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其の23 手の感覚から整体的身体操作を構築する

“ 通信の其の21で、
指田さんから、バトンを渡された格好であるが、
私に何か特別な回答があるわけでもない ”

といいながら、十分すぎるほどしっかりと回答されているところが柳澤先生らしい・・・。

「型で動くこと」 、 「身体運動の術化」 に至るためのプロセスもしっかりと解説されているし、その際の注意点も明示されている。

具体的な体の捌きについては言及しないのかと思いきや、読み進めていくと、「丹田で動く」 ことについても具体的なヒントが与えられている。
しかし、あくまでヒントであって、どこをどう使うというような身体操作の手順や、その時にこういう感覚を持つのが正しい、といった意識的な運動・感覚の部分については示されてはいない。それらを示さないということが、すなわち柳澤先生の 「身体運動の術化」 に対する答えともなっている。

最近、川島金山先生の野中操法研究会で講義されている柳澤先生の映像を見る機会があった。
今までに柳澤先生の動きを身近に拝見する機会は多くあった。操法の研究会をしたこともあり、また先生の操法を間近で見たこともある。しかし、改めて映像で見てみると、直接見ていてわからないところが、かえってよく見えることに驚いた。
もちろん、直接見ることでしかわからないことはあるわけだが、映像で客観的に見るということは、また違った情報が得られるものらしい。

結論から言えば、柳澤先生の体の捌きは、やはり素晴らしい。そして、高度に 「術化」 されていることが見て取れる。
正座・蹲踞・跨ぎ、そしてそれらの型の繋ぎの動作が寸分の隙もない。何か、武術の動きを見ているような気分にさせられる。

以前、柳澤先生に、どうしたらそのように動けるようになるのか、と訊いたことがあった。
その時は、「長年やっているうちに、いつのまにかこうなった」 というような意味のことをおっしゃっていたが、「長年やっている・・・」 のは、整体操法の型を修練していたということで、先生はその操法の修練の中から現在の身体の捌きを体得されたということになる。
つまり、整体操法の身体技法のエッセンスが、いつのまにか日々の体の操作の矩となっていったのだろう。

そして、この 「いつのまにか」 、というところが重要である。

“ ある動作に伴う意識的な形式は、何度も繰り返すことによって習慣的な無意動作におりてゆく ”

のだが、しかし意識(いわゆる顕在意識)が勝ちすぎては、

“ 過剰な意識の反復は、無意識化に降り立つのを妨げて脳内の関連部位への連絡を
途絶えさせてしまう ”

ということになる。

そのため、動作の術化を実現するためには、

“ ちょこちょこ、チコチョコと無意識の連絡通路に引き渡しながら、次々忘れてゆくつもりでないと・・・ ”

上手くいかないのである。

整体では、練習は一番上手くできたときに止めるのが良いとされている。
普通は上手くいったら、ここぞとばかり繰り返して体に覚え込ませようとするが、それよりも上手くいったときの体の感じをそのまま残してそこで終わりにする。そうすることで、後は体(潜在意識)が時間をかけて、それを自らのものにしていくのである。

“ 丹田で動くとは、足裏で動くということになる ”

“ 全ての動作において、足裏を捌くことで、動きを図ってゆくのである ”

足と丹田の関係は、非常に密なものである。
臍から三横指下の腹部第3調律点、ここはいわゆる丹田の力を観る処である。
そして腹部第3調律点は、下肢の状況が反映する処でもある。
整体的な観方で体を観る場合、下肢は丹田から生えている、と言ってもよいほどである。

腰・腹を中心に身体を高度に運用しようとするとき、足裏の感覚は非常に重要な要素である。

たとえば椅子に座って作業をする場合でも、足裏全体がしっかりと床についているか否かということが、そのパフォーマンスの質を大きく左右する。
足裏全体がしっかりと床を捉えていると、姿勢を保つことも楽であり、体も思うように操作しやすい。そして、呼吸もゆったりと保ちやすくなる。

会議に臨むときなども、足裏が地に着いていないと本来の実力を発揮できない。その足をどこに置くかでその場をリードする方法などもあるのだが、ともかく椅子に座っているとはいえ、足裏が床に着いて下肢全体が使えていないと、腹が据わらず対人能力も低下する。

洋式のトイレが普及し始めたとき、しゃがまないと排便がしづらいという人が多かった。しゃがむのに比べて、腰掛けた姿勢では上手く腹圧がかからなかったのである。
最近は洋式の方が多いので皆慣れていると思われるが、それでも足裏を床につけていないと、やはり排便がしづらくなる。

足裏で、力を入れて床を押したりする必要は無い。ただ、足裏全体がしっかり地に着いていることで、腰・腹にかけてしっかりと力が入るのである。
足裏は一種のセンサーである。足裏が地面を捉えている 「感覚」 が、下肢を通して腰・腹に伝わり、その働きを十分なものにしてくれる。

その感覚を掴むことに慣れてくれば、実際に足裏床に着いていなくても、同様の感覚が持てるようになる。

たとえば片足で立つと、当然ながら二本足で立つときよりも不安定になる。なかなか、重心がピタリと決まらない。そこで上げた方の足裏を意識して、あたかもそちらの足も床に着いているような 「つもり」 で立つと、かなり重心が安定する。
このとき足首をしっかり曲げて、足の指を開いたり、少し反らしたりして、足首の締めを強調すると良い。つまり、床に着いている方の足と同じような感覚をつくるのである。

