整体操法制定委員会

永松卯造氏と指圧基本型制定

以前にこのブログで整体操法制定委員会について書いたことあるが、その制定委員に名を連ねている方で永松卯造という人がいる。永松氏は当時腹部の操法で有名だった療術家で、整体法の腹部第5調律点、別名 「痢症活点」 は、氏の治療技術から採用されている。
永松氏の手技は、なかなかに素晴らしいものだったそうで、戦中だったか戦後だったか、整体法の創始者・野口晴哉氏が振る舞い酒のメチルアルコールで胃に孔を開けてしまったときに、永松氏を呼んで操法をしてもらった、などという話を聞いたことがある。(又聞きの又聞きの又・・・)
痢症活点は、右の季肋部の下縁であるが、永松氏がここを押さえると、氏のそろえた四指(第2~5指)が根元まで肋骨の裏に入ったという。

さて、この永松氏、整体操法の基本型の制定に貢献した方であるが、意外なことに厚生省医務局編纂の指圧教本の指圧基本型制定委員でもあったそうだ。
この指圧の基本型は、昭和32年に制定されたらしい。整体操法制定のおよそ15年後である。
この頃の永松氏は、立場的には整体を離れ指圧に合流していたのだろう。

指圧・整体の学究団体である「日本指圧師会」 の会報に、創立当時の会報から厚生省医事課編 別冊 「指圧の理論と実技」を完成させた理事の方々の座談会の模様が掲載された。(第465~467号)
日指会の許可を得て、永松氏の発言にスポットを当てて、部分的に転載させていただく。

基本型の制定

会長:
「皆さん御苦労様です。・・・まず始めに何故基本形の制定が今迄業界の難事業とされていたのでしょうか・・・」
S:
「それは正式の教育機関がなかったからでしょうね」
永松
「又一つには各流派があって互いに其の特技に立て籠もって譲り合う気持ちがなかったからでしょう」
・・・中略・・・
U:
「お互いに譲り合う可きは潔く譲った、自説自技にとらはれず、大所高所に立って検討審議したことは指圧史上特筆す可き会議だったと言えよう」
・・・後略・・・

施術時間

会長:
「そこで皆さんが現在患者に実際上施術しておられる時間はどれ位要しておりますか皆さん順に」
S:
「私は四十分位ですみます」
N:
「私は四十五分が標準です」
永松
「私はまあ三十分ですね」
I:
「私は二時間から三時間位です。患者さんの症状によって異がうが」
・・・後略・・・

施術の順序・主は背か腹か

会長:
「指圧は其の施術の順序は、手の運ぶ都合が主なのか、治療効果を主として考えて定めたのか」
I:
「手の運びに都合のよい順序になっております」
・・・中略・・・
永松
「私は腹が一番肝腎と思うので腹からかかります」
・・・中略・・・
会長:
「自然界に於いて男女の体質が根本的に相違があるとすると、治療の場合でも男女によって治療を帰る必要はありませんか」
永松
「中気の半身不随症状の重症も男女によって現はれ方が異なる、男は右へきたのが重く左が軽い、女は左が重く・右が軽いように思える」
・・・中略・・・
会長:
「私はカイロの先生には叱られるかも知らないが腹を主として診ている、然し脊柱を無視するのではない、必要とあれば診るが、指圧では腹ばかりでは効果の無い場合が随分あるようですね」
A:
「あります。指圧は腹背表裏一体の治療で独特の効果が上がる」
永松
「私は脊椎矯正は行はず腹一筋の治療だが、この腹も只病気ということを考えず、姿勢と健康と云うことでみても私の経験からすると、子供のうち足を抱いて丸くなって寝るような者は青年期になって大病をするようだ。
又左側を下にして寝る子は胃、右側をし下にして寝る子は肝臓が悪いようです。吾々はこうしたことにも注意してみることが必要です」
・・・後略・・・

この座談会での発言からも、永松氏が主に腹部を調整することで体を整えることを実現されていたことが推測される。治療時間の短いところも、技術の高さを表しているかと思う。
整体も指圧も、その始まりのときには、さまざまな治療技術を持つ人々が集まって基本となるスタイルをつくったのだ。
しかし、おそらく永松氏はここで制定した基本型に則って治療をすることは無かったであろう。それは、他の制定委員に関しても同様であると思われる。
指圧の基本型の制定に関わっても、その後も皆元来自分の工夫で行っていた流儀で治療し続けていったであろう。
このとき定められた基本型に沿って治療を行っていくのは、これより後に、「指圧教育」を受けた人達である。

