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April 2010

自分の体癖を知る その2

「私は何種でしょうか?」

という質問を受けることがよくある。

「自分では何種だと思いますか?」

と返すのが習い性になっている。

そのとき本人が答えた体癖が、私の見立てと合っているときは、「そうですね。そういう傾向はあると思います」 と答える。
よくわからない、もしくはちょっとトンチンカンかなという答えのときは、「自分の体癖を知るのは、いろいろと難しい問題を含んでいます」
というところから話し出す。

もちろん、自分で自分の体癖を判別すること自体、なかなか難しいということがある。
それとは別に、体癖を知ることで生じる別の難しい問題がある。
そして、体癖に関してあまり知らないうちに自分が何種だと決めつけない方がいい、というのが私の持論なのである。

自分の体癖を知ることで、いろいろと役立つことがある。体癖を知るということは体の傾向を知るということでもあるから、風邪のとき、体に変動が起こったとき、また普段の生活の中でも、自分の体癖を知っていると、どういうことに気をつければ良いかがわかる。また、自分の性格などで悩んでいる人が、体癖を知ることで余分なコンプレックスを抱かずに済むということもある。

しかし、他方では、「私は何種だから」 という決めつけが、自分の可能性を制限してしまったり、嗜みや慎みをなくしてしまうこともあるのだ。

「私は何種だから、だらしなくても仕方がないのよ」

「僕は何種だから、頑張りがきかなくても仕方がないのさ」

「俺は何種だから、この仕事には向かないのかもしれない」

短絡的に、そう考えてしまう人が少なからずいるのである。
まあ、そこまで単純ではないにしても、ある程度の影響を受けることは確かである。

確かに、体癖とは生まれ持った自分の体そのものであるから、体癖的素質を自分では変えることができない。その体癖を好きか嫌いかに関わらず、である。
それ故に、その体癖的素質を上手く活かしていくことこそが、本当の意味で自分を活かすことになるのだ。
しかし、早い段階で自分の体癖を断定すると、本に書いてあるその体癖の説明から離れられなくなってしまい、逆に良い面が出づらくなってしまう人がいる。これまた、その体癖が気に入っていても嫌いでも、である。

体癖の本に書いてあることなど、体癖というものの全体像からしたらほんの一部である。その一部の説明で、自分を制限してしまうのは何ともばかばかしいことである。

体癖についての理解が進み、体癖に振り回されないようになった頃に、「ああ、私はどうも何種傾向が強いらしい」、「何種と何種があるらしい」、とわかってくるぐらいで調度良いのではないかと思う。
それも、「・・・・ らしい」 ぐらいから始めるのがいいだろう。
そのうち、「自分に、何種が入って無いことはあり得ない・・・」 と嫌でも気づくようになる。

体癖というものを知ると、体癖論が人間の本質的な部分に踏み込んでいるとわかるが故に、何かそれが絶対的なもののように思えてしまい、そこから逃れられなくなってしまうのだろう。これは、整体というものに傾倒している人ほど、その傾向が強くなるかもしれない。
しかし、確かに体癖論は人間の本質を鋭く看破したものではあるが、もちろんそれだけで人間の全てを説明できるわけではない。体癖もまた、人間という存在のある一面をとらえたものであるに過ぎないのだ。

とりあえずは、血液型性格診断か一昔前に流行った動物占いでもする程度の気持ちで体癖を見ていくのが、かえって人間の 「森」 全体を見ることができるかもしれない。
そして、自分も他人もあまりこうと決めつけないで見ていくのがよい。そうでないと、人間関係で今まで見えていた大事なものが、かえって見えなくなってしまうこともある。

自分の体癖を知る その1

体癖は、自分から関係性の遠い人から観ていくのが良いとされている。
それから、だんだん身近な人に移ってきて、最後に自分の体癖を考えてみる。
そういう順序がいいのである。
案外自分のことは、わかっているようでわかってないものである。また逆に、わかりすぎているからこそ、かえって判断が難しいということもある。

もう5~6年前になろうか、操法を受けに通ってこられる方を対象に体癖講座を開いたことがある。体癖の知識を健康生活に役立てて欲しいということと、人間関係においても役立つことがあるだろうと思って開講した。

連続講座ではなく一日限りの単発の講座だった。ありがたいことに定員を大きく上回る申し込みがあり、同じ内容の講義を二日に分けて二回おこなった。

後日、この体癖講座に出席された方々が操法を受けにいらしたときに、それぞれ、「話を聞いて自分は何種だと思いましたか」 という質問をした。
すると、3割ぐらいの人は、本人とは全くかけ離れた体癖を挙げた。

3割の人がこれでは、どうも私の講義はまずかったらしいと思ったが、いろいろ話をしてみるうちに単純にそういうことでもないようだとわかった。

人は実際の自分と、「人から こう見られたい自分」、もしくは 「そうであって欲しい自分」 というのは違うということだ。反対に、「こうであるはずがない」、「こうであって欲しくはない」 部分もあるだろう。
これが、自分の体癖観察を難しくしている一つの要因である。

