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2012年7月

其の17 急処、体を変える一点

其の16 急処が急処である理由 で柳澤先生が語られているのは、まさに 「動的身体論」 である。
「処」(ところ)が特定の身体上の座標をいうのではなく、その部の変化とその感覚をいうのであるというところから説き起こし、体の波(虚実の転換)によって変化する 「体勢」 に触れつつ、身体気法的 「動的整体」 操法の世界をケーススタディ的に紹介されている。

整体で 「処」 = 「調律点」 としてまとめられているものは、体の中にあるいわゆる急処の中で、汎用性があるものをピックアップして整理されたものである。
そもそも、「急処」 というだけあって、急場に変化が起こり、またその 「急場に間に合う処」 という意味である。
急場に対処するとは、急性の異常に対処するという意味でもあるが、体というものは常に動き変化し続けているので、その千変万化に対応するための 「処」 という意味でもあるだろう。

体は常に流動的で変化し続けているものであるから、その動的身体に於ける急処というものも常に変化している。
その状況によって、処が急処となったり、急処でなくなったりすることもある。急処は、時を得て急処となり得るのである。
また、その時その人の急処となり得る場所は、必ずしもいわゆる調律点とは限らず、思わぬところに現われることもある。

整体の体の見方には、まず気ということが始めにある。形ではなく、形以前の動きに注目する。その動きをもっと突き詰めたところに、動きを作り出す気の働き、“ 気の虚、実の転換 ” というものがあるわけだ。
野口晴哉先生によってまとめられた整体は、その出発時点から動的身体論の上に成り立っているのである。

そして、その動的身体論の世界では、処は “ ものの転換を図るポイントなのである ” ということであり、“ 整体に治療点は存在しない、、ともいえる ” ということになる。

しかし、である。

実際には、こういう変動が起こったときにはここが急処、という特効穴的な急処もある。いわゆる 「救急操法」 としてまとめられている一連の急処などがそれである。

もちろん、それとても体の転換を図る一点ということではあるが、臨床ではもっと単純に症状との対応で、○○の急処というものが活用されることも決して少なくない。

呼吸はあるが意識がないときに使う上頚活点(脳活帰神法)。後頭部にあるガス中毒の急処。月経痛や睾丸痛など生殖器系の激しい痛みを止める膝裏の禁点。食中毒などのときに毒消しの急処となる胸部活点。古い打撲の影響を抜く急処・・・などなど。

これらの急処には、民間に伝承されてきた療術や鍼灸按摩などの漢方医学、また武道・武術の活法などから整体に受け継がれたものも多く、今では本家が消滅して整体だけに残るものもあるようだ。
こうした急処は、まさに先人の残した大いなる遺産ともいうべきものである。失伝を避けるべく、しっかりと次世代に引き継がなければならない。

急処の中には活点・禁点と呼ばれる処がある。そもそも活点というのは、活を入れる急処である。まさに急場に間に合う処であり、いざという時に一気に体を変化させる力を持つ。
鎖骨窩にある胸部活点は、体の状況によっては喀血を引き起こすこともあるので、現在は禁点となっている。禁点に対する操法は文字通り禁じ手であるが、実は上手く使えば大きな効果を上げることができる処でもある。

鍼灸の世界では、特効穴というものがある。特定の症状に顕著な効果が認められる経穴(ツボ)で、作用機序は解明されていないが、ともかくそこさえ使えば症状が改善するという便利な経穴である。

数ある特効穴の中でも、痔や脱肛に効く頭のてっぺんの百会(ひゃくえ)や、食中毒に卓効がある裏内庭(うらないてい)は、整体操法にも急処として取り入れられている。

食中毒に効く裏内庭の位置は、足の第2指の裏に墨を付け、その指を曲げて墨の写ったところだ。鍼灸では、主にお灸を使う。
食中毒のときには、この部位が硬くなり感覚も鈍くなる。お灸を直接据えても、鈍くて熱さを感じない。そこで、熱さを感じるようになるまで繰り返しお灸を据え続けるのだ。

