心と体

サイレント・ ヴォイス

BSテレ東で、「サイレントヴォイス 行動心理捜査官 楯岡絵麻」 というドラマがやっている。「このミステリーがすごい!大賞」 2010年優秀賞の同名小説が原作だそうだ。

このドラマは、ほとんどが取調室の中で容疑者と主人公の取調官楯岡絵麻とのやり取りで進行していく。主人公は、人が嘘をつくときに大脳辺縁系の反射でおよそ0.2秒の間に現れる “ マイクロジェスチャー ”と呼ばれるその人固有の身体活動を捕まえる。
それは、ほんの小さな眼球の動きだったり、唇や頬をゆがめる動作だったり、手や足のちょっとしたしぐさだったりする。

容疑者は大脳新皮質(意識)でウソをつくが、大脳辺縁系(無意識・身体)は、ウソをつけない。そして主人公は、容疑者に対してこう言い放つのだ。

「あなたに聞いてるんじゃないの、あなたの大脳辺縁系に聞いてるの!」

実はこれに近いことは、整体の現場でもおこなわれているので、このドラマを共感をもって興味深く見た。

相手の人格を尊重することは当たり前であり重要なことだが、整体操法をおこなうものは、相手の頭を通り越して体と対話しているようなところがある。

操法の途中に、「ここは痛いですか?」 とか、「こちらとこちらではどちらが響きますか?」 などと聞くことがあるが、たいていはどう感じているかは分かった上で、相手の方の注意をそこに集めて感覚を高めたりすることが目的だったりする。
たまには相手がどう感じているのかはっきりと分からなくて口頭で聞くこともあるが、そういうことは稀で、ほとんどは体と直接の対話で操法を進めているのだ。

そもそも体の整っていない人は身体の感覚も鈍かったり、感覚異常があったりで、こちらの手の方が正確に相手の体の状況を分かるということがほとんどなのである。

また、体には本人すら自覚していない心の状態や認めたくない感情のありようなども反映している。
ごくわかりやすい例でいえば、出がけに夫婦喧嘩をしてきた人などは体がプンプン、プリプリと怒っているし、試験に落ちたり昇進を逃した人はみな体もガックリと気落ちした体になっている。
そういうことは背骨の何番が出っ張っているとか捻じれているとかいうこともあるのだが、それ以前にほとんどはパッと見てわかるような体の表情として現れている。もちろんドラマの中に出てくるマイクロジェスチャー的なものも含んでいるが、発している空気や雰囲気がすでに雄弁に語ってしまっているのだ。
こういうことは特に整体の世界に限ったことではなく、多くの人が日常的に感じていることだろう。

整体の世界では、もう少し分かりづらい部分も観察の対象になるので、年季を積むとその情報量も桁違いに多くなる。

操法の現場では、「〇〇さん、どうぞ」 とお呼びして、数歩の距離を歩いて私の前に座られるまでの間に、今の体の調子や気分の状態、感情の置き所、前回の操法の効果などは大まかにでもつかんでしまうようにしている。
「その後、いかがですか?」 というのは、もちろん文字通り相手の方に現在の状態をお訊ねしているわけだが、実はもう一方で自分の印象と相手の方の感じ方のズレを確認するところに眼目がある。こちらの方が、その後の操法にとって重要になることが多い。

そのズレがどこから来ているのかを体を観ることを通して確認して、それを解決していくことが操法のポイント、体を変えていく転換点となることも少なくない。
その段になると、体との対話が(圧倒的に)主になり、ほとんどの場合相手の方のと言葉のやり取りは従になる。

「あなたに聞いてるのではありません。あなたの背骨に聞いているのです」 なんて言ったら怒られてしまうから黙っているけれど、操法が終わって礼を交わすまでは、体との対話とやり取りが操法の大部分を占めるのである。

そういえば、実際に米国の捜査機関で、日本人がマイクロジェスチャーの第一人者として活躍しているという話を数年前に聞いたことがある。
整体もそうだが、顔色や空気を読むのは日本人のお家芸なのかもしれない。

ブラハラ その2

さて、ハラスメントはもってのほかだが、ブラハラ以前に血液型によるタイプ判断自体に否定的な人も少なくないようだ。
アンチ血液型性格判断の最大の主張は、科学的根拠に乏しい(もしくは、「科学的に否定されている」) ということのようである。

ちなみに私はといえば、いわゆる血液型性格判断にはかなり肯定的である。今までの自分の経験からもそれぞれの血液型に共通する気質の傾向はあると感じているのだが、とある人物の影響で決定的に信用するようになったという経緯がある。

そのとある人物とは大学時代の友人、F君である。そのF君は、血液型人間判断が大好きで、5分間話せば初対面の人でも血液型が何型かを当てられると豪語していた。
F君とは2年間同じクラスで学んだ仲なのだが、彼はその2年ぐらいの間に、およそ30人ぐらいの初対面の人の血液型を見事に当て続けた。それも、ほとんどはちょっと会話を交わした程度か、誰かとの会話を横で聞いていただけで当ててしまうのだ。
私の前では、ただ一人だけ外してしまったのだが、その相手はべろんべろんに泥酔した状態だったので、それを考慮してノーカウントとすれば、ほぼ100%初対面の人間の血液型を言い当てていた。

