2009.11.29

気の話 

「気」 というのは、これと目の前に出して見せられるものではないが、誰でも日々感じているものである。第一印象などというものは、もちろん視覚的情報もあるが、五感を越えた感覚で直接相手の気を感じていると考えた方が実状に合う。
その人その人で、発している気は違う。また、同じ人でも気が澄んでいるときもあれば、荒んでいるときもある。
気が合わない人とは、なかなか良い関係は築けない。「話してみたらいい人だ」 などと思っても、ダイレクトに感じる気が合わなければ、何かのときにやはり上手く行かないものだ。
夫婦でも友人関係でも上司と部下でも、気が合えばリズムも合い、息が合うものである。

操法においても、気が合う合わないということは問題になる。操法を行う側と受ける側の気が合えば、操法は良いものになる。気が合わないと、上手くいかない面がでてくる。
当院では、操法を受けるに当たっては、時間に余裕を持って来院されるようにお願いしている。バタバタと慌てて駆け込んできたのでは、息も乱れているが気も乱れている。そんな状態では良い操法は難しい。

操法を受けに来ている人は、順番になったから、予約の時間になったから、無造作に呼ばれていると思っていると思う。しかし、実は次の人を呼び入れる機(タイミング)というのも、気の同調ということが図られているのである。
間を空けず詰めて続けて呼ぶこともあれば、一調子ずらすこともある。ときによっては、行きたくもないトイレに行って間合いをはずすこともある。そういうことが、操法には意外と重要なのである。
この機というものは、私自身の気の波と操法を受けにくる方の気の状態によって決まる。ほとんどは無意識に近くおこなっているが、それには気の波に心身を同調させることと、途切れない集中力の維持が必要となる。
こう書くと、なんだか凄いことのようにも聞こえるが、整体操法を行う者は皆普通に行っていることである。

もちろん、元々の気の相性というものもある。治療院にも気の合わない人がたまにくるが、そういう人はやはりすぐに通わなくなる。こちらの対応が変わるわけではないのだが、やはりしっくりこないものを感じるのだろう。
しかし、そもそも気の合わない人というのは、本来あまり来ないものなのである。

操法を始めた頃は、気の合わない人がたくさん来た。そもそも、ピタリと気の合う人などそんなにたくさんいるわけないのだから、気の合わない人が来るのは当然だ。
しかし、技術を積み上げて、気を澄ましていくと、だんだんと苦手な人・合わない人が少なくなってくる。平たく言えば操法する側に余裕ができてくるということなのだろう。

それでも、やはり相性というものはある。世の中には、どうしても合わない人はいる。
しかし、こちらが自分の気を歪めずに素直に保っていると、自然と合う人だけが集まってくるのである。
気というものは、時間と空間を超越しているものなのではないだろうか?
誰かがある思いを気に乗せて発すると、どこかで誰かがそれを受け取るのである。そして、気が同調する人だけが集まってくる。

自分を偽っていると、気が乱れる。だから、私は気を乱さないように、なるべく自分を偽らないようにしている。それで私のところには、私と気が合う人が集まってくる。
私は、基本的にやりたくないことはしない。仕事は好きでやっている。
もし我慢して仕事をやるようになったら、それは整体操法を行う者としての資格を失ったときだと思っている。

しかし、「自由に」 と、「好き勝手」 は違う。
気というのは自然のものである。自然には必ず調和がある。だから、気の波に任せて生きることは、自由になることではあっても無茶苦茶になることではない。

技術があるのに、ちっとも人が集まらない治療院は珍しくない。私の知り合いにも、そういう治療師が結構いる。そういう治療院は、気の合う人が来ないで合わない人ばかりが来るのが特徴だ。
なぜ、気の合わない人ばかりが来るのかというと、その治療師が自分に素直に生きていないからだと思う。

自分の行っている治療法を信じていない人、自分とは違うタイプの師匠の真似をしている人、治療を接客業だと思っている人、お金のために治療をしている人、他人から良く見られたい人、自分の苦労を見せつけたい人、技術を誇りたい人。
そういう人は、自分で自分の気を歪めているのだ。本来の自分の気ではなく、歪めた気を発している。そして、それに合わせて人が集まってくるのだ。だから上手くいかない。
自分を偽って生きていると、他人も偽ることになる。お互い不幸である。

本来持っている自分の気を歪めずに生きていくと、いつの間にか気の合う人が集まってきて、合わない人は離れていく。これは、理屈ではない。気の世界というのは、実際そういうふうになっているのである。

