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身体操作法

2016年7月25日 (月)

「手こひ腹あせ膝くしむ」 その2

体の一部に意識を置くことで、そこを起点として体を自由に伸び伸びと滑らかに使うことができる。その起点となる箇所の見つけ方が、前回の10種類の検査法である。
あとはその部位を意識して動くだけでいい。

体の調子を取っている特定の部位は、同一人でいつも同じというわけではなく、その焦点は移り変わる。それは、野口整体の 「体勢の移り変わり」 にも通じるところがあるかもしれない。

高橋氏によると、検査法をおこなうのは朝食後が最適であるという。

これを行う時間は、朝食後が最適である。即ちその日一日の行動に必要なからだの使い方の、意識して主眼とすべき箇所を、まず最初に見出さんがためである。
また食後は寝起き当時に比し、からだに変化が生じ、その状態が大体その日一日の基準となるからである。

また、

衝突したり、或は精神上に重大なる衝撃を受けたり、または天候や気温が急変した場合等には、しばしばからだに変動を生じ、主とすべき点もこれに従って変化する場合がある。睡眠や入浴もまた身体の使い方に変化を生ぜしめることが多い。

とのことである。

 

慣れてしまえば、この検査法にこだわらなくても、その日の焦点となる箇所は見つけられるようになる。

私は治療院までの通勤が徒歩で20分くらいなのだが、その20分の中でその日の体調を知り、また調整しながら歩いている。
この時に、ついでに 「手こひ腹あせ膝くしむ」 の順に意識を置いてみて、その日の動きの焦点を見つけている。

 

体のどこを中心として動くのか、もしくはどこが起点となって全体を主導するのかということは、それぞれの身体技法の中で基礎として決まっていることが多い。
楊式太極拳などでは、上級になると手が体を導くようになる。意拳では、頭が全身を率いていく、という。そして、整体操法では、丹田を中心に動いていくことが基本となっている。

それぞれの流儀で中心もしくは起点となる部分は決まっているのだが、生理的に体の 「調子」 がそこにないときは、なかなかうまく動けないことがある。そんなときに、この正体術を利用すると、無理なくスムーズに体を運用できることがある。
流儀の求める動きの作法はもちろん重要なものであり、それをないがしろににするわけにはいかないが、流儀の求める動きの中心は基本的に意識しつつ、正体術の教える中心を同時に用いていけばよりフレキシブルに体を運用することができる。
二つの部位を同時に意識するというのはちょっと難しいような話だが、もともと普段から意識している流儀の定める中心はすでに潜在的に意識されているので、実際はそう難しいことではない。
一見ダブルスタンダードのようではあるが、そもそも人間は矛盾を含んだ存在であるのだから、そのあたりは臨機応変でよいのだと思う。

 

さて、この正体術の効用は、その場で動きのパフォーマンスが向上するというだけではない。長い目で見ての効果の方に正体術としての真骨頂がある。

この方法によって得られた正しい体の使い方を習得することによって、当然誤った体の使い方によって体を壊すリスクは大幅に少なくなる。
同時に、体を正しく自然に使うことを通して、より健全な体の発達を促すことができる。体は正しく使い、正しく休めれば、使うほどに強くなるのだ。

2016年7月19日 (火)

「手こひ腹あせ膝くしむ」 その1

このブログでは手指や腕、足の親指など体のある部分を切り取って身体操作の骨(コツ)らしきものをいくつか紹介してきたが、実際に整体操法で運用する場合に果たしてどこを主として意識すればいいのかということがある。

足の親指なのか、肩甲骨なのか、重心を落とすことなのか、はたまた股関節を弛めることなのか・・・。
もちろん、操法は丹田を中心に動くということが大前提としてあるので、そこをないがしろにはできないが、それはそれとして、その時々の自分の身体操作の思うようにならない部分を改善する手立てとして、「足は親指、手は小指」 のようなある種の骨(コツ)を適宜運用すれば、操法の上達やコンディションの調整に役立てることができるのではないだろうか。

 