私も、鍼灸指圧マッサージの資格を取ったので、鍼灸学校でまさに厚生省が認める指圧の基本的なスタイルを勉強したことがあるが、治療技術と呼ぶにはいささかお粗末である。それも当然のことで、学校で習う基本型は、言わば全身の押し方の一例といったところであり、素人がとりあえず人の体を触れるようにする手引きのようなものなのである。
そこから技術を高めていくには、当然ながら各自の修行と研究が必要である。

さて、整体操法をまとめ上げた野口晴哉氏は、多くの療術家の奥の手とも言える治療技術を自家薬籠中の物にしてしまった天才である。野中操法でも、始めから恥骨の硬結を本当の意味で捉えることができたのは野口氏だけであったという。
そして、それらの高度な身体調整の技術を一つの体系に溶かし込んだ整体操法を、広く世の中に広めるという道を取らず少数精鋭で伝えていったことで、技術の質を落とすことを最大限防げたのではないかと思う。
もちろん、整体でも型を習得することは、修行の第一歩である。しかし、形だけまねても整体操法とはならない。やはり師伝による教授と、各自の努力が必要である。外形は似たような形を取れても、そこに動く本質的なものを自得しなければ、操法の効果は上がらない。その本質的な部分は、教われば分かるというものでもないし、そもそも教える側も曰く言いがたいものなのだ。


ちなみに、今回記事の転載をご快諾していただいた日本指圧師会は、精力的に指圧や整体の研究・教育を行っている団体である。治療技術としての指圧を志している方は、一度HPをご覧になってみるとよいと思う。
また、指圧・整体・療術の歴史に関する貴重な資料も掲載されているので、興味のある方にはお薦めである。
日本指圧師会に見る指圧の歴史

久しぶりに…

久しぶりにブログを更新する。軽く久しぶりといっているが、およそ3年も更新していなかった。このところ忙しく、まとまってPCの前に向かう時間がとれなかったということもあるが、多少ネットに飽きていたこともある。
先日、「整体操法制定委員会.3」に追記を記したのをきっかけに、また少しずつでも更新しようかと思い立った。

「整体操法制定委員会.3」では、野中豪策という天才的な治療家の記事を書いた。整体操法の技術には、多くの療術の技術が流れ込んでいる。それぞれが、一流一派をなす大家の技術であるが、その中でも野中氏の技術は、ひときわ秀逸だったようである。
氏の技術は、鍼灸などの漢方理論によるものではなく、ましてカイロプラクティックなどの西洋式の理論や技術を取り入れたものでもなく、日本に独自に発達した、まさに療術色の濃い治療技術のようだ。

野中操法を伝承されている川島先生という方が、 『月刊手技療法 4月号』 で野中操法について紹介されている。整体操法に興味のある方には、是非お勧めしたい。

整体操法制定委員会.4

整体操法の中には、いろいろな手技療法の技術が流入しているが、手技療法以外にも武道の活法の技術なども入っている。腹部活点 ・上頚活点など、今も活点と呼ばれているところの多くは、元々武道の活法において、「活」を入れて 「活かす」急所だ。
呼吸はあるが意識がないという状態の人は、上頚というところ(第2頚椎の三側)を押さえると気がつくが、これは「脳活帰神法」といって、元々武士の嗜みの一つだったといわれる。おぼれて溺死しかけた人を救う救急操法なども、まさに活法である。

武道の活法以外にも、鍼灸 ・漢方医学や民間に伝わるさまざまな治療法の技術も整体操法の中に流れ込んできている。また、治療法に限らず、呼吸法、気合術、昔からのお産の知恵などもそうである。
もちろん、西洋医学を支えている解剖学 ・生理学 ・病理学の知識なども、整体操法と無関係ではない。