岩波新書の「鍼灸の挑戦」(松田博公著)という本に、この裏内庭が本当に効くのかどうか、自分の体を使って実験をした鍼灸学生の話が載っている。
その強者は、鍼灸学校に通っていた頃、腐敗した焼きそばを自らの意志で食べて食中毒を起こし、裏内庭にお灸をして本当に治るかどうか実験をした。
ひどい下痢と腹痛に苦しみながらも級友に裏内庭に立て続けにお灸を据えてもらい、その数100壮に及んだとき、その部に熱さを感じ、同時に腹部の激痛がスーッと消えた。そして、お腹がポカポカと温まり、いい気分になり空腹を覚えたという。

裏内庭は、食中毒のときに触ってみるとたいてい硬く鈍くなっている。お灸でなくとも、押さえて愉気するだけでも、スーッと気分が良くなってくる。
なお、吐ければ楽になるのに吐くことができないときは、頭を腰より低くして腰部活点(第2腰椎三側)を押さえれば簡単に吐くことができる。
もちろんこれは、体に吐きたい要求があるのに何らかの事情で吐けない場合に有効であるということ。必要もないのに吐こうとしても、この方法は効力を発揮しない。

まさに急処は時を得て急処となり得るのだが、また急処を急処として活かすための技術というものも必要である。
急処とは、体を変える一点であり、ときには生死を分ける一点となることもある。
いざという時は無いに越したことはないが、使わないでよいことを願いつつ、技術だけは日々修練に励まなければならない。

季よみ通信 ~気法会サイド~

其の15 開く体、夏の操法

季よみ通信 其の13 では、体が整っていることを端的に表すものとして、腹部の三つの 「処」 について書いた。

ちなみに野口整体では、体の状況を表す身体上のポイントのことを 「処」 という。処は体の働きの状況を示すと共に、その働きを調整できるポイントでもある。いわゆる急処であり、「調律点」 とも呼ばれる。

さて、腹部第1・第2・第3調律点であるが、それぞれ 「虚」・「冲」・「実」 であることが 「順」 である。

この 「虚」・「冲」・「実」 というのは、それぞれの処の 「気の虚実」 である。処を整圧しながら、気の虚実を読むのである。

「気の虚実」 といっても始めは掴み所がないので、まずは処を触っての弾力で観ることから始める。

「虚」 は、すぼめた掌の中心の柔らかさ、「冲」 は、掌の手首に近い手根部の弾力、「実」 は、手の甲の硬さ、あるいは力を入れた上腕の力こぶの弾力などに例えられる。
また、 「虚」 は、息を吸っている時でも吐いている時でも力が抜けて柔らかい。「冲」 は、息を吸っている時は力が集まって硬いが、吐いている時は弛んで柔らかい。「実」 は、吸っている時も吐いている時も、力が充実して弾力ある硬さがある。

腹部第1が 「逆」 のときは、胸部を操法する。
腹部第2が 「逆」 のときは、腰部と側腹の操法をする。
腹部第3が 「逆」 のときは、頭部の操法をする。

といった、それぞれの処の 「逆」 に対処する方法などもあるが、基本的には全体のバランスの中で腹部第1・第2・第3調律点がそれぞれ順となるように操法を組み立てていく。

腹部にはその他に、左季肋部に腹部第4調律点、右季肋部に腹部第5調律点がある。それぞれ、感情の閊え、排泄の閊えを示す処である。
第4は心の閊え、第5は体の閊えと言ってもいいかもしれない。

腹部の調律点は五つだが、それ以外に重要な腹部の処として、側腹と鼠径部がある。

側腹は、主に泌尿器及び体の捻れ、第3腰椎の状況を反映する。ここは非常に守備範囲の広い急処である。
泌尿器に関係して、浮腫みや梅雨時のだるさなどにも使うし、呼吸が浅い、高血圧、腰痛や悪阻などにも急処として用いられる。

鼠径部は、一応腹部の急処ではあるが、腸骨の前側・内側の操法と考えても良い。

ここ2週間ほど、鼠径部の操法を行なう際、整圧をいつもよりも深く取ることが多くなった。この鼠径部内側の急処は、整体操法制定に携わった野中豪作氏の野中操法の第1健康線に相当するが、まさに野中操法的に深く四指を差し入れて外へ向かって柔らかく整圧している。