どういう基準で判断していたのかはわからないが、F君からすれば各血液型それぞれに何か明確な特質が読み取れていたのだろう。
何にせよ、F君の(ほぼ)30連勝を目の当たりにしては、血液型による気質の差異は存在するとしか思えなかった。また彼の血液型性格判断による人物評が非常に的を射ていて面白かったというのも私を肯定派にした大きな理由かもしれない。

日本における血液型による性格判断のブームのきっかけとなったのは、能見正比古氏の 「血液型人間学」 という一冊の本であるようだ。件のF君も、この能見氏に深く傾倒していた。
この本の中で能見氏は、血液型による分類は性格の分類ではなく、それ以前の気質・素質といったものの分類であると明言している。前回も書いたが、これは体癖でも全く一緒である。体癖もまた心身の感受性の 「素質」 なのである。

性格は気質を元にはしているが、育ってきた環境要因や教育などで大きく変わるのは当然のことである。このことは、血液型どころか遺伝子も同じで、当然干支も、星座も一緒の一卵性双生児をみれば一目瞭然だ。

血液型人間判断否定派の論拠である、「科学的に否定されている」 ということに関してだが、血液型と気質との関連性が科学的に否定されているかどうかは情報がないので何とも言えない。ただ血液型とある種の病気との関連性、例えば何型は何病になりやすい、といった傾向があるということは医学界で認められつつあるようだ。

そもそも血液型とはいうが、それは血液型物質(O、A、B型物質)がはじめに血液から見つかったのためにそう呼ばれるようになっているが、血液だけではなく体を構成する骨も筋肉も皮膚もそれぞれO、A、B型に分けられるのだそうだ。
そう考えると体質がそれぞれの血液型で違っても不思議はないだろうし、体質と気質には相関関係があると考える私からすると、血液型による気質の差異があっても不思議はないと思う。

さて最後におまけだが、実は「血液型人間診断」 以外にも、個人的に関心を持っている人間診断がある。それは、「エニアグラム」。

「エニアグラム」 では、人間の性格を9つのタイプに分けている。日本では、鈴木秀子さんの著書 「9つの性格」 で広く知られるようになった。
ひと頃よくTV番組などでも取り上げられて話題になったこともあるので、ご存知の方も少なくないかもしれない。
エニアグラムでパートナー探し」、もエニアグラムを理解する入門書としては良かった。

体癖でも血液型人間診断でもエニアグラムでも、上手く活用すれば人生を乗り切るための便利なツールにもなるし、活用方法を誤ればハラスメントにもなる。要は使い方、活かし方の問題なのだ。

 

つづく (かも知れない)・・・

ブラハラ その1

最近ちまたでいろいろなハラスメントが取り沙汰されているが、ブラッドタイプ・ハラスメント、ブラハラというものもあるらしい。

ブラハラは、血液型による性格判断に基づく言動で相手を不快にさせるハラスメントのことだそうだ。

以前B型の友人が、「やっぱりB型は・・・」 とか、「これだからB型は・・・」 とかよく言われると苦笑交じりに話していたが、それなどもまさにブラハラということになるのだろうか。
その友人などは半ば冗談で話題にしていたが、中には血液型であれこれ言われるのはもうウンザリという人もいるようだ。

実は整体の世界でも、ある種のハラスメントとして 「タイハラ」 がある。タイハラは今適当に付けた略語だが、それはすなわち 「体癖ハラスメント」 である。

(体癖は、整体における人間の分類法である。体癖については、過去の記事 「体癖」 、「体癖観察の手引き(はじめにお読みください)」 などをご覧いただきたい)

体癖分類では、人間の体の構造的、機能的な特徴との関連性から 「感受性の特性」 を語る。それゆえ血液型による性格判断と同様に、「やっぱり○○型は・・・」 とか、「これだから〇種は・・・」 といったことが起こるのだ。(体癖では、何型何種という分類の表現をする)

私の知人は、6種体癖だということでずいぶんな 「タイハラ」 を受けたといっていた。また、何種だから整体指導者には向かないといわれてショックを受けたなどという人もいる。

もちろん本来各種体癖に良い悪いも優劣もなく、ただ個性があるというだけの話である。

しかし時代、時流に合うか合わないかで、体癖的特徴の有利・不利は確かに生じる。また奇数種に比べて積極性に欠けるきらいのある偶数種は、どちらかといえば世の中的には割を食いやすい部分も少なからずあると思われる。そういうところからも、「タイハラ」 が生じるのであろう。

6種はよく 「暗い」 といわれる。また6種的な感受性には、ヒステリー的なところがあるなどともいわれる。件の知人は、そのあたりのことでハラスメントを受けたのだろう。
しかし、日本が世界に誇る(?)オタク文化の一翼を担っているのは明らかに6種だと思われる。また5種や7種が多数活躍してきたスポーツ界で、Jリーグ設立以来人気種目上位となったサッカーにおいては6種選手の活躍は目立つ。6種体癖はここ20~30年、時代の主流の一角を占めているのだ。

