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July 2016

アルプスの少女ハイジ その3 ~欲求、そして機を読むということ~

クララが牛に驚いて立ったことを聞いたハイジは、もちろん大喜びだ。天真爛漫が持ち味のハイジは、クララが立つことはそう難しいことではないのだと思い、なんとも簡単に 「立ってみようよ」 という。
しかし、そう簡単に立てるものなら今まで苦労はしていなかったわけで、いくらクララがひたいに汗を浮かべて力んでみても、全く足は動いてくれない。

おじいさんも、明日から立つ練習をしようと提案するが、クララは自分が立てるという気が全くしないのだから、どうしても積極的な気持ちにはなれないでいた。

 

そうしているうちに、クララのおばあさまがフランクフルトに帰るときが来る。おばあさまは、お世話になったペーターへのお礼もかねて、麓の村でお別れパーティーを開くことを提案する。

パーティーでは、村の人々も参加して、たくさんの御馳走もでて、クララもハイジもペーターも、おばあさまとの最後の夕べを楽しんだのだった。

宴もたけなわ、村の子供達は鬼ごっこを始め、ハイジとペーターもそれに加わる。大はしゃぎで走り回るハイジやペーター、そして村の子供達。おじいさんに抱き上げられて近くでそれを見るクララだったが、子供達はどんどん場所を変えてクララは取り残されてしまう。

おじいさん
「どうだね、みんな楽しそうだろう。クララもああしてみんなと走り回りたいだろう?」

クララ
「ええ。でも・・・」

おじいさん
「心配は要らないよ。おまえが心から立ちたい、歩きたいと思って一生懸命努力すれば、必ず足は治るんだ」

クララ
「ほんと・・・?」

おじいさん
「本当だとも。もちろん慣れないことをするんだ。思うようにはいかないだろう。痛いかもしれん。すぐには立てないかもしれない。だが、それでもくじけちゃいけないよ。今クララに一番必要なものは、がんばりだな」

クララ
「がんばり?」

おじいさん
「明日から立つ練習を始めてみようじゃないか」

クララ
「ええ・・・。」

 

クララは、走り回るハイジやペーターそして村の子供達を見て、自分も自由に走り、一緒に遊びに加わりたいと思った。
今までは見ているだけが当たり前だったクララの心の中に、自分も一緒にみんなと混ざって同じように遊びたいという 「欲求」 が芽生えた瞬間だった。

クララはアルムの山に来てみて、自分が歩けないために、おじいさんやペーター、ハイジに迷惑をかけてしまうことを心苦しく思い始めていた。同時に、今まで自分がどれだけ周りの人々に世話をかけていたかということにも思い至っていた。
しかし、みんなに迷惑をかけないために歩けるようになろうというのでは、今ひとつ 「がんばり」 に繋がるほどの動機にはなり得なかった。
やはり、心の中から湧き上がってくる 「欲求」 、立ちたい、歩きたい、みんなと一緒に自由に走って遊びたいという、焦れるような 「欲求」 があってこそ、はじめて 「心」 も  「体」 も思った方向に動き出していくことになるのである。

クララもフランクフルトに暮らしているときには、外に出ることもなく、同じ年頃の友達を作ることもできなかった。身の回りのことも、大人達が全てやってくれて、自分が歩いて何かしなければならないという必要性を感じることさえできなかっただろう。
もちろん歩けないことは悲しいことだっただろうが、立ちたい歩きたいという 「欲求」 が生まれることさえない環境だったのだ。

今までクララは気持ち良く走る人間の姿を見たこともなかったであろう。また、世話をしてくれる人が常にそばにいるフランクフルトのお屋敷の中だけの生活では、歩こうが車椅子で移動しようが、そこにそれほどの大きな差を見いだせなかったのかもしれない。
アルムの山に来て、牧場や湖やお花畑にいって、同じ年頃のハイジやペーターが楽しそうに走り回る姿を見て、自分もあんな風に自由に走りたいと始めて心から思ったのだろう。
走り回るハイジ達を見て、はじめて体を動かすことは気持ちがいいことだということを知り、自分の行きたいところへ自由に歩いて行けるということに喜びがあるということを知ったのだ。

要求すること、そして 「空想」 することが、「心」 と 「体」 を変えていくのである。「必要」 は、「欲求」 を呼び起こすし、「欲求」 は、「空想」 を呼ぶ。そして、「空想」 は、「現実」(現象) を呼び寄せるのである。

 

はじめに欲求ありきである。望まないことは、他の誰も望むようにと強制できることではない。無理矢理やらせてみても、本来の力は決して出ないのである。
それは、本人がやらなくてはと思ってみても同様で、本当にやりたくてやったこととは同じようにはできないのだ。

