其の12 自分は生きるものか、死ぬものか、、、、(柳澤)
整体生活と云うものがある。
野口整体の世界に一歩、足を踏み入れれば
おおかた誰しもが、その身体観を生活化してみようと
引き込まれるように歩を進め始める、、、。
整体的な身体観を習慣として実践することで、
整体的な自律した生活を送る、と云うものである。
いわば、「自主管理な身体」と云うものを
めざしている。
生きている当人である、本人が
自分の身体の主となって
生き抜いてゆくと云うのは、
ごく、当たり前のことであるし、
逆に逃れようのないものでもある。
自分の身体が嫌であっても
自分の性格がおぞましかろうが、
逃れられないから、
人は、のたうちまわるのであるから、、。
けれど、
自分自身の身体に何が起こっているのか、
今、自分の身体の中の何が動き出し、
何が停滞して何が困難をなしているのか、
明確に自覚化している人は少ない、
いやほぼ、世の中には存在しない、、、。
整体生活の究極の目的と云うものは、
自分は生きるものか、死ぬものか、、、
どちらなのかと云うコトが、
その時、その場で感覚出来ると云うコトに尽きるとも、言える。
人は、
自分がやがて死に向かいつつあると云うコトは
何となく判っていても、
一体、いつ死ぬのであろうか、、、と云うコトは
判らないのである。
いや、これは、
理由のあることで、、
実際、33年後に自分の寿命は尽きるのだと
そんな先のプログラムを本人が判っていることの、意味は
あまりない、と言える。
身体にとっては、
いつ頃まで、無目的な消耗活動を続け、
いつから養いとなる精神活動を引き起こすアクションを
仕掛けるかとか、
どの時点で、人生を折りたたむ準備を始めるかと
云うような事を、計画するには
必須の情報であるので、
逆に、身体においてはこれはすでに自明のことなのである。
その時、その場で、
必要な時期に、あぶり出しのように
意識の水面に、ふっと
浮かび上がればよいのである。
ああ、自分の人生は
もう終わりなんだな、、、、と。
本来、それが難題であったわけではない。
死の自覚化と云うのは、生き物にとって
当たり前のことであり、
まさに粛々と執り行なわれる
最後の工程なのであるから、
何をいまさらと、、きっと
他種の生き物たちは思っていることだろう。
しかし、人は
死を不安がり、怖れる。
身体は、その時に至れば、実に潔いものだが、、
意識の総体である「自分」と云うものは
いまある自分が、何処に向かっているのか
皆目、判らないために
何十年も先のことを、不安がり
焦り、もだえている。
自主管理な身体、と云うものは
これを、ふっと気付けるよう
意識の一部を身体化しておくことである。
いや、そのすべてを
感じ取り、次にどう動くのが良いのか、
すべてが判ってしまうなどと、云うコトは
さすがに尋常ではない。
ありえないことである。
ただ、
半歩先、一歩先の
進む路がふっと判断できるのだ。
まだ大丈夫だ、
自分は生きようとしている、、、、。
とりあえず、客観的に
判断する方法はあるのだろうか、、
「自主管理な身体」の初歩の段階で
修めておくべき身体の診断法がある。
脈を観る、
お腹の弾力を観る、、
この二点がある。
両方とも
普段の自分の平常時の様相を
把握していなければならないから、
観察を余念なく行なっていないと
異常時に、それに気づけない。
脈は一息四脈が平常である、
呼吸1回に脈を4つ打つ。
体熱が上がったり、
身体が急激な変動への対応と復元を図っているとき、
脈は早まる。
一息四脈を破ることになるのだが、
四脈より多く数を打つのであるなら
あまり用心は要らない。
逆に四脈を割る、少なくて非常に遅く力弱い脈は
警戒する。
頭を非常に強く打ったり、
身体の内部に強く衝撃を受けたような場合の、
このような脈は、
本当の意味で安静が必要となるし、
救急対応の現代医療にお世話にならなければならない
