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2018年10月 1日 (月)

「整体操法読本 巻一」を読む その4

「制定委員長報告」の項は、以下のような一文から始まる。

“ 整体操法制定の為選ばれた委員は現代行はれる手技療術の各部を代表せる大家であるが、その説くこと主張することを聞くと、どの人の主張にも表現は異なるが共通しているものがあることが判つた ”

それはどういうことかというと、身体外部から触ることができる体のある場所に、体内の異常を触知できる反応(硬結・弛緩・圧痛・過敏・硬直など)が現れるということ。
そして、その体表から触知できる異常を解除することで操法の目的を達成しようとしていることは、みなに共通しているということである。

“ ヘッドはその発見した近く過敏帯に最高部があるといひ、アブラハムは一定の内臓の異常が一定の脊椎に圧痛点が現れることを説いているが、ヘッドの説によれば皮膚は内臓の鏡だし、アブラハム説によれば脊椎は内臓反射によつて記るされた書物だといへないことは無い。カイロープラクテイツクはその生命の報告を椎骨の位置で読み、野中氏はその健康線で聞き、柴田氏はそれを足趾に見るが、要するに生命の報告に基づいて操法しているといふことに於いては一致している。
しがもその異常の報告点は押圧その他の手技を加へられると快に感じるものであり、その快を破るやうな操法はしない。皆身体外部から手指による調整的技術を行つている。そして快は体の要求の適の総合感覚であるから、手技療術は一言にいへば生命の報告によつてその要求に基いて操法する手指の技術といふことになる。
そして或る人は頭のその変に対する調整的技術で全身の異和(ママ)を除き、或る人は足趾又脊椎、又腹に行ふ操法によつて全身の異常をの除く力を体に現はすのだから、その技術が合目的に行はれ、その結果も体の合目的的なはたらきによるもであることは明かである故、之らの操法が病気そのものを対象にして行はれるのでは無く、自然癒能力の誘液発動を目的として為されるのだといふことが判る。
そして身体外部から行ふのであるから、その操法は感受性によつて一の刺激としてはたらくのであるといへる。それ故手技療術は、人の感受性を利用して自然良能を促進せしめる手指の技術といふことが出来る ”

しかし委員会内で、療術が上記のような同じ原理でおこなわれているという共通認識を得るまでにはかなりの紆余曲折があったようで、各委員には各自の信念と日々の実績に裏打ちされた主張、意見があり、神経か血管かといった議論だけで一か月も続いたという。
各々すこぶる頑固で野口氏が 「ただ生命の報告に基づいて操法するだけだ」 という休戦地帯を出すまではいつ果てるともわからないほどの激論が交わされたという。

各委員の主張を聞いていると、みな人体を一つの全体として感じ取りその全体としての体に操法しているということは共通していた。それは分解、分析による解剖学的身体観ではなく、生きて動いて絶えず変化している人体そのものを見ているということである。ただそれを各々が解剖学的理論で説明しようとしているので、結果として議論が噛み合わなくなっていたと野口氏はいう。
そこで野口氏が、解剖学的な理論を捨て新しい人体観を確立しようと呼びかけることで、やっと各委員は各自の技術の解剖学的な論拠を捨てて、大同団結するに至ったのだ。

しかし、考えがまとまっても、その技術的な面になると又議論はもつれたという。それは、整体操法制定の目標を操法に於ける楷書に於いたためで、行・草の技術豊富な委員たちの複雑な経験を簡単なものにまとめることが難しかったということである。

そのいずれを是とし非とするわけにもいかなかったが、

“ つける可からざる優劣を論じ、長短を指摘し、その体験を削り合って 「処」  と 「型」 を決定した ”

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