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August 2016

お休みのお知らせ

      10月19日(水)

      お休みさせていただきます。

アルプスの少女ハイジ その5 ~アルムのおんじ~

前回の続きになるが、アルムのおんじことハイジのおじいさんは、ハイジの友達であるクララが山に来るということになった時点で、クララが歩けるようになるためにはなにが必要なのかということをすでにある程度わかっていたのだと思う。
おじいさんは、ハイジからフランクフルトでの生活や、クララと彼女を取り巻く人々のことも聞いていたであろう。

クララには、歩きたいというという欲求、そしてそもそも自発的に行動するための意欲が決定的に欠如していたのだ。
その意欲を取り戻すためには、子供達だけで遊ばせ、生活させることが役に立つと、おじいさんは考えていた。

これも前回書いたが、おじいさんとクララのおばあさまの阿吽の呼吸で、ロッテンマイヤーさんの排除は実現されることになる。(ロッテンマイヤーさんには、ちょっとかわいそうだが・・・。)

しかし子供達だけで山の牧場に行かせるなど無責任で危険なことだと主張するロッテンマイヤーさんの弁を聞いて、おばあさまはなぜ子供達だけで山に行かせるのかおじいさんに聞いてみることにする。

おじいさんは、子供達だけで山に行かせることにこそ意味があるという。

おじいさん
「あの子(クララ)を抱いてみたり、体の使い方、腰の動かし方を見てみますと、クララは立って歩けるはずだとしか考えられません。ですから、今しばらくワシに、この山にあずけていただきたいのです。
もちろん立てるまでには時間がかかるかもしれません。立てることを信じられなくて、クララが途中でくじけてしまうこともあるでしょう。
だが、もしクララが大人を頼らず子供同士で遊ぶことの楽しさを知ったら、自分から立ちたい、どうしても歩きたいと心から願うようになったら・・・。そして、それを助け、励ましてくれる友達がいたら・・・」

 

おじいさんが言ったように、クララはアルムの山という素晴らしい自然環境とハイジやペーターという年の頃が近い子供たち、ヤギたちやセントバーナード犬のヨーゼフなどに囲まれた生活を送る中で、いろいろな刺激を受け、少しずつ心も体も変わってきて、ついには立って歩くことができるようになった。

そしてそこにはなによりも、おじいさんの深い洞察力、厳しさとやさしさを併せ持った辛抱強い対応があったことは特筆すべきことであろう。
おじいさんは、クララの中に眠っていた、歩きたい、自由に遊びたい、という欲求の種子が、日光を浴びて、水を得て、自然に芽が出るよう、花が咲くようにと陰日向に助け導いていったのだ。

 

しかし、こういう仕事をするようになったせいなのか、そもそも大人になるとみなそうなのか、子供の頃と同じ話を視ても、だいぶ見え方は違ってくるものだ。
そんな私の今の目線で見たら、この物語は 「アルプスの少女ハイジ」 というよりは、「アルプスで立った少女クララ」・・・。そして、サブタイトルは、 ~クララはいかにして立ったのか~・・・。

本当のところをいえば、「アルムのおんじ」 にしたいところだが・・・。

 

アルプスの少女ハイジ その4 ~自立の力を奪わない~

ハイジのおじいさんは、フランクフルトからクララについて来たロッテンマイヤーさんをクララや子供達から引き離そうとする。
ロッテンマイヤーさんがクララのそばにいては、せっかくクララが自分からやりたいと思って自発的に行動しようとすることを端から邪魔してしまうからだ。

ロッテンマイヤーさんは、クララの家、ゼーゼマン家の執事をしている女性で、けっして悪い人ではないのだが、堅物で四角四面、そしてしつけに厳しく、クララやハイジ達にとってはたいそう煙たい存在だ。
ロッテンマイヤー女史は、クララの山での生活にもフランクフルトでの習慣を完全にそのまま持ち込もうとしていて、まあ大切なことではあるのだが、勉強やら礼儀作法やらに関して滅法口うるさいのだ。

 

