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April 2011

くすりの話

何でもかんでも、薬は良くない、などと言う気は毛頭ない。
病気になって、薬で治療するということは、選択肢としては 「有り」 だと思う。

と、前々回このブログに書いた。

私自身はと言うと、整体の世界に身を置くようになってからは、全く薬を飲むことは無くなった。20年以上、薬とは無縁の生活である。
医療機関のお世話になったのは、歯の詰め物がとれてしまって、歯医者で詰め直してもらったときぐらいである。

整体の行き方は、体の働きを整え、生命の働きを全うすることである。
病気でさえ体の自然な働きのもたらすものであり、病気もまた生命の一つの表現なのである。

整体では、病気になることそれ自体が、体の回復欲求の現れであると観る。
体に合わないものを食べれば、吐き気がしたりお腹をこわしたりする。しかし、嘔吐も下痢も悪い物を早く外へ出そうとする体の正当な働きである。
ほとんどの病気は、こうした体の自浄作用である。

しかし、もちろん中には、そうとも言い切れない病気もある。
それは、体が鈍ってしまった結果起こる病気である。
ガンも然り、脳溢血も然り。
そういう死に直結するような病気は、体の感覚・機能が鈍って、鈍り切った先にあるものだ。
そういった、鈍り病にならないためにも、体を整えていくことが大事なのである。

整体では、病気になったら、とりあえずそれを無くしてしまおうとするのではない。病気を通して体の平衡、調和を取り戻し、より強い体にしていこうとするのである。
そのためには、薬で病気を治そうとするのでもなく、予防的処置を取ろうとするのでもない。ただ体を整え、病気も含めて生命活動を全うしようとするのである。
それが整体の行き方であり、整体という生き方であるとも言える。

薬は、体の自然の働きを乱し、鈍らせることが多い。
薬に頼った生活は、整体的な生き方の対極にあるものだと言ってよいだろう。

ではどうして、病気になったら、薬も 「有り」 なのか。
なぜなら、世界中の全ての人が整体をやっているわけではないからだ。
ばかばかしいほど当たり前の答えだが、本気の本音である。

そもそも、整体(野口整体)を知っている人自体が世界の中で、それどころか日本の中でもほんの一握り、いやひとつまみであろう。
ほとんどの人達は、整体のことなど知りもしないのだ。

私のところに来る方のおよそ半分は、野口整体という言葉も聞いたこともないという方々である。
しかし、うちのHPを見たり、紹介してくれた人の話を聞いたりして、私がどういう考えでやっているかということは、何となくはわかっているらしい。

整体の予備知識がある人達も、整体を知らないで来た人も、結構な割合の人が、「薬は、やっぱり止めた方がいいんですよね・・・」、と言う。
そう質問する人には、薬を止めたいのだが、止めることに不安があるという人が多い。

 のまないのはちょっと不安だけど、のまない方が良いのですよね・・・。
 私も、できることなら止めたいですし・・・。
 副作用も、怖いですしね・・・。
 (のむって言ったら、操法しないんでしょ?)

といった感じだろうか?

しかし、相手の理解度にもよるが、大抵の場合は、「無理に止めなくてもいいですよ」、と言うことが多い。
「そのうち、自然とのまなくても大丈夫になりますから」、と・・・。

まあ、この段階で自発的に止めてしまう人の方が多かったりもするのだが、薬を止めることで強い不安感を持つくらいなら、とりあえずのんでてもらってもいい。
体が変わってくると、こちらが勧めなくても、「薬減らしてみてるんですが、別に大丈夫みたいです」、といった具合に自然と自分から止めていこうとする人が多い。

そもそも、私は医師ではないので、法的には、「その薬は、止めていいです」 と言う資格はない。
それに、薬の専門家ではないので、のんでいる薬がどういうことを目的として処方されているのかも正直解らない。
ただ、薬に頼らずに、自分の体の働きを十全に発揮して生きていくことの意味を示すだけである。

法句経にも、こんな句がある。

  己こそ己の寄るべ
  己を置きて
  誰に寄るべぞ
  よく整えし己こそ
  まこと得難き寄るべなり

体を整え生きるということは、常に自分の全てを以て事に当たれる、ということである。

整体以外にも、薬に頼らない生活を標榜するところはあるだろう。しかし、整体には、体そのものを整え健康に導く、具体的で高度な術(すべ)があるところに、一つのアドバンテージがあると思う。

