2009.11.04

正体術 その2

さて、素晴らしい眠りと明日の活力を与えてくれる正体術であるが、当然ながら誰がやっても同じように効果が出るとは限らない。前回も書いたが、簡単に見える正体術でも、勘所というものがある。上手に行えるようになるには、ある程度の感性と試行錯誤が要るかと思う。
と言っても、それなりにやっても十分効果はあるので、難しく考えすぎなくてもいい。逆に言えば、工夫をすれば正体術にはかなりの奥行きがあるということだ。完成度の高い正体術を行えるほど、当然効果も高くなる。

しかし、実はこの正体術、やり方の上手・下手以前にクリアしなければならない問題がある。それは、体の大きな歪みである。
「正体術矯正法」(高橋迪雄著)にも、
「今仮にここには全身の骨格に不正がなく、いわゆる正体の人として、その一日の労苦による全身の骨格の矯正法をかいてみましょう。・・・」
とあるが、正体術はある程度体の整った人用の健康体操なのである。

正体術は、体の隅々にまで力を十分に行きわたらせ、その力の入りきった頂点で急速に脱力することで体を一度に整えてしまう方法である。しかし、体に大きな歪みがある人は、全身に力を入れようとしても上手く力の入らないところができてしまうのだ。それゆえ、体に歪みがあると正体術が本来の効果を発揮しなくなってしまう。
また、正体術の要求する体の形を取ること自体が、体に大きな歪みや強い硬直などがあると難しい。

そこで往年の高橋氏は、骨格の歪みを正す矯正法用いて正体術が効果を上げうる体、いわゆる正体に整えてから正体術を指導していたようだ。
高橋氏の矯正法は、若干の他動的な手技もあるが、ほとんどは自分で動かしたり力の入れ抜きを行う自動的な矯正体操法である。
もしかすると、元々は病気治しの術として矯正法を工夫していって、その原理を全身に応用したものが正体術として完成されたのかもしれない。そのあたりの詳しいことはよくわからないが、どちらにしても正体術以上に、この矯正法の効果に衆目は集まったようだ。

そして、それ以来(高橋先生が活躍されたのは、大正から昭和初期)、「正体術矯正法」 は、多くの治療家、健康指導者の研究対象となるのだが、高橋氏の技術体系が組織立って継承されることがなく、残されているのは書物だけであるので、その復興はなかなか難しかった。
正体術矯正法は、おそらく高橋先生の名人芸的な技術であったのだろうと思われる。特に、歪みを正す体操(操法)そのものよりも、体の観方の方が名人芸的で、弟子に伝えることが難しかったのかもしれない。そのため、直接に教えを受けても、なかなか技術を継承する人が育たなかったのだろう。

しかし、その後も正体術矯正法そのものとしてではなく、形を変えながら高橋氏の遺産は次代に受け継がれている。 (高橋氏の「正体術」を、正統に継承されている方はいらっしゃるかもしれないが、私は寡聞にして知らない)

整体法の創始者野口晴哉氏は、整体体操や矯体操法(骨格矯正)に正体術を応用した。整体体操の2種体操は、正体術によく似ている。6種体操は、正体術矯正法の前後矯正に近い。
体操に呼吸の間隙(息を吸いきって吐く直前と、吐ききって吸う直前)を利用して効果を高めたところが、野口先生の白眉たるところであろうか。(ただし、使い方を間違えると体を壊すリスクも高いので注意が必要)
また矯正体操を、この呼吸の間隙を用いて他動的な骨格矯正法に仕上げてしまったのは、まさに野口氏の天才的なところである。

また、操体法も正体術矯正法から、橋本敬三氏によって編み出されたものである。橋本氏は高橋氏のお弟子さんから正体術を学んだと聞く。
操体法は、高橋氏の正体術矯正法が体の歪みを正す方向に矯正姿勢を取るのに対し、体の動きやすい方、動かして気持ちのよい方へと動かしていって脱力する方法を取っている。一見正体術とは正反対の方法に見えるが、人間の体には、快のある方向に動かしていくことで (それが一見歪みを助長する方向でも)、バランスを取り直す力が備わっているのだ。まさしく、逆もまた真なりである。
骨格の矯正力としては、断然正体術に分があるが、操体法には筋肉操縦法としての面白みや、万人向けの使いやすさなど、正体術にない魅力がたくさんある。

