「季よみ通信」 休止のお知らせ

さて、突然ながら当ブログ 「季よみ通信」 は、しばらく休止とさせて頂きます。

この往復ブログというコラボ企画は、柳澤先生と私で 「整体」 ・ 「気」 ・ 「身体」 などについて、ブログ上で気の向くままにあれこれ語り合ってみようという試みでした。
振り返って見ると、お互いがかみ合っているようないないような(笑)、多少のちぐはぐな感じもありましたが、その微妙なちぐはぐ感をお互いの個性の発露とみると興味深くもありました。

「季よみ通信」 は、私の側からすれば、柳澤先生を整体の先達として、また非常に興味深い一人の人間として、より深く研究できる学びの場でもありました。

「季よみ通信」 は、いったん休止ということですが、事実上はこれにて終了ということになると思います。
なぜならば、この先再び機会が巡って来たときは、柳澤先生とは新たな企画で新たな活動をしたいと思うからです。

 

長いようで短い間でしたが、ご愛読下さった方々には感謝申し上げます。

                ありがとうございました。

其の27 この夏の体 ~ 震災の爪痕

今年の夏も、なかなかに暑かった。気象庁の観測によれば、「記録的猛暑」 だったという。今夏を通して(6~8月)の日本の平均気温は、平年を1・06度上回り、1898年の観測開始以来4番目に高かったという。
8月中旬の平均気温では東日本が平年比で2・4度、西日本でも平年比で2・3度高も高かったそうだ。
高知の四万十では、気温41℃という観測史上最も高い気温を記録。さらに四万十は、全国の観測地点で初めて3日連続の40度超へとなったという。

この暑い夏に、官庁などの関連機関は、水分補給など熱中症に対する注意喚起に躍起になっていた。特にお年寄りなどには、暑いと感じなくても冷房を入れましょう、と指導していた。
それでも、今年初夏以降の熱中症のため医療機関への搬送された人の数は、8月27日時点で5万3739人に昇るという。これは、昨年同期の3万9389人に比べ大幅に増加。記録的な猛暑だった2010年同期の4万6728人を上回るペースだそうだ。

気温40℃以上は、ほとんどの日本人にとって未体験ゾーンである。そこまでではなくとも、気温(室温)が体温に迫るような状態であれば、冷房を使うのが得策だろう。特にコンクリート、アスファルトだらけで緑も土も少ない都市部では、冷房ゼロというのは現実的ではない。

やや大げさにいえば、今や冷房は命を守る必須アイテムとなっている。しかし一方で、冷房を使うからこそ熱中症になりやすくなっている、という現実もある。

人間の体は、四季の移り変わりに対応してメタモルフォーゼ(変態・変身)している。夏であれば、暑さに適応するために体を弛め、なるべく放熱するように体の構造を変化させている。同時に、汗も出やすいようになっており、同じ室温の部屋で運動しても、夏は冬よりも汗がたくさん出る。
本来、夏は汗さえかける体ならば、あまり問題は起こらない。

反対に、冬は引き締まりの季節で、寒さに耐えるため体を引き締めて熱を逃がさないようにしている。引き締まるということは、心身の緊張が高まるということでもある。特に神経系の緊張が高まるのだが、その行き過ぎた引き締まりを適度に弛めることが冬の操法では一つのポイントとなる。
一方夏は、弛みすぎて “ たるんでしまう ” のをどう引き締めるかが操法の肝となる。柳澤先生が推奨する、夏に皮膚をつまんではじく “ パッツン法 ” なども、この弛みすぎを引き締める方法である。

しかしこの夏は、たるむどころか冷房でガチガチに固まった体で来院される人が非常に多かった。訴えをきくと、肩が凝る、肘や膝が痛い、体が固まっているような気がする、朝起きて床に足をつくとアキレス腱が痛い・・・。みな冷房で冷え切った体である。特に夜冷房をかけたまま寝ている人は、体が固まる傾向が強い。

初夏から梅雨、そして梅雨が明けて、体は本来開き弛んでいく。同時に、発汗もしやすくなる。それが夏の体の自然な変化であり、それが暑さに体が慣れるということでもある。
しかし近年、商業施設などでは4月にもなれば、ちょっと暑い日があると冷房が入っている。5月の連休以降は、冷房が入っているのはそう珍しくない。梅雨に入れば、どこでも冷房を使うようになる。そして梅雨が明ければ、多くの人が冷房をつけて就寝するようになる。
これでは、体が夏仕様に変化するいとまがない。そしてメタモルフォーゼは完了しないまま、体は酷暑に突入するのである。文明の利器、“ 冷房 ” というものの存在が、夏を涼しく快適に過ごさせてくれるその一方で、人間の体を暑さに対応できないようにしてしまっている。

私が学生のとき、高校までは学校に冷房設備はなかった。中学生頃から家にはエアコンはあったが、電気代が嵩むので稼働日数はひどく少なかったように記憶している。
私が高校3年生というと昭和60年(1985年)である。この年の7月の東京の気温を見てみると、7月1日にはすでに最高気温32.2℃。その後いったん気温は下がるものの、30℃を超える日は19日もある。8月になると、最高気温が30℃を下回る日は4日しかない。月間の最高気温が33.3℃であるから、ここ数年とは暑さの質は違うだろうが、それでも結構暑い。
例しに8月10日の東京の過去の気温を見てみると、天候にもよるが昔からそれなりに暑かったことが分かる。ちなみに私が生まれた昭和42年(1967年)8月10日の最高気温は34.5℃、最低気温は24.3℃。やはり、結構な暑さである。

それでも昔は窓を開け、扇風機や団扇で暑さをしのいでいた。それでなんとかなっていたのは、住環境の問題などもあるだろうが、一番はやはり体の違いであろう。

現代は、エアコンの普及で汗をかく機会も減ったのだが、汗をかくということそのものに嫌悪感を抱く人も増えた。人前で汗をかくのが恥ずかしいとか、汗びっしょりのオヤジ、もとい中年男性を汚らしいと見るような、発汗に対する意識の変化がとても大きい。
冷房をつけるきっかけも、暑いというだけではなく、汗をかかないようにというのが一つの要因となっているようだ。

現代人は様々な機械や人工物に囲まれて生活している内に、いつの間にか自分たちの体が生き物だということを忘れ、何か機械仕掛けのロボットかアンドロイドであるかのように錯覚し始めているよう思われる。だから、なにやらベタベタしたり、時に匂ったりする汗などというものは、出さずに済めば出さないでおこうとする。
しかし、どれだけ科学が進歩しても、いつまで経っても、どこまで行っても、人間の体は自然そのものである。それを忘れては、健康生活の実現はあり得ない。

冷房の効いて涼しく低湿度の部屋から、いきなり高温多湿の屋外へ・・・。うだるような不快指数100の炎天下から、冷蔵庫のようにキンキンに冷えた電車やバス、コンビニへ・・・。
そんなことをくり返しているうちに、体はどうしていいのかわからずに迷走するか、変化することをあきらめ硬直してしまう。現代風にいえば、自律神経が正常に働かなくなる。

「熱中症に注意して下さい!」 の方ばかりクローズアップされているが、「冷房による冷やしすぎに注意しましょう!」 の方も、もっと広く社会に浸透してくれるとよいのだが、なかなかそうはならない。節電やクールビズなどで少しは変わるかと期待したが、相変わらず必要以上に温度を下げているところが大部分である。おかげで、日本の夏はとてつもなく暑く、かつ寒い。
いくら自分だけ冷やしすぎないように気をつけていても、買い物に出たり、通勤通学で交通機関を利用する度に体が冷えていたのでは、体が固まるのは防ぎきれない。

都市環境、住環境、労働環境などが、自然共生型の、「体にやさしい」 ものになっていってくれることが理想だが、それにはまだまだ長い時間がかかるだろう。取りあえず、自分たちは自分たちのできることをやっていくしかない。

冷房の強く効いているところへいくときには、何か羽織るものや、スカーフなどを用意する。夏は特に、頚・肩・背中の上部を冷やさないように気をつける。それから、肘・手首・足首も冷やしてはいけないポイントである。
冷房を使っている場合は、夏でも湯船にお湯を張って浸かる。時間は短くてもよいので、夏なりにそこそこ熱めの湯に入る。お風呂の中で汗を出そうとせず、風呂上がりにたっぷり出す。少なくとも、風呂上がりに扇風機で風に当たったり、冷房で急激に冷やしたりしてはいけない。
早朝や日が落ちてからなど、ウォーキングなどで汗をかくようにする。その際は、汗をかいたまま冷房の効いたコンビニなどには入らない。急激に汗が冷えると内攻して、せっかくの運動があだになってしまう。運動後は、汗はよく拭いて、シャワーを浴びるなり着替えるなりして、汗が自然に引くまで待つのがよい。