夏に向かって

昨年の夏は、記録的な猛暑であった。
果たして、今年の夏はどうなるだろうか。

今年の夏、関東以北では、節電や計画停電などで、エアコンを使わずに過ごさなければならないことが増えそうである。

エアコンの話をするならば、大前提として、エアコン(クーラー)は体に悪い。
体に対する冷房の害というのは、実はかなり大きいものである。
私などは、この世にエアコンさえなければ・・・・、と思うことすらある。

しかし、現実には現代日本の都市環境、生活環境、住環境は、冷房があることを前提に作られているので、今となっては冷房を使わない生活は、実際には難しい。
特に都市部のマンションやオフィス、満員の通勤電車などで冷房を全く使わなかったら、熱中症で倒れる人が続出するだろう。
今や都市は、コンクリートとアスファルトで固められ、大地が表出しているところはわずかしかない。土が見えるところといえば、公園、住宅の庭、線路の土手、街路樹の根本ぐらいのものである。これでは、夜の間も都市の熱が冷めることがない。

そしてまた、生活環境が冷房を前提に作られているのと同じように、現代人の体自体も、冷房があることを前提にして、昔とは変わってしまっている。

夏は、本来汗をかく季節である。
しかし、今は汗をかくことを厭う人が非常に多い。特に若い人、まして女性は汗をかきたがらない。人前で汗をかくことが、恥ずかしいと思っている人も多い。
社会全体がそういう認識なので、ちょっと暑ければすぐに冷房を入れる。
汗をかくようでは暑過ぎる、という感覚なのである。
治療院の近所のスーパーでも、今月始めの暖かい陽気で、すでに冷房を入れていた。

これでは、夏を前にして気温が上がってきても、体の汗をかく機能が働き出す機会がほとんどない。

現代人、特に体を使わない仕事に就いている人の多くは、十分に汗のかけない体になってしまっているのである。そのため、本来の体の冷却機能を活用せずに夏を過ごしている。
そしてまた、暑い屋外と冷房の効いた部屋や電車・バスなどを出たり入ったりしているうちに、体温調節機能が乱れて上手く作動しなくなっている人も多い。

このような状態で、突然エアコンがストップしたら、果たしてどうなるだろうか・・・。

本格的に汗をかき始めるのは、初夏に入る頃からである。季節に合わせて自然に体が変わり、汗が出やすいようになっていく。
しかし、現代では、この時期から意識的に、上手に汗をかけるように体を慣らしていく必要がある。
本来は、気温の上昇とともに勝手に汗をかくようになるのだが、通勤での乗り物や仕事場などで冷房が入っていると、この時期の体の変化が上手くいかない。
運動するなり、風呂を利用するなりして、積極的に汗をかいていくことが大切だ。
当然ながら、汗をかけない体のままだと、冷却機能が働かず熱中症になりやすい。

また、普段汗をかかないように生活していて、急に暑くなって大量の汗をかくことがあったりすると、水分だけでなく体に必要なミネラルなどが一緒に出ていってしまう。これは、非常に危険なことである。
こうなると、水分を摂っても、かえって体の中のナトリウムや電解質が薄まってしまい、脱水症状が治まらない。
こういう人は、汗をかくことが下手なのだ。

ともかく今年は、初夏から梅雨にかけて、例年以上に上手に汗をかける体作りを進めておいた方が良さそうだ。
そして、急に冷房の効いているところへ入ることを想定して、ジャケットやカーディガン、スカーフなど、「夏の防寒グッズ」 の用意も万全にしておこう。

立つんだ、クララ!