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2005.09.06

整体 ・ “言” 始め

整体という言葉がはじめて使われたのは、いつ頃だろうか。ときどき、「野口整体の創始者である野口晴哉氏が、はじめて『整体』という言葉を使った」という人がいるが、残念ながらそれは違うようだ。

オステオパシー(米国ではカイロプラクティックと並ぶポピュラーな手技療法)を学んだ山田信一という人が、「山田式整体術」と名乗って活躍しはじめたのが大正の中頃である。そして、「山田式整体術講義録」という著作が、大正9年に発行されている。野口氏は、そのころはまだ10歳になるかならないかくらいである。また、長じて野口氏が治療家として名を成したときも、はじめは「整体」ではなく、「野口法」と名乗っていたそうだ。
私が知る限りでは、「整体」という言葉を日本ではじめて公に使ったのは、この山田式整体術であるようだ。もちろん、これは「整体」という言葉がいつ頃使われだしたかという話である。「整体事始め」ではなく、「整体“言”始め」である。

先に、「日本ではじめて・・・」と書いたが、実は中国医学の中にも、“整体” という言葉がある。中医学では、古くから “整体” という言葉が用られていたようだ。しかし、この “整体” は、人体の「統一性」、「全体性」、「調和」といったことを表す概念であり、手技療法としての「整体」という意味はない。
最近、「中国式整体」とか「中医整体」といった看板をよく見かけるが、この「整体」は、もちろん手技療法の「整体」。もともと中国には「整体」という手技療法はないので、「中医学理論に基づいた手技療法」とか、「推拿(中国の手技療法)の手法を用いた整体術」というようなものなのだろう。

野口整体では、「体を整える技術」という名詞としての「整体」のほかに、「整体する(体を整える)」という具合に動詞的にも使う。そしてもう一つ、「整った体」のことも、「整体」という。
野口整体における「整った体」、つまり「整体」は、中医学の “整体” という概念にかなり近い。背骨が真っ直ぐならば体が整っているとか、仰向けで脚の長さがそろっていれば整っているとか、そういう固定的で紋切り型の「整体」ではない。自分らしさという、生命としての個性を発揮しつつ、全体として統一性と調和がある。人間の本来の自然な姿を「整体」と呼ぶのであり、その自然な体に導いていくものが「整体法」なのである。
野口氏が、整骨法でも正体法でもなく、「整体法」と名付けたのは、「整体」という言葉の中にそういう深みを見出したからではないかと、一人想像している。

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2005.05.23

合掌行気法

愉気というのは、人間に備わっている本能的な癒しの力であるから、当然誰でもおこなうことができる。しかし、現代人は長い間「手を当てる」という、いわゆる触手療法的な能力を使わずに過ごしてきている。どこかの地方では、親が子供に手を当てることを「親薬」というそうで、今でもそういう習慣が残っているところもあるようだが、最近は多くの家庭では、子どもでも大人でもケガや病気にはともかく薬である。「手を当てる」ことの効用が忘れられているとともに、その能力も錆びついてきている。「気」を込めるとか、「気」で触るとかいう感覚に、ピンとこない人の方が多い。そこで、手に「気」を集めて、愉気のできる手を作るための方法がある。「合掌行気法(がっしょうぎょうきほう)」という。
整体では、手を当ててそこから「気」を通していくことを愉気(ゆき)というが、自分の体の一部に「気」を集めたり、「気」を通したりすることを「行気」という。合掌行気法とは、合掌した手に意識を集め、「気」に敏感な手を作る方法である。合掌といっても、手の形のことであって、特別宗教的な意味はない。
体というのは、意識を集めると感覚が高まるという性質がある。手に注意を集めて、「気」の出入りを感じ取る訓練をすることで、「気」に対して敏感な手をつくることができる。合掌行気法をくり返すことで、手の感覚はしだいに鋭敏になってくる。手を体に近づけると、悪いところや愉気を欲しているところがわかるようになる。感覚としてもわかるようになるが、感じるよりも早く、悪いところに自然と手がいくようになる。単に手の感覚だけでなく、「体のカン」が鋭くなるのだろう。

