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2017年3月19日 (日)

「うつ伏せ」 の続き・・・

先日メインブログの白山治療院通信の方で、「うつ伏せ」 に関する記事を書いた。整体操法では、うつ伏せで両手を体の脇に降ろしてもらった格好になってもらい背骨や骨盤、肩甲骨の状態を調べたり、調整したりする。

腕を降ろしてもらうのは、本来はこの格好が最も力が抜けて背骨などの状態を読みやすいからである。
本来は、というのは、頚椎や胸椎などに問題がある場合、この姿勢が苦痛であることもあるからだ。そうなると、かえって体に力が入ってしまい、上手くいかないこともある。
そういう場合には、腕を自由にしてもらったりして楽な姿勢になってもらうこともあるし、ときにはあえて苦しいその格好で操法することで効果が上がることもある。

腕を降ろしてもらったうつ伏せ姿勢は、すっかり力が抜けているから体の状態を調べやすいというのはその通りなのだが、実はもう一つ操法する側の安全対策の意味もある。

不特定多数の人を操法する立場にある場合、はじめて操法する相手がどういう行動をとるか予測が難しいこともある。
うつ伏せの状態から急に振り返って喋ろうとしたり、何かの刺激から突然体をよじったりすることもないとはいえない。こうしたときに、場合によっては相手の体を押さえていたこちらの手や指を痛めてしまうこともあり得る。

長年操法をしていると、相手の急なくしゃみや、くすぐったいとか痛いとかで体をよじったりすることには大抵反応できるものである。頭で考えるよりも速く、体が反応してその瞬間にスッと力を抜くことができる。
(しかも、くしゃみの速度にぴったり合わせて指を離さずに力を抜いて動くことで、操法の流れを途切れさせずにそのまま何もなかったかのように続けられるものだ)

しかし突然思わぬ行動に出る人の突発的な行動に、いつでも必ず対処できるとは限らない。(そういう人の動きは、生理的反射よりもかえって読みにくいのだ・・・)
こういうことを考えたときに、腕を下げてもらった状態でのうつ伏せというのは、受ける側の人が急に力を入れて動きにくい姿勢なので、まあまあのリスク軽減になるのである。

さて、うつ伏せになってもらうときは、たいてい顔の向きは自由にしてもらう。ただし、胸椎の第5より上は顔を横向きにしていると棘突起が曲がってしまうので、ごく丁寧に調べるときや伏臥のまま操法する場合は、顎を立てるなりして真っ直ぐに向いてもらう。
(普段さらっと背骨を調べるときは、顔の向きによって上部胸椎が回旋していることを考慮して見ている。触った感触で必要があると感じれば、真っ直ぐ向いてもらい細かく調べていく)

ちなみに、第5胸椎の棘突起を挟むように押さえたまま顔を右に左にと向いてもらい、どちらかで強く抵抗が起こるようであれば、胸椎の第1から第5の間に異常があることが多い。
(たいていは顔を向きやすい側に異常がある)

同様に第3胸椎で左右どちらかを向いたときに強く抵抗が起こるようなら、頚椎のどこかに異常があるとみていい。
明らかに頚椎に異常があるのに第3胸椎に抵抗が起こらなかったら、その場合はたいてい第3胸椎そのものに問題がある。

2016年10月12日 (水)

日本の気 中国の気

日本語には、「気」 にまつわる言葉はとても多い。

「元気」、「病気」、「陽気」、「陰気」、「根気」、「暢気」、「本気」、「やる気」、「気持ち」、「気力」、「気丈」、「気まま」、「気軽に」、「気が合う」、「気が散る」、「気が強い」、「気が小さい」、「気がつく」、「気が向く」、「気がある」、「気がはやる」、「気が滅入る」、「気合い」、「気遣い」、「気働き」、「気色」、「気分」 などなど・・・。

挙げていけば切りがないほどだが、日本語に 「気」 に関する言葉が多いのは、昔日の日本人が、目に見える動きに先んじて動く 「気」 の働きを、それこそ五感以前の 「気」 で感じ取っていたということだろう。

これらの 「気」 に関する言葉を見てみると、

・ 「元気」、「病気」 など、体の健康状態に関係すること。

・ 「陽気」、「陰気」、「暢気」、「気が強い」 、「気が弱い」 など、性格や気質に関係すること。

・ 「気が散る」、「気がはやる」、「気遣い」、「気分」 など精神活動に関係すること。

などに大別できるが、日常的に使われる 「気」 言葉は、天気、気象、気体、気流などの [ Weather ] や [ Air ] 関連以外は、多くは人間の生きていることに関わるものである。

 

