整体

謎の禁煙席

都営地下鉄三田線で白山駅から一つ北上した千石駅の近くに、とある喫茶店があった。残念ながら昨年閉店してしまったのだが、全国展開のフランチャイズの珈琲店ながら、そこの店長さんが入れる珈琲は他店と同じ豆を使っているのだろうになぜか特別美味しく、たまに利用させてもらっていた。

その喫茶店は喫煙OKだったため、タバコを吸わない私にとっては、ちょっとした苦行となる場合もあり、いつも空いている時を見計らって入店していた。
といっても全面喫煙可ではなく、一応 分煙(?) はなされていた。ただし問題だったのは、禁煙席は入り口のそばの一テーブルだけだったことだ。

禁煙席なので、もちろんタバコを吸わない人が座るのだが、それ以外の席は全て喫煙可なので、禁煙席に座った吸わない人の周り中で皆がタバコを吸っているという不思議な光景が出現していた。

おそらく誰もが思ったことだろう。

果たして、この禁煙席に何の意味があるのだろうか、と・・・。

 

しかし、しばらく通ううちに面白い現象が起こり始めた。タバコを吸わない人が、禁煙席に座らずに、その隣のテーブルに座るのだ。そうすれば、少なくとも自分の隣には吸わない人が座ることになる。

この現象はすぐに定着し、そして広がっていった。すなわち、ただ一つの禁煙席の周りをタバコを吸わない人達が固め始めたのだ。
こうして、空けたままの禁煙席を中心に、NO喫煙エリアが形成されるようになった。

それ以外の席が埋まってしまうと、タバコを吸いたくて入ってきた客が、禁煙席しか空いておらず、すごすごと帰っていくこともあった。
そんなときには、非喫煙エリアを形成している人々は、決して顔を上げず、目を合わさず、そのことで静かに自らの固い意思を表明していた。そして店長は、満席を理由に当たり前のように入店を断っていた。

もちろん、非喫煙者が少なくてエリアを形成できない時もあるし、素人(?)の非喫煙者が禁煙席に座ってしまうときもあったりと(そんなときには、周囲の非喫煙者の心の中の舌打ちが聞こえるようだった・・・)、抵抗ともいえないほどの小さな抵抗であったが、吸わない人たちの間には、暗黙の了解、そして小さなレジスタンスの共有によるある種の連帯感が生まれていたのは確かだった。

 

ただ一つの禁煙席をあえて使わないことで、禁煙席を生かすという、まるで老子の 「無用の用」 を地で行くようなアイディアであったが、整体の世界でも、「あえて使わない」 ということがある。

本来の急処や患部に直接アプローチせずに、そこに関連する周囲・遠方のポイントに働きかけることによって体を整えたり治癒を促したりすることはよくある。
急処が過敏すぎて触らない方がよいとか、患部の痛みが強くて触れないということもあるが、周囲または遠いところから調整した方が実は効率が良いとか、効果が長持ちするとかいうこともよくあるのだ。

また、操法における指の使い方でも、母指を使って押さえるときには、なるべく母指の力を抜いて、それ以外の四指をうまく使って母指を生かすというのが基本になっている。
これもまた、周りを使って中心を生かす整体ならではの身体操作法である。

 

などと、ちょっとこじつけのように整体の話につないでいるのは、このブログでは整体もしくは治療院に関係ないことは書かないというルールを設定しているからであった。
実は、ただ謎の禁煙席についてどうしても書きたかっただけだったりする。

それにしても、あの禁煙席は、一体何のために設けられていたのだろうか・・・?