続く・・・

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2009.11.01

正体術 その1

正体術というのは、一種の健康法である。どういう健康法かというと、一日の活動で疲れがたまったり、いろいろに歪んだりしているの体を、「正体術」という一種の脱力体操で、一気にリセットしてしまうものである。
体の疲労や歪みを解消することで、ぐっすりと深く眠ることができる。ぐっする眠れると、体は元気になる。
疲れているとよく眠れるということはある。しかし、ぐっすり眠るには、体が弛むということが必要である。体の中に力が抜けないところ、眠っても弛まない筋肉の硬直があると熟睡することは難しい。
正体術を行うと、偏ってたまった疲労部位、つまり凝り固まって力の抜けなくなってしまった筋肉が適度に弛んで全身の筋肉のバランスが調えられる。

正体術の原理は、とてもわかりやすい。ギューッと力を入れて、パッと力を抜いて、ドサリと重みで落ちて、グニャリと筋肉が弛む。
無意識の筋肉の緊張は、弛めようとしても、自分で意識的に弛めることが難しい。たとえば肩こりなどは、自分では肩に力を入れているつもりはないのに、力が入りっぱなしになっている状態である。そういうときは、肩の筋肉にギューっと力を入れて、ストンと力を抜くと肩のこわばりが弛む。つまり、力が入ったまま、にっちもさっちもいかなくなっている筋肉が、逆に更に力を入れることで膠着状態が破れて力が抜けるのだ。
正体術は、それを全身に作用するように行うのである。

高橋迪雄氏が残した「正体術矯正法」の現代訳である「正体術健康法」(たにぐち書店)から、正体術のやり方を抜粋してみよう。

「今仮にここには全身の骨格に不正がなく、いわゆる正体の人として、その一日の労苦による全身の骨格の矯正法をかいてみましょう。というのは、いかに仕立ての立派な洋服でも、一日着て帰れば方々に皺が寄ったり、折れ目が乱れたりするもので、寝がけにこれをきちんとたたんで火のしをかける必要が生ずるのと等しく、どんな立派な申し分ない人でも、一日の終わりには正体術で全身の骨組みを矯正してから眠る必要があるわけです。

そこでまず正しく仰向けに寝たら、今度は頸と坐骨すなわち腰のところで身体を支えて、背中をぐっとそらし、やや上半身を反り橋のような形にして、背中を畳や蒲団などから離してしまうのです。こうすれば勢い胸が張ってきますから、肋骨整正の準備に、ここで肩甲骨(貝殻骨)を背中の真ん中で左右くっついてしまうようにするのです。
そして、手は真っ直ぐに両側につけてのばし、手のひらが上を向くようにします。
同時に足も真っ直ぐに伸ばしますと、腿の下も膝の下もぴったり下について膝が反るために、自然にかかとのところが畳から少し持ち上がるようになります。
こうして5、6秒、兎の毛ほども動かさずにじっとしていると、元より何の苦痛もありませんが、そのうちだんだん全身に力が満ちてきて、ほとんど強直状態に入った形になります。やがて疲れを覚えたら、今度は急に全身の力を抜いて、一時にからだ中グニャグニャにし、自然の重みでドサリを落とすのです。
誰しも思わずこのとき、深呼吸をせずにはおられませんが、その深呼吸が普通の呼吸になるまでじっとしています」
(「正体術健康法」 高橋迪雄著)