さて、当院に整体を受けに来られる子供の親御さんの中にも、子供に過干渉な方はたくさんいる。操法を受けるときに顔の下にタオルを敷いてもらうのだが、幼稚園ぐらいにもなれば自分で敷こうとする子も多い。しかし、結構な割合でお母さんがそれをサッと取り上げて敷いてしまうのだ。
操法を受けるに際してきちっとタオルを敷くべきと考えるのか、私を待たせないように早く敷かないといけないと気を遣われるのか、子供がキレイに敷けないのが恥ずかしいのか、どちらにしても子供がやろうとしているのを平気で横取りしてやってしまうのだ。

「自分でできるよね」 と子供にいってみると、子供もうなずくのだが、お母さんも、あら私ったら、という顔になる。
そういう顔をするようなら黙っていることが多いが、通じないようだとお母さんにも一言いうこともある。

「自分でやろうとしているものを、横から取り上げてはいけませんよ」、・・・と。

私も結構年齢が上がってきたので、こういう時にはものが言いやすくなった。開院当時は30歳そこそこだったので、それが仕事とはいえ自分と同年代か年上の親御さんに意見をするのは少々気が重かったものだ。

さてさて、このタオルを敷くというのは一つの試金石で、過保護、過干渉の親御さんは、かなりの割合で子供に代わってタオルを敷く。
驚くべきことに高校生や場合によっては20歳過ぎの子供についてきて、代わりにタオルを敷いてしまうお母さんもそう珍しくない。そもそも、はじめからお母さんがタオルを持っているのだ。
そういうお母さんは、たいてい問診表も本人に書かせずに代わりに書いてしまうし、問診のときもついてきて、本人に聞いているのに代わりに答えてしまう。

そうやって育てられた子は、喘息やアトピーなどになるパーセンテージが高い。自発的な心、自由を求める心を抑え込まれると喘息になりやすい。喘息は、抑圧された子供の精一杯の反抗であることが多いのだ。

喘息の子供などは、嫌々やらされている習い事などを止めさせてもらうだけで、症状がなくなってしまうことは珍しいことではない。
成人した子供(?)でも、こちらが一人前に扱うように親御さんに意見して、小さなことでも自分でやるようになると、ぼんやりした目に少しずつ力が出てくる。

 

クララも周囲の大人が何でもやってあげてしまい、自分から何かをやろうとする気持ちを横から取り上げられてしまう上に、あれをしろこれをしろと、お勉強やら習い事やら行儀作法やらを厳しく押しつけられて、自発的で自由な心を抑圧されてしまっているのだ。

結局ロッテンマイヤーさんは、おばあさまによってクララのお付きの役を解任されてフランクフルトへ戻っていく。貴女がいなくてはフランクフルトの家が回らないから、とちょっぴり持ち上げられて・・・。
ロッテンマイヤーさんも、自分がクララのそばにいると不都合なので離されるのだということは解っているのだが、職務に忠実な彼女は涙を見せながらもフランクフルトへ帰っていく。

 

おじいさんは、はじめからロッテンマイヤーさんに象徴される大人達の過保護と過干渉が、クララが立てるようにならないことの大きな要因になっていると考えていた節がある。
ロッテンマイヤーさんがクララと共にはじめて山の麓まで来たときに、おじいさんに身の回りの世話をしてくれる人を雇うことはできないかと尋ねるシーンがある。

おじいさんは、この村の人達は皆朝から晩まで働かなくては生きていけない、たぶん見つからないだろうと伝える。
「もちろんお金は余分に払います」 というロッテンマイヤーさんに、おじいさんは、「それならご自分で探してみるのですな」 と冷たく突き放す。

それにたじろぐロッテンマイヤーさんの 「それでは食事や身の回りの世話は誰がやるのですか」 という問いに、おじいさんはこう言い放つのだ。

「もちろん私がやります。 だがな、ロッテンマイヤーさん。ご自分のことはご自分でなさるつもりでいらっしゃったのだと、私は思っておりましたが」

都会とは何から何まで違う山に来てまで、自分たちの身の回りのことすら自分でしようともしないロッテンマイヤーさんに挨拶代わりに一言苦言を呈したのだ。

自分のことを自分でやる、そんなことは当たり前のことですよ、・・・と。

初対面のロッテンマイヤーさんへのおじいさんからのキツイ一言ではあったが、これはロッテンマイヤーさんだけに言いたいことなのではなく、本当はおじいさんがクララを取り巻く大人達皆にまず始めに、そして声を大にして言いたかったことなのだろう。

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