白山治療院関連リンク

無料ブログはココログ

治療から指導へ

2015年6月22日 (月)

整体操法 ~ 治療から指導へ ~ その2

野口晴哉氏が治療を捨てる宣言をした時期というのは、療術を取り巻く状況が非常に厳しい時代だった。 

戦後、GHQによりいわゆる西洋医学以外の、鍼灸、按摩、柔道整復などの民間療法は全て禁止された。当時療術といわれるカテゴリーに属した整体操法も同様である。
昭和22年には 「あん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法」 が成立し、あん摩・マッサージ・指圧、鍼、灸、柔道整復の営業が認められるが、裏を返せばそれ以外の療術(整体などの手技療術の他、光線療法、電気療法等を含む)は認めないということだった。
 

療術師に対する救済措置として、昭和23年2月以前に届け出ていた者は、昭和30年12月31日までの期間を区切って営業を許された。
その後も、療術師法の制定を目指す動きなどもあったが、あん摩・指圧業界などの反対(※)により成立は為し得なかった。
 

(※ こうした医業類似行為の資格制度というのは、もちろんそれを生業とするに必要な医学的知識を学んでいるということが求められるということはあるが、もう一つ資格を持った者にしかその業をさせないという業務独占の意味もあるのだ) 

また、昭和31年~33年にかけて、昭和23年以前に3ヶ月以上の業務実績があり届け出をしていた者を対象に、あん摩の講習会をおこない、あん摩師の資格を取る機会が設けられたりする。
療術は、あん摩や指圧に合流せよ、というのがお上の方針だったようだ。野口氏の著作の中にも、療術界にも “ 指圧に合流する動き…” があったことなどがちらりと書かれている。

実際に、整体操法制定に関わった永松卯造氏(痢症活点で有名)などは、厚生省医務局編纂の指圧教本の指圧基本型制定委員(昭和32年に制定された)に名を連ねている。

気の感応を中心に据えて感受性に働きかける技術である整体操法が、「物理療法」 に分類されて甘んじている、あん摩や指圧とは、とても一緒に活動することはできない。
指圧の一形態にするようなことではなく、整体操法を氏の望む形で、即ち 整体操法を整体操法として 生き延びさせる為の方法を野口氏も当然模索したであろう。
 

そして、その後昭和35年には、昭和23年2月以前に届け出のあった者に限り、療術業務の期限撤廃が決定はするのだが・・・。 

ともあれ、多くのクライアントや弟子を抱え、整体操法を率いる野口氏にとっては、治療術としての整体を現行のままで維持していくことは難しいことであったと思われる。まして、整体を広く日本中に根付かせて、長く発展させていこうと考えるならば、なおさら新しい戦略が必要になってくる。
そこで野口氏のとった苦肉の策が、「治療行為」 ではなく 「指導」、「治療法」 ではなく 「体育」 としての整体とすることであったのではなかろうか。
 

体育としての整体を全面に押し出していく必要性から、野口氏が治療を捨てて設立した整体協会は、医療・保健などを所管する厚生省(当時)ではなく、教育・文化・学術などを担当する文部省(当時)認可の社団法人 体育団体となっている。 

もちろん、治療をおこなう側と受ける側という立ち位置である限り、受け手の依存心を完全になくすことはできない。自分の体の力を発揮して健康生活を送っていこうとするかぎり、整体は治療ではなく体力発揚の為の体育であるべきだというのが、野口氏が三十年に及ぶ治療家生活の末にたどり着いた帰結であったのは紛れもない真実であろう。
しかし、同時に上述したような時代の流れも、野口氏に治療家であり続けることを断念させた、つまり治療を捨てざるを得なかった、もう一つの要因だったのではなかろうか。
 

 

 

 

 

整体操法 ~ 治療から指導へ ~ その1

整体操法は、元々治療術として成立し発展してきた経緯を持つ。しかし、昭和二十年代後半、創始者の野口晴哉氏が 「治療」 を捨て、整体を 「体育」 と位置づけると宣言し、大きく方向転換した。

その後、整体操法は 「治療」 ではなく 「指導」 となり、治療術としての整体操法は名目上消滅した、ことになっている。

しかし野口氏より整体操法を学んだ者の中には、治療を 「捨てなかった」 者も少なからずいる。その後も整体操法を治療術として活かし、更に高めようとした人達である。
ちなみに、私の師匠も、そんな中の一人である。


野口氏が治療を捨てたのは、人間は自分の力で健康を保つべきで、誰かに治してもらおうという依存心を持っている限り、本当に健康になることはできないという考えからである。

治療を捨てて後の、「体育」 として健康を保つための具体的な方法論としては、各人 「活元運動」 を通して自分自身の体の力を発揮しつつ、体の病変や季節の変化に対応するための生活術(足湯・入浴法・整体体操・体癖論なども含む)を学び実践する。それでも対処できないところ、また体癖修正などの部分を 「指導者」 に個人的に 「指導」 してもらうということになる。
この 「指導」 を受けるというのは、体を観てもらって生活上のアドバイスを受けるということも含まれるが、メインは体の調整としての 「整体操法」 を受けるということである。

