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2016年10月

2016年10月12日 (水)

日本の気 中国の気

日本語には、「気」 にまつわる言葉はとても多い。

「元気」、「病気」、「陽気」、「陰気」、「根気」、「暢気」、「本気」、「やる気」、「気持ち」、「気力」、「気丈」、「気まま」、「気軽に」、「気が合う」、「気が散る」、「気が強い」、「気が小さい」、「気がつく」、「気が向く」、「気がある」、「気がはやる」、「気が滅入る」、「気合い」、「気遣い」、「気働き」、「気色」、「気分」 などなど・・・。

挙げていけば切りがないほどだが、日本語に 「気」 に関する言葉が多いのは、昔日の日本人が、目に見える動きに先んじて動く 「気」 の働きを、それこそ五感以前の 「気」 で感じ取っていたということだろう。

これらの 「気」 に関する言葉を見てみると、

・ 「元気」、「病気」 など、体の健康状態に関係すること。

・ 「陽気」、「陰気」、「暢気」、「気が強い」 、「気が弱い」 など、性格や気質に関係すること。

・ 「気が散る」、「気がはやる」、「気遣い」、「気分」 など精神活動に関係すること。

などに大別できるが、日常的に使われる 「気」 言葉は、天気、気象、気体、気流などの [ Weather ] や [ Air ] 関連以外は、多くは人間の生きていることに関わるものである。

 

さて、日本では心のありようを 「気持ち」、というぐらいで、「気」 と 「心」 は分かちがたい概念である。

ところが、日本の漢字の輸入元である中国に目を転じてみると、中国では 「気」 はあまり心の働きとは関係しない。

日本語では、「気がつく」、「気が合う」、「気がはやる」、「気づかい」、「気働き」、のように精神活動に 「気」 を使うが、中国語では、それぞれ 「注意到」、「合得来」、「着急」、「担心」、「机敏」 となる。
中国語では、多くの場合精神の働きに 「意」 や 「心」 は使っても、「気」 は用いられない。日本では、「気は心」 などというが、中国では 「気」 は物質であるので、原則的には心の働きを含んでいないのである。

(空気・気象・気体などの [ Weather ・ Air ]  的な使い方は、日中でほぼ共通している)

たとえば、日本で 「陽気」 といえば、多分に、「性格」、もしくは 「気分」 的な意味合いが含まれているのだが、中国では 「陽気」 は性格のことではなく、哲学的な概念における陰陽の 「陽」 の 「気」 のことを指す。

中国では、気は物質であると考えられている。古代中国(春秋・戦国時代)の哲学者は、宇宙は気が集まってできていると考えた。水蒸気が集まれば水になるように、気が集まれば形になると考えたのだ。さしずめ 「気」 は、物質を形成する最小単位とでもいったところだろうか。

 

整体の愉気は、注意を集めること、すなわち心の集注密度が高まることによっておこなわれる。心、意識の集注によって 「気」 の感応が起こる。

ちなみに、野口整体の世界では、気の集注、意識の集注のように、「集注」 という字を当てるのが専らである。集注という語は、「集中」 の意味でも使われるが、一般的には、「注釈を集めた本」 という意味で使われることが多い。
野口先生が、「集中」 ではなく、「集注」 という字を使われたのは、先生の愉気には単なる [ Concentrate ] だけでない、「集め」、「注ぐ」 という方がしっくりくる感覚があったためかもしれない・・・。

まあ、それはさておき、愉気とは対象に注意を集めることで実現するのだが、中国の鍼灸や気功の世界でも、「意が至れば、気が至る」 という。
(ちなみにこれに続く語は、医学や気功などでは「気が至れば、血が至る」 であり、武術の世界では、「気が至れば、力が至る」 となる)

意識の集注によって気が集まるという点においては、整体でも中国医学でも同様である。しかし、上記のように中国の気には 「心」 は含まれていないので、意識すれば気が集まるというだけであるが、整体の愉気では、そこに 「どういう心理状態で・・・」 ということが問題になってくる。

野口先生の著書には、愉気をするときに、「本当に治るだろうか・・・」、「このまま悪くなってしまったらどうしよう・・・」、といった不安や焦り、気張りなどの心を愉気してはいけない、ということがあちらこちらに書かれている。
不安や心配、焦りなど陰気を愉気しては意味がない、明るく愉しい陽気を愉気しようということが、整体以前の霊術 ・ 療術で用いられていた 「輸気(気を輸る)」 という用語を野口先生が 「愉気」 という言葉に生まれ変わらせたきっかけであるという。

野口先生以前の霊術(による治療術)や療術の世界の 「気」 の概念は、中国の 「気」 や、インドの 「プラーナ」 の影響を受けたものが多かったように見受けられるが、それらを学び整体という体系を作り上げた野口先生は、新たに本来の日本的な 「気」 、心を含んだ 「気」 の世界に立ち返ったのではないかと思う。

さてさて、では愉気をおこなう場合どういう心で向き合えばよいのかといえば、野口先生は 「天心」 ということを説かれた。
すなわち、平静の心、自然のままの心でスッと手を当てる、ということである。不安や心配も雑念だが、「早く良くしてあげよう」 などというのも、一見ポジティブな心の向きに思えるが、それもまた雑念であることに違いはない。
天心とは、生まれたままの心であるという。もっと言えば、生まれる前に意識以前に持っていた心である。

親がケガをした子供に、思わず手を当てる。撫でさする。抱きしめる。また、苦しんでいる人を見るに見かねて、自然と手を当ててしまう。そういう心ならば、天心といえるだろう。

また、子供が一心に遊んでいるときは天心である。そういう時には、「ごはんですよ」 などと呼ばれても気づかない。天心には、そんな自然な集中力もある。

 

整体は、「人間相互の愛情と誠意によっておこなわれる」 とされる。整体操法を生業とするものは、それを基本的な信条として持ちながらも、テクニックとして天心を作り出すこともまた必要になる。
いかに精神修養に努めても、人間である限り体調にも心理状態にも波がある。凡人には、常に聖人のように愛情と誠意に満ち溢れていることは難しい。
しかし、聖人にはなれなくても、瞬時に天心を作り出すことは訓練でできるようになる。大部分は経験の積み重ねであるが、気合法や深息法、活元運動、その他いろいろな精神集中法や呼吸法なども基礎になる。

 

表題の、「日本の気、中国の気」 であるが、もちろん日本人も中国人も同じ人間なのだから、「気」 に違いがあるわけではない。中国人にも愉気はできるし、日本人にも気功の大家はいる。あるのはただ、「気」 に対する思想の違いだけだ。
しかし、認識が変わるだけで、実際におこる現象が変わるのもまた真実なのである。

 

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