また、何種が整体指導に向かないということは、基本的にはないと思う。なぜならば、整体も人間同士の行なうことであるから、当然相互の相性が問題となる世界だからだ。
何種体癖でも相手の体癖との相性の合う合わないは必ずあり、基本的には合う人だけを相手にすればいいのである。(経験を積むと、だんだんと合わない人が減ってくる)
もし全ての体癖に対して圧倒的に他より整体指導の適性を持つ体癖があるとすれば、もうすでにその体癖の指導者ばかりになっているだろう。実際はそうなっていないので、何種でも大丈夫なのである。みんな、それぞれの持ち味を活かしていけば、それでいいのだ。

そもそも、体癖は基本的な体質・気質であって、そこから醸造される性格・人格は、育ってきた環境や教育などで大きく変わっていくのだ。

つづく・・・

アルプスの少女ハイジ その5 ~アルムのおんじ~

前回の続きになるが、アルムのおんじことハイジのおじいさんは、ハイジの友達であるクララが山に来るということになった時点で、クララが歩けるようになるためにはなにが必要なのかということをすでにある程度わかっていたのだと思う。
おじいさんは、ハイジからフランクフルトでの生活や、クララと彼女を取り巻く人々のことも聞いていたであろう。

クララには、歩きたいというという欲求、そしてそもそも自発的に行動するための意欲が決定的に欠如していたのだ。
その意欲を取り戻すためには、子供達だけで遊ばせ、生活させることが役に立つと、おじいさんは考えていた。

これも前回書いたが、おじいさんとクララのおばあさまの阿吽の呼吸で、ロッテンマイヤーさんの排除は実現されることになる。(ロッテンマイヤーさんには、ちょっとかわいそうだが・・・。)

しかし子供達だけで山の牧場に行かせるなど無責任で危険なことだと主張するロッテンマイヤーさんの弁を聞いて、おばあさまはなぜ子供達だけで山に行かせるのかおじいさんに聞いてみることにする。

おじいさんは、子供達だけで山に行かせることにこそ意味があるという。

おじいさん
「あの子(クララ)を抱いてみたり、体の使い方、腰の動かし方を見てみますと、クララは立って歩けるはずだとしか考えられません。ですから、今しばらくワシに、この山にあずけていただきたいのです。
もちろん立てるまでには時間がかかるかもしれません。立てることを信じられなくて、クララが途中でくじけてしまうこともあるでしょう。
だが、もしクララが大人を頼らず子供同士で遊ぶことの楽しさを知ったら、自分から立ちたい、どうしても歩きたいと心から願うようになったら・・・。そして、それを助け、励ましてくれる友達がいたら・・・」

 

おじいさんが言ったように、クララはアルムの山という素晴らしい自然環境とハイジやペーターという年の頃が近い子供たち、ヤギたちやセントバーナード犬のヨーゼフなどに囲まれた生活を送る中で、いろいろな刺激を受け、少しずつ心も体も変わってきて、ついには立って歩くことができるようになった。

そしてそこにはなによりも、おじいさんの深い洞察力、厳しさとやさしさを併せ持った辛抱強い対応があったことは特筆すべきことであろう。
おじいさんは、クララの中に眠っていた、歩きたい、自由に遊びたい、という欲求の種子が、日光を浴びて、水を得て、自然に芽が出るよう、花が咲くようにと陰日向に助け導いていったのだ。

 

しかし、こういう仕事をするようになったせいなのか、そもそも大人になるとみなそうなのか、子供の頃と同じ話を視ても、だいぶ見え方は違ってくるものだ。
そんな私の今の目線で見たら、この物語は 「アルプスの少女ハイジ」 というよりは、「アルプスで立った少女クララ」・・・。そして、サブタイトルは、 ~クララはいかにして立ったのか~・・・。

本当のところをいえば、「アルムのおんじ」 にしたいところだが・・・。

 

アルプスの少女ハイジ その4 ~自立の力を奪わない~

ハイジのおじいさんは、フランクフルトからクララについて来たロッテンマイヤーさんをクララや子供達から引き離そうとする。
ロッテンマイヤーさんがクララのそばにいては、せっかくクララが自分からやりたいと思って自発的に行動しようとすることを端から邪魔してしまうからだ。

ロッテンマイヤーさんは、クララの家、ゼーゼマン家の執事をしている女性で、けっして悪い人ではないのだが、堅物で四角四面、そしてしつけに厳しく、クララやハイジ達にとってはたいそう煙たい存在だ。
ロッテンマイヤー女史は、クララの山での生活にもフランクフルトでの習慣を完全にそのまま持ち込もうとしていて、まあ大切なことではあるのだが、勉強やら礼儀作法やらに関して滅法口うるさいのだ。

 

さて、当院に整体を受けに来られる子供の親御さんの中にも、子供に過干渉な方はたくさんいる。操法を受けるときに顔の下にタオルを敷いてもらうのだが、幼稚園ぐらいにもなれば自分で敷こうとする子も多い。しかし、結構な割合でお母さんがそれをサッと取り上げて敷いてしまうのだ。
操法を受けるに際してきちっとタオルを敷くべきと考えるのか、私を待たせないように早く敷かないといけないと気を遣われるのか、子供がキレイに敷けないのが恥ずかしいのか、どちらにしても子供がやろうとしているのを平気で横取りしてやってしまうのだ。