食中毒のときには、足の第2指を折り曲げてその指裏がつくところ、つまり足裏の第2指の付け根あたりを押さえる。上手に押さえて愉気すると、みるみるうちに気分の悪さがおさまっていく。
足の裏のこの場所は、鍼灸の世界で「裏内庭(うらないてい)」と呼んでいるツボで、本来は食中たりのときには「お灸」をする急所である。中毒しているときは、大抵この部分は鈍くなっていてお灸をしても熱くない。そのお灸が熱く感じるようになるまで、何度も何度も繰り返しお灸をしていく。そして、「熱い」と感じるときには、吐き気や気分の悪さも治っている。
足の第2指は、肝臓の働き(解毒)と関係している。食中毒のときには、食べた悪いものを速やかに排泄するように促すことも大切だが、「裏内庭」を押さえると解毒が進み、とりあえず気分は良くなる。また、嘔吐 ・下痢をくり返して、出すものもないのにそれが止まらなくなっているようなときも有効である。

めずらしいところでは、耳をつまんで目の治療をするというのもある。整体操法が制定されたころ、耳殻をつまんで眼病を治す有名な(知る人ぞ知る?)女性がいたという。特に白内障を治すということで評判をとっていたらしい。
この耳殻をつまむという方法も、整体操法に取り入れられている。白内障や目の疲れなどにも使うが、寝不足になると耳殻が硬くなることから、寝不足による体の不調を改善したいときにも耳をつまむ。
目が疲れていたり、寝不足のときには、つままれると結構痛い。整体操法で「痛くするほど良い」ということはあまりないが、この耳殻だけは痛くないと効かない。もちろん、力ずくでやればどうやっても痛いが、後まで痛いようではつまみ方がよろしくない。「痛たたっ!」っと感じても、後は痛くないというのが上手な痛みの作り方。
しかし、件の元祖は二枚の硬貨で耳殻をはさんで内出血するぐらい刺激したというから、あまりお上品でも良くないのかもしれない。

整体操法制定委員会.3

整体操法の制定に関わった人物の中でも、野中豪策という人は、その名の通り豪快でおもしろい人だったようである。「人間は玉でごわす」というのが彼の持論で、へそを中心として腹部を玉と見なし、その外側縁を「健康線」と呼び身体調整の最重要点としていたという。整体操法の側腹操法や、皮膚病に用いる恥骨操法は、彼の技術がもとになっている。
野中氏は恥骨操法を、「皮膚病一切奇妙」と名付け、「皮膚病の一切が治る急所だ」といって皮膚病治療に効果を上げていたという。また、「ガンも内臓に出来た皮膚病だから」と、恥骨への操法で癌も治ると豪語していたらしい。
野中氏は腹部外縁の操法で有名だが、手にある脳溢血の後遺症の調律点なども彼の治療法から採用されている。以前、何かの資料の中に、「腹痛一切奇妙」と名付けられた足の甲の調整点があったのを見た憶えがあるが、これもネーミングからして元は野中氏の技術の中にあったものかもしれない。

宮廻清二という人は、尾骨の調整で有名だった人で、尾骨を操法することで胸郭(肋骨)を整えるという技術を持っていた。肺結核などの呼吸器病を、尾骨の操法で治していたという。彼の尾骨操法は、肋骨の調整や眠りを深くする操法としてなど、整体操法の中に今も受け継がれている。

柴田和通氏の「手足根本療法」は、現在では「足心道」と呼ばれている。整体操法の中の足指 ・足裏の操法には、柴田氏の手足根本療法の影響が見られる。「脊髄反射療法」の梶間良太郎氏は、胸椎9 ・7 ・8のショックによる副腎操法の生みの親だ。

そのほか、この資料(整体操法読本 巻一 野口晴哉著 )の中では委員の名前に入っていないが、永松卯造という人の永松活点は、整体操法の中で腹部第5調律点となっている。
腹部第5調律点は痢症活点とも呼ぶが、古い資料では永松活点と痢症活点は別のものとして図示されている。どちらも右季肋部だが、痢症活点は肋骨の縁であるが、永松活点は肋骨のずいぶん奥になっている。永松氏が右の季肋部を押さえると、四指の根本まで肋骨の裏に入ったそうである。

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追記

この記事の中の野中豪策氏に関する内容は、私が整体の師から直接聞いた話であるが、野中氏はその晩年においてガンに対する認識は変っておられたという。そのことに関する詳しい情報が、氏の治療技術を継承されている野中操法研究会を主宰されている川島金山先生のブログに掲載されている。
ガン治療に対する野中氏の晩年の考え方の変化と氏の治療技術に関する情報を多くの方々に知ってもらうことを目的に、川島先生のご了解を得て、以下にリンクを貼らせていただいた。