こうしてみると、その方法論自体は治療を捨てる前と後で、特に大きく変わったようには見受けられない。

また治療を捨てなかった者、すなわち整体操法を治療としておこなっている者の多くも、おおよそ同様に活元運動を指導し、家庭療法として愉気を教え、季節のあれこれに言及し、体癖的な問題を語り、体を観た上で生活上のアドバイスをする。そういう意味では、治療を捨てなかった者もまたスタイル的にはあまり変わらないともいえる。

 

それでは、何が違うのかといえば、やはり 「整体操法」 が、 「治療」 なのか、「指導」 なのか、という認識の問題ということになろう。
そして、野口氏は、その一点が違うことこそ、大きな違いであると考えて、「治療」 を捨てたのである。

たしかに、人間が自分自身の生命の力を十全に発揮して、いきいきと生を全うすることを目指す 「整体法(野口整体)」という体系の中で、なおかつそれが全国規模の大きな体育団体の中でと考えると、操法の位置づけは確かに 「指導」 である方が自然であるし、しっくりくる。

そもそも、野口氏の確立した整体操法は、始めからその内に 「指導」 ということが組み込まれていた。始めから、「治療」 でもあり 「指導」 でもあったのだ。だから、「治療」 と言うか、「指導」 と言うかは、どちらの面を強調するかに過ぎなかったともいえる。

 

しかし、その 「体育」 という理念を頭では理解しつつも、治療術としての整体操法を求める気持ちは、人々の中からそう簡単には消えはしないのだろうとも思う。
それは、野口氏が「体育」 ということを目指して立ち上げた整体協会の会員の方の中にも、私達のような整体治療を標榜する者のところに、少数とはいえ通って来られる方がいることからも見て取れる。

 

野口氏は、他者に頼って 「治療」 してもらっている限り、人が自分の足で立ち、自分の力で健康を保つことはできないと看破した。それゆえに、自分が治療家として技術を揮えば揮うほど、人々は更に依存するようになり、独立して健康を保つ力を奪うことになると考え、治療を捨てて指導者となった。

しかし、あえて治療を 「捨てる」 と表現したところに、野口氏の心の内にあったかも知れない葛藤が、なんとなく垣間見えるような気がする。

治療術として整体操法をおこなうことが、かえって人々の為にならないものであるならば、「捨てる」 という表現は微妙に合わないように思う。つまり、それほど強い表現を使う必要も無く、「やめる」 くらいでもいいのではないだろうか。
「捨てる」 という言葉を選んだ中に、かえって氏の治療に対する 「捨てがたい」 思いを感じ取ってしまうのは勘繰りが過ぎるだろうか。

 


野口晴哉氏の著作に 「治療の書」 という本がある。

その序(~再版について~)には、こんな話が書かれている。

 

“ 全生季刊の編集の席でいろいろの話しが出ていた時、源氏鶏太さんが突然、「『治療の書』って良い本ですなあ。全く充実している。もう先生としても訂正することも、書き足すこともないでしょう。あれを出しなさい。あれが良い。」 と言われた。
元来、『治療の書』は、私がまだ治療ということを懸命に為していた時、自分の為に記したようなもので、売るつもりでも、他人に理解してもらうつもりで記したものでもない。それに、現在の私は整体指導をして治療は捨てたのであるから、全く思いがけないことだった。

                 ~ 中略 ~

 ズウーッと先の何時か、誰かが読んで役立ててくれるだろうとは考えていたのだが、こう早く、しかも源氏さんのような大家から褒められてのだから、全く意外であったが嬉しかった。治療を捨てた時から捨ててしまった書物だから、再版することなど少しも考えていなかったが、たってのお薦めで、もっと恰好の良い形にしなさいと列席の人からも註文されたので、思いきって、組み直して発行することにした。

当時の原文のままだが、しかしいまの自分にとって、一つだけ付け加えたい原稿があるので加えることにした。これでいいたいことは言ったと思った。

三十年治療ということに従事していたのだから仲々忘れることの出来ないことが多かったが、これでスッパリ忘れることが出来る。”

(強調は、ブログ著者による)

 

野口氏が治療を捨てる宣言をするまでに、およそ三十年の長きにわたる治療家生活があり、治療一筋に打ち込んで来た半生に対する思いを忖度すれば、思い切って 「捨てる」 と言うのもわかる。

しかし、氏は “ ズウーッと先の何時か、誰かが読んで役立ててくれるだろうと ” と考えていたと書いている。
そして、“ 付け加えたい原稿がある ”、というくらいだから、この時点でも治療に関して述べたい想い、治療哲学を著わした書の完成度をより高めたいという気持ちがあったのだろう。

源氏さんに褒められて嬉しかった云々というのは、リップサービスもあるだろうが、自らの治療哲学を語った本が高い評価を受けたことに対して素直に喜びを表している。
やはり、野口氏には 「治療」 そのものを否定する気持ちは無かったように思う。ただ、それは自分の進む道ではなくなったということだ。

野口氏は、自分の新たなる信念に基づいて治療を捨てたが、それは何ら 「治療術としての整体操法」 の価値が下がるということではない。

また、この 「治療の書」 という本が現在も出版されつづけていること自体が、野口氏が最晩年まで、整体操法の治療術としての価値を認めていたことの証といってもいいのではないかと思う。