操法に限らず身体運動では、最後は全体性ということが求められる。部分の加算ではなく、全体として 「一」 であるということだ。
それはあらゆる芸事や武道・武術でも理想としているところであるが、常にそのように動ける心身を作り上げ保ち続けるのはやはり至難の業である。
しかし、全体をリードする動きの起点となる部位を特定することで、かえって全体性を保って動くことができるという面がある。今から半世紀以上も前に、その原理に気づき、研究し、体を一つに使う方法として提示していた療術家がいる。正体術の創始者、高橋迪雄氏である。 

高橋迪雄氏は、大正から昭和の初期に正体術普及協会を通して活躍された人物である。正体術に関してはここでは詳しく述べないが、骨格の不正をただす一種の瞬間的脱力体操で、橋本敬三氏は正体術をもとに 「操体法」 をつくったともいわれ、また野口整体の 「矯体操法」 や 「整体体操」 にも大きな影響を与えているであろうことが見て取れる。

さて、その体を一つに使うための方法とは、体のある一部位に意識を置き、そこを起点として動いていくというまことにシンプルな方法である。
体はその時々によって動きの焦点となる部分が存在していて、その部分に先導させて体を使うことで、自然な動きが導き出されるというものだ。
最近のボディワークなどでは、あまり珍しくない手法なのかもしれないが、この時代にすでにこうした理論と方法論を提唱していたことには少なからず驚きを感じる。

その動きの起点となる体の部分を見つけ出すための方法があり、それはうつ伏せの姿勢で腕を体側に沿って手の平を下にして置き、いわゆる背筋運動のように体を反るようにする。(手の平も床を離れ、持ち上げる)
手、腰、肘、腹、などの部分それぞれに意識を置いてその姿勢を取ろうとしてみると、何の苦も無くスッと形が取れる瞬間がある。例えば手を意識しながら体を反らしたときが最も楽に体が反れるとしたら、そのときの体の動きの中心は手にあるということなのだ。

このブログ記事のタイトル 「手こひ腹あせ膝くしむ」 とは、「手首・腰・肘・腹・足首・背・膝・首(頭)・尻・胸」 の10部位のことであり、この順番にテストをしていくことで動きの焦点を見つけていく。
この順番にも意味があり、検査をする上でなるべく近接する部位が順番的に並ばないようにしてあるのだ。
氏曰く、

1より10に至る順序は指定通りに励行されたい。お互いに相へだてたる部分を組み合わせたのは、意識する場合の混乱を防ぐためで、かなりの苦心を払って構成したものである。

高橋氏は、この順番を

記憶の便宜上これを 「手こひ腹あせ膝くしむ」 と唱えて、呪文のように口癖にしておくことが望ましい。

と言っておられる。(「正体術」 たにぐち書店)

検査法のやり方と、見つけた焦点の使い方について書かれたところを二つほど引用してみる。(同上)

(一)手首に意識を置く

やりかた

ゆっくりと、うつ向きに寝て手首を上図の位置まで上げようとする。その時他の部分も自然に上図の形になれば、その時は手首が主となっている場合である。中図や下図のように、手首のみが上がり、他の全身各部分がこれに伴わないのは、この時調子が手にない証拠である。

適用法

調子が手にある場合には、何事も手首でやるつもりで行動する。例えば歩くには手首さえ振るつもりで行けば、全身が自然に前へ出ることになる。坐るには手首を腿のつけ根に置く。こうして万事手首を先頭に使う気持ちで行動すればよろしい。即ち物を持って行動する場合にも、手首に意識を置く。

 

(四)腹に意識を置く

やりかた

上図の通り、臍と恥骨の間を伸ばすような気持ちで、腹を下に押しつける。腹に調子がある場合には、全身が我しらず上図のような形になる。下図は調子が腹にない時の一例で、各部分が上図のようにはならない。動作が一致しないわけである。

適用法

腹に意識を置いて行動すれば、全身各部分は自然にこれに伴う。古来臍下丹田に心を据えるというのは、この場合をいう。しかし調子が腹にない場合は、いかに臍下丹田に心を凝らしても、思うように自在に行動するわけには行かない。

