アルプスの少女ハイジ その3 ~欲求、そして機を読むということ~
クララが牛に驚いて立ったことを聞いたハイジは、もちろん大喜びだ。天真爛漫が持ち味のハイジは、クララが立つことはそう難しいことではないのだと思い、なんとも簡単に 「立ってみようよ」 という。
しかし、そう簡単に立てるものなら今まで苦労はしていなかったわけで、いくらクララがひたいに汗を浮かべて力んでみても、全く足は動いてくれない。
おじいさんも、明日から立つ練習をしようと提案するが、クララは自分が立てるという気が全くしないのだから、どうしても積極的な気持ちにはなれないでいた。
そうしているうちに、クララのおばあさまがフランクフルトに帰るときが来る。おばあさまは、お世話になったペーターへのお礼もかねて、麓の村でお別れパーティーを開くことを提案する。
パーティーでは、村の人々も参加して、たくさんの御馳走もでて、クララもハイジもペーターも、おばあさまとの最後の夕べを楽しんだのだった。
宴もたけなわ、村の子供達は鬼ごっこを始め、ハイジとペーターもそれに加わる。大はしゃぎで走り回るハイジやペーター、そして村の子供達。おじいさんに抱き上げられて近くでそれを見るクララだったが、子供達はどんどん場所を変えてクララは取り残されてしまう。
おじいさん
「どうだね、みんな楽しそうだろう。クララもああしてみんなと走り回りたいだろう?」
クララ
「ええ。でも・・・」
おじいさん
「心配は要らないよ。おまえが心から立ちたい、歩きたいと思って一生懸命努力すれば、必ず足は治るんだ」
クララ
「ほんと・・・?」
おじいさん
「本当だとも。もちろん慣れないことをするんだ。思うようにはいかないだろう。痛いかもしれん。すぐには立てないかもしれない。だが、それでもくじけちゃいけないよ。今クララに一番必要なものは、がんばりだな」
クララ
「がんばり?」
おじいさん
「明日から立つ練習を始めてみようじゃないか」
クララ
「ええ・・・。」
クララは、走り回るハイジやペーターそして村の子供達を見て、自分も自由に走り、一緒に遊びに加わりたいと思った。
今までは見ているだけが当たり前だったクララの心の中に、自分も一緒にみんなと混ざって同じように遊びたいという 「欲求」 が芽生えた瞬間だった。
クララはアルムの山に来てみて、自分が歩けないために、おじいさんやペーター、ハイジに迷惑をかけてしまうことを心苦しく思い始めていた。同時に、今まで自分がどれだけ周りの人々に世話をかけていたかということにも思い至っていた。
しかし、みんなに迷惑をかけないために歩けるようになろうというのでは、今ひとつ 「がんばり」 に繋がるほどの動機にはなり得なかった。
やはり、心の中から湧き上がってくる 「欲求」 、立ちたい、歩きたい、みんなと一緒に自由に走って遊びたいという、焦れるような 「欲求」 があってこそ、はじめて 「心」 も 「体」 も思った方向に動き出していくことになるのである。
クララもフランクフルトに暮らしているときには、外に出ることもなく、同じ年頃の友達を作ることもできなかった。身の回りのことも、大人達が全てやってくれて、自分が歩いて何かしなければならないという必要性を感じることさえできなかっただろう。
もちろん歩けないことは悲しいことだっただろうが、立ちたい歩きたいという 「欲求」 が生まれることさえない環境だったのだ。
今までクララは気持ち良く走る人間の姿を見たこともなかったであろう。また、世話をしてくれる人が常にそばにいるフランクフルトのお屋敷の中だけの生活では、歩こうが車椅子で移動しようが、そこにそれほどの大きな差を見いだせなかったのかもしれない。
アルムの山に来て、牧場や湖やお花畑にいって、同じ年頃のハイジやペーターが楽しそうに走り回る姿を見て、自分もあんな風に自由に走りたいと始めて心から思ったのだろう。
走り回るハイジ達を見て、はじめて体を動かすことは気持ちがいいことだということを知り、自分の行きたいところへ自由に歩いて行けるということに喜びがあるということを知ったのだ。
要求すること、そして 「空想」 することが、「心」 と 「体」 を変えていくのである。「必要」 は、「欲求」 を呼び起こすし、「欲求」 は、「空想」 を呼ぶ。そして、「空想」 は、「現実」(現象) を呼び寄せるのである。
はじめに欲求ありきである。望まないことは、他の誰も望むようにと強制できることではない。無理矢理やらせてみても、本来の力は決して出ないのである。
それは、本人がやらなくてはと思ってみても同様で、本当にやりたくてやったこととは同じようにはできないのだ。
歩きたい、という 「欲求」 が生まれたときを見計らって、クララは頑張れば歩けるようになるということを教え、歩く練習を頑張ってみないかと提案するおじいさんは、まことにすぐれた心理指導者である。
同じことでも、いつ言うのかというタイミングで、相手の受け取り方は全く変わってしまう。内容がいくら正しくても、相手に受け入れられる条件がなければ馬の耳に念仏であり、また場合によっては反発心だけを呼び起こしてしまうことにもなりかねない。
整体の現場での対話にしても、当然 「機」 ということは重要視される。
例えば、施術を受けて体が変わってきたり、本当の健康とはどういうことかということに思い至ってきたり、また私のこともどうやら怪しい人間ではなさそうだと思い始めて、ようやく通るようになる話もある。
操法の組み立てにしても同様で、「機」 が熟すのを待つ必要もあれば、ここという 「機」 を逃さずに対応しなければならないこともまた当然である。
整体操法をおこなうものは、みな常に 「機」、「度」、「間」、ということを計りながら操法をおこなっているのであるが、アルプスの少女ハイジの 「おじいさん」 は、なかなかに 「機」、「度」、「間」、を知る人であり、すぐれた指導者なのである。
アルムのおんじ、まさに畏るべし、である。