気の話

愉気の話

愉気というと、手を当てることだと思っている人が多い。しかし、愉気とは人間相互の気の交流、感応、同調、共鳴、といったことを指している言葉である。特に手を当てるという形式に限定されているわけではない。
逆を言えば、形だけ真似て手を当てても、そこに気の交流が成されていなければ、それは愉気とは言えない。

気とは、人間の最も根元的な生命の働きである。愉気は、その心・体に分化する以前の、生命そのものの働きである気に対してアプローチする方法である。もちろん、相手の気に対しては、自らの気を以て働きかける。

愉気には、手を当てる触手法以外にも、凝視法、息吹法、思念法、などがある。

気を集注して見つめる、ということも愉気となりうる。
人間の体で、気を発するところ、気の出やすいところといえば、手と目である。
誰でも、人の視線というものは感じたことがあると思うが、目は強く気を発するところなのである。
探偵が尾行するときには、ターゲットの踵を、見るともなく見て後をつけるのだそうである。
後頭部などを見ると、すぐに気づかれてしまうという。後頭部は、極めて気に感応しやすい部分なのだ。

私が整体法を習っていた頃、講習会が初級・中級・上級と分かれていた。師には、「上級になったら、愉気は目でするものだ」 と幾度となく言われたものだ。
これは、気合の愉気である。操法の、ここという処では、目でじっと観てフッと気を通す。
いや、スッと通す。 グッ・・・と。 ウム・・・と。
ともかく、目で観て気を込める。もしくは、気を通していくのである。
凝視法による愉気は強力である。上手く合えば、一瞬で体が変わる。

息を吹くという中にも愉気がある。
子供がどこかをぶつけたときや擦りむいたときなど、お母さんがその場所をフーッと吹いてあげることがある。あれは強力な愉気である。
また、風邪のときには第5胸椎に愉気をすると経過がスムーズになるが、小さい子供などは衣服の上から第5胸椎にフーッと息を吹いてあげるとよい。愉気と温熱刺激の両方の効果を期待できる。

思念法とは、思念に気を乗せて送ることである。遠く離れた所にいる人に愉気をする、遠隔愉気などというものはこの思念法である。

操法の中で、痛みがあって姿勢を変えるのがつらい人でも、特別な事情のない場合、私は動作を介助することはない。 「ゆっくりで、構いませんよ」 と言うだけで、自力で立ったり座ったりしてもらう。
それは、余計な親切ごっこで相手の自立する心を奪わないためだが、ただ立ち上がるのを待っているのと、じっと見つめて目で愉気して待つのでは、相手の動きが全く違う。
手で支えることはしないが、目で、気で支えることは大切だ。

ときには、痛みや力が入らないなどで、なかなか立てない人もいる。そういう場合、私はその人の中に入り込んだつもりで、その人に代わって、「大丈夫」 と強くしっかりと心の中でつぶやく。そして、思念で力強く立ち上がる意志を誘う。そうすると、とたんに力が出て立ち上がれることがある。
これも、思念法の一種である。
聞く人によっては、馬鹿ばかしい話に聞こえるかもしれないが、私は大真面目でやっている。
目の前の相手も、まさか自分に向かって、私がそんなことをやっているとは思いもよらないだろうが・・・。

丹田 あれこれ

先日、野中操法研究会(第二部)に参加させていただいた。今回もまた、たくさんの貴重な学びがあった。
主宰者の川島先生は、「野中操法はシンプルです」 とおっしゃるが、野中操法は実は難度も高く非常に奥が深い技術である。

さて、研究会で川島先生から興味深いお話を聞くことが出来た。それは、丹田の位置に関することで、ある種の体操法を行うと、翌朝丹田の一点が筋肉痛になるという。研究会では、その方法を実習したのだが、はたして翌朝臍下の一点が見事に筋肉痛を起こした。そして、それはまさに丹田の位置と一致していた。

整体では、腹部第一調律点、すなわち鳩尾(みぞおち)の力みが抜けていて、腹部第三(臍の三横指下)に力が集まっていることを以て整った体であるとする。
この腹部第三調律点は、俗に言う丹田に一致する。