フランチャイズの規定に、必ず禁煙席を設けるような決まりでもあったのだろうか・・・。
それとも、凡人には理解できないような、なにか深淵な理由があったのだろうか。
今となっては、永遠の謎である。

“ 混ぜるな危険!? ”

整体を受けながら、鍼灸・指圧・マッサージ・カイロプラクティックなどの療法を平行して受けられるのは、お薦めできない。

刺激過多となり体に負担であるということもあるが、せっかく整えた体が他の施術によって乱されてしまうことがほとんどだからだ。

整体を受けた上に更に鍼灸もやったら、なお体は良くなるのではないか、と考えるのはわからないでもないが、それはやはり素人考えなのである。治療というのは単純な足し算ではないので、どんどん足していけばいいというものではないのである。

そもそも、治療・身体調整といわれるものには、必ず体に対する 「見立て」 がある。見立てとは、今の体がどういう状態なのかと施術者側が把握・認識することだ。
そしてその見立ては、それぞれの治療法・調整法のシステムに則ったものである。同じ体を見ても各治療法によって、また見る施術者個人によって、全く違う観点から体の状況が把握されることがある。

分かりやすい例では、同一人の体を観ても、カイロプラクティックであれば骨格の位置や動きに注目するだろうし、古典的鍼灸なら脈の状態や腹部の虚実などで見るかもしれない。また、同じ治療法でも、施術者一人ひとりで見方はそれぞれ異なる部分が当然ある。
その見立てにそって施術するということは、それぞれ別々の登山道から頂上を目指しているのと同じである。

それどころか、それぞれの流儀に独自の 「健康観」 があるので、下手をすれば目指している頂上すらも違うかもしれないのである。
骨格が正しい位置関係にあり、その動きが正常であることを健康と考える治療法もある。また、脈がある特定の状態であれば健康であるとか、全身の筋肉に凝りがなく柔軟であれば健康と考えるものもある。

整体で、チューリップを咲かせようと花壇を耕し、肥料を入れ、球根を植えたところに、別の治療を受けに行ったら、根こそぎ掘り返されて、ひまわりを植えられてしまうようなことも起こりうる。
花壇をきれいな花でいっぱいにしようとしていることは同じでも、どんな花を咲かせようとしているかは、必ずしも同じとは限らない。
場合によっては、花壇を足で踏み固めて真っ平らに均そうととする人もいるかもしれない。

たとえ治療であっても、体に対する刺激というのは最小限であることが望ましい。いろいろな治療や身体調整法を掛け持ちすることは、体にとって負担であるばかりか、場合によっては害になることさえある。
洗剤でも、“ 混ぜるな、危険!!” というのがあるが、体に対する調整行為でも、度が過ぎれば負担になるし、混ぜると危険ということも無きにしも非ずなのである。

牛乳は腰に手を当てて飲むべし!

このところ花粉症の症状を訴える人が、ちらほらと出てきた。

花粉症の症状緩和には、頚と肩甲骨周りの筋肉の硬直を弛めることが有効である。花粉症だという人には、そのあたりを弛めるための体操法をご指導したりしている。

体操の前段で肩甲骨を弛め動きをよくして、後段では頚を回して頸椎の動きを改善する。前段の肩甲骨体操では、腰から背中もある程度強張りが取れるような仕組みになっている。また、その結果として頸椎部も弛んでくるので、仕上げは頚を回すくらいで結構効果が上がる。

頚は力を抜いて、ゆっくりと片側に10回程度まわし、続いて反対回しもおこなう。肩の上で頭がごろごろと転がるようなイメージでおこなうとよい。
これは文字通り 「回す」 だけでよく、ストレッチ風に筋肉を伸ばしながら回すなどの工夫はない方がいい。どこかを 「伸ばす」 のではなく、なめらかに 「動く」 ようにするのが目的だ。
頚を回すと痛みのある場合は、その痛い角度のところは上手に躱して(抜かして)おこなう。毎日やっていると、だんだんきれいに回るようになってくる。

この頚回しだけでも、花粉症に対してある程度の効果は見込める。頭と体の血流の行き来がスムーズになると、頚から上の鬱血状態が改善されて、目鼻の炎症などが楽になる。

さて、この体操は立っておこなうのだが、最後の頚を回すときは肩幅くらいに足を開き、必ず手を腰(骨盤の縁あたり)に当ててもらう。
そうすることで体の軸が自然と立上がり、安定した土台の上で頚を回すことができる。