各種体癖の説明の中に、自分の中にある嫌な面、認めたくない面を見つけると無意識のうちに、俺はこの体癖ではないな、と思ってしまう人がいる。
反対に、こうでありたいと思う自分に近い体癖の話を聞くと、私はこの体癖かもしれないわ、となりがちなのである。

俺は大丈夫だな、私はそうはならないわ、と思っているあなた、それがなかなか難しいのだ。

師について整体を学んでいた頃、同門の中に、「自称9種」 の人がたくさんいた。
これは、整体法の創始者である野口晴哉先生が9種体癖だったことによる。
整体を学ぶ人の中には、野口先生に憧れるあまり9種体癖にも憧れを持つ人が多い。(また、野口氏の本は読むと9種になりたくなるようなことが書いてある)
そして、9種の説明の中から少しでも自分に当てはまりそうな部分を見つけては、俺は9種じゃないだろうか、と始まるのである。
聞くところによると、整体協会でも自称9種は多いらしい。

整体の専門家になろうと勉強している人ですらこうなのだから、体癖初心者は、なおさら自分の体癖を客観的に判別するのは難しいのである。

体癖観察の手引き (はじめにお読みください)

体癖論は、野口整体独特の人間観察の方法である。
生命の生命たる所以である 「欲求」 の方向性から人間を分類した、画期的な人間分類法でもある。

しかし、実際に体癖観察をおこなってみると、自分や他人の体癖を判別するということは、思ったより簡単ではないということがわかってくる。

まず、体癖はABO式の血液型などのように、一人の人間に一つの型というようには対応していない。
一人の人間に、二つ三つと複数の体癖が同居することは珍しいことではない。
それも、一人の中に複数ある体癖的傾向は、それぞれ等分にあるわけではなく、それぞれの割合は人によってまちまちである。

また、赤と青が混ざると紫になるように、二つの体癖が混ざるとまた別の体癖的傾向が現れる。
もちろん、赤と青の配分で、紫といってもパープルもヴァイオレットもあるわけだ。
この複合体癖の問題が、慣れないうちは体癖観察を難しくするが、だんだんと体癖というものが飲み込めてくると、どういう色合いの体癖でも、原色ともいえる10種類の体癖のバリエーションだということがわかってくる。


さて、実際観察するという段になると、今度は人間同士の気の影響ということも考えなくてはならない。
複数の人間が集まると、それぞれの体癖が影響し合って、その傾向の出方がいろいろに変化する。

例えば、Aさんがそれぞれ違う体癖のBさん、Cさんと接するとする。Aさんは、Bさんと接するときとCさんと接するときでは、表に現れる体癖的傾向が違うということがある。

また、非常に3種的な傾向を濃く持っているDさんがいたとする。しかし、そこにもっと3種的な特徴が強く見えるEさんが現れると、たちまちDさんが3種らしく見えなくなったりする。

人間同士の気の影響で、体癖の相というべきものも変化して見えるのである。


そして、とても重要なことは、体癖観察においては、観察者自身の体癖的傾向が影響するということである。

観察者の体癖が対象者と影響し合う、もしくは対象者に投影されるという意味もあるが、そもそも観察者は自分の体癖的感受性を通してしか相手を認識することができないのである。

つまりは、私の語る体癖論も、私の体癖的傾向というバイアスが常にかかっているということになる。
この先の体癖に関する記事も、そのようなものだと思ってお読みいただきたい。

「体癖」

人には、生まれ持った気質とか性分のようなものがある。

人間の性格 ・人格には、もちろん家庭環境や教育・経験といったことにより後天的に形成される部分がある。しかし、同じような環境で育っても各々個性が現れるのは、もともとの素材が違うからである。

その生来の気質は、心と分かつことのできない 「体」 の特性に由来している。
心にある傾向を持つ人には、共通した体の傾向がある。逆に、ある種の体の特性を持つ人には、共通した心の動きがあると言っても構わない。
心と体は不可分のものであるから、どちらから言っても同じことである。

整体の体の観方では、人間の身体運動の中心は腰椎にある。腰椎とは背骨の腰の部分で、上から第1腰椎、第2腰椎・・・、第5腰椎と、5つの椎骨から成る。
その5つの腰椎のうち、どの椎骨に力が入りやすいか、どの椎骨に身体運動の焦点があるかで、それぞれ体の働きにある種の特性が生じる。
その特性は、体型・姿勢・動作・内臓の働き・自律神経の働き、などに現れる。
そして、体の特性にくっついて、心の働きも5つの椎骨に対応して特性がある。

整体法の創始者である野口晴哉氏は、長年人間の体を調整し観察する中でそのことを発見した。
そして、その心身の感受性の特性を、「体癖(たいへき)」 と名付けた。
体癖は、野口整体独特の人間観察法であり、人間分類法でもある。

