整体操法制定委員会
「整体法」(野口整体) における他律的身体調整の技術を、「整体操法」という。整体操法の理論と技術体系は、野口晴哉氏の卓越した人間観 ・生命観に貫かれて、他に類を見ない独創的なものとなっている。しかし、当然ながらその内容は全てが野口氏のオリジナルというわけではない。もちろん昔からおこなわれてきた伝統的な医術の流れを受け継いでいるし、さまざまな治療法 ・身体調整法から多くの技術が取り入れられている。
整体操法が確立した前後、大正から昭和初期というのは、手技療術の大いに発展した時代だったようだ。古来からの日本的、東洋的な手技療術 ・民間療法に加えて、アメリカから入ってきたカイロプラティックやオステオパシーなどの影響をうけ、さまざまな手技療法が発展し花開いた、まさに「療術百花繚乱」の時代だったようである。整体操法は、そのころの治療の大家が一堂に会して、当時の技術の粋を持ち寄ってつくられた。
手技療法全盛のその当時、一流一派を率いる名人 ・大家と呼ばれる人々が、それぞれの経験にもとずく見識と理論と技術を持ち寄って、療術界の発展のために新しい技術体系を創り出そうという動きがあった。その動きの中心にいたのが「整体法」の創始者である野口晴哉氏だった。
はじめ整体操法は、東京治療師会の手技療術のスタンダードとして制定された。野口氏の古い著書に、そのあたりのことが詳しく書かれている。
「整体操法制定委員会は昭和十八年十二月設立し、昭和十九年七月迄毎夜の論議を経てその基本形を制定し、同月の東京治療師会役員会に発表し、全員一致の支持を得て之を東京治療師会手技療術の標準型と決定したのであります。ここに手技療術の新たなる発足が始まったのであります。個人のものから団体のものに移り、いろいろな角度からいろいろの検討が行われ、 ・・・(中略)・・・ その後も連日多数会員の協力が加わって進歩向上しつつあるのであります。独特の殻を破った手技療術の歩みこそ他のいろいろの療術の範をなすものであります。」(野口晴哉著 整体操法読本 巻一 ※原文は旧仮名遣い)
その第一回の制定委員会の委員の顔ぶれは以下の通り。
「野口晴哉(精神療法)を委員長として、次の十三名の委員によって構成されていました。梶間良太郎(脊髄反射療法)、山田信一(オステオパシー)、松本茂(カイロープラクティック)、佐々木光堂(スポンデラテラピー)、松野恵造(血液循環療法)、林芳樹(健体術)、伊藤緑光(カイロープラクティック)、宮廻清二(指圧末梢療法)、柴田和通(手足根本療法)、山上恵也(カイロープラクティック)、小川平五郎(オステオパシー)、野中豪作(アソカ療法)、山下祐利(紅療法)、その他に美濟津貴也(圧迫療法)他三、四名の臨時委員が加わりました」( 同著 )
多くの治療家が参加しているが、整体操法を構築していく上で理論的 ・技術的に柱となり核となったのは、やはり元来野口氏が持っていたものだったのではないかと想像する。基本的に治療家というのは、みな一匹狼であり、それぞれが一国一城の主である。これだけ多くの治療家が集まって、いくら議論を交わしたといっても、そうそう意見がまとまるとは考えにくい。
真珠や金平糖が核があってできあがるように、整体操法にも核になるものがあったのではないだろうか。後に野口氏は治療ということに対する考え方の相違から療術師会と袂を分かつのだが、他の委員のほとんどは、もともと自分のおこなっていた治療法に戻っていく。野口氏だけが、この整体操法を自分の治療技術として用い、さらに発展させてゆく。このことから考えても、そもそも整体操法の基本部分は野口氏のもともと使っていた技術だったのではないかと思う。
そして、野口氏の思想と技術という中心となる基盤があったからこそ、整体操法が単なる寄せ集めに堕することなく、理論的にも統一された、すぐれた身体調整の技術体系となりえたのではないだろうか。
引用した著書には、こんな文章もある。
「質問に答えて
各委員は材料を出し合った、しかしそれを合併したのが整体操法では無いのであります。小豆と砂糖と寒天とで羊羹は造られるでありますが、羊羹の味は羊羹であって、小豆や砂糖や寒天の味が残っていればそれは上等の羊羹では無い。或る委員の出した材料が見当たらないと言われることは、その練り用を褒めて頂いたように思われる。希くばこの羊羹から、小豆の味を見つけようと味わわないで、羊羹そのものを味わって欲しい。」