ちなみに、足の指を開くことが健康に良いとか身体運動のパフォーマンスを上げるとかいうことがいわれるようになり、5本指靴下がブームになったことがある。今でも愛好者は、少なくないようである。
しかし、足の指は開くだけではなく、「閉じる」 ・ 「揃える」 ・ 「すぼめる」 などの操作もあり、それらも 「開く」 に劣らず重要なのである。足指を閉じる操作のときには、足指同士の皮膚感覚(密着感)が重要になるので、5本指靴下は、これらの動作をやりにくくし、不完全にする。

また、整体操法では、正座による操法もある。正座では直接足裏は使われていないが、それでも足・脚・腿、下肢の全てが重要な役割を果たす。折りたたんで、全く動いていないように見える下肢が、正座の操法の質を左右するほどに、実は働いているのである。

正座の足が働いているというのはわかりにくいが、腹・腰、体幹部、そして上肢を上手く使うために、下肢が全体の釣り合いを取っている、ともいえる。
実際に正座の下肢の締めや開きを使って上体~上肢~指の操作をすることなどもあるが、別に足がごそごそ、もぞもぞ動いているわけではなくても、感覚的には下肢が正座での体の捌きの舵取りに於いて、かなり大きな役割を果たすのは確かである。

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もう二昔ほど前のことになるだろうか。
整体操法を習い始めてしばらくした頃、あらゆる物を 「愉気で触る」 ことを心がけていた時期がある。

「整体に於いては、人の体を触るときに、物を触るような感覚ではいけない」

と、一番始めに教わった。

ならば、逆に物を触るのも、生命あるものを扱う気持ちで触れば整体の修行になるだろうと思ったのだ。
いっそのこと、手に触れる全ての物に、愉気するつもりで触ろう、と・・・。

箸も茶碗も愉気で持つ。パソコンのマウスも、テレビのリモコンも、エレベーターの階数ボタンも、全て愉気で触る。本を持つのもページをめくるのも、全て生命のあるものを扱うように気を集めて触るよう心掛けていた。

四六時中そんなことをしていたら疲れないか、と言われそうだが、意外とすぐに慣れてしまうもので、今度はそれがだんだんと習い性になる。

愉気で触るといったところで、実際はどんなことに注意して手を使ったのか・・・。
一言で言えば、常に 「気を抜かず」、ともかく全ての物を 「丁寧」 に扱ったということだった。

まず、当然ながら物に触れる際には、必ず手に気を(意識を)集める。
そして、その物の質感・重量・硬度・温度などを感じ取るようにしながら触る。
また、触れるときの速度も、急に触って相手(?)がビックリしないように、かといってイライラするほど遅くもなく、丁度よい速度を心がけた。
そして意外と重要だと思ったのは、必要最低限の力をもって触れる、ということだった。

歯ブラシを持つのと鞄を持つのでは、その重量の違いから当然握る力は変わってくる。しかし、改めて意識して持ってみると、鞄のようにある程度重いものは適正な力で握っているが、歯ブラシのような軽い物は、意外と無駄に力を入れて持っていることに気づいた。
おそらく小さな力を出すということは、緻密で繊細な情報処理が求められるので脳(?)が面倒くさいのだろう。だから、このぐらいの力があれば足りるだろうと、多めの出力で動作しているのではないだろうか。
だとしたら、そんな大雑把な体の使い方では、とても繊細に人の体を触ることはできないのではないか・・・。

そう気づいてからは、今度は物を持つとき、つかむとき、使うとき、必要最低限かつ適正な出力を心がけた。
適正なというのは、生き物を触る場合、力は弱ければよいというものでもなく、丁度よい、というところが存在するからである。人間の体を触るのでも、猫の背中をなでるのでも、強すぎもせず弱すぎもしない、これ以上でも以下でもない、「ぴったり、これぐらい」 という丁度よい圧力というものがあるのだ。
歯ブラシを持つときも、歯ブラシの気持ちになって、歯ブラシが最も心地よいと感じるであろう力と速度で、そして歯ブラシがその能力を十全に発揮できるように心を配って歯を磨いたのである。(当時は、これを大まじめにやっていた)

野口晴哉先生は、『手を調整することを通して、全身を整えることができるんだよ』 とおっしゃっていたそうである。

手を調整することで体全体を整えることができるのならば、手の感覚を研ぎ澄ませ、手の使い方を工夫していくことを通して、全身の使い方の質を高めていくことも可能なのではなかろうか。

さて、ここまで書き進めてきて、ふと気づいたが、そもそも整体の基本中の基本、「合掌行気法」 は手の感覚を研ぎ澄ますことから始め、徐々に手と丹田をつなぎ、整体操法をおこなうための体の使い方を修練していく方法ではないか・・・。

柳澤先生が足裏の捌きに言及されていたので、私の方は手の感覚から・・・、と考えて書き出したのだが、そもそもそれは元来整体で当たり前におこなわれてきた正に王道的な方法論であった・・・。

「合掌行気法」 は、整体操法の習得を志す者にとって、重要な訓練法である。合掌行気をとことんやり込んで行くことは、整体操法上達への早道の一つである。
1年目には1年目の、10年目には10年目の合掌行気がある。やり込むほどに、得るものは深く大きなものになっていく。

そして、興味のある方は、ときたま歯ブラシの気持ちになってみるのもよい・・・、と思う。

→  季よみ通信 ~気法会サイド~

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