文中に上図、下図などとあるように、「正体術」(たにぐち書店)の中には、検査法が図で示されている。
検査法の体を反らす最終姿勢は、実は全てが同じではない。どこに意識を置くかによって、微妙に完成形は異なる。
このあたりの細かいところが、高橋氏の観察力が窺えるところであり、同時にこのシステムの完成度の高さを示しているところでもあろう。

2016年6月 3日 (金)

「拮抗」 ~ 渾元力 ~

 「相手の力を使って操法する」 という中に、受け手と術者の間の力の 「拮抗」 ということがあるが、それ以前に術者自身の身体運用の中にも 「拮抗」 はある。

例えば、跨ぎの操法などは、自分の肘と膝(実際の接触点は前腕と大腿部)を着けて、膝で手指の圧をコントロールするのだが、このときに肘と膝の間には力の 「拮抗」 がある。
ごく簡単に言えば、両膝を寄せる力に、寄せさせまいとする肘の力(または膝を寄せようとするのを肘で押し広げようとする力)が 「拮抗」 しているということだ。この肘と膝の 「拮抗」 が元にあった上で、更に寄せる膝の力で圧をコントロールすることになる。
ブレーキを効かせながらアクセルを踏む感じであるが、この 「拮抗」 の力は潜在的な効きであって、それほど大きな力ではないので、実際は体感的にそこまでの抵抗感はない。
この肘と膝を着けて動作するというのは、座位の操法などでもよく使われるのだが、たとえ小さな力でも、必ず肘と膝の間にお互いに押し合う 「拮抗」 が必要とされる。

これは見た目にもわかりやすい 「拮抗」 の例だが、実は操法をおこなう体の中では目に見えないところにも絶えず 「拮抗」 的身体操作が働いている。

前々回の記事では、「脇を張ると脇を締めるは反対の働きではない」 と書いたが、それは 「脇を締める」 という中には、「脇を張る」 という動きが含まれているという意味である。「脇を締める」 という力の中に、同時に 「脇を張る」 という力が共存していると言ってもいい。

また、意識操作の上でいうならば、脇を張って肘を絞るとか、肘を張って脇を締めるという操作感覚もある。 下肢でも同じように、大腿を締めて膝を張るとか、股関節を開いて膝は寄せるなどの使い方もある。

肘を絞るとか手首を極める、足首を締めるなどというのも、体の中での 「拮抗」 によって作られる運動である。
これらの動作には、微妙な 「捻じり」 が含まれているのだが、そもそも 「捻じり」 そのものが内部に 「拮抗」 がなければ技術として活かせない。

 

さて、中国武術の中に 「意拳」 という一派がある。この意拳では、身体各部の力の拮抗を非常に重要視している。

意拳では、腕を上げる動きの中にも下がる力があり、押す中にも引く力が内包されていることが求められる。
そしてさらに、前に押す手(腕)には、上から押さえられても、下から持ち上げられても対応できるように、前後・上下・左右の全方位に対して常に潜在的な力がかかっている。

相手を押すときに、前方へ押す力しか働いていなければ、いなされれば前へつんのめってしまう。意拳の場合、常時全方向へ潜在的な力の効きがあるので、躱されても体勢を崩すことはない、ということになる。

意拳の最も基本的な練功法は、站椿といって 「立つ」 訓練である。一定の姿勢をとってひたすら立ち尽くすのだが、この時に上記のような身体各部の力の 「拮抗」 を感じ取りながら力の感覚を養っていく。
意拳では、この 「拮抗」 する力を、相争う力という意味で、「争力」 と呼ぶ。また、押しながら引く、上がりながら下がるという矛盾した力から、「矛盾力」 ともいう。

站椿では、この争力を全身に及ぼし、全方位に力の効きを行き渡らせていく。身体各部に争力が働き、それが全身に統合された状態を 「渾元力」 と呼ぶ。また、上下、前後、左右方向を支え、また発する力という意味で 「六面力」 ともいう。

武術である意拳の渾元力は、当然ながらその力量は大きい。故に、それをそのまま整体操法に転用できるわけではない。
しかし、体の使い方の問題としては大いに役立つところがあり、また逆に武術にも整体で養った感覚はかなり活かすことができる。

2016年2月 7日 (日)