歩きたい、という 「欲求」 が生まれたときを見計らって、クララは頑張れば歩けるようになるということを教え、歩く練習を頑張ってみないかと提案するおじいさんは、まことにすぐれた心理指導者である。

同じことでも、いつ言うのかというタイミングで、相手の受け取り方は全く変わってしまう。内容がいくら正しくても、相手に受け入れられる条件がなければ馬の耳に念仏であり、また場合によっては反発心だけを呼び起こしてしまうことにもなりかねない。

整体の現場での対話にしても、当然 「機」 ということは重要視される。
例えば、施術を受けて体が変わってきたり、本当の健康とはどういうことかということに思い至ってきたり、また私のこともどうやら怪しい人間ではなさそうだと思い始めて、ようやく通るようになる話もある。

操法の組み立てにしても同様で、「機」 が熟すのを待つ必要もあれば、ここという 「機」 を逃さずに対応しなければならないこともまた当然である。

整体操法をおこなうものは、みな常に 「機」、「度」、「間」、ということを計りながら操法をおこなっているのであるが、アルプスの少女ハイジの 「おじいさん」 は、なかなかに 「機」、「度」、「間」、を知る人であり、すぐれた指導者なのである。
アルムのおんじ、まさに畏るべし、である。

アルプスの少女ハイジ その2 ~認めさせるということ~

さて、クララがハイジの目の前で立ち上がる感動のクライマックス・シーンの前に、実はクララはすでに一度立ち上がっていた。

感動の回から2話さかのぼる48話、ハイジはペーターへの伝言をもって山の牧場へ行きく。午後のひと時、クララとフランクフルトからクララを訪ねて来ていたおばあさまの二人だけで、山小屋の近くの木の下で過ごしていた。

おばあさまがうとうととうたたねをしているときに、大きな牛が近づいてきた。驚いたクララは、恐怖のあまり背後の木にもたれながら思わず立ち上がる。
クララの悲鳴で目を覚ましたおばあさまが見ると、クララは木に背中をあずけてはいるものの二本の足でしっかりと立っていたのだ。おばあさまが驚き喜んでクララを抱きしめるが、クララは自分が立ったということにも気づかずに気を失ってしまう。

 

クララが牛に驚いて立ち上がれたのは、いわゆる 「火事場の馬鹿力」 が発揮されたということだろう。人間は、いざというときには普段では信じられない力を出すことがある。
いや、もともとそういう力を持っているのだが、普段はどうやっても出すことができない非常の力なのだ。常にはかかっている潜在意識のブレーキが、なんらかの理由ではずれることで発揮されるといわれる。

野口晴哉先生の本の中にも、神経痛やリウマチで動けない人をびっくりさせて治した経験が書かれている。操法布団の下からヘビなどを出して、「アッ、こんなのがいた」 と驚かすと、立てなかった人が立ってしまうのだそうだ。(古き良き時代ですね・・・)
またタバコを吸いながら話していて、女性の着物に灰を落としてしまったら、足が悪くて立つのが大変だった人がぱっと立ち上がって灰を払ってすましたて座った、などという話も載っている。
そういったときに野口先生は、「歩けますなァ」 とか 「おや、立ちましたね。ひとりで」 と言うのだと書かれている。
そこで 「立ちましたね」、「歩けましたね」 と一声かけて、相手に立てたことを認めさせてしまうことが、実は心理指導の要諦なのだ。

驚いたことをきっかけにせっかく立てたとしても、立てたということを本人に認めさせないとまた立てなくなってしまう。自分の力で立てた瞬間に、「おや、立てましたね」 と一言いわれることで、” あ、自分は立てるのだ ” ということが潜在意識に刷り込まれるのである。

ただし、ここで 「びっくりして、思わず立ってしまったんですね」 などとは言ってはいけない。それでは、“ たまたまびっくりしたから立てたのであって、そういうきっかけでもなければやはり立てない ” と連想してしまうからだ。

クララが残念だったのは、せっかく立てた後にすぐ気を失ってしまって、自分が立てたということを認識できなかったことだ。
自分が立ったということさえ信じられないのだから、その後いくら 「お前は立てたのだから、もう一度立ってごらん」 とおばあさまがいったところで、やはり立つのは無理なのである。

しかし、たとえ本人が憶えていなくても、自分だけの力で一度立てたことは大きかった。周囲の人がクララは立つことができると確信を持つことができたし、本人も周りの人の確信を借りて、少しずつでも自分は立てるのかもしれないと思うこともできただろう。
そして、たとえ意識では憶えていなかったとしても、体の方はちゃんと憶えている。体の記憶とでもいうものがある。きっと体の方は、自分の足で立ち上がったときの感覚をしっかりと憶えていて、それがきっとクライマックスで立ち上がることにつながっていったのであろう。