「自分でできるよね」 と子供にいってみると、子供もうなずくのだが、お母さんも、あら私ったら、という顔になる。
そういう顔をするようなら黙っていることが多いが、通じないようだとお母さんにも一言いうこともある。

「自分でやろうとしているものを、横から取り上げてはいけませんよ」、・・・と。

私も結構年齢が上がってきたので、こういう時にはものが言いやすくなった。開院当時は30歳そこそこだったので、それが仕事とはいえ自分と同年代か年上の親御さんに意見をするのは少々気が重かったものだ。

さてさて、このタオルを敷くというのは一つの試金石で、過保護、過干渉の親御さんは、かなりの割合で子供に代わってタオルを敷く。
驚くべきことに高校生や場合によっては20歳過ぎの子供についてきて、代わりにタオルを敷いてしまうお母さんもそう珍しくない。そもそも、はじめからお母さんがタオルを持っているのだ。
そういうお母さんは、たいてい問診表も本人に書かせずに代わりに書いてしまうし、問診のときもついてきて、本人に聞いているのに代わりに答えてしまう。

そうやって育てられた子は、喘息やアトピーなどになるパーセンテージが高い。自発的な心、自由を求める心を抑え込まれると喘息になりやすい。喘息は、抑圧された子供の精一杯の反抗であることが多いのだ。

喘息の子供などは、嫌々やらされている習い事などを止めさせてもらうだけで、症状がなくなってしまうことは珍しいことではない。
成人した子供(?)でも、こちらが一人前に扱うように親御さんに意見して、小さなことでも自分でやるようになると、ぼんやりした目に少しずつ力が出てくる。

 

クララも周囲の大人が何でもやってあげてしまい、自分から何かをやろうとする気持ちを横から取り上げられてしまう上に、あれをしろこれをしろと、お勉強やら習い事やら行儀作法やらを厳しく押しつけられて、自発的で自由な心を抑圧されてしまっているのだ。

結局ロッテンマイヤーさんは、おばあさまによってクララのお付きの役を解任されてフランクフルトへ戻っていく。貴女がいなくてはフランクフルトの家が回らないから、とちょっぴり持ち上げられて・・・。
ロッテンマイヤーさんも、自分がクララのそばにいると不都合なので離されるのだということは解っているのだが、職務に忠実な彼女は涙を見せながらもフランクフルトへ帰っていく。

 

おじいさんは、はじめからロッテンマイヤーさんに象徴される大人達の過保護と過干渉が、クララが立てるようにならないことの大きな要因になっていると考えていた節がある。
ロッテンマイヤーさんがクララと共にはじめて山の麓まで来たときに、おじいさんに身の回りの世話をしてくれる人を雇うことはできないかと尋ねるシーンがある。

おじいさんは、この村の人達は皆朝から晩まで働かなくては生きていけない、たぶん見つからないだろうと伝える。
「もちろんお金は余分に払います」 というロッテンマイヤーさんに、おじいさんは、「それならご自分で探してみるのですな」 と冷たく突き放す。

それにたじろぐロッテンマイヤーさんの 「それでは食事や身の回りの世話は誰がやるのですか」 という問いに、おじいさんはこう言い放つのだ。

「もちろん私がやります。 だがな、ロッテンマイヤーさん。ご自分のことはご自分でなさるつもりでいらっしゃったのだと、私は思っておりましたが」

都会とは何から何まで違う山に来てまで、自分たちの身の回りのことすら自分でしようともしないロッテンマイヤーさんに挨拶代わりに一言苦言を呈したのだ。

自分のことを自分でやる、そんなことは当たり前のことですよ、・・・と。

初対面のロッテンマイヤーさんへのおじいさんからのキツイ一言ではあったが、これはロッテンマイヤーさんだけに言いたいことなのではなく、本当はおじいさんがクララを取り巻く大人達皆にまず始めに、そして声を大にして言いたかったことなのだろう。

アルプスの少女ハイジ その3 ~欲求、そして機を読むということ~

クララが牛に驚いて立ったことを聞いたハイジは、もちろん大喜びだ。天真爛漫が持ち味のハイジは、クララが立つことはそう難しいことではないのだと思い、なんとも簡単に 「立ってみようよ」 という。
しかし、そう簡単に立てるものなら今まで苦労はしていなかったわけで、いくらクララがひたいに汗を浮かべて力んでみても、全く足は動いてくれない。

おじいさんも、明日から立つ練習をしようと提案するが、クララは自分が立てるという気が全くしないのだから、どうしても積極的な気持ちにはなれないでいた。

 

そうしているうちに、クララのおばあさまがフランクフルトに帰るときが来る。おばあさまは、お世話になったペーターへのお礼もかねて、麓の村でお別れパーティーを開くことを提案する。