「誘導」 と 「拮抗」 

野口整体における整体操法は、「操法」 というぐらいであるから、相手の体を操る技術である。そして、「操る」 という中には、受け手をぐでんぐでんに脱力した無反応の状態にしてこちらの好きなように動かすということではなく、相手の自立性・自律性を失わせないまま、相手の動きを 「誘導」 するという意味がある。

そのとき受け手は、こちらに動かされているのか自分から動いているのか判然としないような感覚、もしくは自然にそう動いてしまったというような感覚になっていることが望ましい。つまりは、相手に抵抗・反発を起こさせないように動きを 「誘導」 するのである。

 

そして、その操る法、「操法」 において、誘導と表裏一体となっているのは、相手の反発を引き出すことである。操法においては、多くはその相手からの反発を使って体を調整しているのである。

例えば、座位、立位などでは、相手の態勢をあえて崩して、相手がバランスを取り戻そうとするその力を利用して体を調整したりする。

整体操法では、相手の抵抗、反発をこちら側の力と合わせ、「拮抗」 させることが、身体調整技術の基礎の一つになっているのである。これが、操法は 「相手の力を使って調整する」 ということの意味の一つである。

 

正しく相手の反発を引き出せるようになるためには、まずは相手に抵抗を起こさせないように触り、動かすことができなければならない。それができるようになって、はじめてこちらの意図するように相手の反発を引き出し、その反発を利用することができるようになる。

相手が息を吸ってくるときに盛り上がってくる腹部や背部、腰部などと、こちらの押さえる力を合わせ、「拮抗」 させて調整するということは、整圧においては基礎となっている。

技術として相手の吸いの息を利用するには、ただ相手の自然の呼吸を使うのではなく、息を吸わせることそのものを術者がコントロールできなければならない。大きく吸わせる、強く吸わせる、急速に短く吸わせるなど、相手の体に与えたい刺激によってこちらが吸わせたいように吸わせるという技術である。

この場合も、まずは相手に抵抗されないように、素直に息を吐かせていく技術が元にある。相手にしてみると、自然に息を吐いてしまう、もしくは気がつけば息を吐かされてしまっていた、という感覚である。
基本的には、自由に息を吐かせることができて、はじめて自由に吸わせることができるようになる。ひいては、相手の呼吸を操法の技術として使えるようになるのである。

 

整体操法とは 「体術」 であるので、当然のことながら術者の身体操作能力と操法の効果はある程度比例する。そして、そもそも術者の体の 「在り方」 が、受け手の体の変化に大いに反映していく。

例えば、術者の体がガチガチに強張っていれば、その体を以て操法しても、受け手の体をゆるませることは難しい。
術者の呼吸がせわしなければ、受け手の呼吸がゆったりと深くなっていくということは無い。
それゆえに、整体操法をおこなうものは、常に自分の体を鈍らせないように保ち、またより向上させようと修練に励むのである。

相手の体に抵抗を起こさないように誘導するためには、術者自身の体が抵抗なく動けることが求められる。強張りがなく、引っかかりがなく、つっかえない、思ったように動く身体が必要である。

同様に、相手の力を引き出してこちらの力との拮抗をうまく使うには、本当の意味で止まることができ、動かないことができ、受ける力、支える力が術者の身体操作として備わっていなければならない。

操法をおこなうものは、「誘導」 や 「拮抗」 といった技術の基礎をより安定させるために、そのような体を構築し、その力を高めようとし続けることになる。

技術を磨くことは技術者として当然のことであるが、並行して、また別に技術を揮うための体作りというものも必要になってくる。技術を高める訓練の中でその技術を可能にする身体がつくられていくことは当然あるが、力士が四股を踏み、ボクサーがランニングをするように、整体でもある程度体作りというものが必要になってくる。
活元運動、合掌行気法、深息法、気合法などは、まさにその基礎的なものである。

2015年10月 7日 (水)

「腕がいい」

少し前の話だが、TVでお笑い芸人が技量を示すジェスチャーで、自分の前腕を叩いているのを見て何かちょっとした違和感を覚えた。

その仕草はつまり、お笑いの 「腕がある」 ということのアピールなのだが、もしかして本来叩くべきは上腕、つまり二の腕なのではなかろうか?