もしも腰に手を当てずに頚を回すとすると、たとえ小さい子供にでも体を押されようものなら体勢が崩れてしまうだろう。しかしやってみればわかるが、腰に手を当てていれば体は全体として安定し、多少押されてもびくともしない。そのような安定した体勢で頚を回すことで、はじめて得られるものがある。ただ頚を回せばいいというのとは、ちょっとした工夫で運動の中身にだいぶ差が出る。
(逆に、全身の動きの自由度を保っておこなう場合にも、又違った良さがあるが・・・)

この頚回し体操における、肩幅に足を開いて腰に手を当てるという形は、一種の 「型」 といえる。立位で頚を回すための 「型」 である。
銭湯などでよく見られる、風呂上がりに牛乳を飲んでいる人が片手を腰に当てている光景は、安定した体勢で牛乳を飲もうとして自然とあの形になっているのである。あれも、牛乳瓶で牛乳を飲むための 「型」 といってもいい。

日本では、芸事でも礼法でも武道・武術でも、「型」 というものが重視されてきた。「型」 というのは、単なる儀式・儀礼的な意味合いのものというわけではなく、高度な機能性・合理性を追求した結果現れ、定着したものである。

整体操法も、「型」 に則っておこなわれる。整体の 「型」は、施術者側の技術としての力学的合理を追求するとともに、相手との気の感応がより深くおこなわれるようにつくられている。

前回の記事の身体気法会整体初級講座の内容にある、『 6.型、相手との間と度 』 というのは、自他との関係性の中で最善・最良のパフォーマンスを発揮でき、大きな効果を上げるための技術を 「型」 というものとして学ぶということである。

まずは腰に手を当てて頚を回し、また牛乳を雄々しく飲み干してみよう!!

それが 「型」 を知る第一歩、になるかもしれない。(?)

整体10年、とはいうけれど・・・

季よみ通信 其の19では、頚部操法を例にとって整体操法の技術習得の難しさについて書いた。
これは、柳澤先生の 其の18 を受けて書いたものである。
世の中には、全くの初心者を相手に10回程度のセミナーや通信講座などで修了証だの認定証だのを発行して、安易に開業できると唱っている 「整体」 も存在する。
プロとして人の体を触るということは、そんなに簡単なものではないということをちょっと書いておこうと思った次第である。


整体10年、は確かに本当で、体がある程度読めるようになるには最低でもそのぐらいはかかる。

しかし、そこまで至らなければ整体はできないのかといえば、実はそういうことでもない。

愉気を習った人は愉気だけに集中すればよい。それで十分効果は上がる。
愉気する急処を知ったならば、なお効果が上がるかもしれない。
初等程度の操法でも身につけておけば、ただ愉気するよりも断然心強い。

プロとしてやるのでなければ、それぞれ自分のできるところまでで、おこなえばよいわけである。それが各々の整体である。

 
分からないことは分からない、できないことはできないと、自分で分かっていれば何も問題はないのである。
怖いのは、自分の技量を量り違えて過信している人だ。


整体は奥が深い。
登山で言えばもう7合目ぐらいまで来たかと思っていたら、実はまだ裾野にいた、
なんてことは、この世界ではよくあることだ。
整体のなんたるかが分かってくるほどに、目指す先は遠いということも分かってくる。

たとえどんなに治療成績を上げていたとしても、技術的にこれで十分、と思ったら終わりである。
進歩しようという気持ちを失ったときから、すでに退歩は始まっているのだ。

時代の変化と一側の硬直

ストレスという言葉が、日常語として使われ出して久しい。

常にイライラしている人を見ると、あの人ストレスがたまってるんじゃない、などと言う。
こういう人は、一昔、いや二昔前までは、欲求不満なんじゃない、と言われていた。

整体では、背骨の両側を 「椎側」 と呼ぶ。椎側で、棘突起のすぐ際に親指を除く4本指を並べた場合の一番内側の指一本分の上下に走る筋肉のラインを 「一側 (いっそく) 」 という。この一側には、精神的な問題や性エネルギーの状況が現れる。

仙骨から発する性エネルギーは、一側を通って頭へと向かう。実は人間の場合、性のエネルギーが生殖活動に使われるのは極一部である。他の大部分は、大脳の働きを始めとする感情や情緒、思考、意欲、行動力などに転換される。人間は、この有り余る性エネルギーを様々な活動に昇華させて、現在の文明社会を作り出したわけである。

