11月も中旬となり、空気もだいぶ乾燥してきた。人体を取り巻く環境が乾いてくると、当然体自体も乾燥してくる。くちびるや口の周りがかさかさしてきたら、体はだいぶ乾いている。
冷えもそうだが、乾燥も泌尿器に影響を及ぼす。泌尿器は体の水分代謝を司っているのだから当然だ。体の水分が足りなくなってくると、第5・第10胸椎が捻れてくる。これは、体が干物になりつつある徴候である。
また頚では、第3・4頚椎が捻れてくるのだが、こうなると鼻水が出たり風邪様の症状が起こってくる。
さて、体の中の水分が足りなくなっていると、当然ながら小便の量が少なくなってくる。
ちょっと話は飛ぶが、子供の頃にハムスターを飼っていた。最近見かける小さなジャンガリアンハムスターではなく、その2倍から3倍くらいの大きさのゴールデンハムスターである。
ハムスターは、もともと砂漠などの乾燥した地域に住んでいるものなので、貴重な水分を無駄遣いしないように体が進化していて、尿の量が非常に少ない。また、回数も極めて少ない。少ない代わりに成分は濃くて、色も濃ければニオイもきつい。
人間も、体の中に水分が少なくなれば、尿の量は減る。量は減って、色も濃くなる。まさにハムスターのようになってしまう。
しかし、人間がハムスターと違うのは、量は減るくせに回数は増えるところである。だから、正確にいえば疑似ハムスター状態である。
こうなると、背骨では第4・5腰椎が捻れている。尿が濃くなることに対する反射なのか、通常よりも尿量が少ないことに対する何らかの反応なのか、ともかく膀胱は過敏になってトイレが近くなる。なんとなくトイレに行きたくなって、いってみると思ったより出ない。しかし、また少しするとトイレに行きたくなる。
冬は、冷えることと同様に乾くことにも対処が必要となる。また、実は体が乾いているから余計寒さが堪えるということもある。体が潤っているほど、冷えにも強くなるのだ。
乾いた体に行き渡る水分は、なんと言っても 「水」 である。これは、文字通りの 「水」 で、白湯でも湯冷ましでもダメである。沸かしていない、生きた水が良い。お茶や紅茶、コーヒーなども、同じ水分でも吸収は悪い。
以前は、水の量はどのくらいと飲めばいいかということを明示していなかった。しかし、「少しずつ、しかもトータルでは量はたっぷり」 などといっても、あまり量を飲んでいない人もいたので、最近は2リットル、最低でも1.5リットルと言うことにしている。500㎖のペットボトル3~4本である。朝起きてから夜寝るまでの間になら、十分おいしく頂ける量だと思う。
乾いた体に、水はおいしい。「寒い時期に、水を飲むのはどうも・・・」 などと言わずに、取りあえず飲んでみると実はおいしいということがわかると思う。子供などは変な先入観が無いので、真冬でも水をごくごく飲んでいる。体が求めているものは、いつでもおいしいのである。
「水・白湯問答」 は、毎冬何度となく繰り返される。「水」 を飲むことを勧める私に、「白湯」 ではだめかという相手・・・。相手変われど主変わらず。寒い季節に水を飲むのに抵抗がある人が、いつでも一定の割合でいるのだ。
白湯や湯冷ましと生の水では、体を潤す力が全く違う。なぜかといわれても、本来的にそういうものなのだ。なれてくれば体感的にもわかるし、一定期間飲み続けてから体を見比べれば、その差は一目瞭然なのである。
鉢植えなど、植物に湯冷ましをあげていると枯れてしまうという。なんでも水は沸かすと酸素がなくなるからだというが、もしかしたらそのあたりに理由があるのかもしれない。
また、冬の前半、年末くらいまでは、スープ類・汁物もいい。特にトイレの近い人には、お奨めである。体も温まるし、一石二鳥だ。
乾きがひどいと自覚がある人は、外食するときなどでも、パスタを頼むならスープパスタを、焼きそばをたのむよりは温かい汁そばを、チャーハンにするよりはラーメンをたのみたい。
年が明けて体が真冬の体になったら、あとは 「水」 一本でいく。
水を飲み始めても、少ない水でやりくりしていた体はなかなか吸収してくれない。飲んだら飲んだ分、トイレに行きたくなる。しかし、温かいスープ類を摂りながら水を飲んでいると、早い人なら数日で、長い人でも10日~2週間もすれば、トイレの回数は少なくなり、1回の量は多くなる。疑似ハムスター状態からの脱出である。
今年も数人、「秋の花粉症でして・・・」 という人がいた。確かに医学的な検査ではアレルギー反応が出るのかもしれないが、それは取りあえず置いておいて、「冷え」 と 「乾き」 の対策をすると、症状が無くなってしまう人が結構いる。
「私のはそんなまがい物じゃなくて、本当の花粉症なんだ」 などと悲壮感を募らせずに、気楽にのんびりとした気持ちで朝風呂に入るか足湯をし、水をたくさん飲んでみると、「本当の花粉症」 でも症状自体は治ってしまうかもしれない。
まあ、本物でもまがい物でも、治ってしまえばどっちでもいいということである。