子供の頃に、「あの大工さんは腕がいい」 というようなことを大人が話しているのを聞いたときに、思い浮かべたのは職人さんの筋肉の発達した立派な腕であったが、どちらかというならば前腕ではなく、力こぶのできる方の上腕の方を想像したような憶えがある。
これは、ポパイに代表されるような大きな力こぶが、子供の頃の力持ちの象徴だったのかもしれないが、今でも 「腕がいい」 と聞くと、どちらかといえばイメージは上腕にフォーカスされる。

 

「腕がいい」、の対義語というのは思い浮かばないが、反対の意味で使われる言葉は、「小手先」 であろう。
「小手先だけの」、「小手先で片付ける」、「小手先芸」、などなど・・・。小手先には、その場しのぎ的で、「本物」 ではない軽薄さが込められている。

しかし、整体は手指を用いて体を整える技術であるので、実は、「小手先が利く」 ことが高度に求められる。ただし当然のことだが、それこそ 「小手先だけ」 で操作するのでは、技術として全く用を為さない。

本当に小手先が利くためには、手首、肘と連動し、前腕が働かなければならない。手指・手首を動かす筋肉の多くは、前腕の筋肉だからだ。
また、前腕は、橈骨・尺骨の二本の骨が通っており、一本の上腕骨で構成されている上腕に比べて、構造上細かい動きを作ることに秀でている。
前腕の高度な働きは、単なる小手先芸を 「手が利く」 、「腕が利く」 ところへと昇華させる可能性を持つ。

 

もう十年以上前の話になるが、駒川改心流剣術民弥流居合術四心多久間四代見日流柔術など五流儀の宗家である振武舘黒田道場の黒田鉄山先生に、一時期ご指導を受けていたことがある。
黒田先生は、武術において力の絶対否定を旨とされている方である。腕なども一見ほっそりとされているのだが、重い真剣や居合刀(練習刀)を使われるためか、近くで拝見すると腕の筋肉は見事なものであった。特に前腕の筋肉は、肘に近づくに連れ驚くほど発達されていた。
剣を遣うには、当然手の内というものが重要になるわけで、黒田先生の柔らかさの極致といえる精妙な手の内の修練は、前腕の筋肉を極度に発達させたのであろう。

黒田先生が、極限まで力を抜いて柔らかく片手で持った木刀は、いくら力を入れて、また体重をかけて引っ張っても、まさに手の内に張り付いているがごとく、全く引き抜くことができない。それどころか、そのまま先生が歩き出すと、相手の方がずるずると引きずられてしまう始末である。
これはもちろん、単に前腕だけの働きで起こる現象ではなく、黒田先生の全身を一つに使う身体操作から生まれるものではあるが、あの細かい筋肉一つ一つまでが佳良に発達されている前腕の働きも大きく関与していることは間違いないであろう。

 

さてしかし、ここで 「腕の立つ」 剣の使い手というものを想像してみると、やはり 「立つ」 のは、前腕ではなく上腕、つまり二の腕の方ではないかと思う。

よく時代劇などでは、竹刀よりも軽々と刀を振り回しているが、実際の日本刀の重さはかなりのもので、腕の力だけで振り回すことなど到底適わない。いきおい、体全体を有機的に使って刀を操作することになる。
その時に活躍するのは、割合的にいえば前腕よりも体幹に近い上腕ということになろう。

ここで働くのは上腕といっているが、上腕の筋肉に力を入れるという意味ではなく、より大きく動かなければならないのが上腕であるということである。実際にその上腕を動かしているのは、上腕と肩甲骨・鎖骨を繋ぐ三角筋、上腕と体幹を骨格の上で繋げている肩甲骨の筋肉、そして広背筋などの体幹の筋肉である。
(ちなみに上腕二頭筋・三頭筋などの筋肉は、上腕を動かすためではなく、肘から先の前腕を動かす働きをしている)

 

骨格的に見ると、腕は胴体に直接つながっているわけではなく、上腕骨は肩甲骨に接続し、肩甲骨が肋骨の上に擬似的な関節を形成しているような構造になっている。
肩甲骨は腕の土台であり、その土台の肩甲骨が肋骨の上を滑るように動いて上腕が動く仕組みである。