骨盤から上昇する一側が、途中で閊えることがある。一側が閊えてエネルギーの停滞が起こると、精神的もしくは肉体的な不調和が発生する。そして、その閊えが脊椎のどこに生じるかで、現われる異常・症状は異なる。

また、一側は性エネルギーが仙骨から大脳へと上昇するルートであると同時に、今度は頭の働きに転換した精神的なエネルギーとでも言うべきものが体の方に下降して来る導線でもある。この上から降りてくる一側が閊えても、やはり心身に様々な問題を引き起こす。

下から来る一側が閊える場合は、環境や体の問題など何らかの事情で要求を叶えることができない状況があるわけで、これはいわゆる 「欲求不満」 的症状であるとも言える。やりたくもない仕事を嫌々やっていたり、言いたくても言えない不平不満を抱えていたりすると、下から上がってくる一側が閊え出す。
これに対して、上から来る一側が閊えるのは、頭の中のある種の緊張が体に反映して不調が起こるということで、いわゆる 「ストレス」 による心身の失調と言ってもいい。神経性胃炎など、神経性○○症などと呼ばれるものの多くは、上から来る一側の閊えである。

例えば、下から上ってくる一側が第8胸椎で閊えると、感情が不安定になる。まさにイライラしたり、怒りっぽくなったり、感情に過剰な高ぶりが生じてくる。第6胸椎で閊えれば、性エネルギーが食欲に転換して過剰食欲になったりする。
同じ第6胸椎で閊えるのでも、上から来る一側が閊えているとしたら、大脳的な緊張から起こる胃の異常で、神経性の胃炎やストレスによる食欲不振などは、この類いである。

一側の閊えは、椎骨の上がり下がりと連動することが多い。一側が下から来て閊える場合は、多くはその閊えている椎骨は上がって上の椎骨にくっついている。逆に、上から来る一側が閊える場合は、その椎骨は下がって下の椎骨にくっついている。
一側の硬結・硬直自体を押えてみると、下から来た一側の場合、下に向けて押える方が抵抗が強い。上に向けて押える方が抵抗が強ければ上から来た一側である。


閊えの無い一側は、愉気しながら押えて外側に向かって弾くと、ぱらぱらとした何本かの線のようなものを感じる。その線は7本とも10本ともいわれるが、この細い線がキレイに分かれていて柔らかい弾力がある状態が健全な一側の姿である。
しかし、実際には、一側が全てきれいにぱらぱらと弾けるような人はほとんどいない。そのような人は、まさに心身に閊えの無い天真爛漫な人である。

一側が閊えて硬直すると、このぱらぱらとした線が一かたまりになってしまい、一本の太い線となってしまう。更に閊えが進むと、その硬直したラインの一点に硬く結ばれた塊のようなものを生じる。これが一側の硬結である。一側の硬結は米粒の半分とか、それ以下の小さな塊だが、異常が進むほど硬く小さくなっていく。


この十数年の間に、現代人の一側は非常に硬直し、その緊張が弛みづらくなっている。最近では、子供でも一側がきれいに分かれている子は少ない。
その原因の一つは、TVゲームの流行から、それに続くパソコンや携帯電話の普及であろう。TVゲーム、そしてパソコンや携帯などで、頭、眼、指先などを酷使するために、神経系の緊張、疲労が抜けづらくなっているのだ。

そして、それらの機器の発達がもたらした高度情報化社会である。あふれかえる大量の情報の波に常にさらされると共に、携帯やメール、ネットを通じて常時他者と繋がっているという緊張状態の持続は、現代人の精神を疲弊させつつある。

携帯電話には、いつでも連絡が取れるという便利な面はあるが、逆にどこに居ても携帯で捕まってしまうという状況が、ある種の窮屈感をもたらしていることは間違いないだろう。
その人の持つ人間関係や携帯の使い方にもよるが、日常的に携帯に依存した生活をしている人ほど、自分の部屋で一人で居ようが、旅行先だろうが、喫茶店でくつろいでいようが、携帯の電源を切らない限り、誰にも邪魔されない本当の一人の自由な時間は無いのである。
では、電源を切ればいいではないか、ということになるのだが、今度は常に連絡が取れるようにしておかなければならないという、不文律というか、暗黙の了解がある。それを無視して電源をOFFにしておくのは、それはそれで、また新たなストレスを生むことになる。


