気の話
「気」 というのは、これと目の前に出して見せられるものではないが、誰でも日々感じているものである。第一印象などというものは、もちろん視覚的情報もあるが、五感を越えた感覚で直接相手の気を感じていると考えた方が実状に合う。
その人その人で、発している気は違う。また、同じ人でも気が澄んでいるときもあれば、荒んでいるときもある。
気が合わない人とは、なかなか良い関係は築けない。「話してみたらいい人だ」 などと思っても、ダイレクトに感じる気が合わなければ、何かのときにやはり上手く行かないものだ。
夫婦でも友人関係でも上司と部下でも、気が合えばリズムも合い、息が合うものである。
操法においても、気が合う合わないということは問題になる。操法を行う側と受ける側の気が合えば、操法は良いものになる。気が合わないと、上手くいかない面がでてくる。
当院では、操法を受けるに当たっては、時間に余裕を持って来院されるようにお願いしている。バタバタと慌てて駆け込んできたのでは、息も乱れているが気も乱れている。そんな状態では良い操法は難しい。
操法を受けに来ている人は、順番になったから、予約の時間になったから、無造作に呼ばれていると思っていると思う。しかし、実は次の人を呼び入れる機(タイミング)というのも、気の同調ということが図られているのである。
間を空けず詰めて続けて呼ぶこともあれば、一調子ずらすこともある。ときによっては、行きたくもないトイレに行って間合いをはずすこともある。そういうことが、操法には意外と重要なのである。
この機というものは、私自身の気の波と操法を受けにくる方の気の状態によって決まる。ほとんどは無意識に近くおこなっているが、それには気の波に心身を同調させることと、途切れない集中力の維持が必要となる。
こう書くと、なんだか凄いことのようにも聞こえるが、整体操法を行う者は皆普通に行っていることであり取り立てて特別なことではない。
もちろん、元々の気の相性というものもある。治療院にも気の合わない人がたまにくるが、そういう人はやはりすぐに通わなくなる。こちらの対応が変わるわけではないのだが、やはりしっくりこないものを感じるのだろう。
しかし、そもそも気の合わない人というのは、本来あまり来ないものなのである。
操法を始めた頃は、気の合わない人がたくさん来た。そもそも、ピタリと気の合う人などそんなにたくさんいるわけないのだから、気の合わない人が来るのは当然だ。
しかし、技術を積み上げて、気を澄ましていくと、だんだんと苦手な人・合わない人が少なくなってくる。平たく言えば操法する側に余裕ができてくるということなのだろう。
それでも、やはり相性というものはある。世の中には、どうしても合わない人はいる。
しかし、こちらが自分の気を歪めずに素直に保っていると、自然と合う人だけが集まってくるのである。
気というものは、時間と空間を超越しているものなのではないだろうか?
誰かがある思いを気に乗せて発すると、どこかで誰かがそれを受け取るのである。そして、気が同調する人だけが集まってくる。
自分を偽っていると、気が乱れる。だから、私は気を乱さないように、なるべく自分を偽らないようにしている。それで私のところには、私と気が合う人が集まってくる。
私は、基本的にやりたくないことはしない。仕事は好きでやっている。
もし我慢して仕事をやるようになったら、それは整体操法を行う者としての資格を失ったときだと思っている。
しかし、「自由に」 と、「好き勝手」 は違う。
気というのは自然のものである。自然には必ず調和がある。だから、気の波に任せて生きることは、自由になることではあっても無茶苦茶になることではない。
技術があるのに、ちっとも人が集まらない治療院は珍しくない。私の知り合いにも、そういう治療師が結構いる。そういう治療院は、気の合う人が来ないで合わない人ばかりが来るのが特徴だ。
なぜ、気の合わない人ばかりが来るのかというと、その治療師が自分に素直に生きていないからだと思う。
自分の行っている治療法を信じていない人、自分とは違うタイプの師匠の真似をしている人、治療を接客業だと思っている人、お金のために治療をしている人、他人から良く見られたい人、自分の苦労を見せつけたい人、技術を誇りたい人。
そういう人は、自分で自分の気を歪めているのだ。本来の自分の気ではなく、歪めた気を発している。そして、それに合わせて人が集まってくるのだ。だから上手くいかない。
自分を偽って生きていると、他人も偽ることになる。お互い不幸である。
本来持っている自分の気を歪めずに生きていくと、いつの間にか気の合う人が集まってきて、合わない人は離れていく。これは、理屈ではない。気の世界というのは、実際そういうふうになっているのである。