一口に丹田といっても、実はその定義はいろいろである。
丹田という概念は、中国が発祥である。その語源は中国の煉丹術、つまり仙道にある。
仙道では修行によって不老不死を目指すが、その一つの方法が下腹部において気を練り上げ、丹という妙薬を作ることである。自らの気を練り上げて作るその丹薬が、不老不死の薬となるわけである。そして、そのメソッドを煉丹術とか内丹術などいう。

私の理解では、この場合の丹田とは、「丹」 と 「田」 からなる。
その丹の形成される処は、ツボで言うと気海穴の奥のあるとも、関元穴の奥にあるともいう。どちらにしても、臍の少し下の内部に入ったところである。
そして、その丹を練るための下腹のある領域が田である。丹ができるためには、田がなくてはならない。

また、丹田には煉丹術のように気を練る場所という意味合いもあれば、肥田式強健術でいう 「正中心」 のように身体の、特に腰腹の力の集約する一点を指す場合がある。つまり、気の場としての一面もあれば、身体の力学的な中心という面もある。

日本では、武術・芸事・療術・健康法などの世界で、 「腹(はら)」 ということが大変重要視されてきた。つまり、腰が決まり下腹部に力が集まってこそ、人間は能力が十全に発揮されるということだ。
この場合の腹(はら)は、多くは下腹部の充実した状態を指すが、この腹(はら)を丹田と呼ぶこともある。
また更に、その腹(はら)の力が集約する一点を以て丹田とする場合もある。
つまり、日本では丹田という場合、太鼓然と充実した下腹部をさす場合と、更にその中の臍下の一点をさす場合がある。(言葉の定義は流儀によっていろいろである)

丹田を錬成していく場合、下腹部に力を集めるといっても、むやみに腹に力を入れるのとは全く意味が違う。硬く固まった腹には丹も田もできようがない。
どちらかというと、柔らかく弾力のある腹にこそ力が集まる。
体のどこでも、硬く強張ったところは力を発揮することは出来ない。硬いということと、力があるということは別のことである。緊張と弛緩の幅が大きく、しなやかに弾力がある状態が望ましいのだ。これは腹部に於いても同様である。
その柔軟かつしなやかな腹部の一点に力が集まることが肝要なのである。

以前、正体術の上手・下手ということを書いたが、その上手の一つのポイントは、腹を柔らかく保ちつつ丹田の一点に力を集めるということである。それには、呼吸が一つのキーになる。

さて、腹部が充実して力が集まっても、それだけでは丹田の効用は万全ではない。いや、正確には丹田ができたとは言えない。
なぜなら、丹田というのは、体全体の中心なのである。すなわち、丹田を中心として体全体が一つに働くようでなければ、それは本当の意味での丹田とは呼べないのだ。

野中操法の創始者である野中豪作氏は、「人間は玉でごわす」 と言われていたそうである。臍を中心として玉を広げていくと胴体になる。そこから、頭、手、足を引き延ばしていくと人間が出来上がる。

整体では、「足は親指、手は小指」というが、丹田を中心に体が統一されると、足は親指に、手は小指側に力が通ってくる。
上肢第5調律点の尺骨側、つまり肘の小指側は弾くとビンと痺れるような響くような痛みが走るところである。ここが鈍くなって弾かれても感じないときは腰が硬直している。そして、腰がこわばると決断力が鈍り物事が決められなくなる。
これは腰と小指の連動を言っているのだが、腰と腹は表裏一体であるから、丹田に力が集まっていることと同じ意味である。丹田ができてくると、力が足は親指、手は小指に集まってくる。

そして、本当の意味で丹田が形成されると、肩の力がすっかり抜ける。(力が抜けるといっても、グニャグニャに脱力するということではなく、極々自然に力みが全く消失するのだ)
一つの目安として、「肩の力みが微塵もなくなって、同時に全身の力が統一されて動作できる」、という状態が本当の意味での丹田の形成が成されたということと言ってよいと思う。
まさに理想的な上虚下実であるといえる。