“ 夏の身体は、開いている。骨盤が開き、皮膚が弛み・・・”、である。
夏の体は、思いっきり開いているのが本当なのだ。

夏の開いて弛んだ体になっていくために、鼠径部の操法も深く取って開き弛めることを誘導する刺激が、人によっては必要であり、今の体に適っているということだろう。
こういうことは頭で考えてそうしているのではなく、ある時期になると自然と体がそういう風に動き出すのである。

操法の途中で、ここを押さえてみたらどうか、と頭で考えても手の方が動かない、ということがある。そういうときは、頭よりも手を信頼した方が良い。体と頭が対立したら、大抵体の方が正しい。
というより整体に於いては、そうなるように、「体 (=潜在意識)」、を訓練していくのだ。
その訓練の基礎の基礎は、活元運動と合掌行気法である。

夏の操法は、若干短くなる。その方が、夏の体には合っているのだ。

風邪のときや花粉症の症状が出ているときも、操法は短めにした方が良い。間延びしてダラダラとやると、かえって症状が悪化したり経過が長引いたりする。

そもそも、夏の体は弛んでいるし、弛みやすいので、操法をする側からすると楽なのである。冬にはじっくりと感応をはかって愉気をしたり、あれこれ手順を踏んで弛めたりするものが、チョイチョイと刺激するだけで事足りたりることも多い。
それもまた、操法の時間が短くなる一つの理由ではある。

短いと言っても半分になるわけではないが、その若干短いというところに、弛みの中に一つ冗長とならない纏まりのようなものを求めるのである。

パン作りでも、過発酵させると生地がだれてしまう。夏は当然暑いので、発酵温度が高すぎたり、発酵時間が長すぎると、発酵過剰で生地がだれてしまうのだ。

夏の体に対する操法も、だれさせないように、程良い時間で纏めるのが大事なのである。

季よみ通信 ~気法会サイド~

其の13 変動と体の上昇志向

「季よみ通信」 のサブタイトル ~白山⇔気法会往復ブログ~、この白山は、私が開設している白山治療院のことである。
都営三田線白山駅からは徒歩7分。最寄り駅は東京メトロ南北線の 「本駒込」、所在地は文京区 「向丘」、それでも名称は「白山」 治療院なのである。

この白山治療院、治療院なのに、通って来られる人の半分以上は、特に体に異常を抱えていない。つまりは健康な人々である。
皆さん始めは何か病気があったり痛い所があったりして、それを治したくて来院されたわけだが、多くの方々は治ってしまった後でも継続して操法を受けられている。そういう人達は、体を整えるということの意味を、まさに 「体」 を通して知った人である。

最近は一般書籍でも野口整体関連の本がたくさん出ている。またネットでもかなり野口整体の情報は入手できるので、知識として整体を知っている人も増えているだろう。
そしてその整体の考え方に共感、賛同して、整体を受けにいらっしゃる人も少なくない。やはり整体は体験である。本で読んだだけでは解らない部分は、実際に操法を受けてみて、体を通して感じ取るところが大きい。
しかし操法は、相性もある。私のところに来てピンとこなかった人も、もう一度他所で操法を受けて見られることをお勧めしたい。

なお、「野口整体」 でありながら、「治療院」 であることに関しては、また機会を改めてどこかで書こうと思う。

さて、一人の人の体を継続的に長く観ていると、体に勢いが出てきたところから、いきなり変動が始まるということがよくある。
体に勢いの無いうちは、じーっと大人しくしていて、勢いが高まってくると変動を起こすのである。

整体に通って調子良く過ごしていたと思ったら、突然体に変調が訪れる。これはどうしたことかとびっくりするが、決して私が下手を打ったのではないので悪しからず。むしろ予定調和とでも言うべきものである。

人間誰しも体にいろいろな矛盾を抱えながら生きている。治りきらなかった古い捻挫や打撲による硬直・萎縮、どうにも弛まない職業的な偏り疲労、成長してくる中で育ち切らなかったところ等々・・・。
しかし、それらのネガティブ要素がある限り健康にはなれないのか、整体にはなれないのかと言えば、決してそんなことはない。
生きてる人間である限り、何らかの不具合は常に抱えているものだ。それでも、それらを抱えていながら、その中でのバランス、調和というものを常にとり続けるのが人間の素晴らしいところである。