来年の夏は、5月の連休あたりから、運動や入浴などで意識的に汗をかくようにして、梅雨明けまでには、十分汗のかける体を作っておこう。

・・・

・・・

さて、体が冷房で冷えて固まっているということの他にもう一つ、この夏にある特徴的な体の変化があった。それは、第7胸椎の硬直である。

この第7胸椎の硬直について、柳澤先生が、「季よみあと帖」 で触れている。

  胸椎7番の消えない違和感の問題は
  この数年、否具体的にはこの2年
  ずっと、まるでくさびを打たれたかのような
  重要なポイントとしてある、、。

  環境の影響を受け、また察知する
  このポイントにくさびを打ったのは
  果たして何であろう、、、

  7番の異常は、漠たる不安を将来に感じ
  未来をビクつく傾向をもたらす、、、

第7胸椎の異常は震災後から常にあり、潜在化、顕在化を繰り返しながら今日まで続いている。その第7胸椎の異常が、この夏急に顕在化する人が増えてきた。少なくとも私が操法において体を観る中で、第7胸椎は急処として強くクローズアップされてきていた。

季よみあと帖  《※ 現・季読み帖》 は、柳澤先生の季よみ通信のいわゆる後記である。実は私は、季よみ本編よりこちらの方が楽しみだったりする・・・)

2011年の夏、つまり震災後初めての夏に、皮膚の異常が多発した。皮膚は神経系とのつながりが深く、過剰な精神的緊張から皮膚に炎症などが出る人が多かったのだ。
また皮膚は巨大な排泄装置であるので、神経の過緊張から出る体内の毒素を排出しているということもある。そして、原発事故によって拡散した放射性物質を取り込んでしまった体が、それらを汗から、また皮膚から直接排泄したということもあっただろう。

その皮膚の異常を通して体は必要な排泄をおこない、同時に神経系のバランスを取り直しているのだが、第7胸椎は心理的なことと深く絡むと同時に免疫系の中枢でもある。その夏の一種のアレルギー的な皮膚の過敏現象には、やはり第7胸椎は確実に絡んでいたのだ。

そして、この夏も第7胸椎の変動をともなう皮膚の過敏現象が多発していた。皮膚からの排泄には、汗をかける季節が有利である。夏に変動が起こるのも、体の回復欲求からして不思議ではない。

しかし、それにしても、というくらい、この夏急に第7胸椎が操法の焦点として浮かび上がった。なぜ、まるで揺り返しのように、多くの人に第7胸椎に異常が現れたのか?
その、なぜ、の答えは一つではないだろう。しかし、その答えの一つに、先日唐突に突き当たった。そして、それはたいそう意外なものだった。

ある方の第7胸椎を触っていたとき、何かコツンと頭の中に当たるものがあった。コツンと当たった何かは、頭の中に当たったのだが、それは外からやってきたような感じだった。

ああ、もしかして・・・!?

早速、その方に訊ねてみた。

「最近、必ず見ているテレビ番組などはありますか?」

その答えは、やはり予想したとおりのものだった。

「 あります。 『あまちゃん』 です」

やっぱり・・・。

あまちゃん 』 とは、岩手県久慈市がモデルの架空の町、北三陸市と東京を舞台にした現在放送中のNHKの連続テレビ小説である。主人公は、東京生まれ東京育ちの女子高校生の天野アキ。ひょんなことから母の故郷北三陸で海女になることに・・・。
このNHK朝の連ドラ 『あまちゃん』 は、高視聴率もさることながら、各種メディアにも取り上げられ、もはや社会現象とまでいわれているほどの人気ドラマだ。

さて、その人気ドラマだが、くわしい あらずじ は省くが、物語のスタートは2008年の夏。舞台は北三陸。当然だが、物語が進むにつれ、いつかは震災の日がやってくる。
東京に出ている主人公アキの祖母や友人、海女の仲間達はどうなってしまうのか?ドラマだとはわかっていても、ある意味完全なフィクションではない。なにしろドラマの中で、現実に起こった震災が刻一刻と迫っているのである。登場人物に感情移入するほど、迫り来る震災の日に対する不安や恐怖を追体験していることになる。

その後、第7胸椎に顕著な反応がある方に、「最近見ているTV番組は・・・」 と訊ねてみると、やはりその多くが 『あまちゃん』 を見ていた。
それで、第7胸椎に反応が出ている人に、大学生や主婦層が多かったのもうなずける。それらの方々は、朝の連ドラ(昼・夜にも再放送はある)を見る時間的余裕のある人達だったのだ。

『あまちゃん』 に限らず、今年の夏はゲリラ豪雨や竜巻などの自然災害が多かった。そのニュース映像などを見て、2年前の震災を思い出したり、被災地に思いを馳せた人も多かっただろう。
また、連日汚染水問題が報道されており、未だなんの解決の糸口も見いだせずにいる福島第一原発に対する不安もあるだろう。
どちらにしても、震災の傷跡は、未だ私達の心と体に深く刻まれている。そして心身は、ちょっとしたきっかけがあれば、すぐに揺り返しが来るような不安定な状態にある。その具体的な体の表現の一つが、第7胸椎の硬直なのである。

・・・

今回の後半部分は、次回(其の29) への前振りであるのだが、(もしかすると)柳澤先生が関連する内容の記事を書いてくれる(かもしれない)ことに、ちょっぴり期待したい。

其の25 冬の体 引き締まりの季節

整体の世界では、冬は上下型体癖的な季節であるとされている。上下型体癖とは、エネルギーが大脳の働きに昇華し易い体のタイプのことをいう。

体癖というものは、生まれ持った心身の感受性の傾向のことで、上下型・左右型・前後型・捻れ型・開閉型の5つに分類される。ここでは詳しくは述べないが、一人の人間の持つ体癖的傾向は、その現れ方の濃淡に変化はあっても、基本的には終生変わることは無い。

では、冬という季節が、上下型体癖的な季節だということはどういうことか。

冬は、一年を通して、最も頭の働きが高まる季節なのだ。

体のエネルギーが精神的な働きに転換しやすいとでも言おうか、精神活動が活発になり、精神による創造力が最も高まる時期なのである。そして、それはまさに、上下型1種体癖の特徴なのだ。

上下型的な傾向の薄い人でも、冬という季節は、その人なりに創造的な頭の働きが冴えてくる。

こういう季節の移り変わりに対応して、心身の体癖的な傾向が変化することを、「体勢」 が変わるという。
体癖は、個人の中にある特性のようなもので、基本的には生まれてから死ぬまで変わることはない。
それに対して 「体勢」 は、個人の固有の体癖的傾向とは別に万人の心身において、季節に対応して変化したり、バイオリズムで日々移り変わったりしている。

この体癖というものの元になっているとも考え得る 「体勢」 の変化という現象の解明は、野口先生の高弟であった柳田先生という方の一生を通じた研究の成果であると聞いてる。

さて、上下型的体勢となる冬は、思考が冴え、精神の働きが高まる季節であるが、逆に言えば、その系統が働き過ぎになりやすい季節でもある。そして、「引き締まり」 の季節である冬は、やはり行きすぎれば、過剰に緊張した状態にも陥りやすい。

晩秋以降、空気が冷たくなると、その冷たい風にさらされて眼が緊張しやすい。そして、だんだんと空気が乾燥してくるので、乾いて水分が不足しがちな体の中で、最も潤っていなければいけない眼が、どうしても乾いてくる。

眼の過剰緊張、乾燥による疲労しやすい状態は、脳の緊張を引き起こす。眼は、脳の出先機関であり、眼が疲れると脳も疲れ、眼が過敏になると脳も緊張が解けにくくなる。すなわち、リラックスしてポカンと弛むことが難しくなるのだ。

眼の緊張 ・疲労を取るには、蒸しタオルで温めるのがよい。眼の蒸しタオルは、眼の緊張 ・疲れを取ると同時に、頭の緊張をも弛ませてくれる。

蒸しタオルは、普通は家庭にタオルウォーマーなどはないので、お湯に浸けて絞ったものでよい。それも面倒だという人は、レンジで温めたものでもかまわないが、お湯で絞った方がなぜか気持ちがよいし効果も上がるようである。
熱い湯に浸けて絞る場合は、細長くたたんだタオルの両端を持って、中央部分をお湯に浸して絞るとよい。炊事用のゴム手袋などをすれば安全である。
また、レンジで温める場合は、表面よりも中心部の方が高温になっている場合があるので、注意が必要。

ホカホカと温かいタオルを眼に当てる。4~5分もすると冷めるので、温め直してまた当てる。これを2~3回程度くり返す。
よく、冷めない温パックのようなものはどうですか、と訊かれるが、それはあまりお奨めしない。だんだん冷めるという温度の変化と、温め直す間のインターバルがあるということが、実は眼を温める上での重要なポイントなのである。

同じ理由で、蒸しタオルをビニール袋に入れて冷めにくくすることや、いくつも蒸しタオルをつくっておいて、冷めたらすぐ用意しておいたものと取り替えるのもよい方法ではない。いちいち手間をかけて温め直すのが、眼の温法としては優れているのである。
これは、試しに比べてみるとよくわかる。一度くらい、やり比べてみるのもよい。人に訊いたのと、実体験では、納得度合いが違う。
お湯に浸けて絞ったタオルとレンジでチンしたタオル。また、両眼一遍に温めるのと、片方ずつ温めるのも、比べてみると面白い。