第1腰椎に運動の焦点がある人達を、「上下型」 という。同じように、第2腰椎は、「左右型」。第3腰椎は、「捻れ型」。 第4腰椎は、「開閉型」。第5腰椎に力が集まるタイプを、「前後型」 という。
上下とか左右とか言うのは、その椎骨が担っている運動の特性から来ている。第3腰椎は、身体の捻れ運動の焦点になる。第4腰椎は骨盤の開閉運動、第5腰椎は体の前後運動の中心となるのである。

そして、5つの型にそれぞれ、積極的に欲求を果たしていこうとするタイプと、外からの刺激に対して反応して動いていく受け身のタイプがあり、1種から10種の十種類の体癖に分類される。
積極的なタイプには奇数、受け身のタイプには偶数のナンバーがつけられている。
(このほかに特殊体癖として、全体的に感受性が過敏である11種と、全般的に感受性の鈍い12種がある)


上下型  頭脳型    1種 ・ 2種
(L1)※            

左右型 消化器型   3種 ・ 4種
(L2)          

前後型 呼吸器型   5種 ・ 6種
(L5)          

捻れ型 泌尿器型   7種 ・ 8種
(L3)

開閉型 生殖器型   9種 ・ 10種
(L4)

   ※ L は腰椎の意味。 L1は第1腰椎。


それぞれの体癖については、おいおい書いていこうかと思っているが、体癖に関してとても造詣の深い先生がいらっしゃる。
静岡で 「身体気法会」 を主催されている柳澤嘉洋先生である。
柳澤先生とは、川島先生の野中操法研究会で知己を得ることができた。そして、先月柳澤先生の体癖についての講義を聴く機会に恵まれた。
柳澤先生は、体癖観察に関して並々ならぬ洞察力をお持ちの方である。先生のHPには、各種体癖についての解説が載せられている。また、気と身体の関係や身体同士の共鳴、無意識と身体についてなど、非常に興味深い内容が目白押しである。ぜひ、ご覧頂きたい。

 身体気法会HP

愉気の話

愉気というと、手を当てることだと思っている人が多い。しかし、愉気とは人間相互の気の交流、感応、同調、共鳴、といったことを指している言葉である。特に手を当てるという形式に限定されているわけではない。
逆を言えば、形だけ真似て手を当てても、そこに気の交流が成されていなければ、それは愉気とは言えない。

気とは、人間の最も根元的な生命の働きである。愉気は、その心・体に分化する以前の、生命そのものの働きである気に対してアプローチする方法である。もちろん、相手の気に対しては、自らの気を以て働きかける。

愉気には、手を当てる触手法以外にも、凝視法、息吹法、思念法、などがある。

気を集注して見つめる、ということも愉気となりうる。
人間の体で、気を発するところ、気の出やすいところといえば、手と目である。
誰でも、人の視線というものは感じたことがあると思うが、目は強く気を発するところなのである。
探偵が尾行するときには、ターゲットの踵を、見るともなく見て後をつけるのだそうである。
後頭部などを見ると、すぐに気づかれてしまうという。後頭部は、極めて気に感応しやすい部分なのだ。

私が整体法を習っていた頃、講習会が初級・中級・上級と分かれていた。師には、「上級になったら、愉気は目でするものだ」 と幾度となく言われたものだ。
これは、気合の愉気である。操法の、ここという処では、目でじっと観てフッと気を通す。
いや、スッと通す。 グッ・・・と。 ウム・・・と。
ともかく、目で観て気を込める。もしくは、気を通していくのである。
凝視法による愉気は強力である。上手く合えば、一瞬で体が変わる。

息を吹くという中にも愉気がある。
子供がどこかをぶつけたときや擦りむいたときなど、お母さんがその場所をフーッと吹いてあげることがある。あれは強力な愉気である。
また、風邪のときには第5胸椎に愉気をすると経過がスムーズになるが、小さい子供などは衣服の上から第5胸椎にフーッと息を吹いてあげるとよい。愉気と温熱刺激の両方の効果を期待できる。

思念法とは、思念に気を乗せて送ることである。遠く離れた所にいる人に愉気をする、遠隔愉気などというものはこの思念法である。

操法の中で、痛みがあって姿勢を変えるのがつらい人でも、特別な事情のない場合、私は動作を介助することはない。 「ゆっくりで、構いませんよ」 と言うだけで、自力で立ったり座ったりしてもらう。
それは、余計な親切ごっこで相手の自立する心を奪わないためだが、ただ立ち上がるのを待っているのと、じっと見つめて目で愉気して待つのでは、相手の動きが全く違う。
手で支えることはしないが、目で、気で支えることは大切だ。

ときには、痛みや力が入らないなどで、なかなか立てない人もいる。そういう場合、私はその人の中に入り込んだつもりで、その人に代わって、「大丈夫」 と強くしっかりと心の中でつぶやく。そして、思念で力強く立ち上がる意志を誘う。そうすると、とたんに力が出て立ち上がれることがある。
これも、思念法の一種である。
聞く人によっては、馬鹿ばかしい話に聞こえるかもしれないが、私は大真面目でやっている。
目の前の相手も、まさか自分に向かって、私がそんなことをやっているとは思いもよらないだろうが・・・。

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