機」と「度」と「間」を
導き出す。
しばらく、また何事も無かったように静かな夕方が続き、
そしてある日、涼やかに
暑さにやられた頭や騒がしげな心の中を
落ち着かせ凪いでくれる
あの優しげな音色を響かせ始めるのである。
人もコトも、自然もモノも
このような「やり過ぎ」の時期を持つ。
いや、「やり過ぎ」と「及ばぬ事」ばかりである。
人は、同じコトを繰り返す。
何度となく、、、
失敗や過ちと判っていながら、また同じ道を歩き始める。
繰り返し繰り返し、
「やり過ぎ」と「及ばぬ事」の間を行ったり来たり
してる。
「過量」な季節の動きも
このちょうど良さを見失った
身体には、ほど良い刺激となるのかもしれない。
身体は歪む。
ほど良さを探るには、あまりに過剰な情報に囲まれて、
いつも度外れな
歪みを持ち続けている。
このような、
度外れな身体を扱うのが
整体操法である。
ここに、『機』『度』『間』が
どのように存在するのだろう、、、、
この身体は、しかも
「やり過ぎ」なければ満足しない、
「及ばぬところ」に、いくら尻を叩いても
重い腰を持ち上げようとしない、
のである。
えっ!
だからこそ、バランスを取り
曲がったものは、真っ直ぐにして
縮んだものは、伸ばせば良いんじゃないの、、、、
と、お考えだろうけど
そうでもないのである。
やり過ぎなものは、それよりも、さらにやり過ぎさせ、
及ばぬものは、ますます及ばないようにしなければ
身体は、納得できないのである。
歪み、バランスを崩したものは
揺れ出す。
安定を欠くのだから、バランスを取り戻そうと
自律調整の揺れが起こる。
けれど、ここに手を加えると、
揺れているのだからと、そっと手を加えようとすれば
この揺れは、止められぬくらいの
激しい揺れに、変化する。
逆に大きく早く揺すぶる事で、
揺れが止まることもある。
弛んだところに
いきなりドンッと背中を突いた方が
7種はハッとするのである。
虚を突かれ、身体は萎縮するのである。
事細かにあれとあれ、と
キッチリ指導するより
何気ない他人の言葉に
不安を覚えるのが2種なのである。
不安は身体に結ばれて、
あっという間に調子を崩し始める。
ガチガチの決め事に安心するのも
ほんの一時に過ぎない、
2種は何気なくフッと感じた不安が
身体に直結する、
その結ばれようは、頑固である。
やすやすとは解かれない。
いったん、結ばれた不安は次々の
不安を呼び起こす加速感も持っている。
身体がフッと変わってしまう
エアポケットのような落とし穴は
何処にでもあり、
他動的な調整は追いつけないのである。
勢いは、何処にあるのだろうか、、、
勢いの質を
変化、変転させないかぎり
やり過ぎも、不足も変化させる事は出来ない。
勢いは隠れている、、、。
やり過ぎの中に勢いがあるのではない。
及ばぬものに、勢いが足りないのではない。
勢いは、
停滞の中に隠れているのだ。
人は、抑制と過剰の社会に暮らしている。
身体に生まれた要求は、
すべてほとんどが、
窮屈の網の中に絡めとられてしまう。
人は動けば、停滞する。
これが、現代の身体である。
やり過ぎも、不足も
この停滞が生み出した
二次的な鬱散運動なのである。
停滞の中の勢いを見つけ出すことが
「機」「度」「間」を探り出す道なのだ。
ちょっと動くだけで汗ばむ。
布団は、かければ暑いし、はげば寒い。
冬の厚手の服は重く感じ、薄地の明るめのものを着たくなる。
季節を感じる身体の感覚の中に
私たちは、何を見出せるのだろう、、、、。