パーティーでは、村の人々も参加して、たくさんの御馳走もでて、クララもハイジもペーターも、おばあさまとの最後の夕べを楽しんだのだった。

宴もたけなわ、村の子供達は鬼ごっこを始め、ハイジとペーターもそれに加わる。大はしゃぎで走り回るハイジやペーター、そして村の子供達。おじいさんに抱き上げられて近くでそれを見るクララだったが、子供達はどんどん場所を変えてクララは取り残されてしまう。

おじいさん
「どうだね、みんな楽しそうだろう。クララもああしてみんなと走り回りたいだろう?」

クララ
「ええ。でも・・・」

おじいさん
「心配は要らないよ。おまえが心から立ちたい、歩きたいと思って一生懸命努力すれば、必ず足は治るんだ」

クララ
「ほんと・・・?」

おじいさん
「本当だとも。もちろん慣れないことをするんだ。思うようにはいかないだろう。痛いかもしれん。すぐには立てないかもしれない。だが、それでもくじけちゃいけないよ。今クララに一番必要なものは、がんばりだな」

クララ
「がんばり?」

おじいさん
「明日から立つ練習を始めてみようじゃないか」

クララ
「ええ・・・。」

 

クララは、走り回るハイジやペーターそして村の子供達を見て、自分も自由に走り、一緒に遊びに加わりたいと思った。
今までは見ているだけが当たり前だったクララの心の中に、自分も一緒にみんなと混ざって同じように遊びたいという 「欲求」 が芽生えた瞬間だった。

クララはアルムの山に来てみて、自分が歩けないために、おじいさんやペーター、ハイジに迷惑をかけてしまうことを心苦しく思い始めていた。同時に、今まで自分がどれだけ周りの人々に世話をかけていたかということにも思い至っていた。
しかし、みんなに迷惑をかけないために歩けるようになろうというのでは、今ひとつ 「がんばり」 に繋がるほどの動機にはなり得なかった。
やはり、心の中から湧き上がってくる 「欲求」 、立ちたい、歩きたい、みんなと一緒に自由に走って遊びたいという、焦れるような 「欲求」 があってこそ、はじめて 「心」 も  「体」 も思った方向に動き出していくことになるのである。

クララもフランクフルトに暮らしているときには、外に出ることもなく、同じ年頃の友達を作ることもできなかった。身の回りのことも、大人達が全てやってくれて、自分が歩いて何かしなければならないという必要性を感じることさえできなかっただろう。
もちろん歩けないことは悲しいことだっただろうが、立ちたい歩きたいという 「欲求」 が生まれることさえない環境だったのだ。

今までクララは気持ち良く走る人間の姿を見たこともなかったであろう。また、世話をしてくれる人が常にそばにいるフランクフルトのお屋敷の中だけの生活では、歩こうが車椅子で移動しようが、そこにそれほどの大きな差を見いだせなかったのかもしれない。
アルムの山に来て、牧場や湖やお花畑にいって、同じ年頃のハイジやペーターが楽しそうに走り回る姿を見て、自分もあんな風に自由に走りたいと始めて心から思ったのだろう。
走り回るハイジ達を見て、はじめて体を動かすことは気持ちがいいことだということを知り、自分の行きたいところへ自由に歩いて行けるということに喜びがあるということを知ったのだ。

要求すること、そして 「空想」 することが、「心」 と 「体」 を変えていくのである。「必要」 は、「欲求」 を呼び起こすし、「欲求」 は、「空想」 を呼ぶ。そして、「空想」 は、「現実」(現象) を呼び寄せるのである。

 

はじめに欲求ありきである。望まないことは、他の誰も望むようにと強制できることではない。無理矢理やらせてみても、本来の力は決して出ないのである。
それは、本人がやらなくてはと思ってみても同様で、本当にやりたくてやったこととは同じようにはできないのだ。

歩きたい、という 「欲求」 が生まれたときを見計らって、クララは頑張れば歩けるようになるということを教え、歩く練習を頑張ってみないかと提案するおじいさんは、まことにすぐれた心理指導者である。

同じことでも、いつ言うのかというタイミングで、相手の受け取り方は全く変わってしまう。内容がいくら正しくても、相手に受け入れられる条件がなければ馬の耳に念仏であり、また場合によっては反発心だけを呼び起こしてしまうことにもなりかねない。

整体の現場での対話にしても、当然 「機」 ということは重要視される。
例えば、施術を受けて体が変わってきたり、本当の健康とはどういうことかということに思い至ってきたり、また私のこともどうやら怪しい人間ではなさそうだと思い始めて、ようやく通るようになる話もある。

操法の組み立てにしても同様で、「機」 が熟すのを待つ必要もあれば、ここという 「機」 を逃さずに対応しなければならないこともまた当然である。

整体操法をおこなうものは、みな常に 「機」、「度」、「間」、ということを計りながら操法をおこなっているのであるが、アルプスの少女ハイジの 「おじいさん」 は、なかなかに 「機」、「度」、「間」、を知る人であり、すぐれた指導者なのである。
アルムのおんじ、まさに畏るべし、である。