さて、日本では心のありようを 「気持ち」、というぐらいで、「気」 と 「心」 は分かちがたい概念である。

ところが、日本の漢字の輸入元である中国に目を転じてみると、中国では 「気」 はあまり心の働きとは関係しない。

日本語では、「気がつく」、「気が合う」、「気がはやる」、「気づかい」、「気働き」、のように精神活動に 「気」 を使うが、中国語では、それぞれ 「注意到」、「合得来」、「着急」、「担心」、「机敏」 となる。
中国語では、多くの場合精神の働きに 「意」 や 「心」 は使っても、「気」 は用いられない。日本では、「気は心」 などというが、中国では 「気」 は物質であるので、原則的には心の働きを含んでいないのである。

(空気・気象・気体などの [ Weather ・ Air ]  的な使い方は、日中でほぼ共通している)

たとえば、日本で 「陽気」 といえば、多分に、「性格」、もしくは 「気分」 的な意味合いが含まれているのだが、中国では 「陽気」 は性格のことではなく、哲学的な概念における陰陽の 「陽」 の 「気」 のことを指す。

中国では、気は物質であると考えられている。古代中国(春秋・戦国時代)の哲学者は、宇宙は気が集まってできていると考えた。水蒸気が集まれば水になるように、気が集まれば形になると考えたのだ。さしずめ 「気」 は、物質を形成する最小単位とでもいったところだろうか。

 

整体の愉気は、注意を集めること、すなわち心の集注密度が高まることによっておこなわれる。心、意識の集注によって 「気」 の感応が起こる。

ちなみに、野口整体の世界では、気の集注、意識の集注のように、「集注」 という字を当てるのが専らである。集注という語は、「集中」 の意味でも使われるが、一般的には、「注釈を集めた本」 という意味で使われることが多い。
野口先生が、「集中」 ではなく、「集注」 という字を使われたのは、先生の愉気には単なる [ Concentrate ] だけでない、「集め」、「注ぐ」 という方がしっくりくる感覚があったためかもしれない・・・。

まあ、それはさておき、愉気とは対象に注意を集めることで実現するのだが、中国の鍼灸や気功の世界でも、「意が至れば、気が至る」 という。
(ちなみにこれに続く語は、医学や気功などでは「気が至れば、血が至る」 であり、武術の世界では、「気が至れば、力が至る」 となる)

意識の集注によって気が集まるという点においては、整体でも中国医学でも同様である。しかし、上記のように中国の気には 「心」 は含まれていないので、意識すれば気が集まるというだけであるが、整体の愉気では、そこに 「どういう心理状態で・・・」 ということが問題になってくる。

野口先生の著書には、愉気をするときに、「本当に治るだろうか・・・」、「このまま悪くなってしまったらどうしよう・・・」、といった不安や焦り、気張りなどの心を愉気してはいけない、ということがあちらこちらに書かれている。
不安や心配、焦りなど陰気を愉気しては意味がない、明るく愉しい陽気を愉気しようということが、整体以前の霊術 ・ 療術で用いられていた 「輸気(気を輸る)」 という用語を野口先生が 「愉気」 という言葉に生まれ変わらせたきっかけであるという。

野口先生以前の霊術(による治療術)や療術の世界の 「気」 の概念は、中国の 「気」 や、インドの 「プラーナ」 の影響を受けたものが多かったように見受けられるが、それらを学び整体という体系を作り上げた野口先生は、新たに本来の日本的な 「気」 、心を含んだ 「気」 の世界に立ち返ったのではないかと思う。

さてさて、では愉気をおこなう場合どういう心で向き合えばよいのかといえば、野口先生は 「天心」 ということを説かれた。
すなわち、平静の心、自然のままの心でスッと手を当てる、ということである。不安や心配も雑念だが、「早く良くしてあげよう」 などというのも、一見ポジティブな心の向きに思えるが、それもまた雑念であることに違いはない。
天心とは、生まれたままの心であるという。もっと言えば、生まれる前に意識以前に持っていた心である。

親がケガをした子供に、思わず手を当てる。撫でさする。抱きしめる。また、苦しんでいる人を見るに見かねて、自然と手を当ててしまう。そういう心ならば、天心といえるだろう。

また、子供が一心に遊んでいるときは天心である。そういう時には、「ごはんですよ」 などと呼ばれても気づかない。天心には、そんな自然な集中力もある。

 

整体は、「人間相互の愛情と誠意によっておこなわれる」 とされる。整体操法を生業とするものは、それを基本的な信条として持ちながらも、テクニックとして天心を作り出すこともまた必要になる。
いかに精神修養に努めても、人間である限り体調にも心理状態にも波がある。凡人には、常に聖人のように愛情と誠意に満ち溢れていることは難しい。
しかし、聖人にはなれなくても、瞬時に天心を作り出すことは訓練でできるようになる。大部分は経験の積み重ねであるが、気合法や深息法、活元運動、その他いろいろな精神集中法や呼吸法なども基礎になる。

 

表題の、「日本の気、中国の気」 であるが、もちろん日本人も中国人も同じ人間なのだから、「気」 に違いがあるわけではない。中国人にも愉気はできるし、日本人にも気功の大家はいる。あるのはただ、「気」 に対する思想の違いだけだ。
しかし、認識が変わるだけで、実際におこる現象が変わるのもまた真実なのである。