それから、眼は強く圧迫してはいけないところなので、蒸しタオルを当てるときも、強く押しつけたりせずに、ふんわりとやさしく当てる。
ちょっと仰向いておこなうと、頭の緊張が抜けやすくてよい。仰向けに寝てやってもよいのだが、つい気持ち良すぎて寝てしまうと、冷えた濡れタオルを眼に当て続けることになるので要注意。

冬は、頭が緊張し、眼が疲れやすい季節ではあるが、眼も頭もどんどん使う方がよい。どんどん使って、よく休める。使って上手に休めることで、頭も眼もどんどんよくなっていく。
これは、体のどこでも同じである。ただし、それに適した季節というものはある。冬は、頭を鍛える季節なのだ。

眼も冷たい空気にさらされ緊張し、乾燥によってドライアイにもなりやすいが、同じことは全身にも起こっている。
冬の体にとって影響が大きいのは、なんと言っても 「冷え」 と 「乾き」 である。

整体で、「体が冷えています」、と言う場合、それは冷えたことによって体に何らかの変化が生じていることを見て取っている。
足の甲の第3・第4中足骨の間が狭まっている。第1腰椎が突出し、第4腰椎が引っ込んでいる。骨盤が縮んで、固まっている。第3腰椎が捻れている、などなど・・・。
骨格や筋肉、皮膚などに 「冷え」 たことの影響が及び、その状態が固定化してしてしまっていることを問題にしているのである。今、手足を触って、冷たいか温かいかということを言っているわけではない。
言ってみれば、「風呂上がりで全身ポカポカしていても、『冷えている』 体」、というものがあるわけである。

その 「冷えた体」 を回復させる、すなわち冷えを抜く方法として優れているのは、足湯である。足の甲の第3・第4中足骨間= 「冷えの急処」 を押さえて弛めた後、足湯をする。

足湯のちょっとしたまとめ

また、朝風呂に入るのも効果的である。

冬は寒いので 「冷え」 には気をつける人は多いけれど、「乾き」 に関しては無頓着な人が多い。
人間は、感覚的にも冷えるということはわかりやすいが、体が乾いてくるということに対しては鈍いのだ。暑いときの発汗による水分不足はまだ感じるのだが、冬の空気の乾燥による体の乾きにはとんと鈍い。
しかし、感覚は鈍いのだが、その影響の方はしっかり体に現れる。

皮膚がかゆい、筋肉がこわばる、節々が痛い、目が乾く、空咳が出る、胃が荒れる、便通が悪くなる、体がむくむ、小便が近くなる、などなど。

冬の体を取り巻く環境は、ひどく乾燥してる。体の水分は、皮膚からも飛んでいくが、呼吸からも排出されている。気をつけて水分を補給しないと、カラカラの干物のようになってしまう。

乾いているのだから、当然水分を取るのがいい。しかし、水分なら何でもいいかといえば、それがそうでもない。
水分と言っても、お茶や紅茶などは、たくさん飲んでも体が潤わない。利尿作用が強いからであると思われるが、ともかく体を素通りしてしまう。コーヒーなどは、かえって体の渇きを助長する。
お酒はもっと乾く。お酒を飲む人は、よほど気をつけて乾き対策をしないとドンドン体が干からびて、老けていってしまう。お酒を飲むときは、一緒に水を飲むといい。

体が整体になってくると、乾きにも敏感になってくるが、まずは知識として「秋から冬は体が乾く」ということを知って、水分補給に気をつけるのがいいだろう。
潤っている状態が分からなければ、乾いている状態も分かりにくいのだから、ともかく水を飲んでみることから始めてみて欲しい。潤ってくると、体が乾いている状態の不快な感じが分かってくる。

秋口から初冬ぐらいまでは、スープや味噌汁、蕎麦、うどん、雑炊など、塩気のある温かい水分も吸収がよい。
しかし、冬も本格的に寒くなると、なんと言っても 「水」 がいい。白湯や湯冷ましではなく、生きた水を飲む。それが、冬の健康法となる。

寒いときに水を飲むと体が冷えないか、と訊かれることがあるが、この時期体が整っている人は、冷たいものがおいしく感じる。そういう感じの無い人は、体の引き締まりが足りていない。もちろん過剰な緊張はよくはないが、冬の体は引き締まりがなくてはいけない。

引き締まりの足りないということは、十分に冬の体になっていないということである。そういうときは、下半身をよく温めると、冬の体になってくる。
足湯も良いし、風呂の入り方で工夫するのも良い。そして、秋から冬になるときは、遠慮せずにどんどん暖かくして眠ることである。それが、冬の体への移行をスムーズにする。

さて、冬の体について書いてきたが、実はもうすぐ立春というこの時期、すでに体は春に向けて変化し始めている。
東京では、例年1月の10日頃には、はじめの春の芽吹きがある。ある朝起きると、体の中に春の気配を感じる。
そして、寒さもますます厳しい1月の下旬になると、体にはっきりと春の 「開き」 が感じられる日が来る。
陰極まれば陽となる、というが、寒さの極みに至ると同時に、その中に春の陽が生まれているのである。

季よみ通信 ~気法会サイド

其の23 手の感覚から整体的身体操作を構築する

“ 通信の其の21で、
指田さんから、バトンを渡された格好であるが、
私に何か特別な回答があるわけでもない ”

といいながら、十分すぎるほどしっかりと回答されているところが柳澤先生らしい・・・。

「型で動くこと」 、 「身体運動の術化」 に至るためのプロセスもしっかりと解説されているし、その際の注意点も明示されている。

具体的な体の捌きについては言及しないのかと思いきや、読み進めていくと、「丹田で動く」 ことについても具体的なヒントが与えられている。
しかし、あくまでヒントであって、どこをどう使うというような身体操作の手順や、その時にこういう感覚を持つのが正しい、といった意識的な運動・感覚の部分については示されてはいない。それらを示さないということが、すなわち柳澤先生の 「身体運動の術化」 に対する答えともなっている。

最近、川島金山先生の野中操法研究会で講義されている柳澤先生の映像を見る機会があった。
今までに柳澤先生の動きを身近に拝見する機会は多くあった。操法の研究会をしたこともあり、また先生の操法を間近で見たこともある。しかし、改めて映像で見てみると、直接見ていてわからないところが、かえってよく見えることに驚いた。
もちろん、直接見ることでしかわからないことはあるわけだが、映像で客観的に見るということは、また違った情報が得られるものらしい。

結論から言えば、柳澤先生の体の捌きは、やはり素晴らしい。そして、高度に 「術化」 されていることが見て取れる。
正座・蹲踞・跨ぎ、そしてそれらの型の繋ぎの動作が寸分の隙もない。何か、武術の動きを見ているような気分にさせられる。

以前、柳澤先生に、どうしたらそのように動けるようになるのか、と訊いたことがあった。
その時は、「長年やっているうちに、いつのまにかこうなった」 というような意味のことをおっしゃっていたが、「長年やっている・・・」 のは、整体操法の型を修練していたということで、先生はその操法の修練の中から現在の身体の捌きを体得されたということになる。
つまり、整体操法の身体技法のエッセンスが、いつのまにか日々の体の操作の矩となっていったのだろう。

そして、この 「いつのまにか」 、というところが重要である。

“ ある動作に伴う意識的な形式は、何度も繰り返すことによって習慣的な無意動作におりてゆく ”

のだが、しかし意識(いわゆる顕在意識)が勝ちすぎては、

“ 過剰な意識の反復は、無意識化に降り立つのを妨げて脳内の関連部位への連絡を
途絶えさせてしまう ”

ということになる。

そのため、動作の術化を実現するためには、

“ ちょこちょこ、チコチョコと無意識の連絡通路に引き渡しながら、次々忘れてゆくつもりでないと・・・ ”

上手くいかないのである。

整体では、練習は一番上手くできたときに止めるのが良いとされている。
普通は上手くいったら、ここぞとばかり繰り返して体に覚え込ませようとするが、それよりも上手くいったときの体の感じをそのまま残してそこで終わりにする。そうすることで、後は体(潜在意識)が時間をかけて、それを自らのものにしていくのである。

“ 丹田で動くとは、足裏で動くということになる ”

“ 全ての動作において、足裏を捌くことで、動きを図ってゆくのである ”

足と丹田の関係は、非常に密なものである。
臍から三横指下の腹部第3調律点、ここはいわゆる丹田の力を観る処である。
そして腹部第3調律点は、下肢の状況が反映する処でもある。
整体的な観方で体を観る場合、下肢は丹田から生えている、と言ってもよいほどである。

腰・腹を中心に身体を高度に運用しようとするとき、足裏の感覚は非常に重要な要素である。

たとえば椅子に座って作業をする場合でも、足裏全体がしっかりと床についているか否かということが、そのパフォーマンスの質を大きく左右する。
足裏全体がしっかりと床を捉えていると、姿勢を保つことも楽であり、体も思うように操作しやすい。そして、呼吸もゆったりと保ちやすくなる。

会議に臨むときなども、足裏が地に着いていないと本来の実力を発揮できない。その足をどこに置くかでその場をリードする方法などもあるのだが、ともかく椅子に座っているとはいえ、足裏が床に着いて下肢全体が使えていないと、腹が据わらず対人能力も低下する。