十数年前、治療院を開院した当時は、頭部・頚部の操法は、大抵坐位でのみ行なっていた。特に必要のある人以外は、仰臥で頭や頚を操法することはほとんど無かった。
しかし、だんだんとそれでは頭の緊張が弛まない人が増えて来て、今では半数以上の人に仰向けの状態で頭部・頚部、また時には眼にも愉気をしている。これも大げさに言えば、時代の要請ということになるのだろうか。

一側の硬結を処理するには、愉気の感応を図りながらながら整圧し、最後に息を吐ききる瞬間に外側に向かって弾くのだが、この硬結を弾いて弛めると、非常に快感がある。
しかし近年、この一側の硬結を弾かれてもあまり快感を感じない人が増えてきている。そこまで現代人の一側は、鈍く硬直し固まってしまっているのだ。

一側が強く硬直している場合、その奥に深く潜んでいる硬結をつかまえるのは、なかなかに難しい。1回の操法では、直接硬結にアプローチできないこともある。そんな頑固な硬直・硬結には、それこそ頭部・眼などの調整をしたり、下からの一側の場合、骨盤への様々な操作により、硬結を浮かび上がらせる準備をする必要がある。
一側を弛めるには、眠りを深くする操法も重要となる。部位で言えば、主に後頭部、胸部、アキレス腱、などの操法である。
また、テクニック的なことでいえば、場合によっては一側・三側を交互に繰り返し刺激する方法も、硬直した一側を弛めるのに有効である。(主に胸椎一側)

野口整体の世界では、現代は肝臓の時代だとか、呼吸器の時代だとか言われる。そのどちらも、時代の要請があるのだが、同時にこれからは神経系の調整がどうしても外せないものになってくる。どんどん硬直の度合いを高めていく一側を、どう健全に保っていくかということが、新しい時代に適応していく過渡期にある現代人の、時代の急処となることは間違いない。


放射線の害に対する愉気法

福島第1原発の連続事故は、今なお予断を許さない状況である。
今はただ、仕事とはいえ命がけで事態の悪化を必死にくい止めようとしている自衛隊、警察、消防、現場の東電社員の方々の働きに期待するしかない。

そしてまた、この一連の原発事故による、放射性物質の飛散が心配されている。

果たして、このような事態において整体が役立つことはあるだろうか。

整体では、放射能による悪影響には、盲腸虫垂部に対する愉気が有効であるとしている。
右の下腹部、盲腸のある部分に手を当てて愉気をする。

もう一つは、右の上腹部、肋骨の下縁である。ここは、肝臓のある部位であるが、毒素・有害物質排泄の急所である。

どちらも、その部が弛むまで愉気をする。

愉気□ とは、手を当てて気を集中することであるが、取り立てて特別の事ではなく、誰にでもできる方法である。
お腹が痛ければ、自然とお腹に手が行く。どこかをぶつければ、思わず手を当てる。そういう手当が、愉気である。自分にも、他人に対してもできる。

現実に多量の放射線を浴びてしまった場合には、もちろん化学的(医学的)処置が必要であろう。しかし、放射線に限らず、あらゆるケースで、同じ処置をしても功を奏する場合とそうでない場合がある。
それは、当然のことだが、結果は処置を受ける本人の体の力 (治癒力・復元力・免疫力など) に左右されるからだ。

例えば、アメリカのデータらしい(伝聞である)が、被曝した人でも、汗をかく人は汗をかけない人に比べて予後が良いという。それは、一度吸収してしまった毒素は汗を通して排出されるからである。

どのような場合でも、体の力を最大限に発揮することは、事を有利に進める可能性を高める。
そして、整体とは体の力を高めることが、その本領であり、その根本は愉気である。
愉気をしさえすれば大丈夫、などとは決して言えないが、やらなければゼロであるが、やってみれば可能性は高まる。