アルプスの少女ハイジ その2 ~認めさせるということ~

さて、クララがハイジの目の前で立ち上がる感動のクライマックス・シーンの前に、実はクララはすでに一度立ち上がっていた。

感動の回から2話さかのぼる48話、ハイジはペーターへの伝言をもって山の牧場へ行きく。午後のひと時、クララとフランクフルトからクララを訪ねて来ていたおばあさまの二人だけで、山小屋の近くの木の下で過ごしていた。

おばあさまがうとうととうたたねをしているときに、大きな牛が近づいてきた。驚いたクララは、恐怖のあまり背後の木にもたれながら思わず立ち上がる。
クララの悲鳴で目を覚ましたおばあさまが見ると、クララは木に背中をあずけてはいるものの二本の足でしっかりと立っていたのだ。おばあさまが驚き喜んでクララを抱きしめるが、クララは自分が立ったということにも気づかずに気を失ってしまう。

 

クララが牛に驚いて立ち上がれたのは、いわゆる 「火事場の馬鹿力」 が発揮されたということだろう。人間は、いざというときには普段では信じられない力を出すことがある。
いや、もともとそういう力を持っているのだが、普段はどうやっても出すことができない非常の力なのだ。常にはかかっている潜在意識のブレーキが、なんらかの理由ではずれることで発揮されるといわれる。

野口晴哉先生の本の中にも、神経痛やリウマチで動けない人をびっくりさせて治した経験が書かれている。操法布団の下からヘビなどを出して、「アッ、こんなのがいた」 と驚かすと、立てなかった人が立ってしまうのだそうだ。(古き良き時代ですね・・・)
またタバコを吸いながら話していて、女性の着物に灰を落としてしまったら、足が悪くて立つのが大変だった人がぱっと立ち上がって灰を払ってすましたて座った、などという話も載っている。
そういったときに野口先生は、「歩けますなァ」 とか 「おや、立ちましたね。ひとりで」 と言うのだと書かれている。
そこで 「立ちましたね」、「歩けましたね」 と一声かけて、相手に立てたことを認めさせてしまうことが、実は心理指導の要諦なのだ。

驚いたことをきっかけにせっかく立てたとしても、立てたということを本人に認めさせないとまた立てなくなってしまう。自分の力で立てた瞬間に、「おや、立てましたね」 と一言いわれることで、” あ、自分は立てるのだ ” ということが潜在意識に刷り込まれるのである。

ただし、ここで 「びっくりして、思わず立ってしまったんですね」 などとは言ってはいけない。それでは、“ たまたまびっくりしたから立てたのであって、そういうきっかけでもなければやはり立てない ” と連想してしまうからだ。

クララが残念だったのは、せっかく立てた後にすぐ気を失ってしまって、自分が立てたということを認識できなかったことだ。
自分が立ったということさえ信じられないのだから、その後いくら 「お前は立てたのだから、もう一度立ってごらん」 とおばあさまがいったところで、やはり立つのは無理なのである。

しかし、たとえ本人が憶えていなくても、自分だけの力で一度立てたことは大きかった。周囲の人がクララは立つことができると確信を持つことができたし、本人も周りの人の確信を借りて、少しずつでも自分は立てるのかもしれないと思うこともできただろう。
そして、たとえ意識では憶えていなかったとしても、体の方はちゃんと憶えている。体の記憶とでもいうものがある。きっと体の方は、自分の足で立ち上がったときの感覚をしっかりと憶えていて、それがきっとクライマックスで立ち上がることにつながっていったのであろう。

アルプスの少女ハイジ その1 ~クララはいかにして立ったのか~

以前、こんな記事を書いたことがある。 → 「立つんだ、クララ!
震災直後の記事だが、文章の微妙な不安定さなどから自分もショックを受けていたんだなあと今更ながらに感じるものがある。

さて、クララとは、スイスの作家ヨハンナ・シュピリの小説 「アルプスの少女ハイジ」 の登場人物である。日本では、1974年(昭和49年)の1月~12月、カルピスまんが劇場(後の世界名作劇場)で同名のアニメが放映されて広く人気を博した。
最近では、「家庭教師のトライ」 のパロディCMで、懐かしいハイジ達の笑顔を見ることができる。本編とは、だいぶキャラクター設定が変わっているが・・・。

ストーリーを極々かいつまんで簡単に紹介すると、スイスのある町に住んでいた5才の女の子ハイジは、1才のときに両親を亡くし、ほとんど親戚などに預けられてさみしい日々を過ごしていた。
あるとき一緒に住んでいた母方の叔母がフランクフルトに働きに出るのをきっかけに、ハイジは父方の祖父であるアルムおんじに預けられることになった。
それからハイジはアルムの山で、おじいさんや山羊飼いのペーター、大きなセントバーナード犬のヨーゼフ、子ヤギのゆきちゃん達と愉しく暮らすことになったのだ。

ところがあるとき、件の叔母が、フランクフルトの大富豪の娘が遊び相手を探しているということを知り、ハイジを騙してフランクフルトに連れ去ってしまう。
お屋敷の娘クララは、生まれつき足が悪く車椅子で生活している。本当はクララの足はもう治っているのだが、クララは立てないと思い込んでいるのだ。