腕のいい板前さんも、腕利きの職人も、その高度な手捌きは、体幹と手先を繋ぐ 「活きた」 二の腕が保証している。
手指を用いて体を整える整体操法では、手首、手の内、指が精妙に働く必要があるので、前腕が高度に働くようになるのは大事なことである。しかし、その肘から先の動きを安定的に支え、また体幹との連動を司っているのは上腕ということになる。

操法を見ても、この人は上手い、腕がいい、と思わせる人は、上腕が活きている。上腕が働いていない人の操法は、まさに手先で間に合わせている感じが否めないし、実際に操法の効果も本人が思っているよりも上がらない。

上腕が活きていると、腰腹から指先までの動きが分断されずに、体全体が一つの目的に向かって協調して美しく働く。また、そうした体の運用からは、より深い相手との気の感応が得られる。

「足は親指、手は小指」 と同様だが、「腕がいい」 というのも、腕に力を入れるということとは全く違う。それどころか、腕の力は抜かなければならない。
腕の力を抜くというのは、だらんと脱力するということとも違い、腹・腰・脇など体幹の力の集中に対して、相対的に力みがないということである。

記事冒頭のお笑い芸人は、芸人としてはいわば中堅どころに位置するのだと思われる。もっとベテランで芸が練れている芸人さんでは、もしかすると二の腕を叩くのかもしれない。
また、件の彼も、あと何年かすると、二の腕をパンパンと叩いているかもしれない。

2015年9月 2日 (水)

「足は親指」 の続き・・・。

直立し、二足歩行する人間は、両足の 「親指の付け根」、「小指の付け根」、「踵」 の三点でバランスを取っている。
前回の記事は、その中で親指が重心のコントロールの要なのだという話であった。

親指が動きをリードしているというのは本当だが、これも実際は親指と、小指のつけ根、踵との連係プレーで重心をコントロールしている。強いていうなら、その三点の間に生じる微妙な 「張力」 のごときものの働きで、足裏にかかる重心を制御している感覚だろうか。
よく言われる、足裏の 「縦のアーチ」 と 「横のアーチ」 に備わっている 「弾力」、「支持力」 を上手く使って操作すると言ってもいいかもしれない。

 

少々繰り返しになるが、足の親指が大事だということは、ただ足の親指に力を入れるとか体重を乗せるとかいうほど単純な話でもない。

跨ぎの操法などでは、術者の身体操作において母指(球)に重心が乗っていくことが多いが、踵・小指球の支えが潜在的にあった上で重心が母指方向へと流れていくということで、もちろん母指球一点で体重を支えるなどということではない。

また、重心を乗せるということは必ずしも 「力を入れる」 という意味ではなく、逆に 「抜く」 ことでそれを実現している場合もある。
例えば、武道・武術の世界では、踵で地面を押すようにして前進する歩法があるが、このときにも母指(球)の支えを 「抜く」 ことで踵による前方移動を可能にしている。
また、細かい話になるが、更に言えば親指の使い方は、実は右と左でも微妙に異なっているのだ。

 

足の親指は体の重心制御の中心であるのだが、右の親指と左の親指は、それぞれ違う働きを担っている。

例えば、立位で体の余分な力みを抜き、右足の親指と左足の踵にグーッと力を入れていくと、体は自然に左に捻れていく。
同じように、左足の親指と右足の踵に力を入れてみると、どうなるか?
右に捻れていくのかと思うが、実際にやってみると、そうはならない。右に捻ろうとする力と左に捻ろうとする力が体の中で拮抗するような感じになり、体が固まってしまう。
それに、そもそも左の親指は右ほど力そのものを入れづらい。
そこで、右の踵の支持はそのままに、左の親指の力を抜いていくと、今度はすんなりと体は右に捻れる。

右の親指は力を入れることで体の動きを作り、左の親指の力は力を抜くことで体の動きを作っている。この動きを体癖でいうならば、前者が捻れ型7種体癖的働きで、後者が8種体癖的働きということになる。

 

