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愉気

治療のことを「手当て」というが、手を当てるということは癒しの原点である。誰でも頭が痛ければ自然と頭に手がいくし、お腹が痛ければ無意識にお腹に手を当てる。どこかをぶつけても、やはり思わず手を当て、押さえ、さする。痛みに限らず、体に異常が生じれば、自然と手を当てるものである。
では、思わず手を当てるそのときに、そこにはなにが起こっているのかというと、「気」が集まり、その働きが高まっているのである。

「気」というのは、人間が生きている源である。新しい生命の誕生が受精の瞬間だとすると、人間はまだ心も体もできあがっていないときから生きている。その心も体もできあがっていないときから働いている生命そのものの力を、整体を始めとする東洋の医学では「気」と呼んでいるのである。「気」は、心と体を作り上げ、その両者を支え、かつ繋いでいる生命の根元的な力である。生命活動の源である「気」の働きを高めることは、健康を保つ上で最も大切なことのひとつだ。

整体では、「気」を集注することを「愉気(ゆき)」という。もともとは「気」を輸る(おくる)という意味で「輸気」と書いていたそうだが、そこに「愉しく明るい陽気を伝える」という意味を込めて、「愉気」としたという。
「愉気」は、誰にでも備わっている人間にとって当たり前の能力である。知識がなくても、本能的に誰でもおこなっている。手を当てて、そこに意識を集めればいい。意識を集注すると「気」の働きが高まってくる。意識を集注するというのが難しければ、ただ手を当ててゆったりと呼吸するだけでもいい。「気」というものはお互い共鳴するものであるから、自分の体でも他人の体でも必要としていれば手を当てているだけで自ずと「気」の感応が起こり、働きが高まってくる。

「愉気」をおこなうときには肩の力を抜いて、呼吸をいつもより少しゆっくりと長くする。相手よりも呼吸が長いというのが愉気をする条件であるが、気張るほど長くする必要はない。また意識を集注するといっても、思いつめるような集注ではない。ただ心を静かに保って、対象に心を向けていればいいのだ。

野口氏は、愉気をするときに必要な心のあり方を「天心」と表現した。嫉妬や怒り、気張りなどで曇っていない、赤ちゃんのような心である。どんなに荒天でも、雲の上はいつも晴れている。人間も、深く静かな呼吸をして心を落ち着ければ、いつでも天心を取り戻すことができる。その天心にかえるということを瞬時におこなえることが、愉気の技術と言えば技術であるかもしれない。

愉気は誰にでもできる。赤ちゃんに触る母親の手は、みんな愉気にあふれている。母親に抱きつく赤ちゃんの手も、やはり愉気が満ちあふれている。そういう手で触られるだけで、心は和み体もゆるむ。うまくできないという人は、頭が忙し過ぎて体の感覚が鈍麻している人である。しかし、そういう人でも、ともかく「愉気」をおこなっていくうちに実感を取り戻してくるものだ。

人間と人間の関係というのは、お互いの「気」の共鳴・感応によって成り立っている。「気」が通れば話もとおる。「お疲れさま」というねぎらいの言葉も、「気」がなければ空々しい。人間は言葉を持ってコミュニケーション能力が発達したといわれているが、やはり言葉以前に気の交流があることは間違いない。「気」ということがわかってくると、人間関係も円滑に運ぶようになる。

「気」というものは、人間が生きていること全ての根底にある。「気」の働きを知り、「気」のリズムにのって生活することを体得することは、人生を快適にし、また豊かにすると思う。とりあえず、難しいことは抜きにして、手を当てて「愉気」をするということから始めてみることをおすすめしたい。

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