2015年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

白山治療院関連サイト

無料ブログはココログ

« 2012年4月 | トップページ | 2012年6月 »

2012年5月

其の7 季節の変化と体

柳澤先生のお宅の猫も、夏を迎える準備で毛が抜けかわっているとのことである。
犬なども、改良を重ねた室内犬などはシングルコートで通年あまり毛が抜けないものもあるが、野生を残している日本犬などは、上毛(表毛)と下毛(綿毛)があり、春と秋の毛換期には、枕が一つ作れそうなくらいごっそりと毛が抜ける。

人間の体も、毛こそ抜けかわらないが、やはり季節の移り変わりに適応するべく、たえず変化をしている。
暑い夏には、体は弛み、開き、放熱モードになる。そして、同時に冷却装置としての発汗機能も高まる。
冬には、寒さに耐えるために体は閉じてきて、骨格も筋肉も皮膚も引き締まってくる。

冬に閉じて引き締まった体は、春先、といってもまだ寒い1月の中旬~下旬頃から、少しずつ春の準備を始める。この頃、まずは後頭骨が開き始める。

後頭骨が開くという表現は一般的ではないが、整体ではよく用いられる。頭は頭蓋骨という骨の塊だが、その実いくつもの骨が組み合わさって出来上がっている。その繋ぎ目を縫合部というが、その縫合部には多少の遊びというか余裕があり、体の状況に応じて微妙に動いている。
例えば、物事に深く集中しているときは頭は引き締まり小さくなっている。一日働いて頭が疲れてくると、夕方には頭が拡がって大きくなり帽子がきつくなったりする。一日の中でも変動するが、四季の変化に対応して、もう少し大きなリズムでも変化している。

春を待つ1月の後半に、後頭骨は弛み、開き始める。この頃、まるで先触れのように花粉症的症状を呈する人がいる。上下的体癖傾向を持つ神経系が敏感な人に多いが、これは後頭骨が開いてきたことに付随する体の過敏現象である。実際にはまだ杉の花粉は飛んでいないのだが、目鼻にムズムズ、グズグズと症状が出るのだ。
「花粉症」 というぐらいだから、花粉が症状を引き起こす原因になっているのは間違いないだろうが、実は花粉そのものよりも体の方に根本的な問題があって症状が起こるということが、このことからも分かる。

後頭骨から始まる春の変化は、次第に肩甲骨、骨盤と波及していく。後頭骨に連動して肩甲骨が弛み開き、続いて骨盤も開いていくのだ。そして、この一連の春の変化が上手くいかない人が、花粉症になる。

花粉症は、整体的に言うならば、春の体に変わっていく途上に閊えがある人が、体の一部を過敏にして、何とかその変化を促進させようと奮闘している姿である。過敏にしているのは体自身の振る舞いであり、花粉の方は利用されていると言ってもいいかもしれない。そうして見れば、悪者にされている花粉の方こそ好い面の皮である。

過敏というのは、体のどこかに鈍りがあるための代償作用である場合が多い。花粉症も、季節の変化に上手に対応しきれない鈍りを抱えた体が、部分的に過敏を作ることでバランスを取っているのである。
だから、体が整ってくると、いつの間にか花粉症の症状は無くなってしまう。もしくは、かなり軽減される。
私も整体を始める前は花粉症の代表選手のようであったが、今では3月頃に2週間ほど、多少鼻がむずむずする程度で済んでいる。

しかし、花粉症をやれる人は、まだ本格的には鈍くない人であるとも言える。本当は体の働きが鈍っていて全く季節に対応できていなくても、風邪を引くことも花粉症になることもできずにいる人もいる。そういう人こそ、体の働きが鈍麻した、健康から最も遠い人である。

さて、後頭骨、肩甲骨、骨盤と続いて行く春の開きの変化だが、これが秋になると、今度は寒さに向かって頭から順に骨盤までが閉じていくのだ。体はしっかりと閉じることで、冬の寒さに耐えうるのである。

このように、体は季節を先取りし、また時に何とか追いつこうとしながら絶えず変化し続けている。この季節に対応する体の変化を上手く助けていくことも、整体操法、整体指導の中ではとても重要な位置を占めている。

上手に季節に体を適応させていくためには、整体操法で体の変化を促進していくのも一つの方法だが、生活の中でちょっとした工夫をするだけでも全然違ってくる。
それが、足湯だったり、肘湯だったり、蒸しタオル温法だったり、また水を飲むことだったり、お風呂の温度を工夫することだったりする。また、寝るときの布団のチョイスも、季節と体の適応に一役買ったりする。

最近のことを言えば、寝汗を冷やして喉を腫らせている人が多い。3月、4月くらいまでは、冷えると胃腸に来る人が多かった。胃が痛んだり、働かなくなったり、腸にガスが溜まったり、下痢をしたり・・・。
このところは汗を引っ込めて泌尿器系に変動が起こる人が多く、朝に顔が浮腫んでいたり、喉が腫れたり痛んだり、ガラガラ声になったり、中には高熱を発する人もいる。咳は呼吸器の問題だが、喉が腫れるのは泌尿器の変動である。一部呼吸器にまで症状が進んでいる人達もいるが、どちらにしても、原因はほとんどが寝冷えである。

そういう人に訊いてみると、未だに真冬と同じ布団で寝ていたりする。そして、夜中に暑くなって布団を剥いでしまったり、寝汗をかいてそれが冷えたりして、泌尿器の風邪を引いてるのである。
また、寝冷え以外では、このところあちらこちらで入り出した冷房で冷えて、同様な症状を起こしている人もいる。