運動の感覚、言ってみれば力感としては、右の親指(右足)は 「グーッ 」と力を入れていくような動き、漸増・漸減的でしっかりとした力感を伴った力の使い方が得意である。例えていうなら、自動車のアクセルやブレーキを踏むような動きである。
左の親指(左足)は、どちらかというと瞬間的な力の入れ抜き、「パッ、パッ、」 とON・OFFを切り替える動き、「スッ、スッ、」 と抜く動きが得意である。今では少なくなってしまったが、自動車のクラッチを切ったりつないだりするような動きである。

右ハンドルでも左ハンドルでも、車のアクセル・ブレーキとクラッチの位置関係が変わらないのはこのためである。

 

足の親指の働きが左右で違うということは、足そのものの使い方、ひいては骨盤の機能にも左右に違いあるがということである。つまりは、体全体で見ても、右半身と左半身は役割が違っているということだ。

右足は、1種・5種的な縦の動きを作るようにできている。左足は、(右足と連携して)3種・7種的な左右・捻れ的な動きを作る役割がある。

サッカーの世界では、80%以上の人の 「利き足」(ボールを蹴りやすい足)は、右足だそうである。
右足は、前後の動きに特徴があり、また衝撃を受け止める強さがある。したがって、ボールを蹴るために振り抜くような運動が、まさに持ち味なのである。
逆に、サッカーでいう 「軸足」 にあたる左足は、回旋運動、そして重心の左・右(内・外)の切り替えを一本の足の中でおこなうことに長けている。そのため、左で体勢をコントロールして、右足でボールを蹴るというのが、ほとんどの人間にとってやりやすい動きとなっている。

ほぼ同様の理由で、陸上競技やスピードスケートなどのトラックは、みな反時計回りになっている。内側に来る左足が体の進むべき方向へ体勢をコントロールし、右足が推進力を担当しているのだ。

 

さて、話は少し広がってしまったが、足の親指の左右の機能が異なることは、通常ほとんどの人が意識しない。バレエや武術などの世界では、熟達してくると気づく人がいるかもしれない。

気づいたところで、ほとんどの人は左右差を埋めようと努力するのではないだろうか。

もちろん、分野によっては体の左右を全く同じように使うことを求められるものも少なくないだろう。しかし、現実には体の方は、そうなってはいない。本当は、左右の個性を活かして体を一つに使うことを研究すべきなのである。

世紀のチェリスト、パブロ・カザルス(1876~1973年)は、演奏において 「体の左右を一つに使う」 と言っていたそうだ。ご存じのようにチェロは右手と左手で全く別の仕事をする楽器である。それぞれ別の動作をしていても、体の左と右を合わせて一つに使うという感覚は、左右の腸骨(骨盤)の力を中心に集めていく、まさに閉型9種的世界である。

整体操法も、閉型9種体癖の野口先生によって作られているものであるから、その 「型」 は、当然のごとく修得者に9種的な身体運用を求めている。
そして、その9種的な骨盤の動きも、異なる役割を持つ左右の親指の働きによってもたらされているのだ。

 

2015年8月31日 (月)

「足は親指 手は小指」

野口整体では、身体操作のセオリーとして、「足は親指、手は小指」 という。これは日本の武道・武術の世界でもよく使われる言葉である。

足は親指に、手は小指に 「意識を置く」 というような意味で、腰・腹を中心に体を一つに使うための秘訣のようなものである。


さて、野口整体の整圧(型を以て押さえ愉気すること)では、母指を用いることが多い。もちろん、他の指を用いる場面もあるし、腹部の操法では母指を除く他の四指をそろえて使うことが多い。しかし、特に 「跨ぎ」 の型で脊椎及びその椎側の筋肉に働きかける操法などは、母指を用いることが専らである。
では、親指で押さえるのに小指が大事とはどういうことだろうか・・・。