難しいことではないし、副作用もない。いざと言う事態になったときには、とりあえず右の下腹部と右の上腹部(肋骨の下縁) に愉気することをお勧めしたい。


「放射能の害を軽減させる整体的アプローチ」

この方法は、“ 整体 放射能 虫垂 ” などで検索すると、イラスト付きで説明している方などもいらっしゃるので、いろいろと探してみるとよいと思う。

1.右の内腿の筋の虫垂と響き合う処を刺激する。
  下(膝の上)から上(腿の付け根)に向かってこすり上げるのでもよい。

2.右の下腹部、虫垂部を心臓に向けて数回擦り上げる、
  もしくは撫で上げるようにして、最後は心臓の方へ
  ちょっと持ち上げるようにして愉気する。
  虫垂部が熱くなったり、ときにズキズキしたりすることもあるが、それでOK.

3.右の肋骨の下に手を当てて愉気。(同時に、虫垂部にも手を当てておいても良い)




身体気法会の柳澤先生が、この緊急事態にやっておくべき処置として、放射線の悪影響を抑制する操法をHPに公開されています。
こちらは、やや専門的ではありますが、整体を学んだことのある人にも参考になる情報であると思います。
ぜひ、ご覧頂きたい。

  □ 身体気法会HP □

現在、事態の収拾のために、多くの専門家が懸命に力を尽くしてくれています。
いたずらに、不安を煽る意図は全くありませんし、各自が落ち着いて対処することが何よりも大切であると思います。
万一の事態に備えての、少しでも生命を守り、そこなわないための、一つの知恵として知っておいていただければと考えます。

また、mixi の 「野口整体+野口晴哉」 コミュニティなどでも、放射線への対処法などの情報が公開されているようです。
ご覧になれる方は、参考にされてみてはいかがでしょうか。

掌心発現

前回、指の付け根をつまんで愉気して手の感覚を敏感に保つ方法を紹介した。
上手に行うと直後から手の感覚が変化するが、その場でスッキリと変わらなくても2日くらいして、「そういえば・・・」 と手に注意を向けてみると、一皮むけたように新鮮な感覚が戻っていることもある。

さて、それぞれの指が体のどこと関係しているかという話だが、大まかに言うと

母指は上肢 ・下肢もしくは脊椎の二側(二側は運動器系である)、人差し指はお腹、中指は頚から上、薬指は胸 、小指は腰及び骨盤

である。

整体では掌心発現という現象を重要視している。これはお腹でも後頭部でもともかく愉気をして感応が深まったときに、どの指かが自然と動き出す現象である。
愉気に感応して、指がピクピクと動いたり、キューっと一本だけ曲がったりするのだ。

赤ちゃんなどは、具合が悪くてもどこが痛いとも苦しいとも言えないので、掌心発現を使って愉気すべき処を見つけるのである。
赤ちゃんは体も小さいので全身探してもたいして時間もかからないが、それでもどのあたりかと見当がつけられれば効率がよいし、その分早く必要な処に愉気をしてあげられる。
もちろん大人でも、本当に悪いところを自覚できる人などそうそういないので、どこに愉気をしていいか分からないときには掌心発現を用いて愉気する場所を絞り込むとよい。

野口晴哉先生の 「健康の自然法」 によると、

掌心感応のあるところ(手の感覚で相手と感応する処)に愉気する。之が何よりのやり方だ。しかし体は広い。掌は狭い。掌心感応の生ずるところを探さねばならない。ところが愉気していると相手の指に感応的な動きが生ずる。その部に感応しているといえる。相手の指に現れる感応的動きで掌心感応の生じやすい部分を求める。之を掌心発現という。」

とある。
そして、その求められた結論は以下のとおりである。

母指 - 四肢
食指 - 腹部
中指 - 頭部
薬指 - 胸部
小指 - 腰部

母指 - 脊髄神経系
食指 - 太陽叢 交感神経
中指 - 中枢神経系
薬指 - 副交感神経系
小指 - 骨盤神経叢

自分に対して行う場合、掌心発現を見極めるのは難しいので、前回の指の圧痛点を手がかりに愉気するとよいポイントを探すのも一つの方法である。

また、掌心発現によってその関連部位に愉気をするというのが本来の方向性だが、関連する指に愉気をして体の特定の部分に影響を及ぼすということも、試してみられると意外な効果を体験されるかもしれない。