被災地では、いまだに医薬品が不足しているという。
深刻な重い病で、継続的な医療の助けを必要としている方もいるだろう。
命に関わる危急の事態に、設備や薬などが無くて、助かるべき人が助からないというケースも起こりうる。
なんとか、被災地の隅々にまで、医療の手が届いてくれることを祈る。

今回の震災で、私達は人間の命があまりにも呆気なく失われてしまうものなのだ、ということを思い知らされた。
しかし、同時に人間の生命力の強さを見せつけてくれた人もたくさんいた。
その人達は、いざというとき、最後にものをいうのは自分自身の知力・体力・精神力である、ということを教えてくれた。
そして、それだけではなく、人と人との助け合う心があって、人間ははじめて生きていけるのだということも。

被災地に限らず、やむを得ず薬や医療の助けを借りなければならない人は、当然いる。
そういう人のところには、世界中どこでも、医療の助けが与えられることを願う。
医療は、それこそ人と人との助け合いの中から生まれてきた、人類の素晴らしい財産である。

しかし、一方では、医療業界という一産業の利益追求や、医学という学問の発展のために、不必要な投薬・医療を強要されるケースもある。
必要のない薬を飲み続けている人達、飲まされ続けている人も、それこそ星の数ほどいるのではなかろうか。

「寄らしむべし、知らしむべからず」 で、医療がなければ健康に生きることができないと、思いこまされているのが多くの日本人である。病気は、薬を飲まなければ治らないものだと思っているのだ。
そう思わせているのは、お上と製薬会社と心ない一部の(?)医師である。
病気を治すのは、いつでも自分自身の体であるということを知らされていないのだ。

これは、日本の診療報酬のあり方にも問題がある。日本の医師は、患者に薬を出さないと収入に結びつかない。
風邪の人に、「温かくして、ぐっすり眠れば大丈夫。水分も、多めに摂るようにね」 と言うだけでは、生活が成り立たないのである。
かくして、心ない医者は、「飲まなくてもいいけど、一応出しておきましょうか」 などと言って、大量の不必要な薬を出すことになる。ウイルス感染である風邪に、ウイルスには効かない抗生物質なども、いろいろ理由をつけて処方する。

何でもかんでも、薬は良くない、などと言う気は毛頭ない。
病気になって、薬で治療するということは、選択肢としては 「有り」 だと思う。
しかし、治ってもまだ、なにがしかの薬を飲まされ続けることが多い。
中には、止めても良い薬を、「飲み続けないと、大変なことになりますよ」、などと脅すケースもあるそうだ。
また、「お守り代わりに、(薬を)出しておきましょうね」 などと言う医師もいるという。
持ってるだけで安心、という心のケアであると善意に解釈したいが、それが自立する意欲を奪っているということも考えて欲しい。

子供の頃、「アルプスの少女ハイジ」 というアニメが放映されていた。多くの人が知っている、名作アニメである。
その中に、車椅子に乗っているクララという少女が出てくる。クララの足は、本当は治っているのだが、自分で 「立てない」 と思い込んでいるのだ。

しかし、あることがきっかけで、クララはついに自分の足で立ち上がる。

「クララが立った!クララが立った!」、ハイジも大喜び。
クララは、思わず立ち上がってしまった自分自身にとまどいながらも、やはりうれし涙が頬を伝うのである。
そして、クララとハイジは、抱き合って喜びあうのだった。
(たぶん、そんな感じだったと思う)

薬の服用や、人工透析、インシュリンの注射などなど、医療の助けを借りることが必要な人は、もちろんいる。
しかし、必要もないのに薬を飲み続けている人もいる。薬が無いと、安心できないのだ。
もう薬を飲む必要がないのに、薬を飲まないと健康でいられない、薬を飲まないとますます悪くなってしまうに違いない、と思い込んでいる人だ。

そういう人は、クララと同じなのである。本当は、自分の足で立てるのだ。立てない、と思いこんでいるだけなのである。

今回の震災では、医療のサービスが、未来永劫、いつでも当たり前のように受けられるとは限らない、ということが明らかになった。ある日突然、薬が無くなり、病院が無くなるということが、実際に起こりうるのである。

今こそ、薬の力に頼ることなく、体の持つ回復力・治癒力・生命力を信じて、それらを十全に活かして自立して生きていくということの重要さを、改めて考えてみるいい機会ではないだろうか。
すがりついていたものを手放して、自分の足で立ってみると、何とも心が晴れやかになるものである。


ただし、その後のクララも、毎日少しずつ歩く練習を積み重ねるのである。
長い間、薬が入ってくることを前提に体が回っている場合、突然薬を無しにするのは難しいこともある。体そのものも、薬に頼るようになっているからだ。
自立には、一定期間のリハビリが必要な場合もあることは、明記しておかなければならないだろう。


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