 

2016年8月24日 (水)

功夫口訣 付記 ~ 言わずもがな ~

武術の世界には、「活殺自在」 という言葉がある。確かに、日本でも中国でも、武術の達人の中に治療術に秀でた人は少なくない。
柔道整復の技術が柔術から来ていることは多くの人の知るところであるし、武術の中には治療術の技術体系を併せ持っている流派もある。

整体操法で 「活点」 と呼ばれる処の多くは、昔日の武術家が、たしなみとして心得ていた「活」 を入れる急処である。
また、整体操法に一部技術が取り入れられている野中操法の創始者 野中豪作氏の師匠は、元々鍋島藩の葉隠れ武士の系譜であったらしい。

かつてオステオパシーの米国人老大家(ロバート・C・フルフォード博士・故人)が、オステオパシーの成立に日本から持ち込まれた江戸時代の柔術の整復術や活法が深く関わっている(元になっているとも)と発言していると聞いたこともある。
これが本当なら、オステオパシーや、オステオパシーに大きな影響を受けて成立したともいわれるカイロプラクティックにも日本の療術・活法の技術が流れ込んでいることになる。だとしたら、明治期にそれらアメリカ発祥の手技療法の影響を受けた日本の療術は、自国の技術をもとに発展したものを逆輸入したことになる。
( オステオパシー 柔術 整復 で検索!)

まあ、もはやこのあたりのことはロマンの世界の話でもあるが、なんにしても治療術と武術には深いつながりがある。

 

ただし、突き詰めれば通底する部分のある治療術と武術であり、その融合を謳う流派もあるが、本来的な目的からすればそれぞれ全く別のものである。
片や人を生かし、活かす技術であり、片や相手を倒し、殺める技術である。

言わずもがなではあるが、素人が安易に武術を手技に取り入れようとしても失敗することもある。まさに生兵法は怪我の基である。

私の体験でも、武術で習い覚えたことをすぐに操法に転用しようとしても、たいていはうまくいかなかった。ときには、かえって操法が乱れることもあった。
武術を操法に生かそうと考えるならば、本来は武術は武術として修練して、いつの間にかその中の何かが操法に活きてくる、というのが理想的だろう。

このブログで功夫口訣と題してご紹介した身体操作の骨(コツ)は、一応汎用性のあるものを選んだつもりである。つまり中国武術の口伝秘訣の中でも、比較的操法の身体操作にも取り入れやすいものばかりだと思う。
しかし、なにしろ武術の身法を題材にしているので、大きな力を用いるイメージがついて回るおそれもある。
整体操法にはほとんど力は必要ないので、もし参考にされる方がいたら、力まず繊細な感覚で運用していただきたい。まさに、意を用いて力を用いず、で・・・。

蛇足のついでに、もう一つ。

ずいぶん分かった風に書いているが、残念ながら決して私は武術の達人ではないので、誤解されませんよう・・・。 念のため。

2016年8月 5日 (金)

功夫口訣7 ~ 用意不用力 ~

功夫口訣のラストは、「用意不用力」、すなわち 「意を用いて、力を用いず」 である。

中国武術、特に内家拳(内功拳)では、「用意不用力」 を重視している。つまりは、打つ、蹴る、受ける、投げるなどの攻防技術において、「力」 でおこなおうとしてはいけないということである。

力でなくて何でおこなうのだといえば、「意」 を用いよ、という。

「意」 を用いるということの一つは、体のコントロールを正しくおこなうには、「意」 が動いて体がそれに添って自然に動くようにするということである。

たとえば、相手を打とうとするときに 「力」 で打とうとすれば、腕に力みが生じてしまい、スピードも落ちるし、腕だけの力しか使うことができない。
これに対して、打つという 「意」 が起こり、その 「意」 に添って体がコントロールされると、無駄な力みも生じず、体全体が連動して全身の力で打つことができる。
打つ、受ける、投げる、どんな技術でも、力は必要だが、力みは大敵である。力めばかえって部分の力に頼ることになり、全身の連動が断ち切られてしまう。

武術の練習において、また実際の運用においても、「意」 を用いて 「力」 を用いないことが正しい技をつくり、またそれを支えていくのである。

 

そしてその先にあるのは、意識以前の心の働きに反応して体が動くということである。

武術の攻防の間とは瞬きの間であるから、思った時には、いや思う前に体が動いていなければならない。打とうと思ったときには、すでに打っているという早さ・速さが求められるのだ。

そもそも、力んでいては簡単に相手に動きを読まれてしまう。力めば力むほど、その力みは相手へのサインとなり、こちらの動きは相手に読まれやすくなる。打撃でも組技でも、力んでしまうと、それはもう相手の思うつぼなのである。

相手の意識以前の心の働きに反応し、こちらも意識以前の働きで対処するのが武術の世界では当たり前の感覚なのだ。

 