洋式のトイレが普及し始めたとき、しゃがまないと排便がしづらいという人が多かった。しゃがむのに比べて、腰掛けた姿勢では上手く腹圧がかからなかったのである。
最近は洋式の方が多いので皆慣れていると思われるが、それでも足裏を床につけていないと、やはり排便がしづらくなる。

足裏で、力を入れて床を押したりする必要は無い。ただ、足裏全体がしっかり地に着いていることで、腰・腹にかけてしっかりと力が入るのである。
足裏は一種のセンサーである。足裏が地面を捉えている 「感覚」 が、下肢を通して腰・腹に伝わり、その働きを十分なものにしてくれる。

その感覚を掴むことに慣れてくれば、実際に足裏床に着いていなくても、同様の感覚が持てるようになる。

たとえば片足で立つと、当然ながら二本足で立つときよりも不安定になる。なかなか、重心がピタリと決まらない。そこで上げた方の足裏を意識して、あたかもそちらの足も床に着いているような 「つもり」 で立つと、かなり重心が安定する。
このとき足首をしっかり曲げて、足の指を開いたり、少し反らしたりして、足首の締めを強調すると良い。つまり、床に着いている方の足と同じような感覚をつくるのである。

ちなみに、足の指を開くことが健康に良いとか身体運動のパフォーマンスを上げるとかいうことがいわれるようになり、5本指靴下がブームになったことがある。今でも愛好者は、少なくないようである。
しかし、足の指は開くだけではなく、「閉じる」 ・ 「揃える」 ・ 「すぼめる」 などの操作もあり、それらも 「開く」 に劣らず重要なのである。足指を閉じる操作のときには、足指同士の皮膚感覚(密着感)が重要になるので、5本指靴下は、これらの動作をやりにくくし、不完全にする。

また、整体操法では、正座による操法もある。正座では直接足裏は使われていないが、それでも足・脚・腿、下肢の全てが重要な役割を果たす。折りたたんで、全く動いていないように見える下肢が、正座の操法の質を左右するほどに、実は働いているのである。

正座の足が働いているというのはわかりにくいが、腹・腰、体幹部、そして上肢を上手く使うために、下肢が全体の釣り合いを取っている、ともいえる。
実際に正座の下肢の締めや開きを使って上体~上肢~指の操作をすることなどもあるが、別に足がごそごそ、もぞもぞ動いているわけではなくても、感覚的には下肢が正座での体の捌きの舵取りに於いて、かなり大きな役割を果たすのは確かである。

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もう二昔ほど前のことになるだろうか。
整体操法を習い始めてしばらくした頃、あらゆる物を 「愉気で触る」 ことを心がけていた時期がある。

「整体に於いては、人の体を触るときに、物を触るような感覚ではいけない」

と、一番始めに教わった。

ならば、逆に物を触るのも、生命あるものを扱う気持ちで触れば整体の修行になるだろうと思ったのだ。
いっそのこと、手に触れる全ての物に、愉気するつもりで触ろう、と・・・。

箸も茶碗も愉気で持つ。パソコンのマウスも、テレビのリモコンも、エレベーターの階数ボタンも、全て愉気で触る。本を持つのもページをめくるのも、全て生命のあるものを扱うように気を集めて触るよう心掛けていた。

四六時中そんなことをしていたら疲れないか、と言われそうだが、意外とすぐに慣れてしまうもので、今度はそれがだんだんと習い性になる。

愉気で触るといったところで、実際はどんなことに注意して手を使ったのか・・・。
一言で言えば、常に 「気を抜かず」、ともかく全ての物を 「丁寧」 に扱ったということだった。

まず、当然ながら物に触れる際には、必ず手に気を(意識を)集める。
そして、その物の質感・重量・硬度・温度などを感じ取るようにしながら触る。
また、触れるときの速度も、急に触って相手(?)がビックリしないように、かといってイライラするほど遅くもなく、丁度よい速度を心がけた。
そして意外と重要だと思ったのは、必要最低限の力をもって触れる、ということだった。

歯ブラシを持つのと鞄を持つのでは、その重量の違いから当然握る力は変わってくる。しかし、改めて意識して持ってみると、鞄のようにある程度重いものは適正な力で握っているが、歯ブラシのような軽い物は、意外と無駄に力を入れて持っていることに気づいた。
おそらく小さな力を出すということは、緻密で繊細な情報処理が求められるので脳(?)が面倒くさいのだろう。だから、このぐらいの力があれば足りるだろうと、多めの出力で動作しているのではないだろうか。
だとしたら、そんな大雑把な体の使い方では、とても繊細に人の体を触ることはできないのではないか・・・。

そう気づいてからは、今度は物を持つとき、つかむとき、使うとき、必要最低限かつ適正な出力を心がけた。
適正なというのは、生き物を触る場合、力は弱ければよいというものでもなく、丁度よい、というところが存在するからである。人間の体を触るのでも、猫の背中をなでるのでも、強すぎもせず弱すぎもしない、これ以上でも以下でもない、「ぴったり、これぐらい」 という丁度よい圧力というものがあるのだ。
歯ブラシを持つときも、歯ブラシの気持ちになって、歯ブラシが最も心地よいと感じるであろう力と速度で、そして歯ブラシがその能力を十全に発揮できるように心を配って歯を磨いたのである。(当時は、これを大まじめにやっていた)

野口晴哉先生は、『手を調整することを通して、全身を整えることができるんだよ』 とおっしゃっていたそうである。

手を調整することで体全体を整えることができるのならば、手の感覚を研ぎ澄ませ、手の使い方を工夫していくことを通して、全身の使い方の質を高めていくことも可能なのではなかろうか。

さて、ここまで書き進めてきて、ふと気づいたが、そもそも整体の基本中の基本、「合掌行気法」 は手の感覚を研ぎ澄ますことから始め、徐々に手と丹田をつなぎ、整体操法をおこなうための体の使い方を修練していく方法ではないか・・・。

柳澤先生が足裏の捌きに言及されていたので、私の方は手の感覚から・・・、と考えて書き出したのだが、そもそもそれは元来整体で当たり前におこなわれてきた正に王道的な方法論であった・・・。

「合掌行気法」 は、整体操法の習得を志す者にとって、重要な訓練法である。合掌行気をとことんやり込んで行くことは、整体操法上達への早道の一つである。
1年目には1年目の、10年目には10年目の合掌行気がある。やり込むほどに、得るものは深く大きなものになっていく。

そして、興味のある方は、ときたま歯ブラシの気持ちになってみるのもよい・・・、と思う。

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其の21 身体運動を術化する

其の20 では、柳澤先生が旅先で突然表面化した膝の激痛を抱えながらも、身体運動の予備系システムを発動させて無事古道を踏破する様子が書かれている。
全体を通して非常に興味深い内容であると共に、その描写からオラオラ歩きのまま猛スピードで山道を下っていく先生の姿が目に浮かんで何とも愉しい気分にさせられた。

柳澤先生が痛む膝を運動系統の転換で見事にリカバリーできたのは、当たり前のことでも偶然起こったことでもない。
先生が 「体の捌き」 というものに長けていて、自らの身体運動を意識化できているからこそ実現したのであろう。
体の動きが洗練されていない人が、自由に動いてよいといわれても、新しくその場に適した効率的な動きを即座に生み出せるものではない。常日頃から身になじんだ習慣的な動き以外の、新しい運動システムが突然スイッチオンになるということは、実は滅多に起こらないことなのである。

整体には、「活元運動」 というものがある。これは、いわゆる体操とは違って、体の中の無意識の運動系を訓練していくものである。

体の無意識の運動系は、その運動神経の系統から錐体外路系運動ともいわれる。
錐体外路系の運動は、一般にイメージされる身体運動だけではなく、欠伸やクシャミ、まばたきなども含まれる。体の健康を保っているのは、主に錐体外路系の無意識運動なのである。

たとえば、頚や肩がこってくると誰もが頚を動かしたり肩をトントンとたたいたりする。また、疲れて体が固まってくると自然と伸びをする。こういうことは意識的にではなく、体が必要を感じて回復のために自動的に行なうものである。
活元運動は、この自動調整機能をフル活動させて体の不調を改善すると共に、その自動調整機能自体を錆び付かせず必要なときにしっかりと働くように訓練していくものなのだ。

ある種の準備運動、誘導法をおこない、あとは体の力を抜いてポカーンとしていると、体が自然に動き出す。それは、体の疲労を抜くための動きだったり、硬直して動かない部位を活性化させようとする動きだったりする。

野口先生の著書に、スキーで脚を折った人が、その場でスキー板を外して活元運動をしているうちに、骨が自然と正しい位置に整復されてしまったという話が出てくる。
活元運動をしていると、こういうちょっと普通では考えられないような体の凄まじいまでの回復力を体験することが多い。

柳澤先生の古道の話ではないが、私も山登りの帰路に疲労でどうにも体が動かなくなったことがあった。そのときに、そうか活元をやればいいのかと思いつき、活元運動をするつもりで歩き出してみると、不思議なことにあれほど疲労困憊していた体が再び息を吹き返して楽々下山することができた。
頭はゆらゆら、体はぐでんぐでん、手も足もぶらんぶらん。しかも結構なスピードで下っていく。端から見たら全く危なっかしくて仕方がなかっただろう。しかし、本人は正に予備電源が入って別系統のシステムが立ち上がったかのように、疲れも吹き飛んで意気揚々と歩みを進めていたのである。
しかも、木の根っこにも不安定な足場にも、まるで事前に知っていたかのように見事に体が対応する。なかなか面白い体験であった。