さて、「今ここに全身の骨格に不正のなく、・・・」 とあるが、つまりは元々体に歪みのない人でも、一日体を使うといろいろに歪んでくるということだ。そこで、その日の歪み、その日の疲れは、その日のうちに解消しておこうというのが正体術の主旨である。
整体でも、眠りが自然に体を回復させ、整えてくれることを重要視しており、操法の組立も、その場で何でも整えてしまおうとせず、その日、次の日に眠ることを計算に入れて操法を行う。
ともあれ、正体術で体をよい状態に整えてから眠ることで、十分に疲労も回復し、明日への活力が湧いてくるのである。

私は、自分の体を整える方法として活元運動、整体体操なども実践しているが、最近のお気に入りは正体術である。
正体術の面白いところは、昨日と今日、今日と明日の連続性が高度に保たれるところだと思う。
どういうことかというと、たとえば昨日は集中力が高まって心身が良い状態にあったのが、一晩眠って今日になったら、なんだかぼんやりとしてちっとも頭が冴えない、などということがある。昨日の良い状態が今日に引き継げない。
しかし、眠る前に正体術を行っておくと、昨日の集中力やテンションを睡眠中に損なうことがなく、今日に引き継げるのだ。
武術や芸事の練習などで良い感覚をつかんだと思ったのが、一晩眠ったら同じ感覚で動きが再現できなくなっているというようなことがあるが、正体術を行っておくと、そういう不連続性を回避できるパーセンテージがとても高くなる。
本来眠りには、獲得した記憶や技術(体の記憶)を安定させてくれる力がある。正体術を行って訪れる快適な眠りには、その眠りの本来の力が宿っている。
もちろん、眠りをはさんだ「連続性」といっても、心身の疲れなどのマイナス面の連続性は絶たれているのであるから、目覚めは快適であり、新しい一日のスタートとしての清々しさはいうに及ばない。
ただし、動作は単純なようでも正体術にも上手、下手がある。下手なうちは、なかなかここに書いたような目覚めではないかもしれない。けれど、誰でも毎日やっていくうちに、だんだんとコツがつかめてくると思う。

ちなみに、本当の深い眠りは以外と「眠った感」が少ないものだ。「あれ、今目をつぶったと思ったのに」 というぐらい気がついたら朝になっているような眠りが質の良い眠りである。「あー、今日はよくねむったな」 などというのは、以外と眠りが浅いのだから面白い。(こういうことは、体をみるとよく分かる)

この本の中には、正体術のもう少し詳しいやり方が書いてある部分がある。治療家の方、健康指導者の方々は、もし興味をもたれたら是非ご一読されることをおすすめする。この本は、かなり難解な部分も多いが、重心論(重心の左右偏り)など、興味深い内容が満載である。

一般の方は、下記の正体術倶楽部主宰の神崎先生のブログを参考にしてみるとイメージがつかみやすいかと思う。
正体術健康法ブログ「これが正体術です」

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2009.09.25

正体術矯正法 野口整体の源流を求めて

去る9月20日の日曜日に、正体術倶楽部を主宰されている神崎崇嘉先生のセミナー 「上級編」に参加させていただいた。

「正体術」 とは、大正から昭和の初期に正体術普及協会を通して活躍された故高橋迪雄先生が創始された健康法 ・ 身体矯正術である。橋本敬三氏の「操体法」 は、この正体術を基にして作られたとされている。

その神崎先生のセミナーであるが、さすがに「上級編」 というだけあって、その内容は非常に豊富であり多岐にわたり、かつ高度であった。
セミナーは午後1時から5時までの4時間であったが、内容から言えば月に2回で1年ぐらいかけて連続講座で行ってもいいような中身である。それほど濃密なセミナーであった。それだけに、受け手側の知識や能力も問われる講習であったとも言える。

上級編も素晴らしい内容であったが、実は午前中に時間を取っていただいて、先生のご厚意で私を含めた3名に 「指導者養成講座」 ともいえる内容の特別講義をしていただいたのだ。
そこでは、神崎「正体術」の粋を集めた究極ともいえる身体矯正術を教えていただくことができた。
「正体術」の創始者である高橋先生の矯正術。それを元に動診によって体操設計ができるように進化させたM先生の矯正術。それらを下敷きにした上で、更に進化・発展させた神崎先生の正体術矯正法。その「神崎正体術」の現段階での最高レベルの身体矯正設計法である。