これは整体操法でも同様だ。例えば相手の呼吸を読んで、息を吐いてから吸うまでの呼吸の間隙、また吐ききってから吸ってくる、その吸いの頭をとらえるなどということは、頭で考えていてはできるものではない。
ブルース・リーではないが、「 Don’t Think! Feel! (考えるな! 感じるんだ!)」 である。

整体操法では、技術の上で力というほどの力はほとんど必要ない。必要とされるのは、どちらかといえば感じ取る能力であり、その上で感じたままに自由に動ける体である。

操法とは操る法と書くだけあって、相手の身体や呼吸、感覚を操る能力が必要とされる。その操るに当たって重要な要素が、「機」、「度」、「間」、である。
整体操法とは、「機」、「度」、「間」、すなわち 「タイミング」、「度合い」、「時間的・空間的な間」 の制御によって、相手の体を操り変化を呼び起こす技術、ということになる。

「機」、「度」、「間」、を活かす、そのどれもが力づくとは全く対照的な世界での働きである。

 

脊椎のすぐ際を上下に走る細い筋肉の繊維が並ぶラインを、脊椎の一側と呼ぶ。一側は狭い領域だが、そのなかに読みとるべき情報はとても多い。
一側はデリケートで、こちらの指に力が入っていると、受け手も緊張して力が入ってしまい、その状態を読むことが難しくなる。
押さえてみて解らないと、ますます指先に力が入ってしまいがちだが、力が入るほど相手の体も固まってしまい、ますますわからなくなってしまう。

一側は狭い、それに比して指は太い。しかし、どんなに狭い領域でも、意識はその隙間に入っていける。
小さい子供の狭い狭い一側でも、力を抜いて指をあてて意識を集中させていくと、その狭い一側の中に広い空間を感じ取ることができる。

意識を集中すると、時間も長くなるし、空間も広がる。呼吸の間隙というごくごく短い時間も、意識を集中すると長く感じられる。狭く小さな範囲でも、意識を集中すると急に広く感じられる。

意識の集中は、感覚領域を大幅に広げてくれる。指で触って処の状況を読むということも、実際は触っている指先を通して 「気」 の感覚で内部の状態を把握しているということである。
整体の世界では、「気」 を集めて触ると分かる、というが、「気」 を集めるということは、意識を集中するとも言い換えられる。

意識を集中する、気を集中する、意識を集中すると気が集まる・・・。いろいろな言い方をするが、「意」、と 「気」 の定義や関係性については、良いとも悪いとも言えないが、中国の医学・気功・武術の世界では割としっかり理論化されている。それに比べると日本では、どちらかというとだいぶ感覚的に使われているようである。

とまれ、「意を用いて、力を用いず」。これもまた、整体操法の世界でも役に立つ口訣と言ってよいだろう。

2016年7月25日 (月)

「手こひ腹あせ膝くしむ」 その2

体の一部に意識を置くことで、そこを起点として体を自由に伸び伸びと滑らかに使うことができる。その起点となる箇所の見つけ方が、前回の10種類の検査法である。
あとはその部位を意識して動くだけでいい。

体の調子を取っている特定の部位は、同一人でいつも同じというわけではなく、その焦点は移り変わる。それは、野口整体の 「体勢の移り変わり」 にも通じるところがあるかもしれない。

高橋氏によると、検査法をおこなうのは朝食後が最適であるという。

これを行う時間は、朝食後が最適である。即ちその日一日の行動に必要なからだの使い方の、意識して主眼とすべき箇所を、まず最初に見出さんがためである。
また食後は寝起き当時に比し、からだに変化が生じ、その状態が大体その日一日の基準となるからである。

また、

衝突したり、或は精神上に重大なる衝撃を受けたり、または天候や気温が急変した場合等には、しばしばからだに変動を生じ、主とすべき点もこれに従って変化する場合がある。睡眠や入浴もまた身体の使い方に変化を生ぜしめることが多い。

とのことである。

 

慣れてしまえば、この検査法にこだわらなくても、その日の焦点となる箇所は見つけられるようになる。

私は治療院までの通勤が徒歩で20分くらいなのだが、その20分の中でその日の体調を知り、また調整しながら歩いている。
この時に、ついでに 「手こひ腹あせ膝くしむ」 の順に意識を置いてみて、その日の動きの焦点を見つけている。

 

体のどこを中心として動くのか、もしくはどこが起点となって全体を主導するのかということは、それぞれの身体技法の中で基礎として決まっていることが多い。
楊式太極拳などでは、上級になると手が体を導くようになる。意拳では、頭が全身を率いていく、という。そして、整体操法では、丹田を中心に動いていくことが基本となっている。