アルプスの少女ハイジ その1 ~クララはいかにして立ったのか~

以前、こんな記事を書いたことがある。 → 「立つんだ、クララ!
震災直後の記事だが、文章の微妙な不安定さなどから自分もショックを受けていたんだなあと今更ながらに感じるものがある。

さて、クララとは、スイスの作家ヨハンナ・シュピリの小説 「アルプスの少女ハイジ」 の登場人物である。日本では、1974年(昭和49年)の1月~12月、カルピスまんが劇場(後の世界名作劇場)で同名のアニメが放映されて広く人気を博した。
最近では、「家庭教師のトライ」 のパロディCMで、懐かしいハイジ達の笑顔を見ることができる。本編とは、だいぶキャラクター設定が変わっているが・・・。

ストーリーを極々かいつまんで簡単に紹介すると、スイスのある町に住んでいた5才の女の子ハイジは、1才のときに両親を亡くし、ほとんど親戚などに預けられてさみしい日々を過ごしていた。
あるとき一緒に住んでいた母方の叔母がフランクフルトに働きに出るのをきっかけに、ハイジは父方の祖父であるアルムおんじに預けられることになった。
それからハイジはアルムの山で、おじいさんや山羊飼いのペーター、大きなセントバーナード犬のヨーゼフ、子ヤギのゆきちゃん達と愉しく暮らすことになったのだ。

ところがあるとき、件の叔母が、フランクフルトの大富豪の娘が遊び相手を探しているということを知り、ハイジを騙してフランクフルトに連れ去ってしまう。
お屋敷の娘クララは、生まれつき足が悪く車椅子で生活している。本当はクララの足はもう治っているのだが、クララは立てないと思い込んでいるのだ。

一気に話を吹っ飛ばして先に進めると、アルムの山に帰りたくて心を病んだハイジは、山に返されることになる。そして、明るい気持ちと健やかな体を取り戻したハイジの元に、今度は友達になったクララがやってくることになる。
クララの主治医がアルムの山を視察に来て、クララが歩く意欲を取り戻すためには良い環境だと判断したからだ。

さて、このアニメの最大のクライマックスは、なんといっても歩けずに車椅子に乗っていたクララが自分の足で立つというところだ。

リハビリを兼ねて山に来て生活するクララだが、なかなか立つことはできない。いくら医師や周囲の人間が、本当は立てると言っても、クララ自身に立てるというイメージが無いのであろう。いくら仲良しのハイジが励ましても、やはり立てないと言うばかりである。

ところがある日、とうとうクララが立ち上がるときがやってくる。

以下、 HIRAO'S HOME PAGE さんの アルプスの少女ハイジ ストーリー詳細 より転載させていただいた。

アルムの夏も次第に深まり緑の色も一段と濃さを増す頃、クララは何とかつかまり立ちができるようになっていました。しかしもう少しのところで恐がってしまいクララはなかなか一人で立てるようにはなりませんでした。
転ぶ事を恐がり、ちょっとした事で理由をつけて練習をやめようとする弱気なクララを見たハイジは泣きながら 「クララのバカっ! 何よ意気地なしっ! 一人で立てないのを足のせいにして、足はちゃんとなおってるわ、クララの甘えん坊! 恐がり! 意気地なし! どうしてできないのよ、そんな事じゃ一生立てないわ! それでもいいの? クララの意気地なし! あたしもう知らない! クララなんかもう知らない!」 そう叫ぶとハイジはクララをおいて駆け出してしまったのです。
クララはハイジを追いかけようと思わず立ち上がってしまいました。そうです、クララは一人で立てたのです。
振り返ったハイジはクララが一人で立っているのを見てびっくりしてしまいました。 「ハイジ… 私、私立てたわ」 クララがそう言うとハイジはクララのもとに駆けつけ 「よかったねクララ」「ええ、嬉しいわ。ありがとうハイジ」 そう言うと二人は泣きながら抱き合って喜びあうのでした。

という大円団を迎えるのである。

仲良しのハイジが自分の元を去ってしまうと思ったクララは、ハイジを追うために自分が立てないという思い込みすら忘れて、思わず立ち上がってしまったのだ。二人の友情の力が、ついにクララを立ち上がらせた感動の瞬間である。

ところが、子供のころに見たのですっかり忘れていたのだが、実はこのシーンより遡ることしばし、クララはあることをきっかけにすでに立ち上がっていたのだった。

つづく ・・・・。

※ アニメ版アルプスの少女ハイジのストーリー、シナリオに関しては、HIRAO'S HOME PAGE さんの 世界名作劇場>アルプスの少女ハイジ>アルプスの少女ハイジ ストーリー詳細 (と youtube のアニメ動画)を参考にさせていただきました。

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