整体操法や野中操法、正体術の目指すところは、いわば丹田に力が集まる体作りともいえる。
もちろん、武術や諸芸において要求される「丹田力」というものは、一朝一夕に出来上がるものではない。長い年月をかけて練り上げていくものである。
しかし、整体法における健康体の重要な定義としての腹部調律点の 「順」 という意味合いに於いては、整体操法や野中操法で丹田に力の集まった体というものに導いていくことはできるのである。
いや、できるのは当たり前で、そのことがまさに操法の目的なのである。

気の話 

「気」 というのは、これと目の前に出して見せられるものではないが、誰でも日々感じているものである。第一印象などというものは、もちろん視覚的情報もあるが、五感を越えた感覚で直接相手の気を感じていると考えた方が実状に合う。
その人その人で、発している気は違う。また、同じ人でも気が澄んでいるときもあれば、荒んでいるときもある。
気が合わない人とは、なかなか良い関係は築けない。「話してみたらいい人だ」 などと思っても、ダイレクトに感じる気が合わなければ、何かのときにやはり上手く行かないものだ。
夫婦でも友人関係でも上司と部下でも、気が合えばリズムも合い、息が合うものである。

操法においても、気が合う合わないということは問題になる。操法を行う側と受ける側の気が合えば、操法は良いものになる。気が合わないと、上手くいかない面がでてくる。
当院では、操法を受けるに当たっては、時間に余裕を持って来院されるようにお願いしている。バタバタと慌てて駆け込んできたのでは、息も乱れているが気も乱れている。そんな状態では良い操法は難しい。

操法を受けに来ている人は、順番になったから、予約の時間になったから、無造作に呼ばれていると思っていると思う。しかし、実は次の人を呼び入れる機(タイミング)というのも、気の同調ということが図られているのである。
間を空けず詰めて続けて呼ぶこともあれば、一調子ずらすこともある。ときによっては、行きたくもないトイレに行って間合いをはずすこともある。そういうことが、操法には意外と重要なのである。
この機というものは、私自身の気の波と操法を受けにくる方の気の状態によって決まる。ほとんどは無意識に近くおこなっているが、それには気の波に心身を同調させることと、途切れない集中力の維持が必要となる。
こう書くと、なんだか凄いことのようにも聞こえるが、整体操法を行う者は皆普通に行っていることであり取り立てて特別なことではない。

もちろん、元々の気の相性というものもある。治療院にも気の合わない人がたまにくるが、そういう人はやはりすぐに通わなくなる。こちらの対応が変わるわけではないのだが、やはりしっくりこないものを感じるのだろう。
しかし、そもそも気の合わない人というのは、本来あまり来ないものなのである。

操法を始めた頃は、気の合わない人がたくさん来た。そもそも、ピタリと気の合う人などそんなにたくさんいるわけないのだから、気の合わない人が来るのは当然だ。
しかし、技術を積み上げて、気を澄ましていくと、だんだんと苦手な人・合わない人が少なくなってくる。平たく言えば操法する側に余裕ができてくるということなのだろう。

それでも、やはり相性というものはある。世の中には、どうしても合わない人はいる。
しかし、こちらが自分の気を歪めずに素直に保っていると、自然と合う人だけが集まってくるのである。
気というものは、時間と空間を超越しているものなのではないだろうか?
誰かがある思いを気に乗せて発すると、どこかで誰かがそれを受け取るのである。そして、気が同調する人だけが集まってくる。

自分を偽っていると、気が乱れる。だから、私は気を乱さないように、なるべく自分を偽らないようにしている。それで私のところには、私と気が合う人が集まってくる。
私は、基本的にやりたくないことはしない。仕事は好きでやっている。
もし我慢して仕事をやるようになったら、それは整体操法を行う者としての資格を失ったときだと思っている。

しかし、「自由に」 と、「好き勝手」 は違う。
気というのは自然のものである。自然には必ず調和がある。だから、気の波に任せて生きることは、自由になることではあっても無茶苦茶になることではない。

技術があるのに、ちっとも人が集まらない治療院は珍しくない。私の知り合いにも、そういう治療師が結構いる。そういう治療院は、気の合う人が来ないで合わない人ばかりが来るのが特徴だ。
なぜ、気の合わない人ばかりが来るのかというと、その治療師が自分に素直に生きていないからだと思う。