それぞれの流儀で中心もしくは起点となる部分は決まっているのだが、生理的に体の 「調子」 がそこにないときは、なかなかうまく動けないことがある。そんなときに、この正体術を利用すると、無理なくスムーズに体を運用できることがある。
流儀の求める動きの作法はもちろん重要なものであり、それをないがしろににするわけにはいかないが、流儀の求める動きの中心は基本的に意識しつつ、正体術の教える中心を同時に用いていけばよりフレキシブルに体を運用することができる。
二つの部位を同時に意識するというのはちょっと難しいような話だが、もともと普段から意識している流儀の定める中心はすでに潜在的に意識されているので、実際はそう難しいことではない。
一見ダブルスタンダードのようではあるが、そもそも人間は矛盾を含んだ存在であるのだから、そのあたりは臨機応変でよいのだと思う。

 

さて、この正体術の効用は、その場で動きのパフォーマンスが向上するというだけではない。長い目で見ての効果の方に正体術としての真骨頂がある。

この方法によって得られた正しい体の使い方を習得することによって、当然誤った体の使い方によって体を壊すリスクは大幅に少なくなる。
同時に、体を正しく自然に使うことを通して、より健全な体の発達を促すことができる。体は正しく使い、正しく休めれば、使うほどに強くなるのだ。

2016年7月19日 (火)

「手こひ腹あせ膝くしむ」 その1

このブログではあちらこちら部分を切り取って身体操作の骨(コツ)らしきものを紹介してきたが、実際に整体操法で運用する場合に果たしてどこを主として意識すればいいのかということがある。

足の親指なのか、肩甲骨なのか、重心を落とすことなのか、はたまた股関節を弛めることなのか・・・。
もちろん、操法は丹田を中心に動くということが大前提としてあるので、そこをないがしろにはできないが、それはそれとして、その時々の自分の身体操作の思うようにならない部分を改善する手立てとして、「足は親指、手は小指」 のようなある種の骨を適宜運用すれば、操法の上達やコンディションの調整に役立てることができるのではないだろうか。

 

操法に限らず身体運動では、最後は全体性ということが求められる。部分の加算ではなく、全体として 「一」 であるということだ。
それはあらゆる芸事や武道・武術でも理想としているところであるが、常にそのように動ける心身を作り上げ保ち続けるのはやはり至難の業である。
しかし、全体をリードする動きの起点となる部位を特定することで、かえって全体性を保って動くことができるという面がある。今から半世紀以上も前に、その原理に気づき、研究し、体を一つに使う方法として提示していた療術家がいる。正体術の創始者、高橋迪雄氏である。 

高橋迪雄氏は、大正から昭和の初期に正体術普及協会を通して活躍された人物である。正体術に関してはここでは詳しく述べないが、骨格の不正をただす一種の瞬間的脱力体操で、橋本敬三氏は正体術をもとに 「操体法」 をつくったともいわれ、また野口整体の 「矯体操法」 や 「整体体操」 にも大きな影響を与えているであろうことが見て取れる。

さて、その体を一つに使うための方法とは、体のある一部位に意識を置き、そこを起点として動いていくというまことにシンプルな方法である。
体はその時々によって動きの焦点となる部分が存在していて、その部分に先導させて体を使うことで、自然な動きが導き出されるというものだ。
最近のボディワークなどでは、あまり珍しくない手法なのかもしれないが、この時代にすでにこうした理論と方法論を提唱していたことには少なからず驚きを感じる。

その動きの起点となる体の部分を見つけ出すための方法があり、それはうつ伏せの姿勢で腕を体側に沿って手の平を下にして置き、いわゆる背筋運動のように体を反るようにする。(手の平も床を離れ、持ち上げる)
手、腰、肘、腹、などの部分それぞれに意識を置いてその姿勢を取ろうとしてみると、何の苦も無くスッと形が取れる瞬間がある。例えば手を意識しながら体を反らしたときが最も楽に体が反れるとしたら、そのときの体の動きの中心は手にあるということなのだ。

このブログ記事のタイトル 「手こひ腹あせ膝くしむ」 とは、「手首・腰・肘・腹・足首・背・膝・首(頭)・尻・胸」 の10部位のことであり、この順番にテストをしていくことで動きの焦点を見つけていく。
この順番にも意味があり、検査をする上でなるべく近接する部位が順番的に並ばないようにしてあるのだ。
氏曰く、

1より10に至る順序は指定通りに励行されたい。お互いに相へだてたる部分を組み合わせたのは、意識する場合の混乱を防ぐためで、かなりの苦心を払って構成したものである。

高橋氏は、この順番を

記憶の便宜上これを 「手こひ腹あせ膝くしむ」 と唱えて、呪文のように口癖にしておくことが望ましい。

と言っておられる。(「正体術」 たにぐち書店)

検査法のやり方と、見つけた焦点の使い方について書かれたところを二つほど引用してみる。(同上)

(一)手首に意識を置く

やりかた

ゆっくりと、うつ向きに寝て手首を上図の位置まで上げようとする。その時他の部分も自然に上図の形になれば、その時は手首が主となっている場合である。中図や下図のように、手首のみが上がり、他の全身各部分がこれに伴わないのは、この時調子が手にない証拠である。

