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其の21 身体運動を術化する

其の20 では、柳澤先生が旅先で突然表面化した膝の激痛を抱えながらも、身体運動の予備系システムを発動させて無事古道を踏破する様子が書かれている。
全体を通して非常に興味深い内容であると共に、その描写からオラオラ歩きのまま猛スピードで山道を下っていく先生の姿が目に浮かんで何とも愉しい気分にさせられた。

柳澤先生が痛む膝を運動系統の転換で見事にリカバリーできたのは、当たり前のことでも偶然起こったことでもない。
先生が 「体の捌き」 というものに長けていて、自らの身体運動を意識化できているからこそ実現したのであろう。
体の動きが洗練されていない人が、自由に動いてよいといわれても、新しくその場に適した効率的な動きを即座に生み出せるものではない。常日頃から身になじんだ習慣的な動き以外の、新しい運動システムが突然スイッチオンになるということは、実は滅多に起こらないことなのである。

整体には、「活元運動」 というものがある。これは、いわゆる体操とは違って、体の中の無意識の運動系を訓練していくものである。

体の無意識の運動系は、その運動神経の系統から錐体外路系運動ともいわれる。
錐体外路系の運動は、一般にイメージされる身体運動だけではなく、欠伸やクシャミ、まばたきなども含まれる。体の健康を保っているのは、主に錐体外路系の無意識運動なのである。

たとえば、頚や肩がこってくると誰もが頚を動かしたり肩をトントンとたたいたりする。また、疲れて体が固まってくると自然と伸びをする。こういうことは意識的にではなく、体が必要を感じて回復のために自動的に行なうものである。
活元運動は、この自動調整機能をフル活動させて体の不調を改善すると共に、その自動調整機能自体を錆び付かせず必要なときにしっかりと働くように訓練していくものなのだ。

ある種の準備運動、誘導法をおこない、あとは体の力を抜いてポカーンとしていると、体が自然に動き出す。それは、体の疲労を抜くための動きだったり、硬直して動かない部位を活性化させようとする動きだったりする。

野口先生の著書に、スキーで脚を折った人が、その場でスキー板を外して活元運動をしているうちに、骨が自然と正しい位置に整復されてしまったという話が出てくる。
活元運動をしていると、こういうちょっと普通では考えられないような体の凄まじいまでの回復力を体験することが多い。

柳澤先生の古道の話ではないが、私も山登りの帰路に疲労でどうにも体が動かなくなったことがあった。そのときに、そうか活元をやればいいのかと思いつき、活元運動をするつもりで歩き出してみると、不思議なことにあれほど疲労困憊していた体が再び息を吹き返して楽々下山することができた。
頭はゆらゆら、体はぐでんぐでん、手も足もぶらんぶらん。しかも結構なスピードで下っていく。端から見たら全く危なっかしくて仕方がなかっただろう。しかし、本人は正に予備電源が入って別系統のシステムが立ち上がったかのように、疲れも吹き飛んで意気揚々と歩みを進めていたのである。
しかも、木の根っこにも不安定な足場にも、まるで事前に知っていたかのように見事に体が対応する。なかなか面白い体験であった。

柳澤先生は、体の動きを高度に 「術」 化されている。整体操法をおこなっているときだけでなく、立ち居振る舞い、日常の身体の使い方までが、「術」 の領域にまで高められている。
これは、やはり整体操法の型における体の捌きが、長い年月の間に恒常化したものであろう。操法をおこなう上で求められる身の捌きが、行住坐臥、生活のあらゆる場面で適用されているのだ。

この身体運動の術化は、操法の修練の過程で進んだ 「身体運動の意識化」 と、活元運動で磨き上げられた 「無意識的運動の高度運用」 によるものであろう。
言葉だけを並べると、一見二律背反的とも思えるが、どの分野でも一流といわれる人々は、この意識と無意識の運動系を矛盾なく高度に融合させて身体を使いこなしているのである。

私も整体操法を習い始めた頃には、なんでこんな窮屈な格好で押さえるのか、と思ったことがある。もっと自由に動いてよいのなら、もっと上手くできるのにと思った。
しかし今となっては、型による整圧とはなんと効率のいい押さえ方なのか、と驚嘆するばかりである。無駄な力も要らず、効率よく成果を上げ、行なう側の指も体も壊さない。それどころか、操法する側の体を整える効果もある。

整体を仕事にするものといえど、生身の人間である限り体調の波というものはある。また、ときには発熱やら腹痛やらギックリ腰やら、人の体を観ている場合ではないような状況に陥ることもある。
そんなときでも、しれっと知らん顔して(やせ我慢して?)操法ができるのは、型によって体を操作することが身についているからである。
そして、操法をしているうちに不調が回復することがとても多い。正しい体の使い方で動いているうちに、心身の歪みが正されるのであろう。

また、同じ処を何度でも同じように押さえることができるのも型のおかげである。
たとえば第2腰椎の二側を押さえてみて、そこに硬結があったとする。これは下肢と関係があると推測して、まず下肢の操法をおこない、再び第2腰椎を押さえてみる。
このとき、始めに押さえたときと全く同じ場所を、同じ角度、同じ速度、同じ圧で押さえられなければ、下肢の操法の前と後で硬結がどう変化したかを正確に比べることができない。押さえられた相手が、さっきと全く同じところを同じように押さえられたと感じなければダメなのである。
何のガイドもなく、感覚だけを頼りにこれを行なうのは実は相当難しい。しかし、型を以て押さえれば、さほどの苦労もなく実現することができる。

どこかを整圧する場合、手指で行なうことがほとんどであるが、指の力で押さえるのではない。指は処の状況、変化を読むことが役割である。指に力を入れてしまっては、処の変化を読むことができない。整体の型では、指の力を用いずに指を使うことを要求している。

野口晴哉著、「整体操法読本巻一」 には、次のように記されている。

「 『型』 は指を鋭敏に使って処を読み乍ら操法する為に、体の力学的合理な用い方によって指に力を入れないで、指の力で指を使わない為組織した」 (原文は旧仮名遣い)

指は指の力で使わず、腕も腕の力で使わない。
そのために、脇を締めて脇を張る。
それには腰腹に力が集まっていないとならない。

丹田で動く、丹田から動く、と柳澤先生はよく言われる。
上虚下実で、体の中心から動くということだ。

東洋の身体技術は、枝葉の細かいところばかりにフォーカスすると本質を見失いやすい。
体を一つに使う。
そのために丹田というツールができたともいえる。

操法においての身捌きを日常の動作のように自然で楽々とできるようになるには、やはり日常の身捌きをも整体操法の術理にそったものにしていかなければならないだろう。
目指すところは、操法の身体を常の身体に、常の身体を操法の身体に・・・。
つまりは、身体運動の術化である。

さて、見事に身体運動の術化を体現されている柳澤先生に、型で動くこと、体の意識化、日常動作の術化などについて語って頂きたいが、いかがだろうか・・・。

→  季よみ通信 ~気法会サイド~

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