「整体」 であるか否か。それを最も端的に表すのは、腹部の弾力である。
鳩尾部分、胸骨剣状突起の指三本下の腹部第1調律点が「虚」、
腹部第1と臍との中点にある腹部第2調律点が 「冲」、
臍の指三本下、いわゆる丹田に当たる腹部第3調律点が 「実」、
であることが、整体であることを示す。
この腹部第1・第2・第3が、「虚」・ 「冲」・「実」 である状態を腹部が「順」であると言う。
そうでない状態は 「逆」 である。

体にある種の異常を抱えていても、腹部が 「順」 であれば、現時点で最も良いバランスを取っている状態である。体は、その時点での最高のパフォーマンスを発揮している状態であると言える。
つまり腹部が 「順」 なら、一応体は整っている。

体が整っているということは、その段階としては理想的な体の運転状況であり、概ね快適さと安定性を感じることができる。
しかし、いつまでも古い故障や慢性的な異常を抱え込んだまま行くのでは、整体を受けている甲斐がない。そこで、それらの潜在している異常を浮き上がらせて解消していくように仕向けるのが整体操法の役目である。
そのために、過敏に愉気をし、圧痛に働きかけ、鈍った古い異常を体自身が認識するように持って行き、体の回復欲求を引き出すのである。体の中の寝ぼけた部分が目覚めてくるように、手順を踏んでアプローチするのだ。

体力状況が良くなってきて、鈍りが取れて体が目覚めてくると、体は手の付けようがなく後回しにしていた古い異常や、今まで放置していた問題を何とかしようと働き出す。
そこで起こるのが、体の 「変動」 である。
弛緩反応。 過敏反応。 排泄反応。
だるくもなれば、眠くもなる。痛みも出れば、熱も出る。下痢もすれば、湿疹も出る。急性病のような状態になることもあり、そこで病院に行けば何某かの病名もつくかも知れない。
しかし実は、体は長年の懸案を片付ける目途がつき、もう一段高いステージでのバランスを取り直すための準備が調い、ようやくそのための作業を開始したというわけなのである。

整体操法とは、体の変革を促すために、ある意味では体に自然の変動が起きるよう起きるようにと、お膳立てしている作業だと言えなくもない。

もちろん体の病変は、全てが体が整うための 「建設のための破壊」 とは限らない。症状と共に体が悪くなり、死に向かうような場合もある。
大事なことは、体が “ 「生」の方向に向かっているのか、「死」の方向に退いてゆくのか” 、ということを見極めることである。そのためには、それこそ体の勢いというものを見る能力が求められる。悪くなっている人に向かって、「大丈夫ですよ」 などと安請け合いするわけにはいかない。

ぎっくり腰を繰り返し、どんどん腰を毀していく人もいれば、同様に繰り返しながら、どんどん腰がしっかりして立ち直っていく人もいる。
流産ですら、繰り返すごとに骨盤が整い、妊娠・出産に耐えうる体、適した体に変化していくことだってあるのだ。
どのような変動が起こっていても、その時の体の向きがどちらを向いているか、ということが重要なのである。どのような変動でも、体の向きが上向きなら、その変動を通して体はより良い方へと変わっていく。

生きている限り、いつでも体はより良くなろうと動いている。
傷だって、いくら 「傷よ、塞がるな!」 と命令しても、勝手に治っていってしまう。

そんな本来思いっきり前向きな体が、なぜか治っていかなくていつまでも病気でいる原因、その素直に治っていかなくなっている閊えを解除していくのが整体操法である。その作業さえ上手くいけば、後は体が自然と良い方向へと動いていく。

健康にも、上には上がある。体力的にも、体感的にも、更に元気な、更に快適な体というものが、可能性としていつでも用意されている。整体的には、育ってきた環境や体の使い方の問題などで生じた心身の矛盾を解消し、より快適な体を求めて体を育てていき、「死ぬ直前が最も健康」、ということが理想だと思う。
取りあえず体が整って安定したらそれっきりかと言えば、体はそんなに無欲ではない。しばし平和に安住しているように見せかけながら、虎視眈々と次なるステップアップを狙っている。
いつでも体は、ワンランク上の健康を志向しているのである。

季よみ通信 ~気法会サイド~

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