適用法

調子が手にある場合には、何事も手首でやるつもりで行動する。例えば歩くには手首さえ振るつもりで行けば、全身が自然に前へ出ることになる。坐るには手首を腿のつけ根に置く。こうして万事手首を先頭に使う気持ちで行動すればよろしい。即ち物を持って行動する場合にも、手首に意識を置く。

 

(四)腹に意識を置く

やりかた

上図の通り、臍と恥骨の間を伸ばすような気持ちで、腹を下に押しつける。腹に調子がある場合には、全身が我しらず上図のような形になる。下図は調子が腹にない時の一例で、各部分が上図のようにはならない。動作が一致しないわけである。

適用法

腹に意識を置いて行動すれば、全身各部分は自然にこれに伴う。古来臍下丹田に心を据えるというのは、この場合をいう。しかし調子が腹にない場合は、いかに臍下丹田に心を凝らしても、思うように自在に行動するわけには行かない。

文中に上図、下図などとあるように、「正体術」(たにぐち書店)の中には、検査法が図で示されている。
検査法の体を反らす最終姿勢は、実は全てが同じではない。どこに意識を置くかによって、微妙に完成形は異なる。
このあたりの細かいところが、高橋氏の観察力が窺えるところであり、同時にこのシステムの完成度の高さを示しているところでもあろう。

2016年6月22日 (水)

功夫口訣6 ~ 謹防三害 ~

八卦掌鍛錬の重要な口訣に、「謹防三害」 というものがある。三害とは、鍛錬において必ず避けるべき三つの悪癖のことで、「努気」、「努力」、「挺胸収腹」 である。

「努気」 とは、息を詰めて気を凝らすことである。野口整体では鳩尾(みぞおち)を腹部第1調律点と呼び、ここが弛んで力が抜けていることを以って体が整っていることの一つの指標にするが、武術でも鳩尾を固くして息が腹に降りてこないような状態で鍛錬することは健康を害することして厳に戒めている。

「努力」 は、目標達成のための精神的もしくは身体的な活動、のことではなく、手足のなど局部的な筋力に頼った力を指す。つまりは、力んで行う、力ずくで行うことを戒めている。
力みは、やはり呼吸が止まりやすく、気が閊え、血流を阻害する。健康になることも武術を練習する一つの目的である。技術的にも、健康面でも、力みは大敵なのである。
また、努力は拙力・蛮力ともいう。武術で使われる力は、体全体を統合的に使うことで出る力だ。全身の各部が必要な運動を分担し、それが有機的に統合されて発揮される力で、拙力・蛮力に対して、「整勁」 と呼ばれる。(※ 「勁」 は力のこと)

「挺胸収腹」 は、軍隊式の胸を大きく張り出した姿勢を思い浮かべると近いだろう。もしくは、大胸筋を誇示するボディビルダーのポージングのような感じだろうか。
収腹は提腹ともいい、つまりは腹をへこませて引き上げながら胸を前方に張り出す姿勢のことをいう。
この姿勢の何が悪いかというと、肩をはじめとする上半身が力んでしまい動きが不自由になることと、やはり鳩尾がつまって気が丹田に降りないことである。

つまり謹防三害は、「鳩尾を固くして、息が下腹部に入ってこない、力んだ状態」 を、角度を変えて三つのパターンで戒めているわけである。

整体操法をおこなう場合、術者側も鳩尾が弛んで下腹(丹田)が充実した状態であらねばならない。

整体操法をおこなう側も生きている人間であるので、好調・不調、体の波・気の波も当然ある。自分でどう調整しても鳩尾が固く、丹田に息が下りない時には、瞬間的な速度を必要とする矯正とか頸椎部に対するデリケートな操法などは避けることにしている。
体が自分の思ったように動かないからだ。

鳩尾が弛むのと丹田が充実するのはワンセットで、下腹が充実していても、鳩尾が固かったら良い状態ではない。
呼吸法などをやる場合でも、必ず鳩尾が固くならないように気をつけなければならない。

2016年6月10日 (金)

功夫口訣5 ~ 十趾抓地 ~

中国武術では、架式(立ち方・姿勢)、歩法において、「十趾抓地」 ということをいう。「十趾抓地」 とは、足指で地面をつかむということである。
「抓」 は、日本語では 「つまむ」 とか 「つねる」 だが、中国語で 「つかむ」 の他に、「捕らえる」、「引っ掻く」 という意味もある。

功夫には、空手の騎馬立ちのルーツともいわれる 「馬歩」 という架式がある。流派によって多少違いがあるが、例えば伝統的な少林拳では、両足の幅は肩幅の1.5倍(もしくは足三長分)、足は平行にしてつま先を開かない。大腿部が地面と平行になるまで腰を落とす。体は前傾させず、膝は足先を出ない。さらに両膝は、外に張り出すように開く。

Yahoo!の画像検索で探すと、馬歩の画像 がたくさん出るが、正しい馬歩の要求を満たしているものはほとんどない。以前BSで武井壮が少林寺に行って拳法修行を体験する番組がやっていたが、一般的な運動能力としては抜群であろう彼も、馬歩は全く形も取れていなかった。武術には、スポーツとはまた違った体の使い方があるということだ。