母指を用いて 「 処(ところ)= 急処・調律点 」 を整圧しようとする場合、母指そのものに力を入れてしまっては、かえって母指を働かせることができない。また、母指に力を入れてしまうと、指先の感覚が鈍麻して、「処」 の状態を読むことができなくなってしまう。
そこで、逆に母指以外の指を働かせることで、母指に無用の力みを生じさせず、母指を活かして使うことができるのだ。硬結を捉えるのでも、当てている母指よりも、四指を上手く使うことで、硬結を逃がさずに捉えることができる。
四指は基本的にある程度開いて張るが、その中でも小指の張りをやや強調する。小指の張りと母指を拮抗させることで、五本の指を理想的に働かせることができる。

また野口整体においては、小手先芸になることなく、丹田からの気を以て整圧するために、「 型 」 というものが成立した。整圧の 「 型 」 は、体全体を機能的に使い、全身を一つに使うための身体操作法であり、指の力を使わずに指を使うための方法であるともいえる。

そして、その 「 型 」 で押さえるという中で、手の小指に意識をおくということが重要になる。小指に意識を置くことで肩が自然に下がり、脇を通して手と腰が繋がる。手指と腰が繋がることで、体全体を連動させて一つに使うことができるのだ。

「手は小指」 に意識を置くことによって、小は手の内における母指の高機能化を実現し、大は体全体での整圧(型による愉気)を可能にしているのである。

そして、全身を一つに使うためには、手の小指に意識を置くとともに、「足は親指」 に力が集まらなければならない。そうすることで、「 腹 」、「 腰 」 を中心に手足がつながり、本当に体を一つに使うことができる。
整体操法に於いては、「手は小指」、「足は親指」 は、別々の秘訣ではなく、実際は合わせて一つの秘訣なのである。

さて、「 足は親指 」 だが、例えば 「跨ぎ」 の操法などでは、重心は足の親指から母指球 (母指の付け根、中足骨骨頭部あたりの盛り上がり) あたりに集まる。整圧の最終局面では、母指から母指球あたりに力が集約し、決して踵は浮かせるわけではないが、床と踵の間に紙一枚挟んでいるような感覚になる。
実際、踵の下に敷いて置いた厚紙をサッと引かれて、きれいに抜けるようでなければいけない。

もちろん、完全に足の親指、もしくは母指球に体重を乗せてしまっていたら、それ以上動くことができないし、かえって重心制御の能力が低下してしまう。足の裏は、柔らかく広く使いたい。その中での、母指(球)が働きの中心になるということである。

また、必ずしも常に母指球に重心が乗るとも限らない。例えば 「跨ぎ」 による椎側の操法などでも、実際は背骨の左右にある 「処」 を同じように押さえるわけではない。「処」 の状況によって、左右それぞれの圧や角度などが変わるので、足裏の重心も左右で配分が変わったり、右足は母指寄りで左足は踵寄りに重心をずらすような局面も当然ある。

しかし、どのような局面でも親指に意識を置くということは重要である。それが抜けると、足の裏の重心のコントロールに精妙さを欠いてしまうし、体の各所の繋がりが悪くなり手足がバラバラになってしまう。

足の親指は、単に力を入れるとか体重を乗せる部位ということではなく、どちらかといえば足裏の微妙な重心制御のステアリングのようなものであり、また全身を統一して使うためのキーポイントだと考えた方がいいようだ。

「足は親指」 は、親指に力を入れるというよりは、冒頭で紹介したように、「意識を置く」 ポイントと考えたい。「手は小指」 も同様である。
足の親指、手の小指に意識を置いて体を使うことで、全身の動きを協調させ、丹田に力が集約し、全身を機能的かつ統一的に運用することができる。

本来は、型を取って整圧すれば、自然と丹田に力が集約し、手は小指、足は親指に力が集まるのが理想である。意識してそう「する」 のではなく、自然とそう 「なる」 のが、「型」 が身についた、「型」 で動けるようになったということだ。

しかし、もちろんそれは鍛錬の結果そうなるのであって、始めはそうするように意識して体を作っていくしかない。

「意識を置く」 とは、「気を通す」 と言い換えてもいい。つまりは、「足は親指」、「手は小指」 に気を通すことで、全身の 「気」 の統御が実現しやすくなるということである。
「型による愉気」 である整圧においては、「足は親指、手は小指」 は、まさに重要な秘訣でもあり、それは同時に大事な基本であるともいえる。