柳澤先生は、体の動きを高度に 「術」 化されている。整体操法をおこなっているときだけでなく、立ち居振る舞い、日常の身体の使い方までが、「術」 の領域にまで高められている。
これは、やはり整体操法の型における体の捌きが、長い年月の間に恒常化したものであろう。操法をおこなう上で求められる身の捌きが、行住坐臥、生活のあらゆる場面で適用されているのだ。

この身体運動の術化は、操法の修練の過程で進んだ 「身体運動の意識化」 と、活元運動で磨き上げられた 「無意識的運動の高度運用」 によるものであろう。
言葉だけを並べると、一見二律背反的とも思えるが、どの分野でも一流といわれる人々は、この意識と無意識の運動系を矛盾なく高度に融合させて身体を使いこなしているのである。

私も整体操法を習い始めた頃には、なんでこんな窮屈な格好で押さえるのか、と思ったことがある。もっと自由に動いてよいのなら、もっと上手くできるのにと思った。
しかし今となっては、型による整圧とはなんと効率のいい押さえ方なのか、と驚嘆するばかりである。無駄な力も要らず、効率よく成果を上げ、行なう側の指も体も壊さない。それどころか、操法する側の体を整える効果もある。

整体を仕事にするものといえど、生身の人間である限り体調の波というものはある。また、ときには発熱やら腹痛やらギックリ腰やら、人の体を観ている場合ではないような状況に陥ることもある。
そんなときでも、しれっと知らん顔して(やせ我慢して?)操法ができるのは、型によって体を操作することが身についているからである。
そして、操法をしているうちに不調が回復することがとても多い。正しい体の使い方で動いているうちに、心身の歪みが正されるのであろう。

また、同じ処を何度でも同じように押さえることができるのも型のおかげである。
たとえば第2腰椎の二側を押さえてみて、そこに硬結があったとする。これは下肢と関係があると推測して、まず下肢の操法をおこない、再び第2腰椎を押さえてみる。
このとき、始めに押さえたときと全く同じ場所を、同じ角度、同じ速度、同じ圧で押さえられなければ、下肢の操法の前と後で硬結がどう変化したかを正確に比べることができない。押さえられた相手が、さっきと全く同じところを同じように押さえられたと感じなければダメなのである。
何のガイドもなく、感覚だけを頼りにこれを行なうのは実は相当難しい。しかし、型を以て押さえれば、さほどの苦労もなく実現することができる。

どこかを整圧する場合、手指で行なうことがほとんどであるが、指の力で押さえるのではない。指は処の状況、変化を読むことが役割である。指に力を入れてしまっては、処の変化を読むことができない。整体の型では、指の力を用いずに指を使うことを要求している。

野口晴哉著、「整体操法読本巻一」 には、次のように記されている。

「 『型』 は指を鋭敏に使って処を読み乍ら操法する為に、体の力学的合理な用い方によって指に力を入れないで、指の力で指を使わない為組織した」 (原文は旧仮名遣い)

指は指の力で使わず、腕も腕の力で使わない。
そのために、脇を締めて脇を張る。
それには腰腹に力が集まっていないとならない。

丹田で動く、丹田から動く、と柳澤先生はよく言われる。
上虚下実で、体の中心から動くということだ。

東洋の身体技術は、枝葉の細かいところばかりにフォーカスすると本質を見失いやすい。
体を一つに使う。
そのために丹田というツールができたともいえる。

操法においての身捌きを日常の動作のように自然で楽々とできるようになるには、やはり日常の身捌きをも整体操法の術理にそったものにしていかなければならないだろう。
目指すところは、操法の身体を常の身体に、常の身体を操法の身体に・・・。
つまりは、身体運動の術化である。

さて、見事に身体運動の術化を体現されている柳澤先生に、型で動くこと、体の意識化、日常動作の術化などについて語って頂きたいが、いかがだろうか・・・。

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其の19 「整体10年」 ~ 頚部操法 ~

「整体10年」、という。

整体操法を学んで、その技術がそれなりのものになるのに10年かかる、ということである。

もちろん、漫然と10年やっていれば、いつの間にかできるようになるというわけはない。日々精進し、ときには寝食も忘れ、憑かれたように、身を削るようにして打ち込んで、はじめてその領域にたどり着くのである。

しかし10年精進して、それで一人前かというと、これまたそうではない。

10年前後で、ようやく

“ 掴み方、挙げ方、着手の角度、圧の度合いから、お互いの体の向き合いの方向まで
すべてが深い意味を持ってお互いの身体に影響を及ぼす ”

ことが体を通して理解され、意識しなくても自然と体が  “ 気の抜けないコミュニケーション ” の流れを断ち切らずに動くようになってくる、というところだ。

もちろん整体は一生をかけて追求していくものであるが、十分に経験を積んで自分の操法を創り上げていくには、そこからまた更に10年はかかるであろう。

しかし、10年、20年と懸命に努力すれば誰でもできるようになるかといえば、そうともいえない。
ピアノは習えば誰でも弾けるようになる。しかし、演奏者として立つとすれば、それはまた違ったレベルの難しさがある。ピアノ講師であっても、誰もがなれるわけではない。
それは、どの世界でも同じである。もちろん、整体も例外ではない。自分がモノになるかどうかは、誰も保証してくれないし、誰にも保証できない。ただ、そうなることを念じてやるのみなのである。確証は、いつでも自分の中だけにしかないのだ。 

整体操法の中でも、頚椎の操法は、技術的に難しい部類に入る。上頚・中頚・下頚の操法などは比較的初期から学ぶが、本格的な頚椎の操法は、始めて2年や3年では教えることは難しい。

頚椎というのは、胸椎や腰椎と比べて、段違いにデリケートである。無理な力を加えると、毀しかねない。そして頸椎部の損傷は、重大な障害を引き起こす可能性が高い。

頚は、生命に直結している。体を触るときは本来どこでもそうであるべきだが、特に頚を触るときは、「命に直接手を触れている」 つもりでいなければならない。
そーっと、こわごわ触ればいいかといえば、それでは相手が安心できない。細心の注意を払いつつも、あたかも自分の体を触っているような自由で自然な触れ方でなければならない。

しかし、いかにそのように触ろうと思っても、訓練されていない手では、そのように働いてはくれない。愉気を以て触る、愉気で押さえる、ということが分からないうちは、怖くて頚の操法などは教えられないのだ。

整体操法における頚部の操法は、非常に多彩である。上頚・中頚・下頚は三側の操法だが、もちろん頚椎にも一側、二側の操法もある。
自律神経系の調整に用いる胸鎖乳突筋の操法や、それ以外の側頚部、前頚部の操法もあるし、仰臥位で腹部と後頚部を同時に操作して腹部で頚を正す操法は、晩年の野口晴哉先生が多用されていたと伝え聞いている。
また私はほとんど用いないが、一昔前のカイロプラクティック風に頚をねじって瞬間的に加圧する系統の操法も何種類かある。

仰臥位での前頚部の操法などは、まさに愉気で押さえるということができないと、受け手に不快な思いをさせるだけでなく、苦痛を与えることにもなる。
しかし、熟達すれば、頚の異常に対処できる範囲が格段に拡がる。

頚の観察には、仰臥位と坐位がある。仰臥では頚の力が抜けている状態で頚椎の状況を観て、坐位では頭を支え姿勢を保持している状態、つまり頚に自然な緊張がある状態を観察する。
場合によっては、頚椎またはその椎側に手を触れて、相手に頚を動かしてもらって調べることもある。

頚椎の異常を正すときには、ほとんど坐位でおこなう。頚は仰臥で弛緩している状態よりも、ある程度の緊張がある状態の方が、かえって治しやすい。

二側操法などで頚椎を正すときは、胸椎部、腰椎部の場合のように相手の体が動かない状態で操法するのでは上手くいかない。
受け手に坐位になってもらい、二側なら二側を押さえつつ相手の腰を浮かせ、重心を崩した状態で整圧するのである。どっかと居座られて微動だにしない状態では調整は難しい。
ただ押さえて愉気するだけなら相手を崩さなくてもいいが、相手の重心を浮かせて、こちらが相手の重心を制御するような状況を作り出さないと本格的な頚の操法は効果が上がらない。相手を 「虚」 にし、自分は 「実」 で操法するのである。

基本としては前方へ小さく、またときに大きく受け手の腰が浮くように崩すのだが、上頚操法や上部・中部頚椎の調整などでは、正座した受け手のお尻が本当に持ち上がることもある。しかし、これも力で浮かせようとしても浮くものではない。相手の腰が思わずフッと浮いてしまうような押さえ方をするのである。

力は要らない。重要なのは、呼吸である。ある呼吸というか、「間」 というものがあって、その 「間」 をつかんでしまえば、容易に相手を崩すことができるようになる。

まずは自分の占める位置が重要である。相手に対して近すぎても遠すぎてもいけない。ここ、という絶妙な位置関係、間合いがある。
そして、もちろん着手・手の当て方も大事であるし、圧の方向・整圧の角度などもあるが、なにより相手の重心を感得できなければ難しい。相手の重心を感知するには、まずは自分の重心を下腹にしっかり据えることである。