この馬歩という一般的な運動理論から大きく逸脱した一見無理な体勢を取るためには、趾(あしゆび)で大地をつかまなければならない。しかも、特に小趾側で大きく巻き込むようにつかめないと、壁にもたれない空気椅子のごとき不自然で不可思議な架式をとることができない。(母趾は外を踏み、小趾は内をつかみ、土踏まずは虚を含む)
小趾側といっても、目に見えている小趾だけでは全くの力不足であり、全身とのつながりも弱い。大地をつかむ趾は、見た目の趾からさらに足の中に入った中足骨までを趾として使えなければならない。

 

手も足もそうだが、そもそも見た目に分かれている指は本来の指よりも短い。手で言うならば、手の平側から見て指の付け根の関節を曲げてみると、実際に曲がっているのは見た目の指の付け根よりも下で、手相でいう感情線あたりから曲がるのがわかる。つまり、骨格的には指の付け根は、見た目よりもずっと深いところにあることになる。つまり、指は見た目よりも、もう少し長いということだ。

更に手の中には、指の延長に中手骨という 「隠れた指」 がある。親指の付け根と小指の付け根をつけようとしてみると、手の平の大部分が動いて指が寄っていくのがわかる。手の平がすぼまる感じだ。手の平の中の隠れた指が動いているために、こういう動きが可能になっているのだ。
こう見ると、指の付け根は手根骨ということになる。骨格的には(機能的にも)、手の平に指がついているのではなく、手の平の付け根の手根骨から指は伸びているというのが本来の在りようである。

 

20年ほど前になるか、とあるアレキサンダー・テクニーク関連の本を読んだときに、体の地図ということが書いてあった。間違った体の地図を使っている人は、つまり自分の身体の構造に対する認識が間違っている人は、不自然な体の使い方になるということが書かれていた。
このことを知ったのは、当時の私にとっては、大きく目を開かされる出来事だった。大げさではなく、まさに青天の霹靂であった。それ以来、自分の体の測量と地図の書き直し作業を楽しみながら延々と続けて今に至っている。

ピアノを弾くのでも、体の地図が間違っている人は、目に見えている指だけを動かそうとするので、指が滑らかに動かない。指が感情線あたりから曲がるという感覚のある人は、楽に弾くことができる。更に指は中手骨から動くという感覚がある人は、もっと指を自由に使うことができる。
プロのピアニストなどは、当然のように中手骨、もっと言えばその付け根の手根骨まで駆使して演奏しているのだろう。

整体操法の手の内も同様で、操法が様になってくるころには、自然と手の中を細かく使うようになっている。

 

さて、話を足に戻すと、趾を中足骨まで繋いで使うということは、更に進んで踵から趾先までを有機的、合目的的に一つに使えるところまで行き着く。要求通りに馬歩の体勢が取れるには、ここに至らなければ難しい。
以前、足裏の 「縦のアーチ」 と 「横のアーチ」 に備わっている 「弾力」、「支持力」 を上手く使って操作するというようなことを書いたが、これはまさに足の裏を踵から趾先までを一体化させて使っている状態である。

よく足指でタオルをたぐり寄せる運動を推奨している人がいるが、ここで言っている足指を活かすというのは、ただ足指だけをもぞもぞと動かすということではない。もちろん足指が自由に動くに越したことはなく、足指が自由に動けば気持ちもいいし健康にもいいが、身体運動の全体的なパフォーマンスの向上にはそれほど繋がらない。(といっても、動かなければ活かしようもないのだけれど・・・)
例えば、力士が押されまいとして踏ん張るときに、足指で土俵をつかむような動きをするだろうか。それではかえって力を失い押し込まれてしまうだろう。それよりも、踵から指先までを一体化させて土俵に張り付くようにするのではないだろうか。
足指が使えるというは、まさにこういうことで、足が踵から指先まで繋がって働けるということである。

「十趾抓地」 は、手で例えるなら、手の平に余る大きなボール、バスケットボールやビーチボールのようなものを手全体で張り付かせるようにつかむ様に似ているかもしれない。

以前足首の締めということを書いたら、「脛の下の方(足首の上)に力を入れるのですか?」、と訊かれて不覚にも一瞬固まってしまったのだが、足首の締めと呼んでいる操作は、どちらかというと足裏の操作といった方が近く、上記のアーチの支持力や 「十趾抓地」 の別表現といっても当たらずとも遠からずである。

ちなみに手首の締めも同様で、手指の張りと掴みの拮抗、すなわちバスケットボールを張り付かせるように掴むような操作をするときに手首あたりに生じる感覚を表現している。

2016年6月 3日 (金)