さて、その矯正術の設計法は骨盤の歪みを調べるところから着手するのだが、体の歪みを検出する方法、その歪みを矯正する姿勢を作っていく方法が実にシンプルである。ここまでシンプルで効果が上がるのかと首をかしげたくなるようなシンプルさである。(失礼!)
しかし、その方法で矯正姿勢を作っていくとなんとも理想的な矯正姿勢が出来上がるのである。そして、その矯正姿勢がなんとも美しいのが不思議であった。
本来、正しいものは美しいし、美しいものは正しい。本当に自然の理に適っていれば、そこには必ず美しさがあるものである。それを考えれば、美しいのは不思議でもなんでもなく、その矯正姿勢の美しさにこそ、神崎先生の矯正設計法の完成度の高さが表れているということなのであろう。
それにしても、高橋先生 ・ M先生の矯正法の複雑で難解な矯正術の設計法から、よくもここまでシンプルな原理を見出されたものだと驚嘆を禁じえなかった。
蛇足ではあるが、もちろん、その効果も素晴らしいものであった。

実は、正体術は形を変えて野口整体の中に取り入れられている。正体術は、「整体体操」 の原型でもあり、「矯体操法(骨格矯正)」 にも応用されている。正体術は、整体の源流の大きな流れの一つである。

整体法には、それ以前の時代の日本の療術のさまざまな流れが集まっている。それを単なる寄せ集めに堕することなく、整体操法として昇華 ・ 結実させたのは、野口晴哉氏の天才たる所以であろう。

私は、これまでずっと整体一本でやってきたのだが、今年に入って整体法の源流をたどる旅に出ている。
(もちろん本当に旅に出ているわけではなく比喩である )
神崎先生の「正体術」もそうであるが、「野中操法」という幻の操法を継承されている川島先生という方にも、野中操法をご教授いただいている。
野中操法も、やはり整体操法の源流の一つである。腹部の操法や手足の調律点の中には、野中操法から取り入れられたと思われるものがいくつもある。
そもそも神崎先生との出会いも、野中操法研究会でのことであった。

整体の技術の源流を知ることで、整体操法自体のより深い部分を会得することができるように思う。また、体の見方にも新しい発見があり、自然と操法に広がりが出てくる。
今後も、整体法の源流を尋ねていくことで、新しい発見があることを楽しみにしている。

野中操法研究会では、向学心と探究心に溢れる治療家の方々、これから治療家を目指している方々が集まっている。そもそも在野の治療家は一匹狼的な人間が多く、横のつながりはあまりないのだが、研究会ではともに技術を磨こうという仲間が楽しくまた熱心に研鑽を積んでいる。研究会は、治療家・療術家の梁山泊の様な所である。さしずめ川島先生は、療術梁山泊の頭目である。

川島先生もまた、本当に熱い心と高い志をもたれている素晴らしい先生である。
神崎先生と川島先生という、ともに幻の操法を現代に甦らせた二人の 「時の人」 の邂逅が、今後どういう「風」を療術界に巻き起こしてゆくのか、とても楽しみである。

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2005.09.06

整体 ・ “言” 始め

整体という言葉がはじめて使われたのは、いつ頃だろうか。ときどき、「野口整体の創始者である野口晴哉氏が、はじめて『整体』という言葉を使った」という人がいるが、残念ながらそれは違うようだ。

オステオパシー(米国ではカイロプラクティックと並ぶポピュラーな手技療法)を学んだ山田信一という人が、「山田式整体術」と名乗って活躍しはじめたのが大正の中頃である。そして、「山田式整体術講義録」という著作が、大正9年に発行されている。野口氏は、そのころはまだ10歳になるかならないかくらいである。また、長じて野口氏が治療家として名を成したときも、はじめは「整体」ではなく、「野口法」と名乗っていたそうだ。
私が知る限りでは、「整体」という言葉を日本ではじめて公に使ったのは、この山田式整体術であるようだ。もちろん、これは「整体」という言葉がいつ頃使われだしたかという話である。「整体事始め」ではなく、「整体“言”始め」である。

