其の13 変動と体の上昇志向(指田)
「季よみ通信」 のサブタイトル ~白山⇔気法会往復ブログ~、この白山は、私が開設している白山治療院のことである。
都営三田線白山駅からは徒歩7分。最寄り駅は東京メトロ南北線の 「本駒込」、所在地は文京区 「向丘」、それでも名称は「白山」 治療院なのである。
この白山治療院、治療院なのに、通って来られる人の半分以上は、特に体に異常を抱えていない。つまりは健康な人々である。
皆さん始めは何か病気があったり痛い所があったりして、それを治したくて来院されたわけだが、多くの方々は治ってしまった後でも継続して操法を受けられている。そういう人達は、体を整えるということの意味を、まさに 「体」 を通して知った人である。
最近は一般書籍でも野口整体関連の本がたくさん出ている。またネットでもかなり野口整体の情報は入手できるので、知識として整体を知っている人も増えているだろう。
そしてその整体の考え方に共感、賛同して、整体を受けにいらっしゃる人も少なくない。やはり整体は体験である。本で読んだだけでは解らない部分は、実際に操法を受けてみて、体を通して感じ取るところが大きい。
しかし操法は、相性もある。私のところに来てピンとこなかった人も、もう一度他所で操法を受けて見られることをお勧めしたい。
なお、「野口整体」 でありながら、「治療院」 であることに関しては、また機会を改めてどこかで書こうと思う。
さて、一人の人の体を継続的に長く観ていると、体に勢いが出てきたところから、いきなり変動が始まるということがよくある。
体に勢いの無いうちは、じーっと大人しくしていて、勢いが高まってくると変動を起こすのである。
整体に通って調子良く過ごしていたと思ったら、突然体に変調が訪れる。これはどうしたことかとびっくりするが、決して私が下手を打ったのではないので悪しからず。むしろ予定調和とでも言うべきものである。
人間誰しも体にいろいろな矛盾を抱えながら生きている。治りきらなかった古い捻挫や打撲による硬直・萎縮、どうにも弛まない職業的な偏り疲労、成長してくる中で育ち切らなかったところ等々・・・。
しかし、それらのネガティブ要素がある限り健康にはなれないのか、整体にはなれないのかと言えば、決してそんなことはない。
生きてる人間である限り、何らかの不具合は常に抱えているものだ。それでも、それらを抱えていながら、その中でのバランス、調和というものを常にとり続けるのが人間の素晴らしいところである。
「整体」 であるか否か。それを最も端的に表すのは、腹部の弾力である。
鳩尾部分、胸骨剣状突起の指三本下の腹部第1調律点が「虚」、
腹部第1と臍との中点にある腹部第2調律点が 「冲」、
臍の指三本下、いわゆる丹田に当たる腹部第3調律点が 「実」、
であることが、整体であることを示す。
この腹部第1・第2・第3が、「虚」・ 「冲」・「実」 である状態を腹部が「順」であると言う。
そうでない状態は 「逆」 である。
体にある種の異常を抱えていても、腹部が 「順」 であれば、現時点で最も良いバランスを取っている状態である。体は、その時点での最高のパフォーマンスを発揮している状態であると言える。
つまり腹部が 「順」 なら、一応体は整っている。
体が整っているということは、その段階としては理想的な体の運転状況であり、概ね快適さと安定性を感じることができる。
しかし、いつまでも古い故障や慢性的な異常を抱え込んだまま行くのでは、整体を受けている甲斐がない。そこで、それらの潜在している異常を浮き上がらせて解消していくように仕向けるのが整体操法の役目である。
そのために、過敏に愉気をし、圧痛に働きかけ、鈍った古い異常を体自身が認識するように持って行き、体の回復欲求を引き出すのである。体の中の寝ぼけた部分が目覚めてくるように、手順を踏んでアプローチするのだ。
体力状況が良くなってきて、鈍りが取れて体が目覚めてくると、体は手の付けようがなく後回しにしていた古い異常や、今まで放置していた問題を何とかしようと働き出す。
そこで起こるのが、体の 「変動」 である。
弛緩反応。 過敏反応。 排泄反応。
だるくもなれば、眠くもなる。痛みも出れば、熱も出る。下痢もすれば、湿疹も出る。急性病のような状態になることもあり、そこで病院に行けば何某かの病名もつくかも知れない。
しかし実は、体は長年の懸案を片付ける目途がつき、もう一段高いステージでのバランスを取り直すための準備が調い、ようやくそのための作業を開始したというわけなのである。
整体操法とは、体の変革を促すために、ある意味では体に自然の変動が起きるよう起きるようにと、お膳立てしている作業だと言えなくもない。
もちろん体の病変は、全てが体が整うための 「建設のための破壊」 とは限らない。症状と共に体が悪くなり、死に向かうような場合もある。
大事なことは、体が “ 「生」の方向に向かっているのか、「死」の方向に退いてゆくのか” 、ということを見極めることである。そのためには、それこそ体の勢いというものを見る能力が求められる。悪くなっている人に向かって、「大丈夫ですよ」 などと安請け合いするわけにはいかない。
ぎっくり腰を繰り返し、どんどん腰を毀していく人もいれば、同様に繰り返しながら、どんどん腰がしっかりして立ち直っていく人もいる。
流産ですら、繰り返すごとに骨盤が整い、妊娠・出産に耐えうる体、適した体に変化していくことだってあるのだ。
どのような変動が起こっていても、その時の体の向きがどちらを向いているか、ということが重要なのである。どのような変動でも、体の向きが上向きなら、その変動を通して体はより良い方へと変わっていく。
生きている限り、いつでも体はより良くなろうと動いている。
傷だって、いくら 「傷よ、塞がるな!」 と命令しても、勝手に治っていってしまう。
そんな本来思いっきり前向きな体が、なぜか治っていかなくていつまでも病気でいる原因、その素直に治っていかなくなっている閊えを解除していくのが整体操法である。その作業さえ上手くいけば、後は体が自然と良い方向へと動いていく。
健康にも、上には上がある。体力的にも、体感的にも、更に元気な、更に快適な体というものが、可能性としていつでも用意されている。整体的には、死ぬ直前が最も健康、ということが理想だと思う。
取りあえず体が整って安定したらそれっきりかと言えば、体はそんなに無欲ではない。しばし平和に安住しているように見せかけながら、虎視眈々と次なるステップアップを狙っている。
いつでも体は、ワンランク上の健康を志向しているのである。
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