功夫口訣4 ~ 上顎を収める ~

八卦掌では、上顎を収める、という口訣がある。もう少し詳しくいえば、上顎を後方へ向けてわずかに収める、すなわち後方へ引くということである。

よく武道・武術やスポーツの世界で、「顎を引け!」 と指導されることがある。この場合、多くは下顎を引いて顎先を首に近づける動作のことをいっている。
もちろん顎が上がり前へ出てしまうような状態であれば、下顎を引くことにも意味があるが、より高いパフォーマンスを目指すための身体操作としては、今ひとつの指導法である。

下顎を大きく引いてしまうと、当然ながら顔が俯いてしまうことになる。こうなると、頚は固まってしまうし、当然ながら目も上目遣いとなり、視野を広く取ることができない。
そこで、下顎ではなく上顎を引くように意識すると、下顎を引いたときのデメリットを減らし、下顎を引かせて実現させようとしているであろうメリットを得ることができる。

上顎を適度に後方へ引くと、頚は無理なく真っ直ぐになり、二目平視も守られる。合わせて、頭のてっぺんを上から吊られるようにすると、頚は自然に柔らかく伸びる。これを、「懸頂」 という。

頚が固まると、体の動きの自由度は確実に下がってしまう。上顎をやや後方へ引きながら、同時に頭頂を上から吊り上げられて(吊り下げられて)いるようにイメージすることで、頚(から下の身体)は 「重たい頭」 を理想定なポジションで支えることができる。
理想的なポジションとは、身体の構造的に最も少ない力で頭を支えることができる骨格(と筋肉)の位置関係という意味である。

「重たい頭」 を支えるのに力を費やさなくてよくなると、まずは頚が開放される。そしてその結果として、肩の力も抜け、胸の縮みが取れ、腕は自由になり、また当然ながら頚椎から連なる背骨全体の自由度も上がる。
胸がゆるんで広がることで、呼吸も楽になる。そして呼吸が楽になり、深い呼吸ができるようになると、自然と精神も落ち着き集中力が増す。

下顎ではなく、上顎を引く。これは武術の上でも重要な秘訣であるが、整体操法をはじめ、あらゆる身体技法においても、知ればすぐに役立つ便利な身体操作法ではなかろうか。

もちろん、ある程度の想像力と、ある程度イメージ通りに動く体は必要ではあるだろうが・・・。

愁猴の身

宮本武蔵の 「五輪の書」 水の巻に、「愁猴の身」  ということが書かれている。愁猴(しゅうこう)とは、手の短い猿のことである。

これは、剣術などで体を相手に寄せていくときに、素早く相手に身を寄せる呼吸についての教えである。
手を前に出そうとすると、どうしても体が遠のいてしまうので、素早く身を寄せるときには、手を出さずに体から寄らなければならない、ということだ。

 

さて、前回の 「通臂猿猴」 と、今回の 「愁猴の身」 では、ある意味反対のことを言っているようにも思える。一方は左右の腕を一本につないでテナガザルのように腕を長く使うことをいい、もう一方は手の短い猿のように動けという。
しかし、当然のことながら体の使い方というのは、こうと一つに決まったものではない。あらゆるシチュエーションで、また同一の場面でも、一見矛盾したり、反対に思えるような使い方がそれぞれ有効であることは全く珍しいことではない。

 

腕を肩甲骨までと意識して使えば、長く自由に使うことができる。フィギア・スケートの羽生結弦選手などを見ると、もともと長い腕が、更に長く使えているのがよくわかるだろう。

腕に焦点を当てて考えると、肩甲骨までが腕といえる。それを背中でつなぐことで、一本の長い腕として使うこともできる。しかし、体幹を基準に考えると、逆に肩甲骨は体幹の力を腕に伝えるための 「体幹部の重要なパーツ」 ともなる。
確か、「胴体力」 の提唱者である故・伊藤昇氏は、腕は肘まで脚は膝までが胴体であるといっていたように記憶するが、丹田を中心に腰腹部に力が集まり、体を一つに使おうとすると、つまり体幹をベースに動きを組み立てると、感覚的には腕は逆に短くなり、そのかわり体の一体感は増す傾向にある。
下肢も同様で、骨盤の腸骨(大腿骨との間に股関節を構成する)までが脚だと想えば、足を長く使うことができる。ファッションモデルなどには、必須の身体使いであろう。
反対に、腹腰ベースに体を使えば、重心が下がり安定し、骨盤のすぐ下に直接足(足部・foot)があるかのように使うこともできる。

もちろん、これは器用・不器用の問題でもあり、身体操作の習熟度にもよるものであるが、体幹ベースと四肢ベースのどちらも使いこなせるようになるし、その配分も時に応じて自由に案配すればよいことなのだ。

肩甲骨から上腕骨までは、腕でもあり体幹でもある。骨盤から大腿部にかけては、脚でもあり体幹でもある。つまり、上肢・下肢の根節は、胴体と四肢の機能がオーバーラップしている部分ということができる。
この体遣いの多層的・重層的な割り切れない曖昧な部分こそが、体の自由度、心(感覚・意識)の自由度の現われであり、まさに身体操作の面白いところなのだ。

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