時もある。
さらに
何テンポか飛んだり、打つ強さが一定でなく、
きれ切れで不安定な不整の脈は
最大の注意が必要である。
脈の乱れ、異常は
身体の羅針盤となりうる貴重な情報源なのだ。
首筋の二点と手首の一点の脈の合致で
身体のすぐ行く末を占ってみる、と云うのも
よく知られた整体的な脈による身体知である。
お腹の弾力とは、
言葉通り、「弾力」と云うもののことで
呼吸に合わせて、盛り上がり、へこみ、
また盛り上がり、する
お腹の張力のことである。
お腹の潮力、と言い表してもよい、、、。
潮が満ち、退くように
身体の波によって、その力感は移り変わる。
満ちるほうに力強い時もあれば、
退(ヒ)くほうに力を感じる時もある。
満ちるも退くも、いずれの時にも
変わらず感じられる、しなやかな水の束が
奥にうねっている。
お腹の呼吸の山なりに手を乗せ
その呼吸の拡縮についてゆくようにしていると
このうねりを、感じられる。
ためしに、吐き切った底で
やや押圧をかけてみると、
しぼみきらない、この水の束の弾力を
感じ取ることが出来る。
このしなやかな弾力があるうちは、
どんなに変動が激しかろうと
心配はない、、
にぎやかに症状が打ちあがっていようと
まったく不安はないのである、、、。
この弾力がぼやけ、
ふにゃっと力を失った時、少々
用心が必要となる。
あるいは、いつのまにか、
ぎゅっと硬く小山のように結ばれた縦長の
帯のような、押さえても、圧しても
凹まず、沈まぬ硬直の束が
生まれていたら、、
心理的なものや、緊張状態に強いられた
休まらない頭による
内臓への負荷を疑うべきであり、
いよいよ、
力弱く、弛緩して盛り上がることもなく
ヘニャっと凹みきってしまったいたなら、
回復に相当の時間と注意が必要である事を
覚悟しなければならない。
お腹と云うものは、実に面白く、、、
さまざまなコトを教えてくれる
情報ステーションなのである。
弾力のみでなく、
気的な温かさや、呼吸の部分的な入り具合からも
その偏在によって、
どこに、どのように偏って気の集注が
在るかによって、実にさまざまな体状況を
読み取れるのだ。
けれど、ある程度
観察が出来るようになると、
今度はその色合いがころころ変わるごとに
一喜一憂が、始まる。
これはあの、、これこれの症状の、、、、兆候を
示しているのではないか、、、、!?
観察法に習熟しても
気の休まる時がなくなったりする、、、。
つまるところ、
観察は、やがては判断法ではなく
確認の術とならなくてはならないのである。
観察に長けてくると、
勢いが、観えてくる、、。
勢いが、隆盛なのか衰微なのか、、
波が満ちてくるのか、退いてゆくのか、、、、
気における「勢い」が見え初めて
やっと、入り口に立てた
ともいえる。
慣れてくると、自分の身体のみでなく
他者の身体も観えてくる。
今、起こっている変動、症状は
さらに暴慢するものなのか、
いやこれで、おとなしく収束されてゆく、、
と云うことが観えはじめる、、。
部分的なステージごとの変動の
盛衰、つまりは
「生」の方向に向かっているのか
「死」の方向に退いてゆくのかが
判ってくるのである。
整体生活と云うものは、
このような身体や季節や自然や
人生や世界や、
木やら草やら、生きものの表情から、、
勢いを、感じ取れるような
生活なのである。
何となく、いつのまにか
その勢いだけがコンパスに
生きてゆく事に
なるのである、、、。
梅雨は、古い故障や溜めこんだ疲労が
浮き上がってくる季節である。
鈍りと停滞の季節のような
体感であるけれど、
この時期こそ、一皮、古い皮を脱いで
脱皮できる好機にもなる、、。
何をどう、感じ取るかにかかっており、
感じ取った分だけ、やがて変わってゆく、、、。
感覚ではなく、
それが何処に向かってゆくのか、
どう云う空想に結びつくかに、
関わっているのである、、、、。