布団は、春から初夏に向かう時は、早め早めに薄く、または少なくしていった方が良い。その方が、季節の変化に体がついて行きやすい。いつまでも厚い布団、厚い寝間着で寝ていると、体が季節に置いて行かれてしまう。
反対に、秋から冬にかけてだんだん寒くなる時期は、早め早めに布団を厚く、もしくは多くしていく。今度は、その方が季節に体が適っていくのである。

汗の内攻、泌尿器の変動は、体の捻れと一連のものである。今、喉を腫らして風邪様の症状を呈している人は、ほとんど第2・第3腰椎が捻れて硬直している。
そんな症状が何週間も続いて一向に治らないという人も、この体の捻れを調整してしまえば、見る見るうちに回復に向かう。

季よみ通信 ~気法会サイド~

其の5 体の自然 と 整体の 「快」

“ 自然は、時として過量なものとして振る舞うものなのだ・・・ ”

自然は、確かに時として過量なものである、と感じる。

人間にとっての程良い調和、快適で平安な状態が、自然にとっての常ではない。いつでも穏やかな晴天、ということはなく、嵐もあれば竜巻も起こる。日照りもあれば、落雷もある。

人間も、自然の一部である。やはり、いつでも快晴というわけにはいかない。風邪による発熱、インフルエンザ、じんましん、急な激しい下痢・・・、これらは体にとって、まさに青天の霹靂である。

しかし、稲光によって稲穂が実るが如く、自然の大いなる荒振りが、新しい生命の息吹を吹き込むという重要な役目を果たしていることも知らなければならない。

雨が降り、風が吹き、季節が移り変わるからこそ、自然の生育というものがある。そして、時に台風が襲来し、川が氾濫し、山火事が起こることで、自然環境が停滞することを防ぎ、生態系が多様化することを助けていたりもする。

人間の体も、季節の移り変わりを始めとする外部環境の変化や内部環境の諸事情によって、いろいろに変動するものである。風邪を引いたり、熱を出したり、皮膚に湿疹を出したりすることで、停滞する体に変化をもたらし、生命活動のバランスを取っているのだ。

いつでも、痛いところも痒いところも不快なところも一つもない。全く風邪も引かなければ、お腹をこわすこともない。
そういう 「健康体」 を求めるとしたら、それは理想ではなく、幻想である。
現実に存在するのではなく、誰かの頭の中に幻想としてあるだけだ。一年中穏やかな陽気で毎日が快晴、そんな気候、天候が無いのと一緒なのだ。

しかし、毎日が平穏無事・・・、そんな幻想に似た、疑似健康体があるにはある。
それは、非常に鈍ってしまった体である。例えば、ガンになるような人の体である。

ガンになった人に訊いてみると、病気が見つかるまで、長期間全く風邪を引かなかったという人が非常に多い。風邪も引かないし、熱も出ない、取り立てて異常も起こらないので、丈夫になったものだと思っていたら、突然ガンが見つかったという。
ガンというものは、体の鈍りの果てに起こる病気である。一見、無病で健康、息災と見えたものは、実は丈夫になったのではなく、体がどんどん鈍くなって、変化を起こせなくなっていたのだ。異常がなかったのではなく、体が鈍って異常を感じ取れなくなっていたのだ。

生きているものは、全て揺らいでいる。その揺らぎこそが、生きていることの証なのである。

人間の体も、いつでも 「やじろべえ」 のように揺らいでいる。
大事なのは、傾かないことではなく、常に中心へ戻ろうとする力を失わないことである。

それでも、もし傾いたまま固まっても、鈍っても、ともかく全く異常感も症状も無いまま寿命が来るまで無事でいられる薬が発明されたらどうだろうか。
それはそれで、そういう薬にも需要があるだろうし、それを選択するのもまた一つの生き方である。

しかし、整体は、そういう道は選択しない。生命力を精一杯発揮して、己の生を全うするのが整体である。

力一杯生き切るという整体の生き方、体の自然に添っていく整体の生き方、そこには、「生」 の快感がある。この 「快」 を身を以て知ることが、整体で生きていくことの一つの大きなモチベーションになると言える。

整体というと、体を整える身体調整の技術、という意味が一般的だが、その整体によって整った体のことも、「整体」 という。

「整体」 であれば、生きていくことそのものに 「快」 がある。快適であり、快感があり、愉快なのである。
何か特別なイベントがあるから楽しいというのではない。生きていること自体がそこはかとなく愉しく、ゆったりと息をしているだけでも、その中に快感がある。

「整体」 になると、体を動かすことが愉しくなる。エスカレーターがあっても、階段で上りたくなる。
動くことに快感があり、動いても疲れず、疲れても心地よい。
夜はぐっすりと眠れ、朝の目覚めは爽やかである。
食べては味が鮮明で、おいしさの種類が増える。
力を出し惜しみする気は失せ、どんどん出し切りたい。
嫌なことがあっても、引きずらない。
伸びや欠伸にも気持ち良さがあり、排便や排尿にさえ、快感がある。

たとえ無病が保障されても、ただただ病気でないという鈍い体で生きるなど、「整体の感じ」 を知ってしまったら、とても選択できるものではない。

ただし、繰り返しになるが、毎日が晴天ということはない。整体=無病、ではないのだ。熱も出れば、お腹もこわす。変動は、体の常である。時には、変動が長期にわたることもある。人生が楽ばかりでないのと同じだ。
しかし、台風一過、嵐の後には、また抜けるような青空が待っている。

季よみ通信 ~気法会サイド~

« 2012年4月 | トップページ | 2012年6月 »