一気に話を吹っ飛ばして先に進めると、アルムの山に帰りたくて心を病んだハイジは、山に返されることになる。そして、明るい気持ちと健やかな体を取り戻したハイジの元に、今度は友達になったクララがやってくることになる。
クララの主治医がアルムの山を視察に来て、クララが歩く意欲を取り戻すためには良い環境だと判断したからだ。

さて、このアニメの最大のクライマックスは、なんといっても歩けずに車椅子に乗っていたクララが自分の足で立つというところだ。

リハビリを兼ねて山に来て生活するクララだが、なかなか立つことはできない。いくら医師や周囲の人間が、本当は立てると言っても、クララ自身に立てるというイメージが無いのであろう。いくら仲良しのハイジが励ましても、やはり立てないと言うばかりである。

ところがある日、とうとうクララが立ち上がるときがやってくる。

以下、 HIRAO'S HOME PAGE さんの アルプスの少女ハイジ ストーリー詳細 より転載させていただいた。

アルムの夏も次第に深まり緑の色も一段と濃さを増す頃、クララは何とかつかまり立ちができるようになっていました。しかしもう少しのところで恐がってしまいクララはなかなか一人で立てるようにはなりませんでした。
転ぶ事を恐がり、ちょっとした事で理由をつけて練習をやめようとする弱気なクララを見たハイジは泣きながら 「クララのバカっ! 何よ意気地なしっ! 一人で立てないのを足のせいにして、足はちゃんとなおってるわ、クララの甘えん坊! 恐がり! 意気地なし! どうしてできないのよ、そんな事じゃ一生立てないわ! それでもいいの? クララの意気地なし! あたしもう知らない! クララなんかもう知らない!」 そう叫ぶとハイジはクララをおいて駆け出してしまったのです。
クララはハイジを追いかけようと思わず立ち上がってしまいました。そうです、クララは一人で立てたのです。
振り返ったハイジはクララが一人で立っているのを見てびっくりしてしまいました。 「ハイジ… 私、私立てたわ」 クララがそう言うとハイジはクララのもとに駆けつけ 「よかったねクララ」「ええ、嬉しいわ。ありがとうハイジ」 そう言うと二人は泣きながら抱き合って喜びあうのでした。

という大円団を迎えるのである。

仲良しのハイジが自分の元を去ってしまうと思ったクララは、ハイジを追うために自分が立てないという思い込みすら忘れて、思わず立ち上がってしまったのだ。二人の友情の力が、ついにクララを立ち上がらせた感動の瞬間である。

ところが、子供のころに見たのですっかり忘れていたのだが、実はこのシーンより遡ることしばし、クララはあることをきっかけにすでに立ち上がっていたのだった。

つづく ・・・・。

※ アニメ版アルプスの少女ハイジのストーリー、シナリオに関しては、HIRAO'S HOME PAGE さんの 世界名作劇場>アルプスの少女ハイジ>アルプスの少女ハイジ ストーリー詳細 (と youtube のアニメ動画)を参考にさせていただきました。

芸能人格付けチェック

正月恒例の特番で、「芸能人格付けチェック」 という番組がある。有名芸能人が、多岐にわたる分野の 「一流品(人)」 と 「一般品(人)」 をA・Bの二択で見分ける問題に挑戦するという企画だ。
正解しつづければ 「一流芸能人」、間違えると、普通、二流、三流、そっくりさん、と降格して、最後は 「映す価値なし」 となって画面から消えてしまう。
元々はある番組の一コーナーだったらしいが、特番化してからも10年ぐらい続いている長寿番組である。
特番の長時間番組なので、全編見続けることは少ないが、たいてい一問目はワインの飲み比べ、二問目は音感のチェックが恒例で、このあたりまではいつも楽しんで見ている。

さてこの番組で、一流芸能人 「GACKT様」 の連勝記録が話題になっていたりする。ワインの飲み比べは、毎回100万円を下らない超高級ワインと、5000円程度のテーブルワインを飲み比べるのだが、大のワイン好きでワイン通といわれるミュージシャンのGACKTは、当然いとも簡単に正解してしまう。
さすがはGACKT様なのだが、実はこのワインの飲み比べだけなら、私も今まで一度も不正解だったことはない。全放送を見ているわけではないが、再放送を含めれば、このコーナーと音感チェックのコーナーだけなら大半は見ていると思うが、いまだ連勝記録を更新中なのである。

といっても、もちろん番組の一視聴者である私は実際にワインを飲み比べているわけではない。では、どうやって見ているだけでどちらが超高級ワインなのかを当てるのかというと、番組中でワインを飲んでいる芸能人の体の反応をモニタリングしているのである。
超高級ワインを飲んでいるときと、一般のワインを飲んでいるときでは、飲んでいる人の体の 「感じ」 が違う。どう違うのかは説明が難しいが、やはり超高級ワインを飲んでいるときの方が 「良い感じ」 になっている。

私は全くの下戸なので、普段ほとんど飲酒をすることはない。特にワインは体の酔いよりも頭の酔いが早いので、ほとんど飲むことはないし、ましてや高級なワインなんて飲んだこともないが、飲んでいる人の体の反応を見ると、酒の良し悪しは意外と簡単にわかるもので自分でも驚いた。
そして、こう見ると高級ワインというモノは、伊達や酔狂でただただ値が張るのというわけではないのだなあ、という感想を持った。もちろん、高いだけで良くないワインもあるのだろうが ・・・。