先に、「日本ではじめて・・・」と書いたが、実は中国医学の中にも、“整体” という言葉がある。中医学では、古くから “整体” という言葉が用られていたようだ。しかし、この “整体” は、人体の「統一性」、「全体性」、「調和」といったことを表す概念であり、手技療法としての「整体」という意味はない。
最近、「中国式整体」とか「中医整体」といった看板をよく見かけるが、この「整体」は、もちろん手技療法の「整体」。もともと中国には「整体」という手技療法はないので、「中医学理論に基づいた手技療法」とか、「推拿(中国の手技療法)の手法を用いた整体術」というようなものなのだろう。

野口整体では、「体を整える技術」という名詞としての「整体」のほかに、「整体する(体を整える)」という具合に動詞的にも使う。そしてもう一つ、「整った体」のことも、「整体」という。
野口整体における「整った体」、つまり「整体」は、中医学の “整体” という概念にかなり近い。背骨が真っ直ぐならば体が整っているとか、仰向けで脚の長さがそろっていれば整っているとか、そういう固定的で紋切り型の「整体」ではない。自分らしさという、生命としての個性を発揮しつつ、全体として統一性と調和がある。人間の本来の自然な姿を「整体」と呼ぶのであり、その自然な体に導いていくものが「整体法」なのである。
野口氏が、整骨法でも正体法でもなく、「整体法」と名付けたのは、「整体」という言葉の中にそういう深みを見出したからではないかと、一人想像している。

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2005.05.23

合掌行気法

愉気というのは、人間に備わっている本能的な癒しの力であるから、当然誰でもおこなうことができる。しかし、現代人は長い間「手を当てる」という、いわゆる触手療法的な能力を使わずに過ごしてきている。どこかの地方では、親が子供に手を当てることを「親薬」というそうで、今でもそういう習慣が残っているところもあるようだが、最近は多くの家庭では、子どもでも大人でもケガや病気にはともかく薬である。「手を当てる」ことの効用が忘れられているとともに、その能力も錆びついてきている。「気」を込めるとか、「気」で触るとかいう感覚に、ピンとこない人の方が多い。そこで、手に「気」を集めて、愉気のできる手を作るための方法がある。「合掌行気法(がっしょうぎょうきほう)」という。
整体では、手を当ててそこから「気」を通していくことを愉気(ゆき)というが、自分の体の一部に「気」を集めたり、「気」を通したりすることを「行気」という。合掌行気法とは、合掌した手に意識を集め、「気」に敏感な手を作る方法である。合掌といっても、手の形のことであって、特別宗教的な意味はない。
体というのは、意識を集めると感覚が高まるという性質がある。手に注意を集めて、「気」の出入りを感じ取る訓練をすることで、「気」に対して敏感な手をつくることができる。合掌行気法をくり返すことで、手の感覚はしだいに鋭敏になってくる。手を体に近づけると、悪いところや愉気を欲しているところがわかるようになる。感覚としてもわかるようになるが、感じるよりも早く、悪いところに自然と手がいくようになる。単に手の感覚だけでなく、「体のカン」が鋭くなるのだろう。

合掌行気法

目の前、もしくは胸の前で、両手の平を近づける。手のひらの間は3㎝ぐらい。
目を閉じて、指先から手の平の真ん中に息を吸い込んで、指先から吐く。もしくは、手の平から吐く。手で呼吸するという「つもり」でおこなう。これを観念呼吸とか、内観的呼吸とかいうが、そういう「つもり」で、いつもより少しゆっくり呼吸し、手から出入りする「気」に注意を集める。
手と手が引き合ってくっついてしまうようなら、そのまま合掌しておこなう。引き合う感じを持ちながら、離したままおこなっても良い。
終えるときは、大きく息を吸い込んで、「ウム」とちょっとの間お腹に息をこらえ、吐き出すときに目を開けて手を下ろす。