頚椎は胸椎以下の椎骨のようにしっかりとしていないので、その操作はデリケートにならざるを得ない。そうかといって、そーっと恐る恐る触ったのでは効果は上がらない。
そこで、指で押して正すのではなく、型でもって正すということが求められるのである。

操法する側からすると、相手の重心を奪って制御している状態だが、相手にとっては、体勢が崩れながらも微妙な一点で支えてもらっていることで、ある特殊な 「快」 をともなう安心感がある。
そして体勢は崩れているといっても、支えられている一点を手掛かりに、受け手も微妙な重心のバランスを自らの感覚で取っているのである。そして崩れかけたバランスを無意識に取り直そうとする受け手の動きが、頚椎を正すために実は大きな役割を担っているのだ。
受け手のその絶妙なバランス感覚には、ある種の快感がある。ちょっと大げさにいえば、サーフィンで波に乗れたときのような気持ちよさに近い。

曰く言い難し、というところだが、操法する側が一方的に指で押して治すということではなく、受け手と一体になってお互い協調してある一つの型を取る、といった方が近いかもしれない。

二側の場合、基本は両側を母指で押さえるが、場合によっては片方の手で頬や額などに支えを取って、片側のみで整圧することもある。このときも、もちろん相手の重心を崩して型を取る。
頚は片側だけ押さえるとおかしくしやすいが、逆手との対応を上手く取って型で押さえれば、スパッと効果が上がることも多い。
当然、片側のみの整圧の方が、技術としての難易度は高くなる。

こうした頚椎部の操法など、難易度の高い操法を一つ一つ体に覚えさせていって自由に使いこなせるようになるには、やはり10年前後の年月は必要なのである。
そして、多くの技術を使いこなせるようになったら、今度はそれらをなるべく使わないで治せるように操法を工夫していく。観察が深まり、技術が高まるほど、操法はシンプルになっていくのである。

しかし、一見単純に見えるその操法は、初心者のそれにとは全く別物である。例え使わなくとも、自分のものとして磨き上げた多くの技術が、操法の見えない力となって発揮されるのである。

季よみ通信 ~気法会サイド~

今回の頚部操法の補足を 「白山治療院通信」 にアップしているので、そちらの方もどうぞ。

白山治療院通信

其の17 急処、体を変える一点

其の16 急処が急処である理由 で柳澤先生が語られているのは、まさに 「動的身体論」 である。
「処」(ところ)が特定の身体上の座標をいうのではなく、その部の変化とその感覚をいうのであるというところから説き起こし、体の波(虚実の転換)によって変化する 「体勢」 に触れつつ、身体気法的 「動的整体」 操法の世界をケーススタディ的に紹介されている。

整体で 「処」 = 「調律点」 としてまとめられているものは、体の中にあるいわゆる急処の中で、汎用性があるものをピックアップして整理されたものである。
そもそも、「急処」 というだけあって、急場に変化が起こり、またその 「急場に間に合う処」 という意味である。
急場に対処するとは、急性の異常に対処するという意味でもあるが、体というものは常に動き変化し続けているので、その千変万化に対応するための 「処」 という意味でもあるだろう。

体は常に流動的で変化し続けているものであるから、その動的身体に於ける急処というものも常に変化している。
その状況によって、処が急処となったり、急処でなくなったりすることもある。急処は、時を得て急処となり得るのである。
また、その時その人の急処となり得る場所は、必ずしもいわゆる調律点とは限らず、思わぬところに現われることもある。

整体の体の見方には、まず気ということが始めにある。形ではなく、形以前の動きに注目する。その動きをもっと突き詰めたところに、動きを作り出す気の働き、“ 気の虚、実の転換 ” というものがあるわけだ。
野口晴哉先生によってまとめられた整体は、その出発時点から動的身体論の上に成り立っているのである。

そして、その動的身体論の世界では、処は “ ものの転換を図るポイントなのである ” ということであり、“ 整体に治療点は存在しない、、ともいえる ” ということになる。

しかし、である。

実際には、こういう変動が起こったときにはここが急処、という特効穴的な急処もある。いわゆる 「救急操法」 としてまとめられている一連の急処などがそれである。

もちろん、それとても体の転換を図る一点ということではあるが、臨床ではもっと単純に症状との対応で、○○の急処というものが活用されることも決して少なくない。

呼吸はあるが意識がないときに使う上頚活点(脳活帰神法)。後頭部にあるガス中毒の急処。月経痛や睾丸痛など生殖器系の激しい痛みを止める膝裏の禁点。食中毒などのときに毒消しの急処となる胸部活点。古い打撲の影響を抜く急処・・・などなど。

これらの急処には、民間に伝承されてきた療術や鍼灸按摩などの漢方医学、また武道・武術の活法などから整体に受け継がれたものも多く、今では本家が消滅して整体だけに残るものもあるようだ。
こうした急処は、まさに先人の残した大いなる遺産ともいうべきものである。失伝を避けるべく、しっかりと次世代に引き継がなければならない。

急処の中には活点・禁点と呼ばれる処がある。そもそも活点というのは、活を入れる急処である。まさに急場に間に合う処であり、いざという時に一気に体を変化させる力を持つ。
鎖骨窩にある胸部活点は、体の状況によっては喀血を引き起こすこともあるので、現在は禁点となっている。禁点に対する操法は文字通り禁じ手であるが、実は上手く使えば大きな効果を上げることができる処でもある。

鍼灸の世界では、特効穴というものがある。特定の症状に顕著な効果が認められる経穴(ツボ)で、作用機序は解明されていないが、ともかくそこさえ使えば症状が改善するという便利な経穴である。

数ある特効穴の中でも、痔や脱肛に効く頭のてっぺんの百会(ひゃくえ)や、食中毒に卓効がある裏内庭(うらないてい)は、整体操法にも急処として取り入れられている。

食中毒に効く裏内庭の位置は、足の第2指の裏に墨を付け、その指を曲げて墨の写ったところだ。鍼灸では、主にお灸を使う。
食中毒のときには、この部位が硬くなり感覚も鈍くなる。お灸を直接据えても、鈍くて熱さを感じない。そこで、熱さを感じるようになるまで繰り返しお灸を据え続けるのだ。

岩波新書の「鍼灸の挑戦」(松田博公著)という本に、この裏内庭が本当に効くのかどうか、自分の体を使って実験をした鍼灸学生の話が載っている。
その強者は、鍼灸学校に通っていた頃、腐敗した焼きそばを自らの意志で食べて食中毒を起こし、裏内庭にお灸をして本当に治るかどうか実験をした。
ひどい下痢と腹痛に苦しみながらも級友に裏内庭に立て続けにお灸を据えてもらい、その数100壮に及んだとき、その部に熱さを感じ、同時に腹部の激痛がスーッと消えた。そして、お腹がポカポカと温まり、いい気分になり空腹を覚えたという。

裏内庭は、食中毒のときに触ってみるとたいてい硬く鈍くなっている。お灸でなくとも、押さえて愉気するだけでも、スーッと気分が良くなってくる。
なお、吐ければ楽になるのに吐くことができないときは、頭を腰より低くして腰部活点(第2腰椎三側)を押さえれば簡単に吐くことができる。
もちろんこれは、体に吐きたい要求があるのに何らかの事情で吐けない場合に有効であるということ。必要もないのに吐こうとしても、この方法は効力を発揮しない。

まさに急処は時を得て急処となり得るのだが、また急処を急処として活かすための技術というものも必要である。
急処とは、体を変える一点であり、ときには生死を分ける一点となることもある。
いざという時は無いに越したことはないが、使わないでよいことを願いつつ、技術だけは日々修練に励まなければならない。

季よみ通信 ~気法会サイド~

其の15 開く体、夏の操法

季よみ通信 其の13 では、体が整っていることを端的に表すものとして、腹部の三つの 「処」 について書いた。

ちなみに野口整体では、体の状況を表す身体上のポイントのことを 「処」 という。処は体の働きの状況を示すと共に、その働きを調整できるポイントでもある。いわゆる急処であり、「調律点」 とも呼ばれる。

さて、腹部第1・第2・第3調律点であるが、それぞれ 「虚」・「冲」・「実」 であることが 「順」 である。

この 「虚」・「冲」・「実」 というのは、それぞれの処の 「気の虚実」 である。処を整圧しながら、気の虚実を読むのである。

「気の虚実」 といっても始めは掴み所がないので、まずは処を触っての弾力で観ることから始める。

「虚」 は、すぼめた掌の中心の柔らかさ、「冲」 は、掌の手首に近い手根部の弾力、「実」 は、手の甲の硬さ、あるいは力を入れた上腕の力こぶの弾力などに例えられる。
また、 「虚」 は、息を吸っている時でも吐いている時でも力が抜けて柔らかい。「冲」 は、息を吸っている時は力が集まって硬いが、吐いている時は弛んで柔らかい。「実」 は、吸っている時も吐いている時も、力が充実して弾力ある硬さがある。