自分の行っている治療法を信じていない人、自分とは違うタイプの師匠の真似をしている人、治療を接客業だと思っている人、お金のために治療をしている人、他人から良く見られたい人、自分の苦労を見せつけたい人、技術を誇りたい人。
そういう人は、自分で自分の気を歪めているのだ。本来の自分の気ではなく、歪めた気を発している。そして、それに合わせて人が集まってくるのだ。だから上手くいかない。
自分を偽って生きていると、他人も偽ることになる。お互い不幸である。

本来持っている自分の気を歪めずに生きていくと、いつの間にか気の合う人が集まってきて、合わない人は離れていく。これは、理屈ではない。気の世界というのは、実際そういうふうになっているのである。

愉気

治療のことを「手当て」というが、手を当てるということは癒しの原点である。誰でも頭が痛ければ自然と頭に手がいくし、お腹が痛ければ無意識にお腹に手を当てる。どこかをぶつけても、やはり思わず手を当て、押さえ、さする。痛みに限らず、体に異常が生じれば、自然と手を当てるものである。
では、思わず手を当てるそのときに、そこにはなにが起こっているのかというと、「気」が集まり、その働きが高まっているのである。

「気」というのは、人間が生きている源である。新しい生命の誕生が受精の瞬間だとすると、人間はまだ心も体もできあがっていないときから生きている。その心も体もできあがっていないときから働いている生命そのものの力を、整体を始めとする東洋の医学では「気」と呼んでいるのである。「気」は、心と体を作り上げ、その両者を支え、かつ繋いでいる生命の根元的な力である。生命活動の源である「気」の働きを高めることは、健康を保つ上で最も大切なことのひとつだ。

整体では、「気」を集注することを「愉気(ゆき)」という。もともとは「気」を輸る(おくる)という意味で「輸気」と書いていたそうだが、そこに「愉しく明るい陽気を伝える」という意味を込めて、「愉気」としたという。
「愉気」は、誰にでも備わっている人間にとって当たり前の能力である。知識がなくても、本能的に誰でもおこなっている。手を当てて、そこに意識を集めればいい。意識を集注すると「気」の働きが高まってくる。意識を集注するというのが難しければ、ただ手を当ててゆったりと呼吸するだけでもいい。「気」というものはお互い共鳴するものであるから、自分の体でも他人の体でも必要としていれば手を当てているだけで自ずと「気」の感応が起こり、働きが高まってくる。

「愉気」をおこなうときには肩の力を抜いて、呼吸をいつもより少しゆっくりと長くする。相手よりも呼吸が長いというのが愉気をする条件であるが、気張るほど長くする必要はない。また意識を集注するといっても、思いつめるような集注ではない。ただ心を静かに保って、対象に心を向けていればいいのだ。

野口氏は、愉気をするときに必要な心のあり方を「天心」と表現した。嫉妬や怒り、気張りなどで曇っていない、赤ちゃんのような心である。どんなに荒天でも、雲の上はいつも晴れている。人間も、深く静かな呼吸をして心を落ち着ければ、いつでも天心を取り戻すことができる。その天心にかえるということを瞬時におこなえることが、愉気の技術と言えば技術であるかもしれない。

愉気は誰にでもできる。赤ちゃんに触る母親の手は、みんな愉気にあふれている。母親に抱きつく赤ちゃんの手も、やはり愉気が満ちあふれている。そういう手で触られるだけで、心は和み体もゆるむ。うまくできないという人は、頭が忙し過ぎて体の感覚が鈍麻している人である。しかし、そういう人でも、ともかく「愉気」をおこなっていくうちに実感を取り戻してくるものだ。

人間と人間の関係というのは、お互いの「気」の共鳴・感応によって成り立っている。「気」が通れば話もとおる。「お疲れさま」というねぎらいの言葉も、「気」がなければ空々しい。人間は言葉を持ってコミュニケーション能力が発達したといわれているが、やはり言葉以前に気の交流があることは間違いない。「気」ということがわかってくると、人間関係も円滑に運ぶようになる。

「気」というものは、人間が生きていること全ての根底にある。「気」の働きを知り、「気」のリズムにのって生活することを体得することは、人生を快適にし、また豊かにすると思う。とりあえず、難しいことは抜きにして、手を当てて「愉気」をするということから始めてみることをおすすめしたい。