おこなう時間は、長ければ良いというものでもない。これは愉気でも同じことだが、集中力が散漫になるようだったら長くやっても意味がないので、集中力の続く範囲でおこなうことが良い。慣れてくると、自然と集注できる時間が長くなる。

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2005.05.16

愉気

治療のことを「手当て」というが、手を当てるということは癒しの原点である。誰でも頭が痛ければ自然と頭に手がいくし、お腹が痛ければ無意識にお腹に手を当てる。どこかをぶつけても、やはり思わず手を当て、押さえ、さする。痛みに限らず、体に異常が生じれば、自然と手を当てるものである。
では、思わず手を当てるそのときに、そこにはなにが起こっているのかというと、「気」が集まり、その働きが高まっているのである。
「気」というのは、人間が生きている源である。新しい生命の誕生が受精の瞬間だとすると、人間はまだ心も体もできあがっていないときから生きている。その心も体もできあがっていないときから働いている生命そのものの力を、整体を始めとする東洋の医学では「気」と呼んでいるのである。「気」は、心と体を作り上げ、その両者を支え、かつ繋いでいる生命の根元的な力である。生命活動の源である「気」の働きを高めることは、健康を保つ上で最も大切なことのひとつだ。
整体では、「気」を集注することを「愉気(ゆき)」という。もともとは「気」を輸る(おくる)という意味で「輸気」と書いていたそうだが、そこに「愉しく明るい陽気を伝える」という意味を込めて、「愉気」としたという。
「愉気」は、誰にでも備わっている人間にとって当たり前の能力である。知識がなくても、本能的に誰でもおこなっている。手を当てて、そこに意識を集めればいい。意識を集注すると「気」の働きが高まってくる。意識を集注するというのが難しければ、ただ手を当ててゆったりと呼吸するだけでもいい。「気」というものはお互い共鳴するものであるから、自分の体でも他人の体でも必要としていれば手を当てているだけで自ずと「気」の感応が起こり、働きが高まってくる。
「愉気」をおこなうときには肩の力を抜いて、呼吸をいつもより少しゆっくりと長くする。相手よりも呼吸が長いというのが愉気をする条件であるが、気張るほど長くする必要はない。また意識を集注するといっても、思いつめるような集注ではない。ただ心を静かに保って、対象に心を向けていればいいのだ。
野口氏は、愉気をするときに必要な心のあり方を「天心」と表現した。嫉妬や怒り、気張りなどで曇っていない、赤ちゃんのような心である。どんなに荒天でも、雲の上はいつも晴れている。人間も、深く静かな呼吸をして心を落ち着ければ、いつでも天心を取り戻すことができる。その天心にかえるということを瞬時におこなえることが、愉気の技術と言えば技術であるかもしれない。
愉気は誰にでもできる。赤ちゃんに触る母親の手は、みんな愉気にあふれている。母親に抱きつく赤ちゃんの手も、やはり愉気が満ちあふれている。そういう手で触られるだけで、心は和み体もゆるむ。うまくできないという人は、頭が忙し過ぎて体の感覚が鈍麻している人である。しかし、そういう人でも、ともかく「愉気」をおこなっていくうちに実感を取り戻してくるものだ。
人間と人間の関係というのは、お互いの「気」の共鳴・感応によって成り立っている。「気」が通れば話もとおる。「お疲れさま」というねぎらいの言葉も、「気」がなければ空々しい。人間は言葉を持ってコミュニケーション能力が発達したといわれているが、やはり言葉以前に気の交流があることは間違いない。「気」ということがわかってくると、人間関係も円滑に運ぶようになる。
「気」というものは、人間が生きていること全ての根底にある。「気」の働きを知り、「気」のリズムにのって生活することを体得することは、人生を快適にし、また豊かにすると思う。とりあえず、難しいことは抜きにして、手を当てて「愉気」をするということから始めてみることをおすすめしたい。

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