合掌行気法

目の前、もしくは胸の前で、両手の平を近づける。手のひらの間は3㎝ぐらい。
目を閉じて、指先から手の平の真ん中に息を吸い込んで、指先から吐く。もしくは、手の平から吐く。手で呼吸するという「つもり」でおこなう。これを観念呼吸とか、内観的呼吸とかいうが、そういう「つもり」で、いつもより少しゆっくり呼吸し、手から出入りする「気」に注意を集める。
手と手が引き合ってくっついてしまうようなら、そのまま合掌しておこなう。引き合う感じを持ちながら、離したままおこなっても良い。
終えるときは、大きく息を吸い込んで、「ウム」とちょっとの間お腹に息をこらえ、吐き出すときに目を開けて手を下ろす。

おこなう時間は、長ければ良いというものでもない。これは愉気でも同じことだが、集中力が散漫になるようだったら長くやっても意味がないので、集中力の続く範囲でおこなうことが良い。慣れてくると、自然と集注できる時間が長くなる。

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2005.05.16

愉気

治療のことを「手当て」というが、手を当てるということは癒しの原点である。誰でも頭が痛ければ自然と頭に手がいくし、お腹が痛ければ無意識にお腹に手を当てる。どこかをぶつけても、やはり思わず手を当て、押さえ、さする。痛みに限らず、体に異常が生じれば、自然と手を当てるものである。
では、思わず手を当てるそのときに、そこにはなにが起こっているのかというと、「気」が集まり、その働きが高まっているのである。
「気」というのは、人間が生きている源である。新しい生命の誕生が受精の瞬間だとすると、人間はまだ心も体もできあがっていないときから生きている。その心も体もできあがっていないときから働いている生命そのものの力を、整体を始めとする東洋の医学では「気」と呼んでいるのである。「気」は、心と体を作り上げ、その両者を支え、かつ繋いでいる生命の根元的な力である。生命活動の源である「気」の働きを高めることは、健康を保つ上で最も大切なことのひとつだ。
整体では、「気」を集注することを「愉気(ゆき)」という。もともとは「気」を輸る(おくる)という意味で「輸気」と書いていたそうだが、そこに「愉しく明るい陽気を伝える」という意味を込めて、「愉気」としたという。
「愉気」は、誰にでも備わっている人間にとって当たり前の能力である。知識がなくても、本能的に誰でもおこなっている。手を当てて、そこに意識を集めればいい。意識を集注すると「気」の働きが高まってくる。意識を集注するというのが難しければ、ただ手を当ててゆったりと呼吸するだけでもいい。「気」というものはお互い共鳴するものであるから、自分の体でも他人の体でも必要としていれば手を当てているだけで自ずと「気」の感応が起こり、働きが高まってくる。
「愉気」をおこなうときには肩の力を抜いて、呼吸をいつもより少しゆっくりと長くする。相手よりも呼吸が長いというのが愉気をする条件であるが、気張るほど長くする必要はない。また意識を集注するといっても、思いつめるような集注ではない。ただ心を静かに保って、対象に心を向けていればいいのだ。
野口氏は、愉気をするときに必要な心のあり方を「天心」と表現した。嫉妬や怒り、気張りなどで曇っていない、赤ちゃんのような心である。どんなに荒天でも、雲の上はいつも晴れている。人間も、深く静かな呼吸をして心を落ち着ければ、いつでも天心を取り戻すことができる。その天心にかえるということを瞬時におこなえることが、愉気の技術と言えば技術であるかもしれない。
愉気は誰にでもできる。赤ちゃんに触る母親の手は、みんな愉気にあふれている。母親に抱きつく赤ちゃんの手も、やはり愉気が満ちあふれている。そういう手で触られるだけで、心は和み体もゆるむ。うまくできないという人は、頭が忙し過ぎて体の感覚が鈍麻している人である。しかし、そういう人でも、ともかく「愉気」をおこなっていくうちに実感を取り戻してくるものだ。
人間と人間の関係というのは、お互いの「気」の共鳴・感応によって成り立っている。「気」が通れば話もとおる。「お疲れさま」というねぎらいの言葉も、「気」がなければ空々しい。人間は言葉を持ってコミュニケーション能力が発達したといわれているが、やはり言葉以前に気の交流があることは間違いない。「気」ということがわかってくると、人間関係も円滑に運ぶようになる。
「気」というものは、人間が生きていること全ての根底にある。「気」の働きを知り、「気」のリズムにのって生活することを体得することは、人生を快適にし、また豊かにすると思う。とりあえず、難しいことは抜きにして、手を当てて「愉気」をするということから始めてみることをおすすめしたい。

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