其の1 始めに 「気」 ありき (指田)
「季よみ通信」 ~白山⇔気法会往復ブログ~
これは、白山治療院 指田(私)と身体気法会の柳澤先生とで、整体 ・ 気 ・ 身体などについて、ブログ上で気の向くままにあれこれと語り合ってみようという試みである。
同名のブログを行き来しながら、お互いの記事の内容から感じ取ったことに絡めて、自由に続きを書き継いでいく。テーマは常に流動的、お堅い決まり事は無しで、ともかく気ままに書いていこうというブログ上でのコラボ企画である。
こんな企画は面白いのではないか、というアイディアは柳澤先生。
では、それを私達でやってみませんか、という発案は私、指田。
企画の通奏低音としては季節を読み取る、機を感じ取ると云うコトで・・・ と、
「季よみ通信」、とのタイトル命名は柳澤先生である。
柳澤先生は、私にとっては整体の大先輩である。年齢も多少離れているが、整体のスタイルもそれなりに違う。
ただ、愉気の質が似ている、とは柳澤先生の弁である。
愉気・・・。
愉気は、整体の真ん真ん中にあるものである。
愉気とは何か?
愉気とは、お互いの気が同調(シンクロ)し、感応(レスポンス)することを通して、互いの体が生命活動の調和をとろうと働きだすことである。
というのも、一つの説明の仕方であろう。
これが整体操法における愉気では、互いの気が感応することには変わりがないが、術者が主導して受け手の体が調和を取るように誘導していくという面が強くなる。
そして、それを実現し易くするのが、整体操法における 「型」 というものの存在である。
では 「気」 とは何か?
「気」 とは、生命そのものの原初の働きである。
新しい生命の誕生が受精の瞬間だとすると、人間はまだ心も体もできあがっていないときから生きている。その心も体もできあがっていないときから働いている生命そのものの力を、整体を始めとする東洋の医学 ・ 哲学では 「気」 と呼んでいるのである。「気」 は、「心」 と 「体」 を作り上げ、その両者を先導し、支え、かつ繋いでいる生命の根元的な力である。
と、いつも私は説明している。
整体で、まず始めに 「気」 ということを言うのは、「心」 も 「体」 もひっくるめた、人間全体に通底する生命そのものの働き = 「気」 に働きかけることを最も重視するからである。
そして、「気」 に働きかけるには、やはり 「気」 を以て為すということになる。それが、すなわち愉気である。愉気というのは、人間同士の最も根源的な部分でのコミュニケーションなのだ。
さて、一粒の受精卵が分化し、生を全うするためにいろいろな器官が出来て身体が形成されていく中で、気の働きもそれに合わせて多彩になっていく。
見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れて(触れられて)感じる・・・。五感の働きも、みな 「気」 の働きの具体化、現象化したものと言える。
整体操法の中で、こちらが腹部を触ろうとすると、まだ触れる前にお腹がぐるぐると鳴り出す人が結構いる。これも、触れようとするこちらの手と、今まさに触れられようとしている体との間に、物理的な接触以前に 「気」 の感応が起こるからである。
誰もが経験があるであろう 「視線を感じる」 というのも、ものを見ようという欲求と共に発現する 「気」 の動き、対象物に集注される 「気」 を感じているのだ。
神経の働きであろうが、筋肉の働きであろうが、そこには必ず生存の(また種族保存の)欲求に端を発する 「気」 の動きがある。まずは、「気」 ありきなのである。人間のあらゆる生命活動、心や体の働きは、全て 「気」 の動きの具体的な表現である。
日本語の中には、「気」 を使った言葉が非常に多い。
「元気」、「病気」、「陽気」、「陰気」、「根気」、「暢気」、「本気」、「やる気」、「気持ち」、「気力」、「気丈」、「気まま」、「気軽に」、「気が合う」、「気が強い」、「気が小さい」、「気がつく」、「気が向く」、「気がある」、「気がはやる」、「気が滅入る」、「気合い」、「気遣い」、「気働き」、「気色」、「気分」 などなど・・・。
挙げていけば、切りがないほどだが、一つ一つ見ていくとその示すところはなかなかに面白い。
とにもかくにも、日本語に 「気」 に関する言葉が多いのは、昔日の日本人が、目に見える動きに先んじて動く 「気」 の動きを、それこそ五感以前の 「気」 で感じ取っていたからだと思われる。
つまり、昔から日本人は、人間の生きて活動しているその中に、また人と人との関係性の根本に、「気」 というものの動きを感じていたということだ。
整体は、そういう日本人独特の感性と認識力の鋭さの上に成立した、非常に日本的な身体文化と言える。
21世紀、ITの急激な進歩で巷に情報はあふれ、現代人は非常に頭でっかちになっている。何事も頭で理解することを重視する傾向が強まり、往時に比べて 「気」 を感じることに疎くなっている面もあるかも知れない。
しかし、この時代に生きる現代人だからこそ発達している、新時代の 「気」 の感性というものも、やはりあるのではないだろうか。
柳澤先生は、「身体」 ・ 「気法」 の会において、まさに 「身体」 を 「気」 で読み解いていく活動をされている。そこには、自然の一部である 「身体」 と 「季」 の移り変わりとの関わりがあり、その関わりの中に 「機」 を読むことが求められる。
「季よみ」 は、「季読み」 でありながら、「機読み」 であり、「気読み」 でもある。
季よみ通信という、新たな試みの中で、時代に即した 「こころ」 と 「からだ」 の新たなる地平が立ち現れてくることを期待しつつ、これを以て第一回の往信としたい。