さてさてしかし、いつもここまではいいのだが、ワインの飲み比べでいい気分になっていると、つづく音感テストでは大抵がっかりすることになる。
ストラディバリウスなどの億を超える名器と練習用や一般的なヴァイオリンの音比べ、プロのオーケストラと学生のオーケストラの聞き比べなどをおこなう音感チェックでは、悲しいかな全く正解がわからない。

ほとんど音楽の素養のない私が、音を聞いて判断しようとして毎回失敗する。どうやら敗因の一つは、番組でも視聴者に音をしっかり聞かせるために多少音声のボリュームを上げているようで、どうしても音の方に意識が引っ張られてしまうためと思われる。音に感覚が引っ張られてしまい、出演者の体のモニターもなかなかうまくいかない。

そこで、このところ出演者ではなく、音を聞いている自分の体を観察してみているのだが、どうやらこれならば出題を攻略できそうな手応えである。

名器といわれる弦楽器の音色や、一流の演奏者の演奏の場合、程度の差はあるが体がゆるんで楽になる。特にみぞおちがゆるみ、肩の力みが抜けていく感じがある。
反対に、安物の楽器や素人の演奏を聞いていると、体が強張っていくような不快感が生じる。

まだ、この方式を採用してから番組を3回しか見て(3勝しかして)いないので強くは言えないが、かなりはっきりと体感に違いが現われるので、次回以降、もしくは再放送を見る機会があれば、皆さんも試してみると面白いと思う。(逆に、音を聞いて耳で比べていたときには、なぜあんなにも判らなかったのかと不思議に思えてくる。よほど音感が悪いのか、当ててやろうという邪な心が素直な感覚を閉ざしていたのか ・・・。いや、今更ですが音楽もやはり全身で聴くものなんですね ・・・)
ワインの飲み比べの方も、実際飲んでいる芸能人の体の 「感じ」 を自分に写し取るような感覚で見ていると、意外と判りやすいかもしれない。

このところ3回ほどは、ワインその物を見て、どちらが良いワインか判るようになってきた。ワインにも 「気」 があるとすれば、リアルタイムでなくても、デジタル処理された画面を通してでも、その 「気」 は感じ取れるものだということだろう。

人は認められたようになっていく

整体では、人は認められたようになっていく、という。

やんちゃな子供に、「おまえは落ち着きがないね」、「乱暴な子だね」、といっていると、その子は落ち着きのない人間、乱暴な人間になっていく。

同じ子に、「いつも、元気がいいね」、「活発だね」、「明るい子だね」、といっていれば、元気で、活発で、明るい人間に育っていく。

同じ素質でも、その認めた方向に伸びてゆく。良い面を見れば、良い面が現れてくるし、悪い面を見ていると、悪い面が実現していくのだ。

 

これは子供に限ったことではない。大人でも、同じである

上司が部下のいいところを見て、そこを認めていれば、その部下は自分の素質に合った伸び方をする。
奥さんの優しいところを認めて、そこに感謝していれば、奥さんはますます優しく接してくれる。

大事なことは、口先で褒めるのではなく、心で 「認める」 ということである。心で本当に認めていれば、言わずとも自然と伝わるものなのだ。

気に入らないと思う人でも、探せばいいところはあるものだ。そこを認めると、自分も相手に接するときに何か変わるものがある。面白いもので、相手もいいところを認められると、その人にそのよい部分を出さざるを得なくなるのだ。
そうしているうちに、いつの間にか、その良いところが本人の中で当たり前になっていく。

 

体の調整も同じで、重箱の隅をつつくように悪いところばかりを探して、ここも悪い、こっちも悪い、とやっていると体は良くならない。逆に、どんどん悪くなっていくことさえある。悪いところを端から治せば健康になる、と思うのは素人である。
確かにここは悪いが、こっちには力がある、ここは伸びやかで弾力がある、とその人の体の良いところを見て、それを認めていけば、その人は自分の力を発揮して良くなっていく。

体が良くなるときは、必ず力があるところが全体を牽引して良くなっていくのだ。

 

自分で自分を認めるのだって同じだ。今日は顔色が悪い、この頃急に痩せてきた、などと悪いところばかり気にしていると、元気が出なくなり本当に病人になってしまう。
顔色はあまり良くないが、大便は太くて立派なのが毎日出る。食べるものが美味しい。美しいものを見て、美しいと感じる。
そういう風に、良いところに目を向けていると、いつの間にか顔色も良くなって、元気が出てくる。
良いところは、どんなところでもいいのだ。体の働きの中に、元気を見つければいい。足の指がよく動く、でもいいし、鼻の通りがいいでも、握力がしっかりしているでも、花のいい匂いをはっきり感じるでもいいのだ。

 

育てたように、子は育つ。・・・ と、いったのは誰だったか。

自分でも他人でも、大人でも子供でも、心でも体でも、認めたように人は育っていく。