   幻の整体操法 野中操法と野口整体の邂逅

2009.3.18

整体操法制定委員会.2

整体操法制定委員会の委員の顔ぶれを見てみると、オステオパシー ・カイロプラクティック ・スポンディロセラピーなどのアメリカ発祥の手技療法をおこなっていた人が意外と多いことに気づく。これらの療法は、大まかにいうと脊椎を中心とした人体の関節を調整することで全身の機能を改善し健康を保つことを目指している。(脊椎も椎骨が関節を作って連なっている)
整体操法の脊椎操法は、これら舶来の療法の影響を多分に受けている。オステオパシーやカイロプラクティックなどが入ってくる以前、日本の手技療法といえば、ほとんどが漢方理論によるものだった。背骨やその周囲に働きかけるとしても、経絡(体内を流れる「気」の経路)及び経穴(いわゆるツボ)に対する働きかけが中心で、脊椎そのものの可動性や弾力を調整するという発想は、あったとしてもごく少数派だったと思われる。
整体操法が制定される少し前から、これらアメリカ式の脊椎調整法が日本の手技療法の中に少しずつ取り入れられてきた。整体“言”始めでも書いたが、オステオパシーは大正年間に山田信一氏によって日本に紹介されている。山田氏も制定委員のひとりだ。
カイロプラクティックが日本に入ってきたのは、オステオパシーよりも少し遅いらしいが、今ではオステオパシーよりも一般的に知名度が高いようだ。ここ十数年ほどでカイロプラクティックという正式名称を名乗るところが増えてきたが、それ以前は 「整体」 と名乗ってカイロを施術しているところが多く、いろいろと混乱を招いていた。
スポンディロセラピーは、脊椎反射療法と和訳され、“あんま・マッサージ・指圧師”の国家資格を取得するための教科書にも、指圧に影響を与えたものとしてオステ、カイロと共に名前を挙げられている。按摩は奈良 ・平安時代からおこなわれてきたが、指圧はこれら外来の手技療法の影響を受け近代になって成立したものだ。
スポンディロセラピーは脊椎の棘突起やその両側の皮膚 ・筋肉に叩打、押圧、振動法、温熱 ・冷却などの刺激をおこない脊髄反射中枢に刺激を与え治癒をうながすというものだったようだが、現在日本でこの療法をおこなっているところはとても少ない。

整体操法において、脊椎の観察と操法はとても重視される。しかし、そのアプローチの仕方は、影響を受けたと思われるオステオパシーやカイロプラクティックとはだいぶ異なったものとなっている。オステやカイロは、大まかにいえば、背骨の転位(ズレ)が体の機能を不全にさせると考える。そのため、まずはその脊椎の異常を正すことに重点が置かれる。背骨の不自然を正せば、自動的に体の機能は改善するという考え方だ。
整体法では、骨が曲がったり歪んだりしているのを見つけても、それをすぐさま元の位置に戻そうとはしない。その歪みやズレがなぜ起こるのかということをまず考える。目を酷使しても、体が冷えても、お酒を飲み過ぎても脊椎は可動性を失ったり転位したりする。その原因となる生活の仕方、体の使い方の方を正すことを考えずに、とりあえず骨の歪みを真っ直ぐにしてしまおうとは考えない。
目を蒸しタオルで温めたり、足湯をしたり、飲み過ぎないように注意すれば元に戻るような背骨の変化は、直接背骨を矯正しない方が体にとっては良い。それだけでは自然な状態に戻れなくなってしまっている異常であったら、その時はじめて脊椎に働きかける。それも、力で矯正するのではなく、自然に治っていかない「感覚 ・働きが鈍った状態」を、自力で戻る力を発揮するように「敏感な状態」(過敏ではない)にしていくことに尽きる。
なるべく自分の体の中の力で治っていくように手伝っていくのが整体式。そうしていくことで、体が自然治癒力を発揮するように育てていく。手伝い過ぎると体は自分の力を発揮しなくなってしまう。また、場合によっては体にとってかえって負担になる。骨の歪みを矯正技術で外部の力で治すというのは、整体法では最後の最後の手段となる。