手の感覚を敏感にする

整体では触って相手の体の状態を読むことが多いため、手の感覚が鋭敏であることが求められる。
触って読む、という中にはもちろん一般に言われる 「触覚」 ということも含まれるが、愉気を技術の根底に置く整体操法では、それ以前に相手の気を感じ取る 「気の感覚」 が育たないとならない。

整体では、合掌行気法という訓練法があり、これで気の感覚を培う。
合掌行気は、正座し合掌した指先から手に息を吸い込み、指先から吐く。これを繰り返して、指先から手に出入りする気の感覚をつかんでいく。
慣れてきたら、合掌した指先から丹田まで息を吸い、丹田から指先を通して息を吐いていく。

合掌行気をやりこんでいくと、手の感覚が鋭敏になるだけではなく、直感が鋭くなってくる。
広い意味で直感が鋭くなるが、特に愉気や操法における 「手のカン」 が育ってくる。
手に感じる 「感覚」 以前に、「直感」 で愉気をすべきところがフッと分かるようになる。

さて、合掌行気は整体をするものにとっては必須だが、プロとして体を観る立場の場合それだけでは多少心もとない。
生活の中で手の感覚が鈍るときというのは必ずある。
重い荷物を持ったり、日曜大工などをすれば、直ぐに鈍くなる。
食べ過ぎ、飲み過ぎ、寝過ぎ、考え過ぎでも鈍くなる。
などなど・・・。

そういうときに合掌行気にプラスして行うといいのが、指の付け根をつまんで愉気することだ。

手の指の根元を横からはさむようにつまんでみる。
つまんでいると、ジーンとするような圧痛がある指がある。
左右10本の指を調べて、一番圧痛のはっきりしている指を対象に行う。

対象となる指を見つけたら、母指と人差し指もしくは中指でサイドからはさむように根元を押さえて愉気をする。
強くはさむ必要はない。
ジーっと愉気していると、押さえている指の下をニュルッとした小さい何かが通る。
その何かが通ったら終わりでいい。

ニュルッと通るのは何かというと、指で圧迫されて止まっていた血液が、圧迫に負けずになんとかと通ろうと勢いを増してニュルッと通るのだ。
というのだが、実際本当にそうなのかはわからない。
ただ、その何かが通った後は、明らかに手の感じが変わる。
指だけでなく、手から腕まで血行が良くなるのだ。

いつまで愉気していてもヌルッとしたものが通らなかったら、適当なところで終えてもいい。毎回きれいに通るとも限らない。
ニュルでもヌルッでも、通るとはっきりと感覚が変わるが、通らなくてもそれなりに効果はあるので心配はいらない。

これを行うと、指先の怪我なども早く治るし、肩こりや頚の張りなどもラクになることが多い。
また、どの指が体のどこと関係しているという関連はあるのだが、それはまた次回にでも書こうと思う。
とりあえずは、手の感覚を敏感に保つ方法として役立てていただきたい。

整体 ・ “言” 始め

整体という言葉がはじめて使われたのは、いつ頃だろうか。ときどき、「野口整体の創始者である野口晴哉氏が、はじめて『整体』という言葉を使った」という人がいるが、残念ながらそれは違うようだ。

オステオパシー(米国ではカイロプラクティックと並ぶポピュラーな手技療法)を学んだ山田信一という人が、「山田式整体術」と名乗って活躍しはじめたのが大正の中頃である。そして、「山田式整体術講義録」という著作が、大正9年に発行されている。野口氏は、そのころはまだ10歳になるかならないかくらいである。また、長じて野口氏が治療家として名を成したときも、はじめは「整体」ではなく、「野口法」と名乗っていたそうだ。
私が知る限りでは、「整体」という言葉を日本ではじめて公に使ったのは、この山田式整体術であるようだ。もちろん、これは「整体」という言葉がいつ頃使われだしたかという話である。「整体事始め」ではなく、「整体“言”始め」である。