腹部第1が 「逆」 のときは、胸部を操法する。
腹部第2が 「逆」 のときは、腰部と側腹の操法をする。
腹部第3が 「逆」 のときは、頭部の操法をする。

といった、それぞれの処の 「逆」 に対処する方法などもあるが、基本的には全体のバランスの中で腹部第1・第2・第3調律点がそれぞれ順となるように操法を組み立てていく。

腹部にはその他に、左季肋部に腹部第4調律点、右季肋部に腹部第5調律点がある。それぞれ、感情の閊え、排泄の閊えを示す処である。
第4は心の閊え、第5は体の閊えと言ってもいいかもしれない。

腹部の調律点は五つだが、それ以外に重要な腹部の処として、側腹と鼠径部がある。

側腹は、主に泌尿器及び体の捻れ、第3腰椎の状況を反映する。ここは非常に守備範囲の広い急処である。
泌尿器に関係して、浮腫みや梅雨時のだるさなどにも使うし、呼吸が浅い、高血圧、腰痛や悪阻などにも急処として用いられる。

鼠径部は、一応腹部の急処ではあるが、腸骨の前側・内側の操法と考えても良い。

ここ2週間ほど、鼠径部の操法を行なう際、整圧をいつもよりも深く取ることが多くなった。この鼠径部内側の急処は、整体操法制定に携わった野中豪作氏の野中操法の第1健康線に相当するが、まさに野中操法的に深く四指を差し入れて外へ向かって柔らかく整圧している。

“ 夏の身体は、開いている。骨盤が開き、皮膚が弛み・・・”、である。
夏の体は、思いっきり開いているのが本当なのだ。

夏の開いて弛んだ体になっていくために、鼠径部の操法も深く取って開き弛めることを誘導する刺激が、人によっては必要であり、今の体に適っているということだろう。
こういうことは頭で考えてそうしているのではなく、ある時期になると自然と体がそういう風に動き出すのである。

操法の途中で、ここを押さえてみたらどうか、と頭で考えても手の方が動かない、ということがある。そういうときは、頭よりも手を信頼した方が良い。体と頭が対立したら、大抵体の方が正しい。
というより整体に於いては、そうなるように、「体 (=潜在意識)」、を訓練していくのだ。
その訓練の基礎の基礎は、活元運動と合掌行気法である。

夏の操法は、若干短くなる。その方が、夏の体には合っているのだ。

風邪のときや花粉症の症状が出ているときも、操法は短めにした方が良い。間延びしてダラダラとやると、かえって症状が悪化したり経過が長引いたりする。

そもそも、夏の体は弛んでいるし、弛みやすいので、操法をする側からすると楽なのである。冬にはじっくりと感応をはかって愉気をしたり、あれこれ手順を踏んで弛めたりするものが、チョイチョイと刺激するだけで事足りたりることも多い。
それもまた、操法の時間が短くなる一つの理由ではある。

短いと言っても半分になるわけではないが、その若干短いというところに、弛みの中に一つ冗長とならない纏まりのようなものを求めるのである。

パン作りでも、過発酵させると生地がだれてしまう。夏は当然暑いので、発酵温度が高すぎたり、発酵時間が長すぎると、発酵過剰で生地がだれてしまうのだ。

夏の体に対する操法も、だれさせないように、程良い時間で纏めるのが大事なのである。

季よみ通信 ~気法会サイド~

其の13 変動と体の上昇志向

「季よみ通信」 のサブタイトル ~白山⇔気法会往復ブログ~、この白山は、私が開設している白山治療院のことである。
都営三田線白山駅からは徒歩7分。最寄り駅は東京メトロ南北線の 「本駒込」、所在地は文京区 「向丘」、それでも名称は「白山」 治療院なのである。

この白山治療院、治療院なのに、通って来られる人の半分以上は、特に体に異常を抱えていない。つまりは健康な人々である。
皆さん始めは何か病気があったり痛い所があったりして、それを治したくて来院されたわけだが、多くの方々は治ってしまった後でも継続して操法を受けられている。そういう人達は、体を整えるということの意味を、まさに 「体」 を通して知った人である。

最近は一般書籍でも野口整体関連の本がたくさん出ている。またネットでもかなり野口整体の情報は入手できるので、知識として整体を知っている人も増えているだろう。
そしてその整体の考え方に共感、賛同して、整体を受けにいらっしゃる人も少なくない。やはり整体は体験である。本で読んだだけでは解らない部分は、実際に操法を受けてみて、体を通して感じ取るところが大きい。
しかし操法は、相性もある。私のところに来てピンとこなかった人も、もう一度他所で操法を受けて見られることをお勧めしたい。

なお、「野口整体」 でありながら、「治療院」 であることに関しては、また機会を改めてどこかで書こうと思う。

さて、一人の人の体を継続的に長く観ていると、体に勢いが出てきたところから、いきなり変動が始まるということがよくある。
体に勢いの無いうちは、じーっと大人しくしていて、勢いが高まってくると変動を起こすのである。

整体に通って調子良く過ごしていたと思ったら、突然体に変調が訪れる。これはどうしたことかとびっくりするが、決して私が下手を打ったのではないので悪しからず。むしろ予定調和とでも言うべきものである。

人間誰しも体にいろいろな矛盾を抱えながら生きている。治りきらなかった古い捻挫や打撲による硬直・萎縮、どうにも弛まない職業的な偏り疲労、成長してくる中で育ち切らなかったところ等々・・・。
しかし、それらのネガティブ要素がある限り健康にはなれないのか、整体にはなれないのかと言えば、決してそんなことはない。
生きてる人間である限り、何らかの不具合は常に抱えているものだ。それでも、それらを抱えていながら、その中でのバランス、調和というものを常にとり続けるのが人間の素晴らしいところである。

「整体」 であるか否か。それを最も端的に表すのは、腹部の弾力である。
鳩尾部分、胸骨剣状突起の指三本下の腹部第1調律点が「虚」、
腹部第1と臍との中点にある腹部第2調律点が 「冲」、
臍の指三本下、いわゆる丹田に当たる腹部第3調律点が 「実」、
であることが、整体であることを示す。
この腹部第1・第2・第3が、「虚」・ 「冲」・「実」 である状態を腹部が「順」であると言う。
そうでない状態は 「逆」 である。

体にある種の異常を抱えていても、腹部が 「順」 であれば、現時点で最も良いバランスを取っている状態である。体は、その時点での最高のパフォーマンスを発揮している状態であると言える。
つまり腹部が 「順」 なら、一応体は整っている。

体が整っているということは、その段階としては理想的な体の運転状況であり、概ね快適さと安定性を感じることができる。
しかし、いつまでも古い故障や慢性的な異常を抱え込んだまま行くのでは、整体を受けている甲斐がない。そこで、それらの潜在している異常を浮き上がらせて解消していくように仕向けるのが整体操法の役目である。
そのために、過敏に愉気をし、圧痛に働きかけ、鈍った古い異常を体自身が認識するように持って行き、体の回復欲求を引き出すのである。体の中の寝ぼけた部分が目覚めてくるように、手順を踏んでアプローチするのだ。

体力状況が良くなってきて、鈍りが取れて体が目覚めてくると、体は手の付けようがなく後回しにしていた古い異常や、今まで放置していた問題を何とかしようと働き出す。
そこで起こるのが、体の 「変動」 である。
弛緩反応。 過敏反応。 排泄反応。
だるくもなれば、眠くもなる。痛みも出れば、熱も出る。下痢もすれば、湿疹も出る。急性病のような状態になることもあり、そこで病院に行けば何某かの病名もつくかも知れない。
しかし実は、体は長年の懸案を片付ける目途がつき、もう一段高いステージでのバランスを取り直すための準備が調い、ようやくそのための作業を開始したというわけなのである。

整体操法とは、体の変革を促すために、ある意味では体に自然の変動が起きるよう起きるようにと、お膳立てしている作業だと言えなくもない。

もちろん体の病変は、全てが体が整うための 「建設のための破壊」 とは限らない。症状と共に体が悪くなり、死に向かうような場合もある。
大事なことは、体が “ 「生」の方向に向かっているのか、「死」の方向に退いてゆくのか” 、ということを見極めることである。そのためには、それこそ体の勢いというものを見る能力が求められる。悪くなっている人に向かって、「大丈夫ですよ」 などと安請け合いするわけにはいかない。

ぎっくり腰を繰り返し、どんどん腰を毀していく人もいれば、同様に繰り返しながら、どんどん腰がしっかりして立ち直っていく人もいる。
流産ですら、繰り返すごとに骨盤が整い、妊娠・出産に耐えうる体、適した体に変化していくことだってあるのだ。
どのような変動が起こっていても、その時の体の向きがどちらを向いているか、ということが重要なのである。どのような変動でも、体の向きが上向きなら、その変動を通して体はより良い方へと変わっていく。

生きている限り、いつでも体はより良くなろうと動いている。
傷だって、いくら 「傷よ、塞がるな!」 と命令しても、勝手に治っていってしまう。

そんな本来思いっきり前向きな体が、なぜか治っていかなくていつまでも病気でいる原因、その素直に治っていかなくなっている閊えを解除していくのが整体操法である。その作業さえ上手くいけば、後は体が自然と良い方向へと動いていく。