整体操法制定委員会

「整体法」(野口整体) における他律的身体調整の技術を、「整体操法」という。整体操法の理論と技術体系は、野口晴哉氏の卓越した人間観 ・生命観に貫かれて、他に類を見ない独創的なものとなっている。しかし、当然ながらその内容は全てが野口氏のオリジナルというわけではない。もちろん昔からおこなわれてきた伝統的な医術の流れを受け継いでいるし、さまざまな治療法 ・身体調整法から多くの技術が取り入れられている。

整体操法が確立した前後、大正から昭和初期というのは、手技療術の大いに発展した時代だったようだ。古来からの日本的、東洋的な手技療術 ・民間療法に加えて、アメリカから入ってきたカイロプラティックやオステオパシーなどの影響をうけ、さまざまな手技療法が発展し花開いた、まさに「療術百花繚乱」の時代だったようである。整体操法は、そのころの治療の大家が一堂に会して、当時の技術の粋を持ち寄ってつくられた。

手技療法全盛のその当時、一流一派を率いる名人 ・大家と呼ばれる人々が、それぞれの経験にもとずく見識と理論と技術を持ち寄って、療術界の発展のために新しい技術体系を創り出そうという動きがあった。その動きの中心にいたのが「整体法」の創始者である野口晴哉氏だった。
はじめ整体操法は、東京治療師会の手技療術のスタンダードとして制定された。野口氏の古い著書に、そのあたりのことが詳しく書かれている。

「整体操法制定委員会は昭和十八年十二月設立し、昭和十九年七月迄毎夜の論議を経てその基本形を制定し、同月の東京治療師会役員会に発表し、全員一致の支持を得て之を東京治療師会手技療術の標準型と決定したのであります。ここに手技療術の新たなる発足が始まったのであります。個人のものから団体のものに移り、いろいろな角度からいろいろの検討が行われ、 ・・・(中略)・・・ その後も連日多数会員の協力が加わって進歩向上しつつあるのであります。独特の殻を破った手技療術の歩みこそ他のいろいろの療術の範をなすものであります。」(野口晴哉著 整体操法読本 巻一 ※原文は旧仮名遣い)

その第一回の制定委員会の委員の顔ぶれは以下の通り。

「野口晴哉(精神療法)を委員長として、次の十三名の委員によって構成されていました。梶間良太郎(脊髄反射療法)、山田信一(オステオパシー)、松本茂(カイロープラクティック)、佐々木光堂(スポンデラテラピー)、松野恵造(血液循環療法)、林芳樹(健体術)、伊藤緑光(カイロープラクティック)、宮廻清二(指圧末梢療法)、柴田和通(手足根本療法)、山上恵也(カイロープラクティック)、小川平五郎(オステオパシー)、野中豪作(アソカ療法)、山下祐利(紅療法)、その他に美濟津貴也(圧迫療法)他三、四名の臨時委員が加わりました」( 同著 )

多くの治療家が参加しているが、整体操法を構築していく上で理論的 ・技術的に柱となり核となったのは、やはり元来野口氏が持っていたものだったのではないかと想像する。基本的に治療家というのは、みな一匹狼であり、それぞれが一国一城の主である。これだけ多くの治療家が集まって、いくら議論を交わしたといっても、そうそう意見がまとまるとは考えにくい。
真珠や金平糖が核があってできあがるように、整体操法にも核になるものがあったのではないだろうか。後に野口氏は治療ということに対する考え方の相違から療術師会と袂を分かつのだが、他の委員のほとんどは、もともと自分のおこなっていた治療法に戻っていく。野口氏だけが、この整体操法を自分の治療技術として用い、さらに発展させてゆく。このことから考えても、そもそも整体操法の基本部分は野口氏のもともと使っていた技術だったのではないかと思う。
そして、野口氏の思想と技術という中心となる基盤があったからこそ、整体操法が単なる寄せ集めに堕することなく、理論的にも統一された、すぐれた身体調整の技術体系となりえたのではないだろうか。
引用した著書には、こんな文章もある。

「質問に答えて
各委員は材料を出し合った、しかしそれを合併したのが整体操法では無いのであります。小豆と砂糖と寒天とで羊羹は造られるでありますが、羊羹の味は羊羹であって、小豆や砂糖や寒天の味が残っていればそれは上等の羊羹では無い。或る委員の出した材料が見当たらないと言われることは、その練り用を褒めて頂いたように思われる。希くばこの羊羹から、小豆の味を見つけようと味わわないで、羊羹そのものを味わって欲しい。」