先に、「日本ではじめて・・・」と書いたが、実は中国医学の中にも、“整体” という言葉がある。中医学では、古くから “整体” という言葉が用られていたようだ。しかし、この “整体” は、人体の「統一性」、「全体性」、「調和」といったことを表す概念であり、手技療法としての「整体」という意味はない。
最近、「中国式整体」とか「中医整体」といった看板をよく見かけるが、この「整体」は、もちろん手技療法の「整体」。もともと中国には「整体」という手技療法はないので、「中医学理論に基づいた手技療法」とか、「推拿(中国の手技療法)の手法を用いた整体術」というようなものなのだろう。

野口整体では、「体を整える技術」という名詞としての「整体」のほかに、「整体する(体を整える)」という具合に動詞的にも使う。そしてもう一つ、「整った体」のことも、「整体」という。
野口整体における「整った体」、つまり「整体」は、中医学の “整体” という概念にかなり近い。背骨が真っ直ぐならば体が整っているとか、仰向けで脚の長さがそろっていれば整っているとか、そういう固定的で紋切り型の「整体」ではない。自分らしさという、生命としての個性を発揮しつつ、全体として統一性と調和がある。人間の本来の自然な姿を「整体」と呼ぶのであり、その自然な体に導いていくものが「整体法」なのである。
野口氏が、整骨法でも正体法でもなく、「整体法」と名付けたのは、「整体」という言葉の中にそういう深みを見出したからではないかと、一人想像している。

合掌行気法

愉気というのは、人間に備わっている本能的な癒しの力であるから、当然誰でもおこなうことができる。

しかし、現代人は長い間「手を当てる」という、いわゆる触手療法的な能力を使わずに過ごしてきている。どこかの地方では、親が子供に手を当てることを「親薬」というそうで、今でもそういう習慣が残っているところもあるようだが、最近は多くの家庭では、子どもでも大人でもケガや病気にはともかく薬である。

「手を当てる」ことの効用が忘れられているとともに、その能力も錆びついてきている。「気」を込めるとか、「気」で触るとかいう感覚に、ピンとこない人の方が多い。そこで、手に「気」を集めて、愉気のできる手を作るための方法がある。「合掌行気法(がっしょうぎょうきほう)」という。

整体では、手を当ててそこから「気」を通していくことを愉気(ゆき)というが、自分の体の一部に「気」を集めたり、「気」を通したりすることを「行気」という。合掌行気法とは、合掌した手に意識を集め、「気」に敏感な手を作る方法である。合掌といっても、手の形のことであって、特別宗教的な意味はない。

体というのは、意識を集めると感覚が高まるという性質がある。手に注意を集めて、「気」の出入りを感じ取る訓練をすることで、「気」に対して敏感な手をつくることができる。
合掌行気法をくり返すことで、手の感覚はしだいに鋭敏になってくる。手を体に近づけると、悪いところや愉気を欲しているところがわかるようになる。感覚としてもわかるようになるが、感じるよりも早く、悪いところに自然と手がいくようになる。単に手の感覚だけでなく、「体のカン」が鋭くなるのだろう。

合掌行気法

目の前、もしくは胸の前で、両手の平を近づける。手のひらの間は3㎝ぐらい。
目を閉じて、指先から手の平の真ん中に息を吸い込んで、指先から吐く。もしくは、手の平から吐く。手で呼吸するという「つもり」でおこなう。これを観念呼吸とか、内観的呼吸とかいうが、そういう「つもり」で、いつもより少しゆっくり呼吸し、手から出入りする「気」に注意を集める。
手と手が引き合ってくっついてしまうようなら、そのまま合掌しておこなう。引き合う感じを持ちながら、離したままおこなっても良い。
終えるときは、大きく息を吸い込んで、「ウム」とちょっとの間お腹に息をこらえ、吐き出すときに目を開けて手を下ろす。

おこなう時間は、長ければ良いというものでもない。これは愉気でも同じことだが、集中力が散漫になるようだったら長くやっても意味がないので、集中力の続く範囲でおこなうことが良い。慣れてくると、自然と集注できる時間が長くなる。