健康にも、上には上がある。体力的にも、体感的にも、更に元気な、更に快適な体というものが、可能性としていつでも用意されている。整体的には、育ってきた環境や体の使い方の問題などで生じた心身の矛盾を解消し、より快適な体を求めて体を育てていき、「死ぬ直前が最も健康」、ということが理想だと思う。
取りあえず体が整って安定したらそれっきりかと言えば、体はそんなに無欲ではない。しばし平和に安住しているように見せかけながら、虎視眈々と次なるステップアップを狙っている。
いつでも体は、ワンランク上の健康を志向しているのである。

季よみ通信 ~気法会サイド~

其の11 汗の内攻、夏の冷え・・・

前回は気法会サイド・其の8を評して、いよいよ柳澤先生が本領を発揮しつつある内容だと書いたが、季よみ通信 其の10 和風はカラダいっぱいに吹く、、 では、まさに柳澤先生の本領が本格的に発揮されている。

   “ 冷えの入り口・・・・ ”

       “ 「吸い込み」と「発散」・・・・ ”

            “ 「体気象」と云うもの・・・・ ”

ついに、身体気法の森へと足を踏み入れて(誘い込まれて?)しまった、という感がある。
さてさて、この深遠な身体気法の世界に、何を手がかりに、何を羅針盤として進んでいったらよいものか・・・。

日本には、いろいろな風が吹く。
春嵐、薫風、凱風、青嵐、真風、山背、野分、風巻、雁渡し、空っ風、玉風、木枯らし、颪、鬼北・・・・。
和風とは、「やさしい風」、「穏やかな風」 の意である、ともいう。

賢治の感じた和風は、まさに “ カラダいっぱいに ” 吹いたことで、同時に河谷いっぱいに吹き、稲田をわたり、栗の葉をかゞやかしたことを、それがまるで我が身に吹いたのと同じように感じさせたのだろう。
ただ単に全身に風を受けただけでは、 “ カラダいっぱいに ” 風を受けたことにはならない。夏の風をカラダいっぱいに感じるには、脇が開き、胸郭がゆるみ開放している必要がある。脇が閉じ、胸が固まっていては、夏の風はカラダを十分に吹き抜けてくれない。
今、カラダいっぱいに風を感じられる体の感性を持った人が、果たしてどれだけいるだろうか・・・。

さて、“ 風に対する養生法 ” である。

野口整体では、汗かく季節、夏の風は前から受けよ、と言う。これは、汗をかく季節は頚や背中など、背面から風を受けると汗が内攻しやすいからである。

“ 東洋の古典でもある傷寒論・・・” が出てきたが、これは中国の長江(揚子江)以南の高温多湿の地域で成立したもので、専ら急性病に対処するための方法が説かれた漢方に於いて亀鑑とされる書である。
傷寒とは、ただ単に 「寒邪」 によって体が傷つけられるという意味でなく、「風邪(ふうじゃ)」 が寒邪を伴った、「風寒の邪」 によって体表から冒された病状について説かれている。
漢方的には、寒邪は重いもので体の下部を冒すのだが、軽い風邪が伴うことで体の上部を冒すのである。
また、中国医学に於ける漢方(湯液)に対するもう一方の雄、鍼灸の世界では、「風門」 という上背部の経穴(ツボ)から 「風邪(ふうじゃ)」 が侵入するとしている。このツボは、第2胸椎棘突起下の両外側1寸半にある。整体的に言えば、第3胸椎二側に当たるだろうか。(二側は、目的の棘突起より少し上方になる)
そして、「風門」 の主治は、咳嗽・発熱・頭痛・悪寒・頚部の強ばり・腰背部痛などである。まさに、汗の内攻によく見られる症状ということになる。

日本でも、中国でも、世界中どこでも、夏の風は背中で受けてはいけないのである。
更に言えば、体の片側からだけ風を受けるのも良くない。その側だけが、偏って硬直してしまうからだ。

そしてまた整体では、冬は前からの風は避けよ、と言う。冬の冷たい風を前から受けると心臓に悪影響があるからである。

野口整体では、汗の内攻ということをうるさく言う。それだけ、汗を冷やして引っ込めたことによって体を損なうことが多いからだ。
この季節、急性病的症状を呈するものには、多かれ少なかれ汗の内攻が絡んでいる。そして、その症状は多岐にわたる。

体が重い、だるいから始まって、発熱したり、下痢をしたり、めまいが起こったり、頭痛が続いたり・・・。

それ以外にも、眼の奥が痛い、視力が急に低下する、耳が痛い、歯痛、咳が出る、のどが痛い、頚や肩がこる、筋肉や関節が痛む、足の筋肉がつる、体が強張る、浮腫む、お腹が張る(ガスがたまる)、妙に眠くなる、血圧が急に高くなる・低くなる等々・・・。

また、ときにはリウマチ様の関節の痛みや、激しい神経痛が起こったり、急に尿が出なくなったり、場合によっては心悸亢進、不整脈など心臓の変動を引き起こすこともある。

汗の内攻から急激に腸にガスが溜まり、それが胸腔を押し上げて狭心症的な症状を起こし、救急車で病院に搬送される人が毎年かなりの数いるという。

時代劇などで、「持病のしゃくが・・・」 というシーンがよくある。胸部や腹部が急に激しく痛むことで、いわゆる差し込みであるが、現代医学的には、胆石だとか胃けいれんだとか、また十二指腸潰瘍だなどとも言われているようだ。
私は、TVで 「持病のしゃく・・・」 が出る度、ああ、それはきっと汗の内攻ですよ、と取り敢えず足湯を勧めたくなる。まずは足湯をしてご覧なさい、と・・・。

汗の内攻によっていろいろな症状が起こっても、まさか汗が冷えたくらいで、そうなっているとは思わないから、慌てて病院に駆け込むことになる。そして、いろいろな病名を付けられて、いろいろな薬を処方されることになる。果ては、緊急手術なんていうことも、あるかも知れない。
消化器科の症状だろうが、循環器科の症状だろうが、泌尿器科、整形外科、耳鼻科、歯医者の領域の症状だろうが、汗が冷えて起こっているものは、汗の内攻を解消する処置をすればよいのであるが・・・。

最近は、熱は無闇に下げてはいけないとか、下痢は止めない方が良い場合もあるなど、整体の常識が医学の世界でも言われるようになってきているらしい。
「汗の内攻」 も、現代医学の常識となる日が来ることを切に願う。

もちろん、暑さに汗ばむ季節に風を受けて涼を取ることが悪いわけではない。また、冬の寒風が、実はそれほど体を壊すわけではない。
まさに、“ その、吹き付ける、吹き抜ける、方向の、何に注意すればよいのか・・・” を知ってさえいればよいのである。

夏の風を前から受けること、冬の風を背中に受けることに、つまりは体に風を受けることに 「快」 を見出し、肯定的に捉えているところは、いかにも柳澤先生らしい。
先生のカラダにも、いっぱいに風が吹いているのだろう。

さて、汗が内攻すると第5胸椎が硬直してくる。第5胸椎は、発汗の中枢である。その第5胸椎が硬直して動きを失うと、今度は引っ込んだ汗が出なくなってしまう。
整体では、このとき悪寒の中枢となっている第8胸椎と発汗中枢の第5胸椎に愉気をするというのがセオリーになっている。第5の硬直が弛んで汗が出てくれば、内攻が解消されるということだ。
手の平の中心に第8胸椎、指先あたりに第5胸椎が来るように手を当てて愉気するのが標準的なやり方である。
内攻が更に進むと、呼吸器・泌尿器関連の椎骨にも異常が及ぶ。それが本格的になると、第5胸椎に愉気をしただけでは、なかなか内攻は解消しない。多くは発熱を伴う変動を経て、本格的に汗が出切る必要がある。

汗の内攻は、言わば 「夏の冷え」 である。本格的に寒い秋・冬とは、また違った種類の 「冷え」 なのである。
蒸し暑い夜に寝汗をかいて、明け方急に気温が下がりヒンヤリと体が冷たくなってしまったり、夕方急に風が冷たくなって、うっすらかいていた汗が急に冷えたりする。
どういうシチュエーションだったとしても、やはりそこには 「汗」 の問題が絡んでくるのが夏の冷えなのだ。

夏の冷えでも、「冷え」 であるからには、当然 「冷えの急処」 は有効である。体が冷えの影響を受けると、足の甲の第3・第4中足骨間が狭くなり、ときに硬結が生じる。ここを押し広げるように押さえて愉気すると、冷えによる悪影響が抜けていく。
夏の冷え = 汗の内攻にも、足湯・脚湯は効果を上げるが、その前に足の甲の冷えの急処を押さえておけば、なお効果は高い。

また、頚上と呼ばれる頚と後頭部の境目、いわゆる盆の窪と呼ばれる部分を蒸しタオルで8~10分程度温めるというのも夏の冷えには有効である。足湯・脚湯と同様に、引っ込んで内攻した汗を、再び出させる効果がある。
ともかく、引っ込んだ汗は、もう一度出させるのが一番よい。

・・・ 当然ではあるが、その汗をまた冷やして引っ込めてはいけない。

季よみ通信 ~気法会サイド~

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